陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 28



『私は、会社に入ってから、突っ張って生きてきたんだわ。いい仕事をしたい、いい仕事をもらいたいって。いつも、弱みを見せちゃいけないって思ってきた。女だからって思われたくないから。本当は、そんなに強い人間じゃないのよね。』

美奈は、天上をじっと見つめていた。

『先生の胸の中、暖かい感じがした。懐かしい感じがしたわ。どうして、懐かしいんだろう。健とのことは、嫌な思い出でしかないはず。なんなんだろう、あの懐かしい感じ。ずっと、誰かに優しく抱きしめて欲しかったんだわ。』

美奈は、そのまま眠ってしまった。

森口は、美奈が帰った後、精神科の処置室で同僚の早川聡と話していた。

「先週から僕の所に来ているパニック障害の20代後半の女性の患者がいるんだけど。経歴を見ると、家庭環境は、言うことなしだし。いや、それどころか、父親は大手銀行に勤めていて、海外駐在経験ある一人娘なんだ。それに、本人も大学院まででていて、銀行系のシンクタンクに勤めているんだ。一点の曇りもないんだよ。見た目もそんなお高い感じがしないすらっとした可愛い感じの人なんだ。仕事は、確かに忙しかったみたいだけど、本人はやりがいを感じていたみたいで、研究職だからあまり他の人との接点もなく、人間関係で悩んでいる感じもないんだ。疲労から、ストレスが溜まって、パニックになったのかと思っていたら、電車でかなり陰湿な痴漢行為にあったらしいんだ。きっと、真っ直ぐ生きてきて、何の挫折緒なくここまで来たんだろうね。それがショックだったらしい。」

「そうなんだ。案外、書類上では、何の曇りもなくても、内面では、葛藤があったのかもしれないよ。外から見ていい家庭環境が、本人にとって負担になる場合だってあるさ。いい子をしてきたんじゃないか?勉強ができて、可愛くってなんて。疲れそうじゃないか。いつも、周りから期待され、視線を集めて。その中を、表面的に繕いながらやってきたかもしれないよ。一点の曇りもない人生何てあり得ないだろう?」

「そうだよな。張りつめてきたものが、その陰湿な痴漢行為によって崩されたのかもしれないな。彼女自身、自分に自信がなくなったと言っていたよ。こんなに弱い自分じゃなかったはずだって。頑張ってきたって感じがするよ。きっと、家庭でも学校でも職場でもずっと。」

「話を聞いていると、そんな感じがするよ。」

「今の彼女には、安心感が必要なんだ。そして、自信を取り戻させてやらなくちゃ。今までの彼女の殻を破って、自然体の彼女でいられるような自信を持たせてあげられたらな。そう思うんだ。とりあえずは、薬で症状が出ないようにして、その間に安心感を持てるようにしていきたいんだ。」

「一度失った自信や自尊心って中々取り戻せるものじゃないよ。気長に付き合っていってあげることだな。」

「仕事をやりながらの治癒だからな。どこまで、その中でのストレスを上手く乗り切ってくれるかも、治療に影響するよ。」

日曜日、涼子から美奈の携帯にメールが届いた。

-美奈、どう?その後、体調は?よかったら、気晴らしにお茶でもしない?そっちに行くよ。-

美奈は、ちょっと、ためらった。

今の自分に自信が持てなかった。

涼子に会って、ちゃんとしていられるか。

『明日から仕事だし、これから忙しくなるわ。今日は、休んでいた方がいいかも。』

-涼子、メールありがとう。やっぱ、今日は、やめとく。ゴメン。明日から、仕事が忙しくなるから、今日は休むわ。明日、一緒にお昼しよう。じゃあ、明日ね。-

月曜日の朝、美奈は、いつもようにタクシーで会社に向かった。

クライアント先から関係資料が届き、いよいよ忙しくなってくる。

デスクに着くと、美奈はPCをONにして、コーヒーを買いに行った。

いつもの朝と同じだ。

ただ、美奈の中で何かが変わり始めていた。

「おはよう。体調は、もう、すっかりいいのか?この間の金曜日は、俺としたことが、失敗しちゃったよな。」

誠二が、いつもの調子で美奈に話し掛けてきた。

「そんなことないわよ。楽しかったわ。たまには、ああいうところもいいよね。」

「あれ~?いつものお前なら、けちょんけちょんにけなしてくるのに。拍子抜けだな。雪でも降ってくるか?仕事、忙しくなってきたのか?」

「そうね。」

「頑張れよ。」

「田中君も新しい仕事、始まったんでしょう?」

「ああ、こっちもこれから大忙しさ。じゃあな。」

美奈は、コーヒーを片手にONLINE NEWSを読んでから、クライアント先から送られてきた資料に目を通し始めた。

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