陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 39



また、1週間森口と離れるのが辛く感じられた。

「スミマセン。私、取り乱してしまって。ご迷惑をおかけしました。」

「大丈夫ですか?もう少し、ここにいてもいいですよ。何か、楽しい話をしましょうか?」

「楽しい話?」

「そう、例えば、夕べ何を食べたとか。」

「え?それが楽しい話なんですか?」

「だめだった?まあ、一人暮らしの私の夕食なんて、悲惨なものですけれどね。村沢さんも1人暮らし?」

「いいえ、両親と暮らしています。」

「じゃあ、毎日美味しい夕食を頂けますね。」

「いいえ、病気になるまで、ほとんど残業で外で食べていますから。」

「じゃあ、上司の悪口とか?最近、私の上司は、お腹周りを気にしているんですよ。無理にきつめのズボンをはいていて、いつボタンが外れるのか密かに楽しみにしているんですよ。」

「先生が?信じられない。」

美奈の顔に微笑みがこぼれた。

「あっ、笑った。よかった。」

「え、先生の戦略にはまっちゃいました。」

「戦略ね。村沢さんは、シンクタンクに勤めているのですよね。」

「会話で、そんな言葉使うなんて、職業病ですね。」

「私たち精神科医も似たようなことがありますよ。患者さんを生身の1人の人間として診るべきなのに、いつの間にか、人間としての前に、患者さんとしてその人を見てしまう。あ、折角、笑わせたのに、こんな暗い話してしまって。」

「いいえ、先生って、多分、私とそれ程、年が違わないと思うのですが、しっかりされていますね。」

「村沢さんは、28才でしたね。」

「先生は、何才なんですか?」

「31才です。」

「時々、ふと思うんです。先生は、私の住所も家族構成も生い立ちもご存じなのに、私は先生のことを何も知りません。私の心の中のことをお話しするのに、何も知らない相手にお話しするのはちょっと・・・」

「分かりますよ。その気持ち。私は、長野の出身で大学から東京です。スキーは上手いですよ。あと、何か。そうそう、弟がいます。その弟は、実家の歯科医院を継いでいます。あと、何か聞きたいことはありますか?」

「いいえ、もういいです。」

誰もいなくなった待合室に2人の話し声が聞こえていた。

「そろそろ行きましょうか?」

「すみません。色々と、ご迷惑をおかけしました。」

「いいんですよ。」

「ありがとうございます。では、失礼します。」

美奈は、一礼して診察室を出て行った。

美奈は、デートから帰っていくような気分だった。

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