陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 38



「美奈、まだ起きないのか?具合が悪いのか?今日は、病院、パパも一緒に行こうか?」

「パパ。ちょっと、疲れちゃったみたい。忙しかったから。でも、大丈夫よ。タクシーで行くから大丈夫。何かあったら、電話する。」

美奈は、熱いシャワーを浴び、朝食を摂って、駅まで歩いていき、タクシーに乗った。

病院へ行ってくれるようにドライバーに告げた。

家を遅く出たので、今日も最後の診察順番だった。

『最後の方が、先生とゆっくりお話しできるからいいかな。』

今日も美奈は、女性らしい洋服を選んでいた。

襟元にフリルの着いた白のコットンのブラウスにドッド模様の紺のスカート。紺のパンプスとバック。

美奈は、身分の名前を森口に呼ばれるのを待っていた。

『あの扉の向こうに私を待ってくれている人がいる。』

目を閉じてその時を待っていた。

「村沢美奈さん。3番診察室にお入り下さい。」

美奈は、その声を待っていた。

「失礼します。」

ドアを開けると、森口紙なの方に視線を送っていた。

美奈は、森口に微笑み掛けた。

森口も微笑みで応えた。

「どうぞ、お座り下さい。」

「はい。」

美奈にも分かっている。

『ここは、病院。先生は、私を患者の私と会っている。』

「体調はいかがですか?」

「電車に乗ってみました。やはり、1駅だけで降りてしまいました。仕事も、以前のようにできず、上司に叱られてしまいました。」

美奈は、うつむいて、嘲笑した。

「残業も、多くなってきています。でも、どうにかこなしています。」

「もう少ししてからでいいですから、電車は、お休みの日とか空いている時間帯に乗って、少しずつ馴れていってはいかがですか?無理をして、乗ろうとすることはないですよ。

やはり、お仕事は、軽いものをやらせていただいた方がいいと思います。村沢さんの気持ちは、分かります。でも、まずは、体を治していきましょう。このままご無理をなさると、体調を益々、悪化させます。その上、それによってお仕事上のミスが多くなり、自信を失っていくという悪循環をおこしてしまいます。それは、どうしても避けなければなりません。」

「でも、やっと大きなプロジェクトに参加できたんです。」

「分かります。でも、このまま体調を崩していくと取り返しのつかないことになります。」

「私、何もなくなっちゃいます。ずっと、仕事、頑張ってきたのに。あんなことで全てが崩れてしまうなんて。」

「人生の中の本の短い時間です。あなたには、まだこれから長い時間があります。分かりますよね。今、だけじゃないんですよ。ここでご無理をされると、この先も病気を引きずっていかなければならなくなりますよ。」

「先生、私・・・・。」

そこまで言うと、美奈は、泣き崩れた。

森口は、心の中で『自分は、医師であり、美奈は、他の患者と同じ自分の患者だ。』と繰り返していた。

森口は、渡っては行けない橋を少しずつ向こうへと歩き始めていた。

身分の席を離れ、机に伏して泣いている美奈の所へゆっくり近づいていった。

窓の外からは、木々の緑が見える。

森口は、そっと手を美奈の肩に置いた。

美奈は、その手の感触に振り返った。

森口は、美奈の前にひざまずいていた。

ゆっくり、その手を美奈の頬に伸ばし、涙を拭った。

美奈は、その手を握りしめた。

そして、自分の胸のところで両手でその手を包み込んで、強く握りしめた。

森口は、美奈を見つめていた。

美奈も顔を上げて森口を見つめた。

森口は、自分の手を美奈の両手から離すと、美奈を優しく抱きしめた。

『ああっ。』

森口は、何も考えられなかった。ただ、間の前にいる美奈を優しく包み込みたかった。

森口は、美奈の体を少し引き離して、美奈の目を再び見つめた。

美奈は、少しうつむき、森口の手の上に自分の手を載せた。

「仕事のことは、よく考えて。上司と相談して下さい。私の携帯番号をお渡ししますから、何かあったら、かけて下さい。」

「先生。先生は・・・。」

「何ですか?」

「いいえ・・・。」

美奈は、本当は森口に聞きたかった。森口の気持ちを。

自分を患者として抱きしめてくれるのか、それとも・・・。

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