陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 4



その途中、部長の山形が下から上がってきた。そして、美奈が一礼して、通り過ぎようとした。

「村沢君、今度、飲みに行かない?大学生のうちの娘が将来、留学したいって言っていてね、話を聞かせて欲しいんだけれど。エキスパートに。」

「エキスパートなんて。報告書が出来上がりましたら、お届けします。」

「君から直接話を聞きたいんだよ。」

「はぁ。」

「報告書ができたら、教えて。どこかいい所を予約するから。」

「あの。」

「じゃあね。」

美奈は、山形からの突然の誘いに戸惑った。

シンクタンクに勤め始めて、5年になろうとしているが、今まで、一度もそんな話を山形から受けたことはなかった。

美奈も28才。今年、29才になる。シンクタンクに入ってから、何人かの、男性研究員から交際の申し込みを受けた。

大学時代から大学院時代にかけて3年間、付き合っていた人もいた。

その時の苦い経験から、まだ立ち直れていないかもしれない。自分の心の奥底まで感じるような男性に出会えていないと思っていた。

付き合っていた彼、橋本健は、大学卒業後、大手商社に就職し、美奈は大学院に進んだ。

入社して、2年目に健は、イギリスに赴任することになった。超長距離恋愛となってしまった。

美奈は、今までの3年という2人の時間と関係があるのでこのまま健とずっと人生を歩いていく予感を持っていた。

夏休みに入り、健に合いにロンドンへ行った。

驚かそうと思って、何の連絡もせずにロンドンの健の所へ向かった。

彼のアパートの合い鍵をもらっていた。

ロンドン郊外の日本人が多く住む高級住宅街にある、築100年以上しているだろうかというアパート。しかし、何とも、風格のある建物。

アパートの入り口は、オートロックになっていて、そこに、鍵を差し込むと、第一関門を突破。

建物の中に入ると、これまた古いエレベータに乗り込む。3階に健の部屋はある。赤い絨毯の敷かれた廊下は、昼間でもランプの形をした電灯が所々、点いていた。

廊下を歩いていく。

廊下の両側に部屋がある。向かって右側は、中庭に面していて、左側は、アパート前の大通りが見下ろせる。

健の部屋は、左側の大通りに面している方だった。

ここに来るのに美奈は、両親に高校以来の友人の倉田麻紀とイギリス旅行に行くということにしていた。そのためわざわざロンドンに両親の指定するホテルに予約を入れていた。

美奈の父親は、大手銀行に勤務している。

そう、美奈や美奈の友人達が面白みのない仕事と決め込んでいる職。

父親の海外勤務に伴い、美奈も小学生の頃、ロンドンとニューヨークにそれぞれ2年間ずつ住んだことがある。

健の部屋の前に着いた。

彼を驚かせようと、朝、出勤前の時間を狙ってきた。

静かに鍵穴に、鍵を差し込んで回し、静かにドアを開けた。

一人暮らしにしては、十二分と言える広さの部屋だ。

初めて入る健のロンドンの部屋。

まだ寝ているのか、廊下の突き当たりのリビングの窓のカーテンが開かれていないので部屋の中が暗い。

『健たら、まだ寝ているの?』

美奈は、廊下左にあるベッドルームと思われる部屋のドアをそっと開けた。

その瞬間、美奈の体は、硬直した。

そのまま、ドアをバタンと閉めた。そして、そのままドアの前に崩れ落ちた。

ドアが開いて、健が出てきた。

「美奈、美奈、美奈。」

美奈は、立ち上がることができなかった。

そのまま四つん這いになりながら玄関に向かった。

「美奈!」

健は、美奈の体を包んだ。

「美奈、違うんだ。違うんだよ。」

美奈は、抜けてしまった力を振り絞って、健の腕を振り払おうとした。

健は、それでも、美奈を抱きしめようとした。

二人は、廊下でそのまま、倒れた。

「違うんだよ。間違えなんだ。」

健二は、何度も繰り返した。

でも、美奈の耳には、健の言葉は入らない。

「美奈、君だけを愛しているんだ。」

「嘘つき!」

やっとの思いでそう叫ぶと、美奈は我に返り、健を振り払い、部屋を出て行った。

残された健は、呆然と廊下に座り込んでいた。

美奈はロンドン郊外のこの町を彷徨った。

『頭が真っ白って、こういうことを言うのね。』

冷静なもう一人の自分が心の中でつぶやく。

美奈は、チューブ(地下鉄)に乗り、ロンドン中心部へと戻った。

テムズ川に掛かる大きな橋に来ていた。

橋からは、ビッグベンが見える。

時計の針は、9時15分前を指していた。

健の部屋での出来事から、2時間が経っていた。

ロンドンのビジネスアワーが始まっていた。

美奈は、タクシーでホテルに戻った。

部屋は1週間取ってある。

このロンドンに1週間いるのは辛すぎる。

美奈は、部屋に戻ると、荷物をまとめ始めた。

健のために、日本から持ってきた健の好きな銀座松崎屋の堅焼きのおせんべいとウエストのリーフパイを入れた紙袋をゴミ箱に投げ入れた。」

一刻も早く、ロンドンを離れたかった。

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