陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 5



その日の午後には、パリに着いた。

ホテルは、コンコルド広場近くの静かな通り沿いにあるホテルだった。

周りは、アパルトマンが建ち並び、その間に、ホテルがあった。

ドアを開けると、直ぐにフロントがあった。

英語が通じて美奈は、安心した。

部屋は、最上階、3階にある、こぢんまりとした部屋。

ベッドにドレッサー。

白い花の模様のある真っ赤な絨毯。そう、健のアパートの廊下を敷き詰めていた絨毯と同じ赤。

部屋に案内してくれたのは、このホテルの女性オーナー。

部屋の至る所に彼女のセンスの良さを感じる。

ドレッサーには、白いエーデルワイスの花が飾られていた。

美奈の心にその白がしみてきた。

ドレッサーの横にある窓からは、通りが見下ろせる。

恋人らしき二人が腕を組んで歩いていく。

「はぁ~。」

大きなため息をついた。

不思議と涙が出てこない。

気持ちが凍結してしまったようだ。

美奈は、フロントの女主人に部屋の鍵を預けると外へ出た。

コンコルド広場からセーヌ川を渡ったところにオルセー美術館がある。

川を渡る途中、パティスリーがあった。

ふらっと入ってみた。

色とりどりのゼリーやマカロン。

細工のされたスイーツの数々。

きれいに並べられたチョコレート。

そして、果物を使ったペストリー。

美奈は、マカロンとチョコレートを買った。

お店を出ると足をオルセー美術館に向けた。

美奈は、ホテルに戻り、ベッドに横になった。

消し去ろうと思っても、健のアパートで見た光景が頭の中に繰り返し繰り返し蘇ってくる。

涙が流れてきた。

枕元に置いたバックを思いっきり壁に投げつけた。

それから、美奈は、部屋を出ることがなかった。

翌朝、9時半頃、ドアにノックする音が。

パジャマ代わりのスウェット姿のまま、ドアを開けると、オーナーがドアの前に立っていた。

美奈が朝食に降りてこないのを心配して様子を見に来たのだった。

プチホテルならのことだろうか。

彼女は、クロワッサンとカフェオレとそして黄色い薔薇の花が1輪さしてある小さな花瓶を載せた銀のトレイを持っていた。

そして、にっこりと美奈を見て微笑んだ。

まるで、娘を心配していて、娘が無事でいるのを確かめてホットした母親のような笑顔。

彼女は、美奈の部屋に入ると窓のカーテンを開け、窓も開けた。そして、トレイをドレッサーの上に置いた。

3階ということもあるのだろうか、とても爽やかな風が入ってきた。その風が、美奈の顔を撫でる。

彼女は、美奈の手を取って優しく握りしめてくれた。そして、何も言わずに部屋を出て行った。

美奈は、その後ろ姿を見ていた。

彼女が部屋を出て行った後、美奈は、開け放たれた窓の外に広がる夏のパリの街並みを見ながら、ドレッサーの椅子に座り、クロワッサンを口に運んだ。

涙がとどまることなく流れてきた。

美奈は、キッチンにトレイを返しに行き、そして、鍵を預けて、外へ出た。

街中をあてもなく歩き回った。

夕方、部屋に戻り、ベッドに横になる。

このプチホテルは、基本的には、食事は、朝食のみだった。でも、頼めば、夕食も出してくれる。

美奈は、夕食をホテルで摂ると、近くのコンコルド広場まで散歩した。

コンコルド広場には、沢山の電灯が立っていた。昼間には気が付かなかったが、丸い電灯が、あちらにもこちらにもまるで、ぼんぼりのようにホンワリした明かりを灯していた。

『わ~。』

次の日から、美奈は、部屋と、ダイニングで時間を過ごした。

そして、日本に帰る日、鍵を小さなフロントで返す時、女性オーナーが、繊細な刺繍が施された白いハンカチをくれた。

美奈の目から涙がこぼれ落ちた。

あれから、5年。

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