陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 10



「さあ~てと、行ってきま~す。」

美奈は、1日ゆっくりしたので、体の怠さも取れ、元気に家を出た。

駅に向かう道すがら、鶯が鳴いている。

『春ですよね~。もう、日差しは、初夏かな。そうだ、田中君が言っていたっけ、UVケアしなくちゃ。』

駅は、出勤する人たちがどっと、ホームへ下りて行く。

美奈もいつもの急行に乗った。

いつものように、社内は身動き1つできない状態だった。

『あれっ、胸が、胸が苦しい。』

美奈の呼吸は、段々、荒々しくなってきた。

『息ができない。息が。苦しい。もうダメ。』

そう思った時、1つ目の駅に着いた。

美奈は、いてもたってもいられず、駅に飛び出した。

そのまま、ベンチの所まで言って、しゃがみ込んだ。

『苦しい。呼吸をコントロールできない!ダメ。もうダメ。ダメ。ダメ。』

朝のホームは、忙しい。

人は、一つの帯になって流れて行く。

その中から、一人の女性がその帯から外れて美奈に近づいてきた。

「大丈夫ですか?」

「苦しくて、息ができない・・・」

美奈は、あえぎながら、かすかな声で応えた。

「ちょっと待ってて、今、駅員さんに伝えてくるから。大丈夫よ。じっとしていて!。」

美奈は、上体をベンチの上に載せ、うつぶせになって、肩を大きく揺らしてどうにか呼吸を元に戻そうと必死だった。

だが、糸の切れた凧のように呼吸は、どんどんコントロール不可能な所へ行ってしまおうとしていた。

『もうだめだわ。苦しい。死ぬんだわ。ここで、一人で死ぬのね。お母さん、お父さん。』

美奈は、両親に何か書き残しておきたいと思った。

手足が痙攣し始めた。

痙攣し始めた手で、書類鞄から手帳を取りだした。

-今までありがとう。-

痙攣が激しくなってきて字は乱れた。

美奈の上体は、ベンチから滑り落ちた。

その頃になると、次第に美奈の異変に人々が気が付き始めた。

「大丈夫ですか?」

スーツ姿の30代の男性も声を掛けてきた。

そして、美奈の体を起こして、美奈の上体を自分の膝で支え、両腕で美奈の体を包んだ。

他の20代後半の女性は、痙攣している美奈の足をさすっていた。

そこに、さっきの女性が駅員を連れて来た。

駅員は、直ぐに、内線で事務所に救急車を頼んでいた。

5分もすると、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

その間もホームには何本もの電車が入って来ては、出て行く。人の帯が電車の中から出て来て、そしてまた人の帯が中に入っていく。

その人の帯を遮って救急隊員が3人来た。

「大丈夫ですか?」

美奈は、苦しくて答えることができなかった。

「いいですか。分かったら、右手を挙げて下さい。」

美奈は、痙攣している右手を挙げた。

「私が負ぶって、下に行きます。そこにストレッチャーがありますから。直ぐですからね。大丈夫ですから。」

他の2人の救急隊員の手を借りて美奈は、隊員の背中に負ぶさった。

バックと書類鞄は、他の隊員が持ってその場を離れた。

「お大事にね。大丈夫だよ。」

美奈の体を支えて抱きしめていてくれた男性の声が聞こえた。

美奈は、呼吸が乱れる中、薄く目を開け、その男性の顔を見た。そして、少しうなずいた。

「あり・・・。」

ありがとうございましたといいたかったが、美奈は声に出して言うことができなかった。

救急隊員は、美奈を背負って、階段を下りていった。

その男性は、その後ろ姿を見ていた。

美奈は、階段の下でストレッチャーに載せられ、改札口の外で待っている救急車に乗せられた。

直ぐに血圧と脈拍、そして肺内の酸素量を測定された。

血圧は、多少低めの98と68。

肺内の酸素量は、通常96くらいだが、美奈は、120にまで上がっていた。

過呼吸状態になっていた。

「頭や心臓に何か異常があるわけではないですから。大丈夫です。名前言えますか?」

美奈は、首を横に振った。

「でも、私の言うことは分かりますね?」

美奈は、首をかすかに縦動かした。

「意識レベルは、正常。」

救急隊員は、ある大学病院に連絡を入れていた。

受け入れを承諾してくれたようで、

「そちらに向かいますので、宜しくおねがいします。」

と言っていた。

すると、救急車は、けたたましくサイレンを鳴らし始め走り出した。

助手席に座っている隊員が、マイクで前の車に脇によけるように指示している。

赤信号の交差点にも入っているようだった。

美奈は、まだ過呼吸にあえいでいた。

手足の痙攣もまだ止まっていない。

サイレンの音が止み、10分ほどで大学病院の救急入り口に着いた。

救急車からストレッチャーが下ろされ、救急外来へと運ばれていった。

美奈の肺内酸素量の数値は、次第に下がり始めていた。呼吸の荒さも少しずつ収まってきていた。

まだ、手足の痙攣は、続いていた。

いつの間にか、美奈の涙が流れていた。

苦しいあえぎの中で「死」の恐怖と戦っていたのだ。

「もう大丈夫ですよ。」

女性看護士の声が耳元でした。

血圧、脈拍、肺内酸素量を測り、心レンズもとった。

そして、抗不安剤、セルシンを左肩の筋肉に注射された。

その頃になると、手足の痙攣もとまり、呼吸も元の穏やかさを取り戻していた。

「血圧、脈拍、心レンズの結果は、異常なしです。肺内の酸素量も落ち着いてきました。」

救急治療室の医師が言った。

「肺内の酸素量は、通常、96くらいです。それが、過呼吸という状態になり、120まで上がりました。それによって、痙攣が引き起こされたのです。もう、大丈夫です。今までにも同じような症状が出たことがありますか?」

「これ程ではありませんが、体がだるく、頭痛がし、胸が苦しいような感じになったことがあります。先日、頭と、手足に痺れを感じたので、自宅近くの総合病院へ行きました。CTの検査を受けましたが、異常なしと言うことでした。ただ、血圧が少し、低いというだけでした。」

「そうですか。それ以前にも、どこか体調が悪いということはありましたか?」

「別に、これと言って。ただ、仕事が忙しく、疲れが出ていたのかもしれません。」

「そうですか。一時的なものでしたらいいのですが、このような状態が、続くようなら、しっかりと検査して、治療を受けて頂いた方がいいと思います。」

「治療?」

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