March 19, 2009
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 紗英と坂下の二人が海に出かけた日、夜になって紗英から電話がかかってきた。
「今日は楽しんできたか?」
 てっきり喜びの報告だろうと思った僕の問いに返事はなく、耳に当てた携帯の向こうには消灯後の病院の床の冷たさだけが感じられた。
「紗英?」
 微かに聞こえるすすり泣くような声。
「生きていたいの。もっと…、吾朗ちゃんやくーちゃんや、琢人のそばにいたいの。死にたくない…」
 紗英の心がこぼれ出す。
 今日までずっと平気なふりをして、我慢してきたのだろう。
 限界まで何でも一人で抱えてしまうのは、未婚の母になることを選択した気丈な母親譲りの気質なのか。それとも一人で自分を育ててくれた母親に、心配かけまいとして身についた習性なのか。
 我がままで勝気な態度でコーティングした奥に、本当は人一倍臆病で繊細な心を隠している。
 その本音を見せない、強がりな紗英が泣いている。生きていたいと泣いている。
 紗英がこんなふうに心を曝け出すのは、珍しいことだった。
 坂下への想いが、頑なな紗英の心の殻を中から突き割って溢れ出したのだろう。それなのにどうして坂下ではなく、僕に電話をしてきたのか。その理由は、聞かなくとも見当はついた。
「そうだよな。生きていたいよな。明日も坂下に笑顔を見せたいよな。これからもずっと、きれいな笑顔でいたいよな。だったら今はいくらでも泣いていいよ。一晩中でも付き合ってやるから。明日また、坂下に笑顔で我がまま言えるように、今は、しっかり泣いておけばいい」
 紗英は声を強めて泣いた。
 それから一週間、夜になると何度かそんな電話があった。ある時は紗英がすすり泣くのを、また別の時にはやけになって怒りながら泣くのを、ただ黙って聞いていた。
「ごめんね、こんな電話ばかりで。ごめんね」
 最後はいつも、泣きながらごめんねを繰り返す。
 僕は紗英の声の全てを漏らさないように、ひたすら耳を傾け続けた。どうか奇跡が起こりますように、それだけを願いながら。

 だが、何の前触れもなくその日は突然やって来た。
「紗英が危ない」
 坂下からの電話は部長とともに取引先に向かっている最中だったが、友人が危篤だと話すと部長は一刻も早く行くようにと言ってくれた。
「望みは捨てるな」
 そう言ってくれた部長に深く頭を下げて、タクシーに乗り込んだ。
 普段と何も変わらない平日の午後。渋滞気味の道路。街を行き交う大勢の人々。信号の変わるタイミングも、くすんだビルを照らす午後の陽射しも、病院の正面玄関の自動ドアの開く音だって、何一ついつもと違うものはなかった。なのに、どうして…。
 幾度となく通ったホスピスへの通路を駆け抜け、紗英の部屋に向かった。
 坂下の隣で、先に来ていたくるみは泣くのを堪えて唇を噛んでいた。
「紗英、吾朗が来たぞ、分かるか? 分かったら手を握り返してくれ」
 紗英のか細い指先が微かに動き、坂下の手を握り返す。
「紗英、聞こえるか? 僕だよ。しっかりしてくれ。紗英…」
 僕たちは紗英に声をかけ続けた。バレンタインにはうんと着飾って、坂下とまた食事にでも行ったらいいとか、春になったらみんなで花見に行こうとか。
 そして淡い西日に、部屋の中の全ての影が縦長に伸び始めた頃、消え入りそうな微笑みを最後に、紗英の時間はあっけなく止まった。

 夕闇に包まれた部屋には、世間の時間の流れとは別に、重たい時間が淀みながらかろうじて流れていた。
 ベッド脇のキャビネットに置かれた小さな箱の中には、紗英の母親の形見の銀のロケットがあった。中には両親と生後間もない紗英の写真。色褪せて変色した上に傷だらけで顔が判別し難かったが、紗英を抱いて写っている男性の出で立ちは、今見ると確かに僕の親父そのものだった。
 別室に運ばれ着替えを終えた紗英は、くるみが買ってきた白いコートを羽織り、優しい夢でも見ているかのような安らかな顔をしていた。
 その手のひらにロケットをそっとのせた。こぼれた僕の涙がロケットを濡らし、銀色が鈍く光った。

 葬儀は紗英の母親の墓がある鎌倉の寺で行われた。参列したのは僕と坂下とくるみの三人だけだった。
 火葬場で待つ間、止まりそうになっていた僕たちの時間が次第にペースを取り戻しつつあるのを感じていた。
 親父の時もそうだった。辛いのはこれからだ。こうして悲しい色に包まれている間はまだいい。
 けれど背中を押されるようにして日常に戻った時、何も変わり映えのしない世界に、たった一人いなくなったという事実がどれ程受け入れ難いことかを知る。
 外の空気を吸ってくる、そう言ったまま戻らない坂下が気になって僕も外に出た。
 空に届きそうな煙突から立ち上る煙を、坂下は見上げていた。昼間見える三日月のようにうっすらと細く棚引いた煙は、先の方で空に溶け込むように消えていった。
「お前と海に行った日の夜、紗英から電話があったんだ。もっと生きていたいって。お前のそばにいたいって、そう言って泣いていた」
「そうか」
 坂下は少し安心したような顔をした。
「紗英が自分の葬式の手配まで考えていたのを、吾朗、お前は知ってたか?」
 そんなこと初耳だった。葬儀は病院の出入りの葬儀屋に坂下が手配してくれたんだと思っていた。
「実家を売却して入院費も葬儀にかかる費用も用意して、葬式やこれから先の墓のことも…、だいぶ前になるが、紗英はさっきの寺の住職に自分で相談しに行ったんだ」
 僕は耳を疑った。じゃあ、いつか紗英のお母さんの墓参りに行ったあの日、住職と今後のことを話してくると言っていたのはそのことだったのか?
「俺の目には、あまりにも潔いというか、淡々と準備をしていく紗英の姿が、いつ死んでも構わないって思っているように見えて…。辛いことが多かったから、無理もないのかと思っていた。だが、もっと生きていたいって思ってたんだな。もっと生きていたいって思えたってことは、幸せだったってことだよな」
 坂下は遠い目をして、自分に言い聞かせるようにそう言った。
「ああ、そうだな。辛いことも多かっただろうけど、紗英はきっと幸せだった」
 ふいに紗英が言った言葉を思い出した。
「どんな状況の中でも、夢を見ることは誰にでも許されていることだから。一つ駄目になったらまた新しく、そうやっていつも夢を見ながら、明日に繋いできたの」
 そうだったよな、紗英。胸が押し潰されそうなこんな状況の中でも、お前は夢を見続けようとした。お前がそうしてきたように、この先どんなに辛くても、僕たちも夢を見ながら明日に繋ごう。
 いつか証明されることを信じて、ポアンカレ予想にたくさんの数学者たちが挑んできたように、僕たちもいつか遠い未来に、百年後の未来に、生まれ変わって再会できたら、また一緒に幸せを感じられるように。光に満ちた明日を信じて、今日を繋いでいかないとな。そうだろ? 紗英。

epilogue ~ takuto 始 ~

 病棟の裏手にある職員専用の駐車場に車を停め、坂下琢人は車から降りた。すぐそこにホスピスが見えた。クリーム色の外壁は朝日を浴びて、これから始まる一日のために暖かさを蓄えているかのようだった。
 そこに紗英はもういない。現実が容赦なく坂下の胸を射る。
 紗英が使っていた部屋は窓が開けられ、次の入室者を迎えるための準備が始められていた。
 坂下は医局に向かった。
 デスクの上には、紗英が使っていたシルバーのノートパソコンがあった。坂下はそれを紗英と一緒に買いに行った日のことを思い出した。
「私が使えなくなったら琢人にあげる。だから琢人が一番欲しいのを選んで」
「じゃあ、一番高いやつだな」
 悲しみを打ち消すようにそう言って笑ったことが、遠い昔のことのように感じられた。
 坂下はパソコンを起動させ、生前の紗英の指示通りに「sae」という名前のファイルを探した。検索をかけるとすぐにワープロの文書ファイルがヒットした。
 あいつのことだから間違っても愛の言葉なんか残してはいないだろう、坂下は苦笑いしながら文書名をダブルクリックした。すると、鮮やかなオレンジ色の花の画像と、紗英からのメッセージがそこにあった。
 彼はこの花の名前も花言葉も知らなかったが、オレンジ色の明るい雰囲気がどことなく、笑っている紗英を思い起こさせた。
ミムラス


あなたの今日が、たくさんの笑顔に包まれた一日でありますように。 紗英

 こうきたか。坂下はそんな顔をして可笑しそうに口元を緩めた。
 彼が知らない花の名は「ミムラス」、花言葉は「笑顔を見せて」。
 しばらくその画面を眺めた後、坂下はパソコンを閉じて白衣に腕を通した。そして寂しさを払拭するかのように勢いよく医局のドアを開け、しっかりとした足取りで廊下を歩き出した。

 こうして今日もまた、新しい一日が始まる。
                                   「poincare ~ ポアンカレ ~」 完


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最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!


今回の物語の補足
銀のロケット  第9話 ・紗英の母の墓参り  第18話
実家の売却・住職との話  第20話 ・パソコンを買いに行った日  第28話

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Last updated  March 20, 2009 10:57:35 AM
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