日本語はダメか2

日本語はダメか2

2014.09.17
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「風呂の中」も加えていいかもしれません。二回に分けて掲載します。


『路傍の草』

寺田寅彦

     一 車上

「三上さんじょう」という言葉がある。枕上ちんじょう鞍上あんじょう厠上しじょう合わせて三上の意だという。「いい考えを発酵させるに適した三つの環境」を対立させたものとも解釈される。なかなかうまい事を言ったものだと思う。しかしこれは昔のシナ人かよほど暇人でないと、現代では言葉どおりには適用し難い。
 三上の三上たるゆえんを考えてみる。まずこの三つの境地はいずれも肉体的には不自由な拘束された余儀ない境地である事に気がつく。この三上に在ある間はわれわれは他の仕事をしたくてもできない。しかしまた一方から見ると非常に自由な解放されたありがたい境地である。なんとならばこれらの場合にわれわれは外からいろいろの用事を持ちかけられる心配から免れている。肉体が束縛されているかわりに精神が解放されている。頭脳の働きが外方へ向くのを止められているので自然に内側へ向かって行くせいだと言われる。
現代の一般の人について考えてみるとこの三上には多少の変更を要する。まず「枕上ちんじょう」であるが、毎日の仕事に追われた上に、夜なべ仕事でくたびれて、やっと床につく多くの人には枕上は眠る事が第一義である。それで眠られないという場合は病気なのだからろくな考えは出ないのが普通である。
「厠上しじょう」のほうは人によると現在でも適用するかもしれない。自分の知っている人の内でも、たぶんそうらしいと思われるほどの長時間をこの境地に安住している人はある。しかし寝坊をして出勤時間に遅れないように急いで用を足す習慣のものには、これもまた瞑想めいそうに適した環境ではない。
 残る一つの「鞍上あんじょう」はちょっとわれわれに縁が遠い。これに代わるべき人力じんりきや自動車も少なくも東京市中ではあまり落ち着いた気分を養うには適しないようである。自用車のある場合はあるいはどうかもしれないが、それのない者にとっては残る一つの問題は電車の「車上」である。

「三上」の三上たるゆえんの要素には、肉体の拘束から来る精神の解放というもののほかにもう一つの要件があると思われる。それはある適当な感覚的の刺激である。鞍上あんじょうと厠上しじょうの場合にはこれが明白であるが枕上ちんじょうではこれが明白でないように見える。しかしよく考えてみると枕まくらや寝床の触感のほかに横臥おうがのために起こる全身の血圧分布の変化はまさにこれに当たるものであると考えられる。問題の「車上」の場合にはこの条件が充分に満足されている事が明白である。ただむしろ刺激があり過ぎるので、病弱なものや慣れないものには「車上」の効力を生じ得ない。この刺激に適当に麻痺まひしたものが最もよく「車上」の能率を上げる事ができるものらしい。

     二 卓上演説

 近年いろいろの種類の宴会で、いわゆるデザートコースに入って卓上の演説がはやるようである。あれは演説のきらいな人間には迷惑至極なものである。せっかく食欲を満足したあとでアイスやコーヒーを味わいかけていい心持ちになっている時分に、これが始まるのである。あまりおもしろくもないあるいはむしろ不愉快な演説を我慢して聞くのはまだいいとしても、時によると幹事とか世話人から「指名」などと言って無理やりに何かしゃべる事を強要される。それでも頑強がんきょうに応じないと、あとから立つ人の演説の中で槍玉やりだまにあげられる。迷惑な事である。
 あれはともかくもやはり西洋人のまねから起こった事には相違ない。不幸にして西洋の社交界へ顔を出した事がないし、出たところで言語がよくわからないから、西洋の卓上演説がどんなにあくどいものかばからしいものかを承知しない、従って日本の卓上演説との比較も何もできない。
 いちばん最初にああいう事を始めた人はどういう人か知らないがおもしろい事を発明したものである。しゃべる事の好きな人が、ごちそうを食っていい気持ちになった時分に立って何かしら警句でも吐いてお客さんたちをあっと言わせたりくすぐって笑わせたりするのはかなりな享楽であろうと想像する事ができる。それにはいわゆるデザートコースにはいってからがきわめて適当な時機であろうという事も了解される。つまり一種の生理的の要求を満足させるための、ごちそうの献立の一つだと思えばいいのだろうと思う。ただ一つ問題になるのは、料理のほうだといやなものは食わないで済むのに、この演説だけは無理じいにしいられるという事である。
 もう一つ問題になるのは、卓上演説があまりはやると、ついつい卓上気分を卓上以外に拡張するような習慣を助長して、卓上思想や卓上芸術の流行を見るようになりはしないかという事である。識者の一考を望みたい。

     三 ラディオフォビア

 初めてラディオを聞いたのは上野のS軒であったと思う。四五人で食事をしたあと、客室でのんきにおもしろく話をしていると、突然頭の上でギアーギアーギアーギアーと四つ続けて妙な声がした。ちょうど鶏の咽喉のどでもしめられているかというような不愉快な声がした。それから同じ声で何かしら続けて物を言っているようであったが、何を言っているか自分にはわからないので同行者に聞いてみると「JOAK、こちらは東京放送局であります」と言ったのだそうである。それから長唄ながうたか何からしいものが始まって、ガーガーいう歌の声とビンビン響く三味線の音で、すっかりわれわれの談話は擾乱じょうらんされてしまった。
 それから後も時々いろいろな場所でこのJOAKに襲われた。慣れて来ると、なるほどJOAKと聞こえる。ジェーエ、オーオ、エーエ、ケーエイッと妙に押しつけて、そして無理に西洋人らしくこしらえた声でどなるのがどういうものかあまりいい心持ちがしない。この四つのアルファベットの組み合わせ自身に何かしら不快な暗示を含んでいるのか、それともいちばん初めに聞かされた音の不快な印象が、この音を聞くたびに新しく呼び返されるのかもしれない。
 オーケストラも聞いたが、楽器の音色というものが少しも現わされない、木管でも金属管でも弦でもみんな一様な蛙かえるの声のようなものになって、騒々しくて聞いていられない。
 このほうの玄人くろうとに聞いてみると、飲食店や店頭にある拡声器が不完全なためにそういう事になるので、よく調節された器械で鉱石検波器を使ってそして耳にあてる受話器を使えばそんなことはないそうである。しかし頭へ金属の鉢巻はちまきをしてまでも聞きたいと思うものはめったにないようである。

 その後ある休日の午後、第Xシンフォニーの放送があったとき、銀座のある喫茶店きっさてんへはいってみた。やはりだめであった。すべての楽器はただ一色の雑音の塊かたまりになって、表を走る電車の響きと対抗しているばかりである。でも曲の体裁を知るためと思って我慢して聞いていると、店員が何かぐあいでも直すためか、プラグを勝手に抜いたりまたさしたりするのでせっかくのシンフォニーは無残にもぶつ切れになってしまった。
 こんな行きがかりで自然ラディオというものに対する一種の恐れをいだくようになってみると、あの家々の屋上に引き散らしたアンテナに対しても同情しにくい心持ちになる。しかしそういう偏見なしにでもおそらくあれはあまり美しいものではない。物干しざおのようなものにひょろひょろ曲がった針金を張り渡したのは妙に「物ほしそう」な感じのするものだと思う。あんなことをしないでもすむ方法はあるそうである。
 ラディオをいじくっているうちに自分で放送がしたくなって来て、とうとういたずらの放送をはじめ、見つかってしかられた人がある。しかしこういう人はたのもしいところがある。
 現象の本性に関する充分な知識なしに、ただ電気のテクニックの上皮だけをひとわたり承知しただけで、すっかりラディオ通になってしまったいわゆるファンが、電波伝播でんぱでんぱの現象を少しも不思議と思ってみる事もなしに、万事をのみこんだ顔をしているのがおかしいと言った理学者がある。しかし考えてみると理学者自身もうっかりすると同じような理学ファンになってしまう。相対性理論ファン、素量説ファンになる恐れが多分にある。これは警戒すべきことである。
(続く)


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最終更新日  2014.09.18 04:52:40
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