陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

この空の下で 59




「どうして、名前をかえるんだよ?いい名前だと思うよ。翼でいいよ。」

彩子は、祐子の顔を見た。

「やっぱり、私、違う名前がいいの。何となく、いちゃったけれど、もっと力強い名前。隆が考えて。」

「明日、生まれるんだぞ!全く、今頃になって。」

「そう、怒らないで、隆さん。彩子は、ほら、妊娠と病気で疲れているんだし。」

「怒鳴って、ごめん。一緒にまた考えよう。」

「ありがとう。」

「それにしてもな~。明日だもんな~。」

彩子は、隆の優しさを見失うところだった。

午前、10時から手術は始まった。

局部麻酔なので、彩子の意識ははっきりしている。

15分程で、赤ちゃんは取り出された。

そして、直ぐに、彩子の胸元へ。

母乳を与えることはできないが、しっかりと新しい命を抱きしめた。

出産に立ち会った隆から、「おめでとう。ありがとう。頑張ったな。」

と声が掛けられると、彩子の目から、一筋の涙が流れた。

「ありがとう。隆。隆の支えがあったから、ここまでやれてきたのよ。」

赤ちゃんは、直ぐに体をきれいにしてもらい身長体重を測定し、タオルでくるまれ新生児室へ連れて行かれた。

彩子の両親も廊下でずっと待っていた。

処置が終わり、部屋へ彩子は、戻っていった。

両親は、先に部屋で待っていた。

「おめでとう。頑張ったわね。」

「おめでとう。大丈夫か。」

「大丈夫よ。黎の時は、1日かかりだったけれど、今回は、15分で終わったから。でも、痛みが出てきたかも。」

「名前、名前。どうしよう。」

隆は、彩子の病室の中をグルグル回りながらぶつぶつ言っている。

「翼でいいよ。もう、生まれる前から呼んで来ちゃったから、今さら、他の名前で呼べないよな。」

隆は、彩子を車いすに乗せて、度々、新生児室へ行った。

「鼻筋通っているな。父親似だな。目元は彩子かな。きっとイイ男になるぞ。」

「隆ったら。」

彩子の両親が帰える言うので、隆が玄関まで送っていった。


隆の初めての涙


その時、彩子の父親が「母さん、ちょっと、ロビーで待っていてくれないか。隆君と話があるんだ。」

「分かりました。」

二人は、地下の売店へ降りていき、缶コーヒーを買うと外へ出て行った。

ベンチに座り、コーヒーを飲み始めた二人だった。

「隆君。大学の試験も終わって、もうすぐ卒業だね。2年なんてあっという間じゃないか。その間に色々なことがあったが。先日、彩子の主治医に呼ばれてね。なかなか厳しいことを言われたよ。」

「えっ?」

「肺に転移しているらしい。」

「そ、そんな。彩子は知っているんですか?」

「いや、出産もあったからね。これからも化学療法を続けるそうだ。本人に告知されるだろうね。末期だから。」

呆然としている隆の肩に彩子の父親が手をかけた。

「支えてやってくれ。黎と翼は、我々で育てていくよ。頼むよ、隆君。」

「はい。」

隆は返事をするのがやっとだった。

そのまま、彩子の部屋に戻ることはできなかった。

そのベンチで、肩をふるわせて泣いた。

彩子と知り合ってから、泣いたのは初めてだった。

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