陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

この空の下で 58




ベンチに座り、コーヒーを一口飲み込んだ。

「彩子。」

空を見上げ、大きく息を吸って吐き出した。

「彩子。なんと言うことだ。」

兄に続いて生まれた彩子の愛らしかった子どもの頃の姿を思い出していた。

「彩子。」

『胸が張り裂けそうだ。代わってやれるものなら代わってやりたい。』

彩子の病室へ。

行く廊下が、長く感じられた。

ドアをノックするといつもの彩子の声が聞こえてきた。

「はい。」

ドアを開けると、

「あら、お父さん、今日は1人?お母さんも黎も一緒じゃないの?」

「ああ、新宿の本屋へ行った帰りに寄ってみたんだ。欲しかった本はなかったがね。どうだ?」

「うん、大丈夫よ。隆、帰国して出産に立ち会ってくれるんだって。」

「ああ、こっちにも電話があったよ。よかったじゃないか。」

「マイレージが溜まる代わりに貯金は、底をついちゃうけど。就職も決まっているから、どうにかなるかな~。」

彩子も彩子の父親も心を相手に悟られるまいとして、笑顔で気持ちを覆っていた。

父親が帰ると、もう夕闇が迫っていた。

日に日に、日が延びているのが感じられた。

夏のように厚く感じる日もある。

夕方になると不安になる彩子だった。

最近、夜も眠れない日々が続いていた。

主治医に相談し、安定剤と睡眠導入剤を処方してもらっていた。

祐子が見舞いに来た。

「彩子、大丈夫?私には、吐き出していいんだよ。」

彩子は、涙を目に溜め、頬の筋肉がふるえていた。

「祐子、私、怖い。不安なの。また翔さんに手紙を出したけれど、やっぱり会えないって。分かり切っているこのなのに。」

「だから、私が、病気の子とを話すよ。出産の子ともあるし、彩子は、不安になっているのよ。それを分かってもらえたら、会ってくれるよ。」

「嫌なの。知らせたくない。このごろ、私の顔、痩せてきているよね。お腹だけ大きくて。鏡を見るたびに思うの。病気が悪くなっているんじゃないのかって。」

「先生は、何もいっていないんでしょう?」

「出産を前には言わないでしょう?」


美しい思い出は美しくなるばかり


隆は、彩子の帝王切開手術の行われる前日に帰国してきた。

「今、帰ったよ。」と言って、部屋に入ってきた。

丁度、祐子がお見舞いに来ている時だった。

「祐子ちゃん、いつもありがとう。彩子から支えてもらっているって聞いているよ。」

「帰ってこられて、本当によかったわ。どんな男の子が生まれてくるか楽しみね。それより、名前はどうするの?明日、出産だって言うのに。」

「あれ?彩子、祐子ちゃんに教えてあげていないの?翼に決めたんだよ。彩子の希望で。女の子だったら、太平洋の洋でようって名前。」

「えっ?」

祐子は彩子を見た。

彩子は、下を向いていた。

「そうだ。チョット飲み物を買ってこようか。」

隆が部屋を出て行った。

「だめよ。そんな名前。彩子、だめだよ。分かっているの。生まれてくる子供は隆さんとあんたの子だよ。分かっているの?あんたのしていること。確かに、彩子が翔さんに会いたい気持ちは分かるよ。でも、今、彩子を心から愛してくれているのは隆さんでしょ。隆さんに対する裏切りだよ。はっきり言う。川村さんは、自分の為に彩子を捨てたの。切り捨てたのよ。彩子のこと好きだったかも知れないけれど、あんたを裏切ったんだよ。今、彩子は、過去を振り返って、きれいなところだけを思い出しているんだよ。思い出ってそんなものじゃない?美しい思い出は、時間が経てば立つほど美しさを増すんだよ。汚いところを消して。彩子は、今、美しさを増した思い出だけを見ているんだよ。あんたは、その子の名前を呼ぶたびに川村さんを思い出すんだよ。あんたを裏切った男を。彩子を本当に愛してくれたのはそして今でも愛しているのは隆さんだけだよ。見失わないで。お願いだよ。」

「祐子。」

彩子は、窓の所へ行って外を見た。

木々の若葉の緑が眩しかった。

「あなたの言う通りね。翔さんは、私を愛してくれなかった。私は、思い出を追ってばかりいたわ。1人で、この部屋にいて、心細かったの。きれいな思い出にすがりたかった。あの頃の翔さんの優しさにすがりたかった。」

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