陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 36



『先週、1駅目まででダメだったからな。どうしよう。』

駅が見えてきた。

『また、乗ってみようかな。ダメだったら、降りればいいわ。頓服も飲んできているし。乗ってみよう。』

美奈は、改札を通り抜け、ホームへ続く階段へ。

『今日は、大丈夫。』

先週は、階段を下りる時、足が震えたが、今日は、ゆっくりだが、一歩一歩、確かな足取りで階段を下りていくことができた。

ホームに着くと、電車を待つ人の列の後ろについた。

胸がドキドキしてきた。

『大丈夫よ。』

電車がゴーッと音を立ててホームに入ってきた。

満員の電車の中に押し込まれた。

美奈の体は、硬直して、手には脂汗がにじんできた。

『やっぱり、ダメだわ。次の駅でおりよう。』

電車は、次第にスピードを上げていった。

それに合わせるように、美奈の胸の鼓動も早くなっていた。

次の駅に電車が着くと、美奈は降りる人の波に乗ってホームに出た。

美奈は、駅のベンチに座った。

『私、まだ、ダメなんだわ。』

「あのう、大丈夫ですか?」

ハンカチで口を押さえ、うつむいている美奈の耳に男性の声が聞こえてきた。

美奈が顔を上げると、そこには、30才くらいの男性が立っていた。

「大丈夫ですか?お水でも買ってきましょうか?」

「えっ、大丈夫です。少し休めば、収まりますから。ありがとうございます。」

美奈は、口にハンカチを当てたまま、小さな声で応えた。

その男性は、美奈の隣に座った。

美奈の胸のドキドキが収まってきた。

「すみません。ありがとうございます。あのう・・・。」

「大丈夫ですか?」

「はい。もう、大丈夫です。一緒にいて下さってありがとうございます。」

「これ、あなたのですよね。」

その男性がベージュのシステム手帳をカバンから取り出した。

「あっ、それ。」

「あなたのですよね。」

「もしかして、あの時の?」

「そう・・・。ずっと、気になっていたんです。あの後。先週、電車の中からあなたの姿を見つけて、元気になられたんだなと思っていたのですが。」

「先週、あの時の。私も、あなたの姿を見て、あの時、助けて下さった方かなと思ったのですが。そうだったのですね。あの時は、お礼も言えずにすみませんでした。ありがとうございました。」

「いいえ、何のお役にも立てなくて。でも、よかったです。とても大変な病気かと思っていましたから。あっ、でも、いまでも、大変そうですね。」

「ええ。ちょっと。」

男性は、美奈に手帳を差し出した。

「一度、駅の事務所に行って、持ち主から連絡が入っているか聞いたんですけれど、連絡がないって言われて、そのまま持っていたんです。いつか、元気になられて、会えるような気がして。」

「ありがとうございました。」

「このままでは、電車に乗れそうにないですね。タクシー乗り場まで送りましょうか?」

「とんでもないです。一人で行けますから。お時間をとらせてしまって申し訳ありません。会社に遅れちゃいますよね。」

「大丈夫です。気になるから、タクシー乗り場まで送らせて下さい。」

男性は、美奈の書類カバンを持ち、美奈を抱えるようにしてホームの階段を上っていった。

改札を出て、タクシー乗り場に着いた。

美奈は、一人、タクシーに乗り込んだ。

「本当にありがとうございました。」

「気を付けて。」

タクシーのドアが閉まった。

タクシーが駅のロータリーを出て行くまで、その男性はその場に立っていた。

美奈は、会社の住所をドライバーに告げた。

『あっ、いけない。名前も連絡先も聞くのを忘れていたわ。お礼もできない。』

大きくため息をついた。

『あの駅でまたあえるかもしれない。』

美奈は、そう心の中でつぶやくと、少し浅い眠りに落ちた。

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