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30年前のボストン訪問時、とても印象的だったのは今まで回って来たほかのアメリカの都市とボストンは違うなと思ったことだった。とても落ち着いたヨーロッパ的な風景があったのだ。下の写真は2003年に訪れたイングランド中央部ストラットフォード・アポン・エイボン(Stratford-upon-Avon)のチューダー様式の木造建築物である。真ん中にある看板には "The Shakespeare" とあり、レストランになっている。ちなみにこの町はシェエークスピアの生誕地で、近くに生家が記念館として一般公開されている。また、ハーバード大学の名前にもなった最初の寄進者ジョン・ハーバードの母親が住んでいた家もハーバード・ハウスとして残っている。以前は、このようなチューダー様式風の大きな建物がクインシーマーケットからよく見えていたのだ。そのようなことで同行の家内にも、ボストンはほかの都市とはちょっと違うのだよと見せたかったのだがダメだった。ガイドにも尋ねたのだが、そのような建物は知らないという。やはり、30年という歳月は如何ともしがたいものであった。最終日はボストン郊外フレミンハムのシェラトンホテル泊まり。朝、出発前にホテルの周りを探検。するとどうだろうホテルの外観がチューダー様式風なのだ。ちょっと木組みの感じが簡単でしかも左半分は予算が無くなったのか装飾が無い。如何にも現実的アメリカ的なのも面白い。ここへ来てやっと探していたものに会えたという感じだった。気を良くしてぶらぶら歩いてみる。秋とはいえ、まだいろいろな花が咲いていた。このバスでボストン空港に向かった。10月5日(木)午後3時50分ボーイング787機で成田帰着。7日間のアメリカ東海岸ツアーは解散となった。(アメリカ東海岸旅行記 完)
2012.12.06
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ビーコンヒルの散策後向かったのはハーバード大学。チャールズ川で行われていたレガッタの練習を見ながら橋を渡り対岸の学園都市ケンブリッジ市に入る。この門が正門なのかどうか聞き逃したが、門柱の内側にある彫刻が人間の顔に見えて仕方がないので拡大して見た。顔ではなかった。ハーバード大学の校章に使われているデザインで、 VE RI TAS の文字が開いた本に刻まれていたのだ。VERITASとはラテン語で「真実」という意味らしい。下の方にもラテン語の文章が刻まれている。ガイドの話では、この校門を通った人は卒業できないというジンクスがあるのだとか。我々も卒業とは関係ない連中だが、脇の通用口を通って中へ入って来たのだった。これは雅子皇太子妃も入っていたローウエルハウス。学生寮である。立派な建物。キャンパスに入る。緑の向こうにレンガ造りのいろいろな建物が見える。後に見えるのがハーバードホール。1677年に建設されたが1764年に火災により焼失。その後、同じ場所に建て直された。このギリシャ風の立派な建物はワイドナー記念図書館(Hally Elkins Widener Memorial Library)。通称ワイドナー図書館と呼ばれ、Widener夫人がタイタニック号で不慮の死を遂げたハーバード大学出身の子息Hally Elkins Widenerを悼んで建設費を寄付し造られた図書館。300万冊の蔵書を誇る。これはジョン・ハーバード(John Harvard)の像。最初の寄付者で清教徒の牧師。遺言により蔵書と所有する不動産の半分を寄付したとのこと。大学名はこの人の名前による。この像の左足先が光っているが、これは勿論人が触るから。触ると何か良いことが起こると言われているので、観光客が入れ替わり立ち代わり触っては記念撮影しカメラに納まっていた。帰り道にあったのがマサチュッーセッツホール。1720年に建てられた学内最古の建物。 また、アメリカ国内で教育関係としては2番目に古い建物でもある。入口横に取り付けられたプレートには1775年-1776年アメリカ陸軍が占有、その後1870年乃至71年まで学生寮として使用とある。現在は学長などマネジメントの事務所として使用されているとのことであった。キャンパスから街に出てハーバード大のCOOP(生活協同組合)に向かう。学校前の街の雰囲気、やはりなかなか落ち着いている。街路灯の下に取り付けられた草花が良い雰囲気を出している。大学前のJOHN F.KENEDY 通り。暗殺されたケネディ大統領もハーバード大学の出身。ちょっと歩くとCOOPが見えてきた。ここは30年前にも来たところ。随分垢抜けた感じである。前回は自分の子供たちのためにハーバード大学の校章のついたノートをお土産に買ったものだが、今回も大学・院生の孫たちに同じようなノートを買ってしまった。もっとも上の孫娘は数年前に来て、ここで本をしこたま買って危うく空港で超過料金を取られそうになったとか。でも2世代にわたり同じ場所で同じお土産を買ったので何か感慨無量だった。街も随分綺麗になったように思う。バスの駐車地点までしばらく歩く。向こうに面白い形をした建物があった。人間の顔? ロボットの顔?工科系の名門 MIT(マサチューセッツ工科大学)に向かう。道路を挟んで両側にキャンパスがある。数年前に行われた大学創立記念に造られたというオブジェの横を談笑しながら学生たちが通り過ぎて行った。この大学には最新の情報技術を常に発信し続けているかの有名なMITメディアラボ(創始者の一人はN.ネグロポンテ博士)がある。その所長に昨年よりジョーイこと伊藤穣一氏が就任しているのは驚きだし、日本人として嬉しいことである。ハーバード大学もごく一部のみの見学だったが、ここMITはそれ以下のちょっと外観を見ただけで終わってしまった。帰りのバスはチャールズ川を渡り返していた。今度はヨットの出番となっていた。バスは一路今夜の宿泊地フレミンハム(FRAMINGHAM)のシェラトンホテルに向かった。明日はいよいよ帰国となる。
2012.12.04
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10月3日(水)昼過ぎ、クインシーマーケットを出発。ボストンの歴史保存地区ビーコンヒルに向かう。途中、ボストン・ダックス・ツアーズの水陸両用の観光バスに出会うなどしながらビーコンヒルの南側登り口に到着。ここから徒歩でゆっくり南面の坂を登って行く。このビーコンヒルは19世紀の初めに住宅地として開発されたところ。ボストンの富裕層が住む場所でもあるようだ。ほとんどすべてレンガ造りの家。連邦様式(18世紀後半から19世紀初頭の米国で流行した古典主義復興のスタイル)、ビクトリア朝様式、ジョージア王朝様式の家々なのだそうだ。閑静な場所、そして道路にはガス灯がともっている。メインの道路から外れて中に入ると、昔ながらの狭い道となる。Louisburg SQ. という看板が出ていた。この広場(SQuare)も歴史地区の一つである。そこへ行く道の入口にあった部分的に露出している玉石(cobblestone)の舗道。これが昔のまま残っている部分なのだそうだ。そのそばにあるお宅の紋章。鷲の紋章だろうか。Louisburgというとドイツ・オーストリー系の名前のようなので、その系統の由緒ある人が住むお宅なのかな?と勝手な解釈をしてしまう。ガイドの案内で着いたところがエイコーン・ストリート(Acorn street)。アメリカでもっとも古風で美しいとされる場所の一つなのだそうだ。ちょうどフィラデルフィアで見たオールドシティ地区にあるエルフレス小径(Elfreth's Alley)と同じような感じの路地。入口には「私道」という古い標識が掲示されている。ここも19世紀初頭に造られた住宅で、その前の細い道路には玉石が敷き詰められ、当時のままの姿を今に残している。この道は私道であり、観光客によって静寂を乱してはいけないというガイドの言葉に従って、この通りは覗くだけにして往時をしのんだ。先程、この辺りは高級住宅地と書いたが、ちなみに、このエイコーン・ストリートにある物件のお値段は?建築1826年、日本流にいえば築186年の庭付き長屋。6ベッドルーム、4バスルームの家で264万5千ドルというのをインターネットで発見した。現在の1ドル82円のレートで換算すると約2億1千700万円となる。さて、坂道を戻る。通り過ぎて行く家々の玄関の飾りが面白い。ハロウインに近いので南瓜を飾っているお宅。それに、お出でお出でをしているすすきの鉢植え。かぼちゃの前にある黒い物は、かって舗装が出来ていなかった頃に使われた靴底の泥落とし。それを綺麗にして残してある。素敵だ! VSPACE="5">トウモロコシも飾られている。面白い!結構、品があって格好いい。このお宅はドライフラワーの豪華な花輪。玄関ではないが、嵌め殺しの窓に取り付けられた竪琴の飾り。これも良いね! ポチッ!ここはオーベルジュなのだろうか、HOTEL&BISTROの看板。そして大きなホテルの前の紅葉を眺めながら、バスに戻って行った。次なる目的地はハーバード大学である。
2012.12.03
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10月3日(水)朝、ニューワークのホテルを出発、最終観光地ボストンに向かう。ウイークデーなので高速道路はかなりの車。ボストンに近づくにつれ道路際の木の紅葉が目立つようになって来た。まず、着いたところはクインシー・マーケット。30年前に来た時に感じたしっとりとした古都という趣はどこへ行ったのだろう。随分、近代化してしまっているというのが私の第一印象だった。クインシー・マーケットの建物の右側にノース・マーケットという建物があるが、以前来たときこの建物はあったのかなぁ?このノース・マーケットの2階にあるレストランで昼食。食の街ボストンに来たので、ワインリストからちょっとお値段のカリフォルニアワインを注文。といってもボトルではなくグラスだが。でもちゃんと丸みの強い変わったグラスに注がれてきた。どっしりとしたボディーの飲み応えのあるワインだった。食事後、目の前にあるクインシー・マーケットに入る。ここは昔、野菜や果物、雑貨などの店があったのだが、全く変わって全くのフード・コート。いろいろなファースト・フード店が立ち並び、昼食の人たちでごった返していた。ノース・マーケットとクインシー・マーケットの間には緑地帯があり、その両側に屋台のお店が並んでいる。インフォメーションもある。また、このように庇の下に入っている屋台の店もある。日系の人がやっているベルト屋さん。このようなお店を冷やかしながら回るのも楽しい。ノース・マーケットの1階はほとんどお土産屋さん。ここで塩あめを買う。サンプルが置いてあって自由に味見できる。なかなか美味しい。ボストンの塩あめというのは有名なのだそうだ。1時間半ほどの自由時間後、バスの駐車地点まで行く。何と背の高いタワー。税関のビルなのだそうだ。バスの駐車地点まで行って気が付いたのがユニオン・オイスター・ハウスの看板。あれ、こんなところにあったっけ!ここはその30年前の訪問の時、昼食をとった海鮮レストラン。1826年創業当時から続けて営業している老舗である。懐かしい!その時は同僚と来て一人100ドルは食べたのではなかろうか。その当時の100ドルは随分食べでがあってメニューにあったいろいろなものを注文して2時間ほど食べまくった。まだ、若かったなぁ。街の中をバスは走る。バスの隣に来たのが、フィラデルフィアでも見た第2次大戦に使った水陸両用車両を改造した水陸両用の観光バス。ボストン・ダックス・ツアーズで活躍しているチャールズ川にも入るバスである。(その様子はホームページからリンクされているYoutubeの動画で見ることが出来る)。バスは高台にある閑静な住宅街ビーコンヒルに向かった。
2012.12.02
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10月2日(火)午後の自由時間。エンパイア・ステート・ビルから雨の7番街を徒歩で北上する。34番通りからマジェスティック劇場(前回マジェスティ劇場と書いたがこれは誤り)がある44番通りまで10ブロック歩いた。ちょっと疲れたね。出て来たところがブロードウエイとぶつかったところ。タイムズスクエアはすぐそばに見える。44番通りに曲がるとシューベルト劇場(英語読みではシューバートになるのだろうか?)、その向こう隣がマジェスティック劇場である。このように、この辺りはミュージカル小屋がひしめいているようだ。マジェスティック劇場へ行くと、まだ開演1時間前の6時だというのにもうちらほら並んでいる。雨はだいぶ小止みになっているが、疲れたので我々もここで並ぶことにした。やはり観光客が多いのだろう。前にいる人たちが、私はベネゼラから来たとか、メキシコシティから来たとか話しているのが聞こえる。これは劇場の外壁に飾られていた怪人(The Phantom)。演じるのは Hugh Panaro という人。この世界では有名な人なのだろうか。残念ながら私には全く分からない。そうこうするうちに、行列もびっしりと詰まって来た。6時半開場。並んではいるものの、どっと入口に押し寄せる。ツアーで用意してくれた席は3階の真ん中。割合見やすい席だ。たしか50ドルぐらいだったと思う(入場料はツアー代金に含む)。入口は混雑したものの、中はまだすきすき。そこでワインを売りに来たので買っておいた。21ドル。ちょっと高い。厚手のプラスティックのコップで、蓋に飲み口の突起が出てる容器に入っていた。カリフォルニア・ワインだと言っていたが、まあまあの味。演奏中の写真は禁止されているので、始まる前に劇場内を写しておいた。このシャンデリアは何幕かの時、落ちることになる。開演の頃は、もう満席の状態となった。序曲が始まる。あの半音階で下降するテーマは一度聴いたら忘れられないだろう。凄く不安や怪奇さを感じさせられる。途中、20分の中休みがあって終演は9時半ごろだった。満場の拍手喝さいで、カーテンコールが20分ぐらい続いただろうか。その後、まだオーケストラの演奏が5分ぐらい続いて本当の終わりとなった。率直な感想を言えば、歌でうまかったのは主演の怪人だけかなという感じ。数年前、ロンドンで本場ウエストエンド ミュージカルの「レ・ミゼラブル」を観たが、その時は全員の歌唱力に圧倒的された。今回はそういう意味では、ちょっと物足りなかった。その代わり、こちらは舞台が豪華だし、演出が素晴らしい。「ばぁっ」と花火のような明るい照明を瞬間出したかと思うと、真っ暗闇を数秒間続けて「あっ」といわせるなど度肝を抜かれる楽しさが多かった。いかにもアメリカ的で人を楽しませてくれる。こんなところがブロードウエイ・ミュージカルの魅力なのかもしれない。劇場がはねた後も、人々は立ち去りがたく劇場前は大賑わい。笑顔で記念撮影。仲よく二つのグループが看板をシェアーして撮影していた。こういうのもなかなか微笑ましい。我々は迎えのバスが来るのを待つ。そのバスでハドソン川を渡り、対岸からニューヨークの夜景を見物するが、今夜は雨上がりでガスが多く、この程度しか見ることが出来なかった。これでニューヨーク観光は終わり、明日は出発地のボストンに戻っていよいよ最終の観光となる。
2012.12.01
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今日は10月2日(火)。午前中はダウンタウンをバスでまわり、その後マンハッタン・クルーズで自由の女神を海上から見て来た。昼食後は自由時間。まずはメトロポリタン美術館。その前にガイドから地下鉄の乗り方を教わる。いろいろな路線があり、特に乗り換えの仕方がややこしい。以前来たときはもっと簡単だったと思ったのだが、やはり30年の時間経過は長すぎたのだ。ツアーで用意された6回券を使って自動改札を通過。地下鉄の車内は結構混んでいた。前に座っていた若い女の子がスイッと立って席を譲ってくれたのにはびっくり!ひや~! アメリカでもこういうことがあるのだ。嬉しい! お礼を言って有難く座らせて頂いた。たしか途中で1回乗り換えてから、メトロポリタン美術館の最寄駅に着いた。多分こちらで良いだろうと思う方向に出たがちょっと自信がない。そこでそばにいたインテリそうな人に尋ねたら、美術館の近くに車を止めているのでついて来なさいと言ってくれた。雨の中、その人はゆっくり歩いているつもりなのだろうが、なにしろコンパスが長い。必死でついて行った。何ブロック歩いたろう、結構な距離だった。そして、「向こうに見える信号を左へ」と言われて着いたのがここ、MET。美術館内もウイークデーなのに結構混雑している。写真左側にあるチケット売り場でシルバー料金15ドルを払い、赤いバッジを貰う。大きさは丸いところが500円玉ぐらい。細長いところを折り曲げてスーツのポケットなり目立つところに取り付ける。何しろ時間がない。このあとエンパイア・ステート・ビルに行こうと思っている。駆け足の見学になってしまった。これはオランダの巨匠ルーベンスの「ルーベンス夫妻とその子供の一人」。ルーベンスといえば、あの「フランダースの犬」の主人公ネロ少年が一目見たいと願っていた「キリストの昇架」「キリストの降架」を描いた画家。ネロ少年は雪で凍てついた体を寺院の中で横たえ、風で覆いがめくれるそれらの絵を見て思いを達し凍死していく。そこに愛犬パトラッシュが駆け付けるが時すでに遅しという悲劇だったと思う。ここにもフェルメールがあった。 「眠る女」、「少女」、「窓辺で水差しを持つ女」。特に「眠る女」は門外不出で、ここメトロポリタン美術館でしか見ることが出来ないそうである。ただここでも見落としていたフェルメールの絵があった。それは「信仰の寓意」。フェルメールとしてはちょっと異質な感じのする絵のようなのだが、惜しいことをした。やはり事前の勉強をしておかないといけない。次にあげるのがこれまた同じくバロック期のスペインの画家ムリーリョの「磔刑」。日はすでに落ち、雲の間からの月明かりがキリストの体を照らしている。遠景の明かりはエルサレムか。 というようなことが解説に書かれていた。次に回ったのが古楽器の展示室。ハープの向こうにリコーダーなどが見える。このような雰囲気で展示されているのだ。これは狩猟用のホーンなのだろうか。その中の一つ、面白い彫刻が象牙に施されたホーン。そしてリコーダー。これはバロック・ギターなのだろうか。そして日本の撥弦楽器もあった。これはインドネシア ティモールの楽器「セサンド」。椰子の葉っぱで作られ、歌や踊りの伴奏に使われるとのこと。優美な姿である。でもどのような音が奏でられるのか分からない。これは1670年製作のイタリア製ハープシコード。通常より大きい5オクターブの楽器。「ガラテアの勝利」で装飾され、脚は3人のトリトン(半人半魚の海神)で支えられている金ぴかの豪華なものである。甲冑の部屋を上から眺めながら、駆け足のメトロポリタン美術館を後にした。雨の中、向かったのはエンパイア・ステート・ビルである。
2012.11.27
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朝早くニューワークのホテルを出発。ハドソン川に架かる橋の上から遥か彼方にニューヨークの高層ビルがぼんやりと見えてきた。一番高いのが摩天楼エンパイア・ステート・ビルディングだろう。今朝の天候はどんよりしている。天気予報では曇り後雨なのだそうだ。いや~、雨? 勘弁してよ!マンハッタン島に近づくにしたがってビル群もはっきりしてきた。左端に見える工事中の高いビルは後で分かったことだが、グラウンド・ゼロの一角に建設中の建物である。ニューヨークのダウンタウンに入って、現地ガイドと合流。彼女の案内でグラウンド・ゼロが見渡せるビルに案内される。工事中のところ一帯がグラウンド・ゼロ。先程遠くから見たビルがすぐそばにある。これはまた別のところののっぽビル。壮観である。ダウンタウンをバスで移動しながら説明付きで見物。見学予定の国連本部も会期中とのことで素通り。その後、マンハッタン・クルーズの波止場へ移動。対岸には海のイエロー・キャブか、NEW YORK WATER TAXI と書いてある黄色の双胴船にお客が乗り込んでいるところだった。当方も間もなく出航。対岸のピアーに四角い口を開けてる船はかっての航空母艦イントレピッド。今はイントレピッド海上航空宇宙博物館として一般公開されている。そして今年2012年6月よりスペース・シャトル1号機「エンタープライズ OV-101」が搬入され、スペース・シャトル・パビリオンがオープンされたとのこと。四角い口のあるドームがそれなのかも。さらに左端に見える白いのは、あの超音速旅客機コンコルドなのだそうだ。コンコルドといえば思い出すのは、もう10年以上前になるだろうか、スペインのツアーで一緒になった4人組のグループの人たちが、一度コンコルドに乗ってみたいとのことでパリに行き、ニューヨークまでのフライトを楽しんだと言っておられた。凄い人たちだった。 仲の良い4人組(2組の夫婦)、おおらかな感じの方々だった。今、どうされているだろうか。さて、クルーズ船は自由の女神像のあるリバティ島に向かって進む。左舷に見えて来たのは、ガラス張り?のビル?面白い姿である。アパートだろうか。そしてさらに進むと彼方にグラウンド・ゼロに建設中のビルも見えて来たし、さらにその右の彼方には吊り橋もみえる。これは何という名前の橋なのだろう。やがて右舷にはエリス島が間近に見えるようになってきた。あのエキゾチックな建物は昔の移民局。現在は移民博物館になっているところ。このエリス島、半分は人口島とのこと。ニューヨーク地下鉄の建設時の廃土でここを埋め立てて広くしたそうだ。そうこうするうちに、リバティ島の「自由の女神(Statue of Liberty )」がはっきりと見えるようになって来た。パリのセーヌ川クルーズでもちょっと小型の自由の女神像が出てくるが、これはフランスがアメリカに自由の女神像を送ったことの返礼として、パリに住むアメリカ人たちがフランス革命100周年を記念して贈ったものとのこと。作者は2つとも同じで、フランス人彫刻家バルトルディによるもの。さて船は自由の女神を真正面に見るようになってから頃合いを見計らって引き返す。リバーティ島には大勢の人たちが上陸していた。昔、1981年に来たときは対岸の波止場からこの島に上陸して、自由の女神の王冠のところまで内部を登った。急な細い鉄製の階段にびっしりと見物者があふれるようにとりついて、一段一段えっさやっさと登って行ったものである。ただその割には、王冠から展望した景色の印象はあまりない。想い出さないのだ。今回は内部が工事中とのことで、登ることは出来ないようであった。昼食はダウンタウンの日本蕎麦屋。天ぷらもりそばだった。蕎麦湯も出る本格派。まぁまぁの味だった。結構、アメリカ人も入っていた。きっと、ダイエット食として楽しんでいるのだろう。昼食後は夕方から始まるミュージカルまで自由時間。地下鉄でメトロポリタン美術館へ急ぐ。そしてその後、エンパイア・ステートビルに向かった。あらかじめガイドから、入場するには2階でセキュリティ・チェックを受けてから切符を購入すると言われていた。タクシーで乗り付けたら、とたんに腕章を付けたもっともらしい外人に取り囲まれた。いわく「お前、切符持っているのか」「切符が無いと入れないぞ」ともっともらしいことを言う。ちょっと気を動かされたが、ガイドの言葉を思いだして、一切無視。シカトを決め込んで包囲を突破。人で溢れかえる入口をすり抜けて中に入る。Information Deskの右を2階へ。幸いというか、外は雨なので中はがらがら。お蔭で全然待たないで最上階の展望台へ。負け惜しみではないがそぼ降る雨の中、霧が下界のビルの間を抜けては消える幻想的な風景を楽しむことが出来た。このあと、ブロードウエイのマジェスティ劇場まで、雨のニューヨークの繁華街を見回しながら歩いて行った。お天気が良ければもっと楽しかったのだろうが。
2012.11.26
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アーリントン国立墓地の見学を終え、バスは今夜の宿泊地ニュージャージー州のニューワークへ向かった。やはりニューヨークでの宿泊は高いので、その一歩手前のニューワークのホテルが割安なのだ。途中休憩は入るものの350Km約5時間のドライブとなる。朝もそうだったが、今日は雲が実に綺麗だ。広い大地。そして郊外へ出れば遮るものも少ないので、上空の雲の拡がりも出て実にスケールの大きい光景となる。それで道中、徒然なるままに次々と現われる雲をカメラで追って行ってみたわけ。段々夕闇が迫って来て、西の空の赤みも濃くなってきた。何という都市か分からないが、工業地帯を通過。化学プラントだろうか、点々とした照明が暗闇に映えていた。お蔭で飽きることなく長丁場を乗り切り、ニューワーク飛行場すぐ近くのホテルに到着したのはもうとっぷりと日が暮れ暗くなった午後8時。飛行場のそばなので騒音がうるさいかなと心配したのだが杞憂だった。快適なホテル。2連泊のホテルである。かくて旅行3日目の10月1日(月)が過ぎて行った。
2012.11.25
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昼食のレストランからバスでこのアーリントン国立墓地へ。アーリントン国立墓地は、1864年に南北戦争の戦没者のための墓地として南軍のリー将軍の住居周辺の土地に築かれ、その後、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争等の戦没者やテロ犠牲者のほか政治家や民間人などアメリカ合衆国のために貢献した人々を祀っている。墓地の周りは木々で囲まれている。駐車場にあるもう真っ赤に紅葉したオーク。まだドングリを付けてるオークもある。その駐車場を正装した人が歩いていた。この墓地は米国退役軍人局が管理・運営しているとのことだが、それに属している儀仗兵の方々なのだろうか。またなんとセグウエイに乗って来た人もいる。面白い。さすがはアメリカ、いろいろな人がいるものだ。門を入ると、そこは神聖な国立墓地。立札にもきちんと入場者に対する行動原則が書かれている。広い墓地内を進む。簡素な墓石が整然と並んでいる。ところどころにお花が供えられていた。ガイドが案内してくれたところは小高い丘の上にあるジョン・F・ケネディ大統領のお墓。その前には永遠の炎が揺れていた。右隣には妻だったジャクリーン・ケネディの墓石が置かれている。墓石には JACQELINE BOUVIER KENNEDY ONASSIS 1923-1994 と刻まれていた。同行の女性の一人が「なんておおらかなんでしょう」とつぶやくのが聞こえた。そのお墓の後ろをケネディ大統領就任時のあの有名な演説が刻まれた大理石が取り囲んでいる。そして、この墓所のすぐ左隣にはこれまた暗殺された実弟ロバート・ケネディの簡素なお墓があった。丘の上に見えるギリシャ風の豪華な建物は南軍のリー将軍の館とのこと。帰り道に見つけた花々。まだ赤い花を付けたハイビスカス。そしてそのそばには今まで見たことのないようなピンク色のイチゴの花。なんと綺麗な、清楚な花だろう。くつろぐ人々のそばに立つ黄葉の木を眺めながら、墓地を後にした。
2012.11.25
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次の見学場所はナショナル・ギャラリーから道路と緑地帯を挟んで真ん前にあるスミソニアン航空宇宙博物館。その緑地帯にあったピラカンサスの一種だろうか、もう薄く黄色味がかった葉の間の真っ赤な実がとても綺麗で印象的だった。短い階段を登って中に入る。まず、目に付くのがアポロ11で月から持ち帰った月の石。三角形にスライスしてある。表面を触ることが出来る。そのアポロ11の司令船(Command Module)コロンビア号が展示されている。1969年6月16~24日、人類が初めて月の表面に下り立っていろいろな調査をし無事地球に戻って来た。あの時はまだ会社勤めだった。月の表面に到着し、下り立つところのテレビ中継は勤務時間中ではあったが、皆興奮しながら見続けたものである。特にアームストロング船長の「制御を手動に切り替えて、月面に着陸します」という言葉がとても印象深かった。その月面から二人の宇宙飛行士を回収し地球に帰還した司令船が、今ここにさりげなくドカンと置かれているのだ。当初、宇宙開発では当時のソ連に大きく差を付けられたアメリカ。それぞれ最初の打ち上げロケットの違いが分かるように2つ並べて展示してあった。リンドバーグの初大西洋横断飛行に使われたスピリット・オブ・セントルイス号も展示してあった。昔、セントルイス空港の送迎建屋の天井にぶら下がっているのを見たことがあるが、あれはレプリカだったのであろうか。日本のゼロ戦(零式戦闘機)が展示してあるというので2階に上がる。三菱重工業製の世界に冠たる戦闘機だったのだ。20mm機関砲2門を搭載し、その重武装と格闘能力の高さから連合国軍側の戦闘機を圧倒し、「ゼロファイター」として恐れられていた。そして、そのそばには第2次大戦当時日本の同盟国ドイツの名戦闘機メッサーシュミットも展示されていたので写しておいた。圧巻は2階の部屋にどっかりと鎮座しているライト・フライヤー(Wright 1903 Flyer)号。1903年12月17日、ノースカロライナ州キティホークで世界で初めての動力で動く飛行機が飛んだ。それがここに展示されている。自転車業を営むライト兄弟が製作し、操縦した実物である。そのそばにはなんとマンドリンも展示されていた。これは弟のオーヴィル(Orville Wright)が使っていた楽器。説明板にサン・ディエゴ航空宇宙博物館からの借り物とあった。そして、妹のキャサリンの言葉も紹介されていた。「彼はマンドリンを習い始めた。そして我々は次第に近所で弾くピアノでさえノイズに感じ始め、彼が弾くともう表に逃げ出すほかはなかった」とある。でもライト兄弟(妹)はとても仲が良かったということである。う~ん、他人事ではないな!家にいるときは大声の発声練習から始まるレッスン中の歌曲、そしてリコーダーの練習、たまにピアノと、家人と近所に我慢を強いている私がいるぅ!でも、「今日は「あー、あー」をしないの」と言ってくれるのでまだ救いはあるが!さて、広い館内をあちこち回り疲れて来た。まだまだ沢山の展示があるがショートカットし、最後に見に行ったのが日本のTBSの記者だった秋山さんの乗った宇宙船。表面に彼の名前が漢字で書いてあるが、これは彼の直筆のサインであろうか?彼は日本人の、しかも民間人初めての宇宙飛行士として話題になった人である。表に出ると、入館するとき気が付かなかった立派なオブジェが眼に留まった。 Ad Astraという名前の彫刻。ラテン語であろうか、英訳は "To the stars" とのことである。この青い大空に向かってきらきら輝くさまは、なるほど Ad Astra(To the stars)を感じさせてくれる。このあとポトマック河畔にあるホテルの高層階レストランで昼食後、アーリントン墓地に向かった。
2012.11.24
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ワシントンのナショナル・ギャラリー(National Gallary of Art)へ行く。ここはアメリカの銀行家アンドリュー・メロンが買い貯めた名画を展示するために個人で建設し、国に寄付したもの。その後、多くの資産家がアンドリュー・メロンの呼びかけに応じて自身の保有する名画を寄付して今日の膨大なコレクションが出来上がっているとのことである。オープンしたのは1941年3月、しかし残念ながらアンドリュー・メロンはその3年前に亡くなっていた。まず階段を上がってセキュリティ・チェックを受けると大円形広間に出る。ここから左右両翼にある展示室に向かう。まず行ったのは左側(西館)。ガイドからここにモナリザに比するレオナルド・ダ・ヴィンチの絵があると聞いていたからだ。この絵は「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」。1474年1月15日、フィレンツェの銀行家アメリーゴ・デ・ジョヴァンニ・ベンチの依頼で彼の娘ジネヴラの結婚を記念して描かれたもの。ヨーロッパ以外でのただ一つのダ・ヴィンチの絵、しかも門外不出とされている。なのでここまで来ないと見ることは出来ない。そして、この絵はメロンの子供たちの基金で購入され寄付されたものであるが、上の写真にあるように各展示ラベルには寄付者の名前も記されている。ちなみにこの絵は1967年に600万ドルで購入したとのことである。現在の1ドル80円換算で48億円となる。そのような絵をガラスの箱で覆うでもなく、ごく近くから自由にカメラを向けて撮影できるこのおおらかさ。アメリカならではだろうか。 ただし、フラッシュは厳禁。この後、時間もないことだし急いで方々を飛び歩いた。何しろ12世紀ごろの宗教画から20世紀にかけての名画がずらりと並んでいるので見応えは十分。これはセザンヌのプロヴァンス地方を描いた絵。背景の山が懐かしかった。今から9年ほど前、エクサン・プロヴァンスへ行く途中、バスの中から見た山々を想い出させてくれたからである。添乗員からあの山がセザンヌが良く描いたサント・ヴィクトワール山だと言われたので写しておいたもの。絵と同じ山だろうと思うのだがどうだろう?この旅行の時は、プロヴァンスでドーデーの「水車小屋だより」に出てくる季節風「ミストラル」を経験した。寒さと物凄い強さの風。オーヴェルニュ地方の山から下りてくる風なのだろうか。吹き飛ばされそうになった。だから、プロヴァンス地方では家の北側には窓を付けないのだ。良い経験をした。閑話休題。 ゴッホとゴーギャンの自画像。最後は仲たがいをしてしまった二人なので、ここではそっぽを向いた配置にしておいた。絵を模写しに来ている人もいた。今日はもう終わりにしたのだろうか、引き揚げるところ。原画と微妙に違うところが面白い。ちょっとお色気のある絵を! と思ってモジリアーニの「ブルークッションでヌード」を。そして次は世俗から神聖な世界へ。とても洗練された聖母子のイコンである。イコンはモスクワ クレムリン内の寺院に質・量ともに豊富に置かれていてびっくりしたものだが、ここのも選ばれて展示されていることもあるのだろうとても洗練されたものが多いように思った。絵のみならず彫刻も豊富に置かれていた。ここはロダンの部屋。 この弓を引いた女性像。優美な姿にすっかり魅了されてしまった。そして見つけたのがフェルメール。「手紙を書く女」「天秤を持つ女」「フルートを持つ女」の3つは見たのだが、「赤い帽子の女」は残念ながら見落としてしまった。これは「手紙を書く女」。フェルメールの絵の特徴として、左の窓からの弱い光に照らされた薄暗い室内での人物。そして壁には寓意を表す絵が懸っている。この絵の場合、壁の絵は暗くて良く分からないがベース・ビオラ(ヴィオラ・ダ・ガンバか?)のような楽器が描かれているらしい。楽器は「愛」を表すので、この女性が書いている手紙は満ち足りた顔からしてもラブレターではなかろうかというのが、「フェルメール 全点踏破の旅」の著者朽木ゆり子の解説である。今回はあまり時間がなかったこと、事前の勉強が足りなかったことなどで重要な絵を沢山見落としたようである。特にラファエロの名画「アルバの聖母」という絵があったことなど全然知らなかった。惜しいことをしたものである。
2012.11.20
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昨夜の宿はワシントンD.C.の郊外ともいうべきヴァージニア州のマクリーンだった。郊外の方がレベルの高いホテルを安く泊まれるとの添乗員の説明。朝、ワシントンD.C.へ向かう途中、バスから見えた壮大な雲。近くに飛行場があるためか飛行機雲がケム・トレイルのように広がっていた。バスはやがてポトマック川を渡り、アーリントン墓地のそばに出た。バスから見たアメリカ海兵隊の記念碑。硫黄島の戦いで星条旗を立てようとしている写真を元に作られた有名な碑である。対戦相手だった日本人としてはちょっと複雑な思いに駆られる。ポトマック河畔を走り、着いたところはリンカーン記念館の下。朝まだ早いのであまり人が来ていない。それでもジョギングを楽しむ人などが走り過ぎて行く。階段を登り切った扉無しの記念館の中央奥にリンカーン大統領の像が置かれていた。ここから後ろを振り向くと初代大統領ワシントン記念碑のオペリスクが遠くに見える。下のプールにはたった今飛来してきた鴨が泳いでいた。ワシントン記念碑の右に重なるように見えるのは国会議事堂である。バスでホワイトハウスに向かうが、その途中今見て来たリンカーン記念館をプール越しに見る地点を通過。第1次大戦、第2次大戦の戦没者を祀る碑も近くに置かれていた。バスを降りて街中を徒歩でホワイトハウスへ向かう。道路際にはお土産屋の露店が並んでいた。しばらく官庁街を歩くと向こうに見えて来たのは有名なウイラードホテル。ここは1860年、咸臨丸に乗った日米修好通商条約の批准書を交換するための使節団も泊まったホテルだそうである。艦長としてアメリカを往復した勝海舟も泊まった。美しい建築である。途中の樹木帯のオーク(樫)の葉が随分色づいていた。その下をリスがちょこちょこ走り回っていた。やがて着いたところはホワイトハウスが見える場所。綺麗な前庭である。近くの路上には官邸警備隊の車が停車し、でかい体の隊員が警備に当たっていた。そのあとバスに戻り、走るバスから見たワシントン記念碑。そして国会議事堂の前を散策。次の観光スポット、ナショナル・ギャラリー(National Gallery of Art)に向かった。
2012.11.17
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フィラデルフィア(ペンシルベニア州)からワシントンD.C.へ向け出発したが、途中ボルチモア(メリーランド州)に立ち寄るとのこと。アメリカの象徴は自動車。その自動車が高速で走り抜けるハイウエイもまたアメリカの象徴であろう。実に見事かつ壮観だ。このハイウエイを走っていて気が付くことは、50%ぐらいが日本車だということである。特に意外に思ったのはトヨタのレクサスが結構走っていることであった。フィラデルフィアから約2時間半のバス・ドライブで着いたボルチモアは港町。シー・リゾート地だ。小型の客船が停泊していた。これは日本でいえば東京港のSymphonyクラスだろうか。もっと小型かな?その先には小型の観光用ボートもある。そのボートがこれから出るところ。何やらいろいろ注意事項だろうか、それともこれからの予定を説明しているのだろうか。その向こうには海賊船のような帆船が通って行った。対岸はとても綺麗な建物が並んでいる。中央にある色とりどりのダンダラ模様のは水族館だろうか?また左端の天を衝くギターのシンボルはハードロックの会場だ。なかなか気になるギターである。今日は日曜日とあって、家族連れが多い。ゆったりとテントの下で食事をし、くつろぐ家族もいる。シーフード・レストランも多い。ここはエビ専門のレストランのようだ。ここへ入って行けばお持ち帰りができる小エビの唐揚げなどがあったかもしれない。サン・フランシスコのフィッシャーマンズ・ワーフのように。それを食べながら、港を歩くのも悪くなかったなと後悔している。1時間ほどの滞在でバスの人となり、ワシントンD.C.に向かうがすぐそばのボルチモア・オリオールズの本拠地カムデン・ヤーズのそばを通り抜ける。ここは読売ジャイアンツにいた上原投手が2年ほどいて活躍したところ。そういえばこのボルチモアはかのベーブ・ルースが生まれた地でもあったのだ。この球場のそばに彼の生家が当時のまま保存されているとのことである。
2012.11.13
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ここフィラデルフィアは芸術の町でもあるという。観光で通る街のごく限られた一部の道でも、ところどころに「あっ!」と思わせるようなオブジェをバスの中から眺めることが出来た。これはある企業の立て看板だろうか。そしてこれはビルの側面に描かれただまし絵。バスの窓ガラスの反射で見にくいが、あたかもそこに像が彫刻されているような立体的な錯覚を受けて面白い。こちらはだまし絵ではなく、リアルの彫刻。ビルの壁面に女性の動きを断続的に彫刻し、そして最後は歓喜のあまり道に飛び出してしまっている。こちらは金泥で塗りつぶされた馬と騎士。このような金色の彫刻はフィラデルフィアには多いとのこと。そんなこんなを見ながら行きついたところはフィラデルフィア美術館。正面の広くて長い階段を登る。これは映画「ロッキー」でなまけボクサーのロッキーが世界ヘビー級チャンピオンと偶然のことから選手権試合を行うことになり、やる気を出して練習に励み駆け登った階段(いわゆるロッキー・ステップ)とか(私は映画を見ていないので良く分からないが)。この階段を登るところは映画の中の名シーンだったようだ。さて上の写真で右側の袖の建物は破風にいろいろな彫刻が置かれているが、左側のものには彫刻など何も見当たらない。これは建造しているうちに予算が無くなり、省略されたとのことだった。正面のファサードは立派なギリシャ様式の建築だが破風はシンプルである。立派な建物の美術館だが、今回はただ建物を見るだけ。入場は出来なかった。階段の後ろを振り返ってみる。手前の銅像の遥か彼方に、フィラデルフィアの創設者ウイリアム・ベンが乗っている市庁舎が見え、ダウンタウンの高層ビル群など壮大な風景が広がっていた。階段を降りて左に折れる。赤い綺麗な尖塔をもつ教会を木の間越しに見ながら着いたところはロッキーの銅像だ。今日は日曜日とあって大勢の人たちが来ていて、それぞれロッキー・ポーズをして写真に納まっていた。 こんなところがいかにもアメリカらしい。これを最後にフィラデルフィアに別れを告げ、ワシントンへ向かう。ただ私として心残りだったのはせめて外見だけでもフィラデルフィア管弦楽団の本拠地のコンサートホールを見ておきたかったこと。ストコフスキーやユージン・オーマンディによって鍛え上げられた黄金のフィラデルフィア・サウンドはクラッシック音楽ファンにとっては忘れ難いきらびやかな音楽である。ところがそのホールは今回の観光個所とは離れたところにあるということで全く見ることが出来なかった。そして後で分かったことだが、このオーケストラもご多分に漏れず財政的な問題で破たんし、再建過程にあるということであった。詳しくはここを参照ください。 wikipedia フィラデルフィア管弦楽団 破産、再生から復活へ
2012.11.12
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一休み後、上院の議事堂に向かう。と言っても独立記念館のすぐ隣である。まず1階の会議場に通され、係員の説明を受ける。見学者の中に独立当時の13州の方はいますか?という問いに数人の人が手を挙げて州名を言っていた。その後、2階に上がって各部屋を見学した。豪華な絨毯のある執務室。そして独立戦争時アメリカ側を支援したフランスの国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの肖像画が、廊下を隔てて相向かい合う部屋にそれぞれ飾られていた。 それほど広くない部屋を回ったせいか、終わって表へ出ると何かホッとする。その眼の先には新しいビルに交じって、古い形の建物があった。もう時刻も10時を回ったのですぐそばのショッピングセンターへと足を運ぶ。街角にはド派手な2階立て観光バスが駐車中、そしてその横を客を乗せた馬車が優雅に通り過ぎて行く。そしてもう一つの観光バス。それがこれ。第2次世界大戦時に使った水陸両用車を改造して観光バスに仕立てた平和利用の「Ride the Ducks」。なので海も川も渡れるスグレもの。面白い! いかにもアメリカらしい!次に回ったところはオールドシティ地区にあるエルフレス小径(Elfreth's Alley)。1720頃より建設されたというアメリカ最古の住宅街なのだそうだ。小径と言われるだけあって通路はかなり狭い。両側には現在も住居として使われている家が立ち並んでいる。当時は火災が多かったらしい。家々には当時の契約保険会社のエンブレムが取り付けられていた。 このエンブレムによってどの保険会社と契約していたのかが分かるのだ。古いものをそのままちゃんと残している。この小径の中央付近でボーイ・スカウトが自然食品の展示即売を行っていた。余りにも可愛い子供たちだったので、断って写真を写させて貰った。帰り道の途中、昔の消防署が博物館として残っていたのも印象的だった。消防署の博物館として私が知っているのは西海岸のロス・アンジェルス。ダウンタウンの1stストリートのそばにオルベラ・ストリートというロス・アンジェルス発祥の地がある。そこの一角にやはり古い消防署が博物館になっていて自由に出入りできたのだが、現在はどうなっているのだろうか?もう50年も昔のことなのだが。
2012.11.11
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昨夜の夜景はこのようなところだったのだ。朝起きて部屋から外をのぞいてびっくり!後で分かったことだが、あの高いビル群はダウンタウンの中心部。まさか安いツアーのホテルがこんな中心部に近いなんて想像できなかった。出発のとき、ホテルの真ん前に大きなビルがあったのに気付く。これはアパート、日本でいえば賃貸マンションだ。バスで歴史地区へ行く途中、小さいながらも立派な尖塔を持つ教会があった。ゴシック調の建築である。やがてバスからは市庁舎が望めるようになって来た。尖塔の上にあるのはウイリアム・ベンの像。ウイリアム・ベンは1682年にこの地を建設し、ギリシャ語の「兄弟愛」を意味するフィラデルフィアと命名した人。このウイリアム・ベンの功績を讃えて、近年までこの像より高い建物の建設は禁じられていた(「自分より高い建物は建てるな」とベンに言われていたとか)。ところがそれではフィラデルフィアは時代遅れになり近代的な発展の妨げになるとの反省から規制は解かれ、高層建築が建ち始めた。高層ビルの建築に当たって特にウイリアム・ベンの祟りはなく、建築は順調に進んだとのこと。まずは目出度し! めでたし!段々、その市庁舎に近づいて来た。私に見るところではネオ・バロック様式の建築ではなかろうか。フィラデルフィアは、1776年7月4日イギリスの植民地から独立し憲法の制定が行われた地である。また、植民地時代の首都ニューヨークから、新首都ワシントンDCが建設されるまでの間、新生アメリカの首都だったところでもある。従って、この地には初代大統領の家、上下院両議事堂、最高裁判所、軍本部などが置かれた。その歴史的地区近くの繁華街でバスを降りる。少し歩くと、もう向こうには上下院両議事堂であった独立記念館が見えてきた。写真の右側は、これから訪れるリバーティ・ベル記念館。1776年7月4日の独立とともに高らかに鳴らされた自由の鐘(リバティー・ベル)が安置されている建屋である。セキュリティ・チェックで持ち物検査を受けた後、ここに入るとまず日本語の解説の部屋に通されてビデオの解説を見た後、リバティ・ベルの部屋に案内される。見ての通り、このベルはひびが入り現在打ち鳴らすことは出来ないが、アメリカの独立の象徴であるので見学の人は後から続々と来て絶えることはない。人気一番のアイテムである。見学が終わって外の庭園からこのベルの建屋を見てみた。四角いガラス張りのところがリバティ・ベルの部屋である。庭園の赤い葉が折からの強い日差しを浴び、綺麗に光っていたのがとても印象的だった。この庭園の道路を挟んだ向かいが独立記念館。そしてその道路際にはこの歴史地区の案内板が建てられていた。独立記念館の前には初代大統領ジョージ・ワシントンの小さな銅像が置かれている。その脇にある入口から入る。セキュリティ・チェックを受け、裏手へと回る。今日は中学の高学年生であろうか、校外授業に来ていた。先生がいろいろ説明しているのを横目で見ながら独立記念館の尖塔の真後ろへ来た。この建物の中に下院議院があったのだが、今回は見学の対象から外れていた。我々のいるすぐ後ろは公園内の林。その一角にあるのが「アメリカ海軍の父」と呼ばれるジョン・バリー提督の銅像。美しい緑の中、威厳のある姿が印象的であった。ジョン・バリー提督についてはここが詳しい→ Commodore Barry 。ただし、この銅像のある場所は独立記念館の土地から出なければならず、離れた場所からの撮影となった。ここでしばらく時間待ちをして、隣接の上院議院の見学に行く。
2012.11.09
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ボストンの昼食レストランは黄葉が美しい通りに面したところにあった。でも、ちょっとオールドファッションなレストラン。中は薄暗くて穴倉に入ったみたいだ。そして壁一面にジャズのムードが広がっている。この中でライブが出来るようだ。アメリカ最初の食事は、大きなハンバーガー。ファーストフード店のようなこってり感が無くて日本人向き?結構美味しい。シューストリングも太くて長いのが沢山付いていた。いかにもアメリカらしい。久しぶりに食べたアメリカのハンバーガーに満足。バスで南へ約500Km離れた今夜の宿泊地フィラデルフィアに向かう。ハイウエイの両側にある林の木々が紅くまた黄色に染まり、とても綺麗だ。3時間ぐらいかかっただろうか、バスは途中のコネチカット州州都ハートフォードに立ち寄った。 ハートフォードはアメリカでは「保険業の首都」と呼ばれているようだが、我々外国人にとってはここに住んでいた小説家マーク・トゥエインの方が知名度が高い。皆さんご存知の「トム・ソーヤーの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」の作者である。彼が建てた家が現存しているので見学する。(動いているバスの中から慌てて写したのでちょっと ボケてしまった)広い駐車場からちょっと高いところにあるMrak Twain House に向かう。写真中央の林の中に見えるのがそれである。男の人が手を挙げて説明しているのは、見学後の出口となるMuseumの出入口の階段。Mrak Twain Houseは小さいながらもなかなか瀟洒な建物。複雑な形をしている。これは彼の奥さんが設計に相当こだわって作らせたとのことである。そして、1874年9月に一家がここに移り住んだ。(http://www.marktwainhouse.org/ に詳しい)現在、この建物は入場禁止で中に入ることは出来ない。また、この建物の真ん前、広い庭を挟んだ向かいには「アンクル・トムの小屋」を書いたストウ夫人ことハリエット・エリザベス・ビーチャー・ストウの家とMuseumがあるが、今回は時間の関係で立ち寄ることは出来なかった。Mrak Twain Houseの広い庭では可愛いリスが走りまわっていた。(向こうの建物はStowe House)これはMrak Twain Museum で買ったハックルベリー・ハニー。 蜂蜜にハックルベリー・ジャムが入っているものでハックルベリーの香りが良い。「ハックルベリー・フィンの冒険」に因んで作られたお土産アイテムの一つなのだろう。340g入り 7ドル95セント+Taxであった。フィラデルフィア到着は夜の8時過ぎ。我々を歓迎してくれるかのように、夜空にサーチライト・ショーが繰り広げられていた。ホテルはダウンタウンに近いところ。お蔭で窓から綺麗な夜景を楽しむことが出来る。食事後、ホテル近くにスーパー・マーケットがあるというので探検に出掛ける。途中、出会う人に道を尋ねながら10分近く掛かっただろうか。入口の広場にはハロウイン南瓜が沢山並んでいたが、店内のハロウイン・アイテムはまだ少なく目新しいものはなかった。10時閉店というので大急ぎで店内をまわり、Raw Honeyを見つけて購入。今、Huckleberry Honeyとともに折にふれ、食べて楽しんでいる。
2012.11.05
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9月29日から10月5日の7日間、阪急交通社主催の「アメリカ東部4都市周遊 7日間」というツアーに参加した。7日間とは言うものの往復に2日半取られるので、実質は4日半の観光である。コースは 1日目:成田発JAL→ボストン→ハートフォード→フィラデルフィア(泊) 2日目:フィラデルフィア観光→ボルチモア観光→ワシントン(泊) 3日目:ワシントン観光→ニューヨーク(泊) 4日目:ニューヨーク観光→夜、ミュージカル鑑賞、ニューヨーク(泊) 5日目:ニューヨーク→ボストン観光(泊) 6日目:ボストン発JAL→成田 7日目:成田着アメリカ入国にはESTA(電子渡航認証システム(Electronic System for Travel Authorization))の取得が必要(有効期限:2年)。旅行社に頼めば簡単だが7千円だったか手数料が必要とのこと。そこでアメリカ大使館のサイトにつないで、自分で取得した。ちょっと神経を使ったが大したことはなかった。念のため、取得したESTAは印刷しておいたが。ただし、手続きには現在一人当たり14ドルが必要(支払いはクレジットカード)。なので、VISAのカードを手許に用意して対応した。これが無いとアメリカ入国は勿論、アメリカ行きの航空機の搭乗も拒否されるとのこと。非公式情報では、事前に取得していなかった場合、飛行場でも取得できるとか。今回はJALのボストン直行便。旅行社主催のツアーであっても、事前にWebチェックインで各個人による搭乗手続きが必要とのこと。Webチェックインは搭乗の72時間前から可能なので、良い席をと思って手ぐすね引いてJALのサイトにつないで行った。でも出て来たのは横1列の空席だけ。窓2-中央4-窓2の構成だった。家内と一緒なので、2席というのは有難い。ということで難なくチェックイン終了。eチケットもプリンターで打ち出しておいた。飛行機はボーイング787。JALが仕入れた最新鋭機である。新品ということもあって、機内はとても綺麗だし、エコノミー席であっても割合余裕があるように思う。また、トイレも広くて清潔だった。この787機。日本製のカーボン繊維が機体に採用されているとのこと。軽くて燃費改善は勿論のこと、強度も高いので機内圧力もさほど下げる必要がなく、疲労も少ないと思われると機長のアナウンスがあった。なるほど、いつもは高度が上がると途端に頭がボーとして本を読む気にもならなかったのだが、今回は12時間50分という長い時間も快適に過ごすことが出来た。また、女性のアテンダントが席に挨拶に来たので、50年前私が初めてアメリカへ行ったときはJALのスチュワーデスさんが振り袖を着てサービスしたり、日付変更線を通過した証明書(機長のサイン入り)を送ってくれたり、途中ウエーキ島で給油する必要があったとか話をしたら、その話が面白かったということで、ボストンに到着するときにお礼のメモとともに小さな飛行機が付いた携帯電話用のストラップを2個プレゼントしてくれた。なかなかジーンとくるサービスだ。Webチェックインだが、帰りの分はどうするのだろう?飛行場の窓口で売れ残った席から拾うのかな?と思っていたら、ニューヨークからボストンに向かうバスの中から添乗員が全員のWebチェックインをやってくれた。どうもバスに無線LANのセンターが搭載されているらしい。多分バスにはGPSが付いていて、絶えず本社と位置情報のやり取りをしていると思う。そこで添乗員は自分のスマホからWi-Fiでインターネットに接続することが出来るようだ。だから天気予報は勿論のこと、いろいろなニュースもキャッチしてお客さんにアナウンスしてくれる。今の添乗員はスマホを業務に十分使いこなしているようだ。さて、アメリカ入国であるが入国管理局の審査が厳しいとよく言われている。ボストンも例外ではなく、何の目的で来たとか尋ねられた上、左右両手の指紋採取と瞳を機械で見られる。だから、時間が掛かり長蛇の列が出来る。私の場合は、夫婦で呼ばれ、家内は指紋と瞳のチェックを受けたが、私には「お前は前に来たことがあるのか」と聞くので「17年前に来たことがある」と答えたら、それじゃいいといって指紋も採らずにフリーパス。「えっ! それで良いの?」とこちらが拍子抜けしてしまった。後で添乗員に話すとそんなこと信じられないと言っていた。ボストンは30年ぶり。その時は街のいたる所で再開発が進んでいたが、今はもうすっかり落ち着いているようだ。バスで昼食のレストランに向かう。街路樹がすで黄葉して綺麗だった。
2012.11.03
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