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今日は朝からずっと仕事上必要な読書。だからあまり提供できる話題がないの。 っつーことで、昨日に引き続きクルマの話を一席。 私のクルマか、家内の操るセカンド・カーか。いずれにせよ、そろそろ買い替えの時期が近付いていることは確か。で、次の愛車候補は何か、という話なんですが、私には一つ夢がありましてね。それは何かと言いますと・・・ 屋根の開いたクルマに乗りたい。 これです。 屋根の開く、というのは、一つはオープン・カーのことね。日本車で言えばマツダ・ロードスターとか。 いやあ、クルマ好きとして、一生の内一回くらいは、オープン・カーに乗りたいじゃないの。 ロードスターじゃなかったら、ミニのカブリオレとかね。 あるいは、それが無理なら、せめてグラスルーフのクルマに乗りたい。 だけど、日本車って、グラスルーフのクルマ、少ないよね! あれ、なんでだろう。標準装備にすればいいのにと思うのだけど。日本車でグラスルーフが標準装備のクルマって、軽のダイハツ・タフトくらいなもんじゃない? あれもいいけど、軽だからなあ・・・。 フランス車は、割とグラスルーフ車が多いけど、その中ではルノーは少ないんだよなあ。プジョーとシトロエンは多いけど。 となると、私の愛車をマツダ・ロードスターにするか、あるいは、プジョーとかシトロエンにするか、かなあ・・・。プジョーなら208、シトロエンならC4か。あるいは、家内の愛車をロードスターにする手もあるか・・・。 まあ、どうなるか分かりませんが、とにかく次の愛車はできれば屋根が開いて欲しいと思っているワタクシなのであります。
August 20, 2023
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このところほぼ月一で実家に戻っており、その都度名古屋・東京間をクルマで往復しているもので、我が愛車ルノー・キャプチャーの走行距離がどんどん伸びてしまって・・・。 っつーことで、実家への往復に関し、家内が同行する時は、極力家内の愛車、すなわちフォルクスワーゲン・ポロ(5代目)を使うことにしているのですが、そうやってポロに長距離乗ると、改めて分かってくることがあるわけ。 まずね、エンジンに関して言うと、キャプチャーもポロも、1.2リッター・ターボなんだけど、力感から言うとポロの方が上。あと、ミッションは両車ともDCTなんだけど、ポロが7速なのに対してキャプチャーは6速。そしてその制御については、これまたポロの圧勝。その意味は、まずキャプチャーは一般道を走っている時に6速のトップギアに入ることはほとんどなく、それは高速道路用という感じなのに対し、ポロは一般道でも7速まで入る。当然、その分、燃費もいい。またDCT特有のギクシャク感について、キャプチャーは特に低速域で顕著なんだけど、ポロの場合、ほとんど感じられず、まるでトルコン式と見まごうばかり。 で、優秀なエンジンと優秀なDCTのお陰で、ポロの動力は素晴らしい。ほんとに滑らかに、力強く加速していく感じ。 というわけで、両車を比べると、動力的にはポロの圧勝よ。 だけど、それでもキャプチャーの方に軍配をあげたくなるのは、ハンドリング。 ポロのハンドルは重い! 一般道では、この重さは苦役レベル。カーブの度によっこらしょ、っていう感じで、疲れる疲れる。一方、キャプチャーのハンドルは重くなく、軽すぎもせず、ちょうどいいところ。しかもSUVであるキャプチャーはアイポイントがポロよりよほど高いので、見晴らしがいい。この見晴らしの良さと、ハンドリングの良さがあるものだから、キャプチャーの方が圧倒的に軽快感があるわけ。 しかも後部座席や荷室の大きさはキャプチャーの方がずっと上。ということで、全体としてみると、相棒としてはキャプチャーの方がいいなということになると。 ということで、私としては、やっぱりキャプチャーの方が好きだな、ということになるのですが、それにしてもポロの動力性能の良さは、印象的ではありますね。このサイズの日本車で、ポロのように高級感のあるパワーユニットって、ないんじゃない。そこは、やはり、値段だけのことはあるなと。ドイツ車だけのことはあるなと。 とまあ、そんなことを思った次第。 でも、キャプチャーも走行距離が10万キロに近づきつつあり、一方のポロも10年選手になりつつある。となると、どちらもそろそろ、っていうところはある。 さて、次はどういう組み合わせで行くか。ぼちぼちそんなことも考えつつ、クルマ系のYouTube などをチラ見しているワタクシなのであります。
August 19, 2023
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今日もひがな一日、文芸誌を読んで過ごす。文芸時評の締め切りは22日だから、明日あたりは、そろそろ書き始めなくてはならないだろう。 あなたは文章を書く人だから、文章を書くのが好きなのでしょうと言われることがあるが、とんでもないことである。文章を書くのは辛い。特に書き始めは辛い。 その辛さを何となく軽減するために、文芸誌を読みながら、もうどの順番で書くか、おおよそ考えてしまう。冒頭はこの話をふって、次にこの話をして、この話を次いでから、最後にこの話でまとめよう、というように。 きっとそれでうまく行くだろう、とぼんやり考える。以前にも、そうやって、ちゃんと締め切りに間に合ったではないか、今回だってどうせうまく行くさ。 とまあ、そんなことを思いながら、時評の漠然とした形を考えているところである。
August 18, 2023
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今回の台風、実家ではほとんど何の影響もなかったので、多寡をくくっていたのですが、そのしっぺ返しをくらいました。 昨日、午後四時半ごろに実家を出て名古屋の自宅に向かったのですが、その時点で新東名の新富士-新清水間が通行止めになっているのは知っていたのよ。 だけど、実家のあたりはまったく雨なんか降ってないし、すぐに解除されるだろうとそのまま高速に乗りまして。 ただ、足柄の近くになっても解除されないようだったので、ここは一計を案じ、足柄SAのスマートICで降りて、御殿場アウトレットに向かい、そこで軽く買い物をしたり、夕食をとることに。そこで二時間ほど潰せばさすがに解除になるだろうと。 で、御殿場アウトレットにある「さわやか」で、静岡名物のハンバーグを食べたり、家内の誕生日プレゼントにモルトン・ブラウンの香水を買ったりしてショッピングを少々楽しんだ後、再度、高速に戻ったのですが、まだ通行止めは続いている。 で、仕方なく、そのまま新富士ICで降りて、次の新清水までの十数キロを、一般道で走ろうと思ったわけ。 ところがこれが大誤算。たかだか十数キロの道のりと思いきや、新東名は山の中だから、まあ、通れる道が細くて少ない。で、そこに高速を追い出されたクルマが集まるわけだから大渋滞よ。途中、スマホのナビに従っていたら、クルマ一台がギリギリ通れるような細い路地に迷いこみ、両側とも側溝がない道で往生したり、大変な思いをさせられて。また、山の中なのでコンビニもほとんどなく、1軒だけあったコンビニとその隣にあった交番には、トイレ待ちの長い列ができておりました。我々は大丈夫だったけど、あの一般道の渋滞の中でもしトイレに行きたくなったらと思うと恐ろしい! で、高速道のひと区間を一般道で走るのに何と4時間を要したという・・・。再び新清水から新東名に乗ったのは、日付も変わりそうな11時台でありました。結果、自宅に到着したのは夜中の2時半。4時半に実家を出て10時間かかったことになる。普段なら4時間なので、その2.5倍。 たかだか10キロほどの通行止め区間があったために、この体たらくだよ!! しかも、新富士―新清水のあたりなんて、雨なんか降ってないんだからね。なんで通行止めなんかにするんだよ! むしろ新清水で乗ってからの方がよほど雨の強い区間があったぞ。 ということで、教訓!①わずかひと区間とはいえ、東名・新東名に通行止め区間がある場合、実家から自宅に戻るのに中央道を使うこと。②もし東名・新東名を走行中に通行止め区間が生じた場合は、迷いなく東名の方を選択し、国道1号線を利用すること。新東名の近くを走る一般道は、慣れない旅人が通るにはマニアック過ぎる。 ま、とにかく、お盆休みの最後は、とんだ結末となってしまったのでした、とさ。ヤレヤレ。
August 17, 2023
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さてさて、実家で過ごす夏休みも今日まで。今日はこの後、名古屋の自宅に戻ります。 持ってきた仕事の進捗度合いは7割ってところかな。まあ、10割行くことはもともとないので、そこそこの出来というところ。でも、その中で父の墓参りもできたし、家の整理も少し進んだし。 ただね、ますますわけが分からなくなってきた母とは、なかなか思うように話が出来ず。こちらが話しかけても、頓珍漢な答えしか返ってこなかったり。もう、ちゃんとした思い出話もできないかな・・・。 それでいて、やっぱり私が帰省しているのは嬉しいらしく、だから今日、名古屋に戻るとなると、母は母なりに悲しいのだろうなと。もはや、なぜ名古屋に戻るのか、理屈で説明できないだけに、ただ寂しい思いをさせてしまうので、こちらとしてもやるせない。 ま、しかし、人生そういうもんですな。私だって年をとったら、理不尽に悲しい思いをするのでしょう。 とにかく、明日からまた名古屋からのお気楽日記。お楽しみに!
August 16, 2023
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今日は父のお墓参りをして参りました。 台風が近づいていたので、行けるかどうか分かりませんでしたが、蓋を開けてみたら関東地方は台風もどこ吹く風で、普通に晴れていて。 で、今回、一つ愉しみだったのは、6月の命日の時に植えたアジサイがどうなったかを見ること。 が! やっぱり、跡形もなく枯れ果てておりました・・・。 アジサイは父が好きだった花なので、お墓に植えたらいいだろうと、ここ3年ほどずっと植えてきたのですが、毎年、夏を越せずに枯れてしまう。アジサイ計画はどうも無理らしいです。 となると、どうしますかね。来年は。 百日紅(サルスベリ)とかムクゲも父が好きだった花なので、それらはどうかなと思うのですが、どちらも結構大木になりますよね・・・。となると、隣近所のお墓に迷惑がかかるかなと。 矮性の植物で、なかなか枯れない、そして花の咲く樹木って、何があるんだろう? ちょっと考えないと、ですねえ。 ま、それはともかく、お盆に父のお墓参りが出来て良かった。父も喜んでくれたことでしょう。
August 15, 2023
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自己啓発研究のスピンオフで現在鋭意執筆中なのは、古今東西の自己啓発本の中でも選りすぐりのものを48冊、私なりに紹介する、というものなんですけど、これの執筆がほぼ終わりました。 で、現在、思案中なのは、その48冊を、どういう風に、どういう順番で並べるかという一事。 そんなの適当でいいじゃんとか、年代順でいいじゃんとか、思う方もおられるかもしれませんが、私としては、紹介する順番こそ、この本の命なのではないかと思っているのよね~。 だって、どういう風に並べるかで、筆者がこれらの本をどういう風にとらえているか、おおよそ分かるじゃん? だから、個々の本の紹介そのものよりも、私としては、どの順番でこれら48冊を並べていくかの方が重要なわけ。 かつてアビ・ヴァールブルクの書棚を見て、本がどういう順番で並べられているかを見た某哲学者が、ヴァールブルクの頭の中の学問体系を察知し、その完璧さに絶望したって話があるじゃない? それよ、それ。私がこの48冊をどういう順番で並べるかによって、私の自己啓発本研究の体系が分かる。そういうように並べたいのよ、私は。 っつーことで、今日は朝から、この48冊分の紹介文の順番の並べ替えを四苦八苦してやっているところ。 だけど、これが簡単なようで、超難しい。なかなか揃わないルービック・キューブをやっているような感じで、この面が揃えば、こっちが破綻する、みたいなことの繰り返しよ。 でも、それが研究というもの。研究というのはシンドイものですからね。 まあ、100%上手く行くとは思えないけれど、8割がた、自分の思い通りの並べ順になる方法を探して、もう少し四苦八苦しますかね。
August 14, 2023
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仕事の都合上、文芸誌を読み漁っているのですが、その中で「文学フリマ」を扱った小特集みたいなところがありまして。 それによると、世には文学フリマというのがあって、それは結局、文学版コミケみたいなものらしい。 コミケはね、知ってますよ。先日もどこかで何万人という人出を集めたとか。だけど、それは日本のマンガ文化・アニメ文化の隆盛の中でのことであって、当然そういうものがあるんだろうなと、素人にも想像できる。 だけど、それの文学版があったとは。そして、それがまた結構盛況とか。 ふうむ、そうなのか・・・。小説を書いたり詩を書いたりする人が多いだけでなく、その成果物がコミケ的に市場に出されていて、それを享受するファンも多いのか・・・。 じゃあ、文学ってのは廃れているわけではないのね・・・。 じゃあ、文学研究だけ廃れているってこと? 文学研究の界隈では、学会を開いても発表してくれる人が集まらない状態なのに? まあ、その辺の乖離がどういうことになっているのか、考えた方がいいのかもね。
August 13, 2023
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噂に聞くフランスの高級バター、「エシレバター」を食べてしまいましたよ、ついに! 前々からその名こそ聞け、いまだ食したことがなかっただけに、興味津々! で、食べてみた感想は?! 旨い! 芳醇で上品な風味もよく、やや強めの塩味もトーストに合う! が! わしは普通の四つ葉バターでいいかな・・・(獏!) いや、エシレもいいけど、値段差を考えるとね、四つ葉バターも健闘しているので、日常的にはそっちでもいいかと。いちどエシレの味を知ったら、もう元には戻れない、というところまでは行かなかったかなと まあ、わしの舌がエシレに追いついていないだけですが。 でも、経験としてエシレの味を知ったことはいい勉強になりました。人生、なんでも経験だからね。これこれ! ↓エシレバター 板 【有塩】 250g | ECHIRE
August 12, 2023
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今日は朝から家族中で探偵ごっこをする羽目になりまして。 なんかね、キッチンの方で「ピッ」という音が定期的に鳴るのよ。 で、何が鳴っているのか全然分からず、しばらく放っておいたのだけど、定期的に鳴るものだから、気になりだして、一体何が鳴っているのかを調べ始めたのですが、これが一向に分からない。 最初は洗濯機が鳴っているのかと思いきや、そうでもない。次に冷蔵庫が疑われたけれど、そうでもないらしい。給湯器なのか? それともガスレンジか? と家族皆で聞き耳を立てるのだけど、全然分からない。ピッの音が鳴り続けているなら、発信源も辿りやすいのだけど、たまにしか鳴らないので、なかなか犯人を捜すのが難しいのよ。 で、どれだ、どれだ? どれが鳴っているんだ? と探し回った挙句・・・ ついに分かりました。火災警報器が鳴っていたのでした。 で、脚立に上って確認したところ、電池が足りなくなってくると50秒間隔で警告音が鳴ると書いてある。なるほど、やっぱりこれだわ。 っつーことで、ようやく一件落着した次第。 でもね、この火災警報器の電池ってのが、普通の電池じゃないのね。コードとソケットのついた特殊なやーつー。何で普通の単三電池とかにしないのかね? ま、とにかく、新しい電池はアマゾンで注文することにして、今回のピッ音騒動は解決と。 それにしても、朝っぱらから人騒がせな出来事でありました。ヤレヤレ。
August 11, 2023
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今日は夏休みで実家に帰省しました~。 ところで、帰省に関して気づいたことを一つ。 ひところまで、高速道路を使って帰省すると、虫がフロントガラスにぶち当たってきて、家に着くまでの300キロの間に、結構、フロントガラスが虫の衝突跡でいっぱいになったものだったんですわ。 で、こちらも100キロで走ってますから、虫が衝突するのなんて一瞬の出来事でね。バッタか何かが飛んでいるのが見えて「あ~、ぶつかる!」と思っても、さすがに避けることもできず、「テッ!」という軽い衝突音と体液の跡だけを残して、一つの命がこの世から消えるわけ。で、その度に申し訳ないなと。 で、虫の跡が残るのは、ゴールデンウィークから9月くらいまでがいいところで、そのほかの月に帰省してもそういうことにはならない。そういう意味で、虫さんたちには申し訳ないけど、フロントガラスの虫の跡は、夏の印でもあったわけ。 ところが。 最近はね、全然そういうことがない。夏の間に名古屋・東京間を往復しても、フロントガラスに虫の跡なんか一つもつかない。 これって・・・どゆこと? 虫が少なくなったってこと? まあね、無為な殺生をしなくて済むのなら、こちらとしては別にいいけれど、そもそも何らかの理由で虫が少なくなっているのだとしたら、それはそれで問題ありだよね? とまあ、今日も虫の死骸ひとつついてない綺麗なフロントガラスを眺めながら、不思議だなと思うのであります。
August 10, 2023
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明日8月10日は父の誕生日。生きていれば95歳ですか。88歳で亡くなっちゃったけどね。 大体お盆に近いので、昔からこの日をめがけて夏休み帰省することが多かった。で、帰った途端に誕生日パーティーをするので、こちらも誕生日プレゼントを用意して持って行くわけよ。 父が探していて、なかなか見つからない古本を、ネットでこっそりゲットして、それを誕生日に渡して喜ばれたこともありましたっけ。 あと、写真を撮るのが趣味だった父のために、父が撮った写真を切手にして(そういうサービスがあるのよ、郵便局に)、自分の撮った写真の切手シートをあげた時も喜んでくれました。 でも、あれかな。父の句集を作って、誕生日に渡した時が一番喜んだかな。まさに最後の誕生日、88歳の時の誕生日のこと。あれは喜んでくれた。色々な人に渡しては、息子が作ってくれたんですって、自慢していたっけ。 それから10か月後に亡くなるなんてね、思いもしなかったけれど。 割と親孝行な方だったと思うけど、もっともっと喜ばしてやりたかったな。もっと親孝行すれば良かったって思いますね。もっと頻繁に帰省すればよかった。時々、「お前、東京の大学に移籍する、なんてことはないのか?」なんて、さらっと聞いてきたりしたけど、あれは戻ってきてほしいということだったんでしょうからね。 明日は実家に戻って、折を見て墓参りをしなくちゃ。
August 9, 2023
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仕事の都合上、日本の最新小説を読み漁るんですけど、なんか違和感がある。で、何だろうこの違和感はと思って考えるのですが、なんかね、日本の今時の小説って、説明し過ぎなんじゃないかと。 し過ぎもなにも、全部説明してある。 例えば「○○と言ってみた。相手に対する苛立ちが言葉尻に現れてしまい、少し強く言い過ぎたかとも思ったが、相手は特に何も返答しなかったので、まあ、気にすることはないかと思った」みたいな感じで、自分がどういうつもりで言ったか、その時どう思ったか、相手がどう思ったと思ったか、そう思ったけれども、そんなことどうでもいいやという気になった、とか、全部説明しちゃっているわけよ。 小説って、そういうもんだっけ? 全部説明するんだっけ? とにかく全部説明してあるから、読者としては何も考えなくていいんだよね。この登場人物はどうしてこういうことを言ったのか、どうしてこういう態度をとったのか、とか、そういうことを推測する余地がどこにもない。全部作者が解説してるから。 そう、何にも推測しなくていいのね。でも、そんな、何もする必要のないものを読んで楽しいのか?っていう。 わたしゃ、むしろ、何にも説明しない小説ほど高級なもんだと思ってこれまでやってきたので、最近の日本の小説読んで驚くことばかりよ。
August 8, 2023
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さあ、8月7日、文芸誌の発売日。今日からしばらく、文芸誌を読み漁り、時評を書く仕事に追われることになります。 っつーことで、そのキツイ仕事の前にちょいと息抜きをしようというので、今日のお昼は家内と外食をすることに。 向かったのは、近所のショッピング・モールにあるフレッシュネス・バーガー。最近、某テレビ番組で取り上げられたのを見て、急に食べたくなったものですから。 そうしたら、やっぱりテレビの影響ってのはスゴイね。2時過ぎていたのに長蛇の列。で、その列に30分ほども並んでようやくゲット。フレッシュネス・バーガーを食べたのは何十年ぶりか、って感じでしたけど、とても美味しかった。味わいはプレミアム・バーガーに近く、そう考えるとそこそこ安い。レモネードなども相当なレベル。ビールが190円で飲めるというのも魅力でしたが、クルマを運転するので、それは断念。 その後、ちらっとモールをぶらついたものの、特に買うものもなく、ちょいと夜ご飯の総菜などを買って帰宅。しばしの外出で、気分が変わりました。 さあて、これからはしばらく他人の文章を読んで読んで読みまくる一週間。がんばるぞー!
August 7, 2023
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先々月の末、某雑誌から依頼され、インタビューを受けた話はこのブログにも書きました。 が! そのインタビューが載る雑誌の発売日が今日だったのですが、当該のインタビューは載っていなかったと。 っていうか、私をインタビューしてくれた記者の方から、それ以後、何の連絡もないと。 インタビューが終わって、別れる時に、「それでは、雑誌に載せる記事が書き上がりましたら、一度お目通しをお願いします」と言われていたんですけれども、それも含め、まったく音沙汰がないと。 うーーーーん! これは一体どういうことなんでしょうか・・・。 まあ、ちょっと、一般論としては、その記者の方の行動は解せないよね? 仮に何らかの事情があって、その記事が没になったとかいうのだとしても、それはそれで私に一報するべきだし。 とはいえ、私にインタビューしてくれた記者の方は、35歳でまだ若い人だったんですよね。で、自己啓発本を相当、色々な種類読まれているようだった。 で、ここからは私の邪推なんですけど、ひょっとしてその人はメンタルがすごく弱い人なのではないかと。だから、自己啓発本をたくさん読んで、自分を奮い立たせていたと。 ところが、何らかの理由でその心が折れて、欝になってしまい、記事も何も書けなくなって、会社も休むようになってしまった・・・ ・・・そんな可能性があるのではないかと。 だとしたら、私の方から「あのインタビューはどうなったんですか?」などと尋ねるメールを出したら、それこそ彼の心を完全に折ってしまうことにはならないか? 私への負い目から、さらに病状が悪化したりしないか? ま、そんなことをちょっと思うもので、こわくて問い合わせのメールが出せないという・・・。でも、そんな理由でもなければ、普通の健康なジャーナリストが、何の音沙汰もないような状況を創り出したりはしないですよね? あるいは・・・ 彼は某雑誌の記者でも何でもなかったとか。身分を偽って、ただ私に会いたかっただけ、とか。 まあ、私のアドレスなんて、ネットで探せばいくらでもわかるし、一方、私はといえば、彼が「某雑誌の記者です」というのを疑ったり、雑誌社に問い合わせたりしませんからね。 もしそうだったら、こわいわ~。怪談だよ、怪談。 ということで、いずれにしても、私のインタビューは幻となってしまったのでした、とさ。ヤレヤレ。
August 6, 2023
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今日も一日、原稿書き。私にとっては毎日が同じことの繰り返しでございます。 ところが。 実は今日は、私の住む町の夏祭りの日でありまして。そのお知らせが、少し前に来ていた。 で、そのお知らせによると、そのお祭りに参加すると、ジュースがもらえたり、くじ引きが出来たりするらしい。ということで、一日家に籠っていても仕方がないということもあり、夕方、散歩がてら、家内とお祭りの様子を見に行ってみた。すると・・・ まあ、大賑わいよ。この界隈にこんなに人がいたのかと思うほど、お祭り会場は人出でごった返しておりました。 いやあ、日本人ってのは、お祭りが好きなんですなあ。私は嫌いだけど。 それでも見ていると、小さな子供たちは可愛らしい浴衣やら甚平やらを着てはしゃいでいるし、中学生くらいの女子らが、少しお姉さんらしい浴衣を着ているのも趣がある。会場に行った時間帯がまだ早かったので盆踊りは始まっていなかったけれども、それが始まればまた一層、祭りらしい感じになったのでありましょう。 伝統とは無縁の新興住宅街であっても、夏祭りは盛り上がるんですな。 ま、それだけの話ですけれども、代わり映えのしない原稿書きの生活から一瞬抜け出して、お祭りの華やぎを見たことは、ちょっとだけ季節感を味わうこととなり、その分、気晴らしにもなったのでありました、とさ。
August 5, 2023
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順調かと思えた仕事の方が、意外にも手間取ることとなり。やはり、何事もそう自分の都合のいいようには進まないのね・・・。 で、そんなストレスフルなところに、ちょうどいい気分晴らしになっているのが、『VIVANT』というドラマ。日曜劇場の番組ですが、録画しておいて、息抜きタイムに見ております。 で、荒唐無稽な筋書きではあるのですが、やっぱり、見せるんだよね! 『半沢直樹』のスタッフが総動員されているようですが、さすがにあのチームだけあって、実に話の進め方がうまい。ハラハラするような作りになっているもので、どうせ助かるのだろうと思いつつ、主人公たちがピンチに陥る度に固唾を飲んでおります。 ストーリーの作り方としては、『ミッション・インポッシブル』の最新作より上手いんじゃね? やっぱり、社内の裏切り者は誰だ?という方が、「敵はAIでした」というのよりよっぽど見ごたえがある。 というわけで、次回は社内の誰が乃木(堺雅人)を陥れようとしたのかが判明するらしい。うーん、楽しみ。 それに、ドラマにおける乃木の幼少時の映像を見る限り、彼の出自も何だか謎めいていて、いずれそれも分かるのでしょうけど、まあ、楽しみが一杯。 今の私には、『VIVANT』は恰好の息抜きですな。
August 4, 2023
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教養英語の期末テストで、英作文の課題を出しましてね。サマージャンボに当たって7億円ゲットしたら、それ、何に使うか、英語で言ってみ、っていう。 で、受講生それぞれ、なんだかんだと7億円の使い道を英語で書いてきて、それは結構面白かったんだけど、一つ、気づくことがありまして。 それはですね、7億あったら、クルマを買うという学生が結構沢山いたこと。 ン? 最近の若者は、すっかり草食化しちゃって、クルマなんかに興味がないんじゃなかったの?? って思ったんだけど、実際にはクルマが欲しいという学生が相当数いたんだよね。 しかもね、単に移動手段が欲しいという意味ではなくて、買う車種まで決めている子が多かったんですわ。それも高級車。アウディのR8とか、ランボルギーニだとか、ポルシェだとか、日産のGT-Rとかね。まあ、トヨタの86、なんて現実的な子もいたけど、それにしてもスポーツタイプのクルマばかりで、ワンボックスカーが欲しいなんていう子は一人もいなかった。 ふうん。そうなんだ。 でも、「そのクルマでデートしたい」とか書いている学生はいなかったか・・・。純粋なクルマ・オタクであって、女の子にもてたいから、といったような、昭和の男子学生とは違うのかもね。 まあ、でも、クルマ好きの若者が一定数いるということが分かっただけでも、ほっとするところはありましたね。 その他、海外旅行に行きたいとか、ディズニー・ランドに死ぬほど行きたいとか、そういうのが多いのは予想していましたが、親や祖父母に家を買ってやりたい、なんていう学生も相当数いて、案外、親孝行が多いことに驚かされました。まあ、7億もあれば、多少は親孝行気分も出て来るか。 とまあ、色々でしたけど、採点していて、ちょっと面白かった。なかなかいい課題だったのではないでしょうか。
August 3, 2023
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いやあ、沖縄の台風、えらいことになっていますね。 実は今、私の友人夫婦が沖縄の、さらにその先の島の方に観光で行っているのですが、この台風で帰ってこられなくなってしまい、大変なことになっております。 現在のところ、帰って来られるのは最速で9日だそうで、まだ1週間は滞在しなければならないらしい。1週間くらいの予定で観光に行ったのに、その倍くらいの日数、向こうに釘付けなんだから辛いところでしょう。台風で海も荒れていて、遊んでいるわけにもいかないですし。 しかも、仕事があるわけですからね! 有給とって沖縄に行くのは当然の権利ですが、その後、全然戻ってこないとなったら、いくら自然災害と言っても、その分負担をかけてしまった同僚に会わせる顔がないのでは・・・。ちんすこうとか、死ぬほどお土産を買ってこないと! いやあ、気の毒! 友人夫婦には、とんだ針の筵ヴァカンスになってしまいました。 でも、あれだよね。こんな状況になってくると、この先、台風到来の可能性のある月に、遠くに旅行に行くなんて、こわくてできないよね! これも地球温暖化のなせる業なのだとしたら、罪なことでございます。
August 2, 2023
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ひゃー、今日、期末試験が終わって、これで前期終了~! ようやく夏休みだわ。疲れた。 現役の大学生だった頃と比べたら、夏休みの入りが1カ月遅れとるわ。でも、半期16回の授業をしなくてはならない昨今、どうしてもこの時期までやらんと、終わらないのよね。 まあ、でもとにかくおわた。めでたい! ・・・といっても、だからと言って毎日の生活が変わるわけでもないか。 小学生とかだと、「よーし、明日は○○君とクワガタ捕りに行って、明後日は××君とプールに行って・・・」みたいな計画が目白押しで、それはそれは夏休みの入りというのは楽しかったもんですが、大人になるとそうでもないもんな・・・。結局、自分の仕事するだけだから。 でも、ま、大学に行かなくてもいいのは、気楽だな。 8月は文芸時評の月なので、文芸誌が発売される7日以降、ちょっとその仕事にかかり切ることにはなるけれど、それ以外は自分の仕事に専念できる。ここでちょっと気合を入れて、本の執筆に本腰を入れて、今年後半から来年にかけての怒濤の出版ラッシュに備えることにいたしますかね。
August 1, 2023
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今日、大学で、ちょいと事務仕事があって、それでその結果を本部棟に持っていこうとしたら、本部棟が閉まっていたという。 え? 今日、月曜日だよね? なんで本部棟が閉まっているの?? と思ったら、今日は本部事務がすべてお休みなんですって。 なんでか、分かる? お金がないから。 そう、お金がないので、事務職員を全員、休みにさせて、少しでも本部棟の光熱費などを節約しようという腹らしい。そうでもしないと、もう、やっていけないところまで来たんですな。 いやあ、今はまだ事務職員だけだからいいけど、そのうち教員にもそういう話が来るかもね。強制的に出勤日を減らして、その分、給料も減らして、ついでに研究棟を閉鎖して光熱費を節約すると。 いや、それだけじゃなく、今はグラウンドとして使っている土地を宅地造成して切り売りするとか、そういう話も出て来るかもね。 私はこの場から日本国民に訴えたい、我が国の国立大学は、ついに竹の子生活のレベルにまで落ちぶれたのだと! この国は、高等教育の行く末になんの関心も持っていないのだと!! 私も定年まで残すところあと数年。せめてその数年だけでも、国立大学が存続していてもらいたいわ~。その後は、もう、野となれ山となれ、だけどね!
July 31, 2023
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今、自分の仕事としては、次の次に出る本の仕上げに入っているのですが、これが今のところ絶好調! 本を書くというのは、もちろん、一番最初の書き出しがシンドイのですが、しかし、何か書くべきことがあるから、書きたいことがあるから書き始めるわけで、そういう意味ではさほど大変ではない。 一番シンドイのは、最初の草稿が6割くらい書けた頃かな・・・。 この頃の草稿というのは、自分が書きたいことと、書いたもののレベルが違い過ぎて、絶望するわけよ。こんなのダメじゃんと。 で、この絶望を越えて書き続けるのがつらい。これが一番つらいかな。 で、それでも何とか書き続けて、一応、最後まで書いたとする。で、それを打ち出して読む。 で、ここが分かれ目で、欠点があったとしても、割とよく書けているな、と思えばよし、やっぱりダメだとなったら、ここでもう一度絶望。 で、それでも頑張って書き直して、書き直して、書き直して、もう一度完成させる。で、そこでまた読み直す。すると・・・。 まあ、割といいんじゃない? となることが多い。そうなったら、そこから先は楽。だって、細かいところを修正して、精度を高めていくだけだから。 で、その修正執筆を何度も何度も繰り返し、9割五分ほど完成したとする。で、また読み直す。 で、やっぱり割といいな、となったら、そこから後の作業は超楽しい。少し直すことで、各段に精度が上がっていくのが見えるから。 で、今、私はこの位置に立っているの。だから、作業が本当に楽しい。 とまあ、仕事の方はそうなんだけど、それとは対照的に、母の調子は下降の一途ですなあ。 今週末、母の介護をしている姉の応援で帰省してはいるけれど、私に出来ることなんて大してない。せいぜい、姉の家事を手伝ったり、ケーキなどを買ってきて、ティータイムを華やかにしたりとか、その程度。 そしてもう今日は名古屋に戻らなくてはならない。姉には申し訳ないです。 まあ、また10日くらいしたら、お盆で帰省して、少しでも母の気分を上げ、姉を助けようかな。
July 30, 2023
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仕事でアブラハム・マズローの大部の本、『人間性の心理学』ってのを読んでいるんですけど、まあ大部だし、色々書いてあるし、読み切るのに骨が折れる、折れる。 というわけで、仕事として読んでいるのだけれども、飽きるわけ。で、飽きると荒川洋治氏の『文庫の読書』という文庫本を、チラ読みする。そうすると、寿司の合間のガリみたいな感じになるという。 しかし、まあ、荒川洋治という人の話芸というのか文芸というのは、すごいもので、荒川さんが面白いというと、不思議と読みたくなるのよね。なんだろうね、この芸は。 その意味で、あれじゃない、頭のいい高校生とかに、夏休み前に読ませたらいいんじゃない? これ読んで、ひと夏あれこれ本を読んだ高校生は、ひと夏で一皮むけるような気がする。「新潮文庫の百冊」なんてパンフレットが毎年出るけど、「荒川洋治の百冊」ですな。実際、この本には文庫本が百冊、紹介されているしね。 で、読む側もそうなんだけど、書く側としても勉強になるんだわ。 実は私、今、自己啓発本を48冊、紹介する本を書いているんだけど、荒川さんの書き方とはまるで違う。まあ、それは違って仕方がないのだけど、本を紹介する本を書くという方向性は一緒なだけに、なるほど、こういう書き方もあるのか、というところで勉強になるわけ。 結局、私は説明しすぎるんですな。結果、「私の説明を聞けば全部わかるから、あなたは読まなくてもいいよ」みたいになっちゃうところがある。一方、荒川さんは、説明の方はそんなに説明しないで、「あとはあなたが実際に読んで見れば~。見ればわかるから~」みたいな感じになって、放任しちゃうの。 その、説明と放任のバランスがいいんだ。 あんまり早く放任しちゃうと、読者がひっかかってこないかもしれない。だから、ある程度、惹きつけておいて、いいところで、後はご自由に、とやる。そこが上手い。 私も、今やっているような仕事を今後も続けているつもりなら、この荒川方式を自家薬籠中のものにする必要があるのかもね。 とまあ、とにかく、荒川さんは大したもんですよ。脱帽!これこれ! ↓文庫の読書 (中公文庫 あ96-2) [ 荒川洋治 ]
July 29, 2023
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先々週、コロナで入院してしまった母ですが、退院して一週間、世話をしている姉を少しでも応援するために、実家に戻ってきました。 しかし、91歳の老人が一週間入院すると、これほど衰えるか、というほどの衰えぶりで。もう、私が急に現れたというのに、特に喜んでいる風でもなく、ただただぼんやりしている感じ。 で、元気がなくなった分、抵抗しないので、ある意味、以前より面倒を見るのが楽になったところはあるものの、やっぱりぼんやりした人が家の中にいるというのは、なかなかにシンドイもので、それを姉一人に任せておくのは忍びない。今日も、私に出来る範囲で姉の家事負担を軽減させるよう、皿を洗ったり風呂を洗ったり、そんなことをしておりました。 この先、母の衰えがどう進むのか、それに対して我々はどう対処すればいいのか。なかなか、考えることが多くて困ります。 明日は少しでも母の喜怒哀楽が戻るよう、できるだけ話しかけてみようかな。
July 28, 2023
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シンニード・オコナーが亡くなったとのこと。1966年生まれだそうですから、56歳かな? 随分早い死でした。 オコナーと言えば、プリンスの曲「Nothing Compared to You」のカバーで有名ですが、確かにあれは印象的でした。これこれ! ↓シンニード・オコナー「Nothing Compared to You」 でも、この当時からオコナーは気難しくて、大変だったみたいですよね。プリンス好みの顔なので、プリンスとしても彼女をファミリーに引き入れて、というような意図はあったのでしょうが、オコナーの方がまるでけんもほろろな塩対応で、さすがにプリンスも呆れたらしい。 しかし、人間って分からないな。あんなにきれいな顔をしていて、ヒット曲もあって、不足ないじゃんと、傍から見れば思えるんだけど、当の本人としては悩み多き人生だったわけでしょ。不幸を呼び込むような暮らしぶりだったようですし。 私も彼女のファンであったとは言えませんが、名曲「Nothing Compared to You」を、ある意味、プリンス本人よりも見事に歌い上げたという一点において、その死を嘆きたいと思います。合掌。
July 27, 2023
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この夏最大の話題作、『ミッション・インポッシブル デッド・レコニング』(正確に言うと、その「パート1」)を観てきました~。 まあ、ネタバレになるので細かいことは言いませんが、このご時世にちなんで、今回の「敵」は「AI」ね。で、そのAIをコントロールできるものが世界を支配できるっちゅーことで、その鍵となる鍵の所有をめぐって悪い人たちとIMFのメンバーとの壮絶な奪い合いが始まると。 まあ、ストーリー自体は月並みですけど、その争奪戦の映像はスゴイからね。迫力満点。お金を払って大スクリーンで見るだけの価値はある。 ただ、前々作から持ち越したヒロインの一人、イルサちゃんがね、イルサちゃんがね、イルサちゃんがーーーー(涙)。 私は『ミッション・インポッシブル』のみならず、『007』も加えた歴代ヒロインの中で、この人が一番好きだったのに・・・(涙)。 っつーことで、その点は不満ですが、とにかく「パート2」の上映が待たれる作品であることは確か。教授のおすすめ!です。これこれ! ↓『ミッション・インポッシブル』トレーラ―
July 26, 2023
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いやあ、井上尚弥選手、強かった! スーパー・バンタム級に階級を上げて、その初戦で二団体統一王者になっちゃった! 試合の出だし、これは3ラウンドくらいで井上選手のKO勝ちで終わっちゃうのではないかと思いましたが、その後、チャンピオンのフルトンも調子を上げてきて、それほど重くはないけれど、クリーン・ヒットを何度か井上選手に当ててきた。 一方、井上選手の方は、いつもと比べると若干、パンチが大振りで、クリーン・ヒットが当らないことに焦りが出てきたのかな、と。 が! やっぱり井上選手はすごかった。8ラウンド、一発ものすごいのを当てて、それで試合が決まってしまった。 試合全体を通じて、井上選手のパワーがフルトンを圧倒してましたね。素晴らしかった。いい試合でした。 さて、井上選手が自らの未来を拳で切り拓いた今日、7月25日、私は私で、自分の未来をペンで切り拓いてやりましたよ。 そう、またまた大手出版社から著書の出版が決まったんです~! 今日が編集会議で、それを通れば、と聞いていたのですが、午後5時半頃、会議を通ったとの連絡が担当編集者から入りまして。 おーし! 気合入ったねえ。これからまた忙しくなりますわ。 しかもね、今、私は、この次の次の次の本を書いてますからね。今回の本を入れたら、この先、続けざまに4冊出す。アメリカ文学界の和田秀樹と呼んでくださいな。 よし。勉強しよう。
July 25, 2023
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今日は非常勤講師で来られている元同僚のK先生と、お昼休み、ちょいと大学の外へ出てランチをしてきました。 で、その帰り、ちょっと買いたい本があったので、道すがらにあった本屋さんに立ち寄りまして。 ま、目指す本は置いて無かったのですが、せっかくだから新刊本でも見て行こうということになり。 で、新書の平台のところを見ていたのですが、そこに和田秀樹氏の著書が何冊も置いてあることに気づいたと。まあ、この人が本をジャンジャン書かれていることは風の便りで知っていましたが、それにしてもここまで多いとは思わなかった・・・。 だって、ウィキペディアによると、2022年だけ、この一年だけに限っても40冊くらい出してますからね・・・。一年でそれだけ出すのだから、これまでに出した著書の数なんて、数百冊じゃない? で、思うのだけど、どうしてこの人はそんなに大量に本を書けるのか? 一年って50週くらいしかないのだから、一年に40冊書くって、ほぼ毎週新刊本を書き上げた、ということになるよね? そんなことって可能なのか? かく言う私、アメリカ文学者の中では、割とコンスタントに著書を出している方だと思うけれども、一年に2冊本を出すって、相当骨よ。めちゃくちゃ頑張って3冊がいいところ。3冊出す時の血を吐くほどの苦労を考えたら、40冊出すことなんて、想像もできないよ。 わからんなあ。何でそんなことが可能なんだろう。
July 24, 2023
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早いもので、今年も7月下旬ですなあ・・・。 小学生の頃は、今頃は夏休みに入りたてで、一番楽しい時期だったなあ。友達とクワガタを捕りに行ったりしてね。目の前に永遠に続くかと思える自由な時間があって。毎日楽しくて仕方がなかった。 それが今はどうよ。夏休みはまだ2週間先。今なお仕事が多すぎて、あれもやらなくては、これも手をつけなければと、気ばかり焦って。 どうなんだろうね、これで定年になって、毎日が日曜日になったら、それはそれで、「現役の時は良かったなあ」って思うのかね? 歳をとっていいことって、あんまりないな・・・。 とはいえ、実は明日からの週は、一つだけ、いいことがある可能性があるんだよね。まあ、いいことになるか、それともガッカリになるか、まだ分からないのだけれども。 とりあえず、今はそれを楽しみに、週明けの日々を乗り切ることにしましょうかね。
July 23, 2023
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かつて熱狂的な相撲ファンだったものの、朝青龍一強時代あたりからすっかり嫌気がさし、取り組みをまったく見なくなって久しいワタクシ。 というわけで、今どんな力士がいるのか、誰が強いのか、なんてことにもまったく興味がないのですが、風の噂によると、今場所は横綱も大関も総崩れなんですって? 霧島とかいう力士は、新大関でもうカド番なんでしょ? なにやってんだかねえ・・・。 で、さらに情けないのが優勝争いで、とうとう、新入幕が優勝しそうだっていうじゃない。 聞いたことないよ、そんな、大銀杏も結えないようなのが幕内最高優勝だなんて・・・。万が一、そんなことになったら、アレだよね、保志を筆頭に、大相撲の全役員が土俵で土下座だよね。 まあ、もう興味もないからどうでもいいけど、大相撲放送をやっている局とは別な局が、同じ時間帯に、昭和の頃の大相撲の再放送を流した方がいいんじゃない? 紅白の裏で懐メロ番組やるみたいな感覚で。 例えば、こんなのどう? 今の大相撲見るより、よっぽど楽しいよ!これこれ! ↓懐かしい昭和の大相撲
July 22, 2023
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今期の芥川賞が、市川沙央氏の『ハンチバック』に決まったそうで。 実はこの小説、『文学界』の5月号に載っていて、ということはワタクシの文芸時評の担当月だったのだが、完全に無視しちまった・・・。 いや、読むことは読んだのよ。もちろん。で、それなりに面白くはあったのだけど、「これ、もう一回読みたいか?」って自分に問うてみたわけ。 そしたら「いや、別に」って自分が答えるのが聴こえた。衝撃的って言うけど、事柄が衝撃的なだけで、これを読んで魂をわしづかみにされたり、深く考えさせられたり、特定のシーンやせりふを何度も思い出させられたり、ってことはなかったからね。そういう意味では、全然衝撃的ではなかったのよ、ワタクシには。 だから敢えて時評の中では触れなかったんだけど、それが芥川賞っていう。 ふーん。そうなんだ。 え、じゃあ、ワタクシの目は節穴ってこと?? かなわんなあ・・・。
July 21, 2023
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ひゃー、ご無沙汰、ご無沙汰。親戚の葬儀があって、千葉県は鴨川というところに行っていたものですから、更新が滞ってしまいまして。 葬儀ですから悲しい会合ではあったのですが、それでも、久々に大勢の従兄妹と会いまして、その人たちから「ちゃん」づけで名前を呼ばれるというのも、還暦を越えた身としては、こそばゆいものでありまして、楽しかったといったら語弊がありますが、懐かしい思いをさせられました。 あと、鴨川は父の故郷ですから、父の遺影を持っていきましてね、クルマのフロントガラスのところにセッティングして、天国の父に懐かしい土地を見せてあげられたことも良かった。 あと、初めて東京湾アクアラインをクルマで走り、「海ほたる」で海を眺めながらお茶したのもちょっと面白かった。 とまあ、なかなか面白い旅ではあったのですが、しかし、片道400キロ、往復800キロの旅路となりますと、結構、疲れます。今日はもう早く寝て、また明日以降、ぼちぼちとブログを再開していこうかなと。 それではお休みなさい。グーグー。
July 20, 2023
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現在、一冊分の原稿が某出版社で出版可否の検討がなされていて、もう一冊分の原稿がほぼ書き上がっている状況なのですが、今日、もう一冊の本のアイディアが浮かんじゃった! ワタクシの本がイマイチ売れない理由はなにか? と問うた時、真っ先に浮かんで来るのが「書きすぎるから」ということ。そう、ワタクシは書きすぎちゃうのよね、つい。 と言っても、別にダラダラ書いているわけではなくて、ただ、目一杯情報を詰め込もうとするから、どんどん長くなっちゃうんだなあ。 で、今書いている本も、なるべくコンパクトに、と思っていたんだけど、現時点で20万字を越えている。20万字って・・・原稿用紙500枚じゃん! 書きすぎだよ~。13万字くらいに抑えようと思っていたのに。 で。 この反省の上に立って、この次に書く本は、ざっと1万字くらいの本にしようかなと。200ページくらいで。平均して、1ページ50字くらいにして。 1ページで50字っていうと、『にんげんだもの』みたいな感じになるよね? それで行こうと。 自己啓発版『にんげんだもの』だったら、売れるんちゃうのん? 頭いい! わし、頭いい! っつーことで、俄然、元気が出てきた。さっそく書き始めようかな。まあ、期待していてよ。
July 17, 2023
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いやはや、昨晩は母のことでひと騒動でしたよ。 この騒動には前段階というのがあって、金曜日に母の様子がおかしいので、コロナ検査キットを使って調べたら陽性反応があったと。加えて熱も少々。 で、しばらく様子を見ていたのだけれど、やっぱおかしいというので、救急車を呼んでみた。 ところが、救急隊員によるその場での検査で、この調子だと病院に担ぎ込んでも点滴打ってそれで終わり、すぐに帰されると思うが、とのこと。ということで、ならばもうしばらく様子を見ることにして、この時は救急車には帰ってもらったと。 しかし、その後も母の調子は悪く、こんこんと眠り続けるのだけど、食事は一切とらず、水も一切飲めない状態に。姉が何とか水だけでも飲ませようとするのだけど、飲み込むことができないで、全部口から外へ漏れてしまうと。 熱があって水が飲めないのでは、ちょっとまずいのでは? しかもずっと眠ったまま、呼びかけにも反応しないし。私もラインを使ってテレビ電話的に母に呼びかけましたが、全然、反応しない。 これ、このまま放置して、朝になったら冷たくなってました、みたいなことにならないの?! っつーことで、昨晩、もう一度救急車を呼び、今度は病院に担ぎ込むことと相成った次第。結局、1週間くらいの入院となる予定とのこと。 いやはや・・・。 病院からの連絡によると、今のところ、すぐに生命の危機があるわけではないそうですが、昨晩はちょっとわちゃわちゃしてしまった。もうだめなのかなあと。 ちょうど火曜日に親戚の葬儀に出るため千葉に行くので、その帰りにちょっとだけでも入院している母の見舞いに行こうかな。
July 16, 2023
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週末になると、大手新聞が書評を出す。土曜日は朝日・毎日、日曜日は読売・産経・・・といった具合。 で、その度に「今週は拙著の書評が出るかな?」と思うのですが、出ないんだなあ、これが。分かっちゃいるけど、やっぱり毎週ガッカリ。 サッカーの三浦知良さんが、50歳を過ぎた今でも、ワールド・カップの度に「今回もまた代表選に漏れたか・・・」とガッカリされるのと同じ、ですかね・・・。 まあ、大新聞はいいですよ。だけど、『週刊読書人』とか『図書新聞』のような書評専門誌が、拙著を取り上げないというのが解せないよね。スペースは十分にあるのだから、そして拙著は絶対的にいい本、画期的な本なんだから、取り上げないということ自体、あんたらの名折れだよ。恥を知りなさいって。 さて、そんな文句をブー垂れつつ、今日も次の本の執筆にかかり切り。 それにしても、本を書くという行為って、考えて見れば妙なもんだよね。だって、今自分が書いている本の原稿を、どこかの出版社が出版してくれるなんていう保証はどこにもないのだから。 その保証がないのに書く。壮大な無駄骨になるかもしれないのに書く。この、徒労と紙一重の行為に、これだけの熱意と時間をかけるということ。まあ、我ながら「よくやるよ」と。 そんなリスキーな作業を、それでも続けるというのだから、妙なもんですわ。 普通の人は、それに耐えられないんだろうな。大学の先生でも、自分の本を出すなんてことは考えたこともない、という人ばっかりだもんね。 しかし、俺は今日も書くぜ。出版できる当てがあろうがなかろうが。そして出した本が書評されようがされなかろうが。 行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、だからね。
July 15, 2023
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『敗戦後論』などの著作で知られ、2019年に亡くなった評論家・加藤典洋さんの死後出版の自伝、『オレの東大物語』を読みました。 加藤さんは1948年の生まれだから、私より15歳年長ということになりますか。15年の年の差なんて、大したことないような気もしますが、実際にはそうでもない――ということが、この本を読むとよく分かります。 この本、加藤さんが大病をされて、それこそ余命幾ばくもないという頃に、短期間に書きなぐるようにして書かれたそうですが、それはもちろん遺言のつもりで、ということではなく、ただレイトワークとして、残された時間の中で、書きたいことを、肩の力を抜いて、書いておこうという意図の下に書かれたものらしい。 ですから、書きぶりも(標題からも窺われるように)「オレ」という一人称で書き流されているんですね。そんなことから、読んでいると、なんとなくサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいるかのような錯覚に襲われるという。 実際に、この本は加藤さんにとっての『ライ麦』なんでしょうな。 山形の田舎の高校生だった頃から語り始め、それが一発合格で東大に入り、ご母堂様の秘めたる誇りになったこと、で、駒場の教養時代はそれなりに青春を謳歌していたものの、本郷に進学するようになった頃から、それこそホールデン的に周囲と合わせることが出来なくなり、そうこうしている内に学生運動が激しくなってきて、加藤さんもそれに巻き込まれてしまうと。 かといって、信念からその運動に身を捧げるという感じでもなく、常に運動の渦の端っこの方にいて、運動の中心部に対しても、また運動の外側の大人の世界に対しても馴染めず、といった調子になってしまうんですな。で、そんな調子だからこそ、学生運動自体が収束に向かった後も、何となく一人取り残されたように、その問題に自分なりのピリオドを打てないまま、今でいう欝状態になって、それで周囲から一人取り残されてしまうという。 まあ、しかし、その辺りの加藤さんの文章を読んでいると、学生運動とか東大闘争といったものが、当事者の学生それぞれに、いかに大きな刻印を押したかってことですよね…。その辺のことが、15年後に生まれた私たちの世代には分からないところなんですが。 それでも、若いっていうことはすごいことで、加藤さんが語る加藤さんの青春時代の話、そしてそこに出てくる友人・知人・先輩・後輩の話ってのは、面白いんだなあ。でまた、そこに出てくる人たちの中で、後に名を成す人も多くて、やっぱり腐っても東大だなあ、というところもあったりして。 そういう本を、死ぬ直前の加藤さんが書いたってことですよ。思うに、これを書いていた時(一日に二十枚とか三十枚の原稿を書いたそうですが)、加藤さんは病気の苦しさを、一時でも忘れたんじゃないかな。 ということで、この本、教授のおすすめ、と言っておきましょうかね。これこれ! ↓オレの東大物語 1966~1972 [ 加藤 典洋 ]
July 14, 2023
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昨日、父方の叔母が亡くなったとの知らせがありまして。 この叔母夫婦には、私の父と母が随分よくしてもらったもので、老齢の母が葬儀に参列できない以上、私が参列するしかない。千葉にお住まいなので、名古屋からですと大分遠いのですが、頑張って行くことにいたしましょう。 で! その準備として、今日は数珠を買いました。 まあ、8割がたクリスチャンの私としては、これまで仏教で使う数珠を所有したことがなかったのですが、このところ親類縁者の葬儀に参加するたびに、「持ってないのはオレだけだな」と気づき、なんとなく引け目を感じていたわけ。 そこでこの際、大人のマナーとして数珠の一つくらい、持っておくかなと。 で、今日、通勤途中にある「三千堂」という仏具屋さんに立ち寄ってみたわけ。 ちなみにこの三千堂さん、私は以前にも一度、買い物をしたことがありまして。その時は、お墓参りする時用の手桶と、お墓に花を飾る時の花受けを買ったのですが、その際、店の皆さんの感じがすごく良くて、あれこれ親身に相談に乗ってくれた。その時のいい感じを覚えていたので、どうせ数珠を買うならこのお店だなと。 で、数珠を見せてもらったのですが、数珠にも色々ありましてね。黒檀のものもあれば、茶色い感じのものもあり。房の色や模様も色々。 特に数珠の大きさも色々あって、男性用ですと、ある程度大きな数珠のものが堂々としていいらしいのですが、実際に見て、あまり大きな数珠のものは、なんか私には似合わないなと。 そんなこともあって、色々な種類の数珠を実際に出してもらって、店の方と相談しながら、ようやく自分でも気に入ったものを見つけることができました。黒檀の数珠に青房が付いたものなんですけど、なかなかカッコいい。 ということで、人生で初の数珠、マイ・ファースト・数珠をゲットできた次第。これで叔母の葬儀にも堂々と参加できる。やっぱり、三千堂は頼りになりますわ。
July 13, 2023
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拙著、どうも今一つ、売れ行きがパッとしませんなあ。書いた当人としては、センセーショナルに売れるだろうと思ったのに。 で、これが売れたら、すぐ次の本も出そうと思い、もう完成している原稿があるんだけど、なにせ先行するこの本が目論み通りに売れてくれないので、一向に引きが来ないという・・・。 いい本なのに、どうして売れないのかね、ワシの本。 で、あんまり悲しいから、もう、新しい本の原稿は、二束三文で売りに出しちゃおうかな、なんて思ったりして。ほれ、もってけドロボー、ってな感じで。 で、そんな悲しい思いを抱きつつ、エゴサしていたら、とんでもなく素敵なツイッターを発見。 個性的な書店が運営する読書クラブのツイッターだったのですが、私の旧著2冊をまず高く評価してくれて、こういう本を書く人が書いた自己啓発本解説書だから、凡百の解説書であるはずがない、実際、非常に面白い本になっていて、実に教育者の仕事であると。 ううむ、よくぞ言ってくれた! 最近、特に思うのだけれど、私の本を評価してくれる人って、書評家とか学者とか、そういう類の人たちではなく、個人経営の書店主とか、そういう、本当に本が好きな人だよなと。そういう人たちは、実際に私の本を読んでいいと思って、そしてそれを自分の店で売ってくれる。 それ以上に、ライター冥利に尽きることってないんじゃないの? そういう人たちに評価される本を書いたんだから、まあ、少しは自信を取り戻さなくちゃね。
July 12, 2023
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最近、「澪 PREMIUM」という日本酒を飲んだのですが、これが夏にはピッタリの美味しいお酒でした。松竹梅 白壁蔵 澪 PREMIUM RICH 甘い果実のような香り 750ml 1本 宝 宝酒造 スパークリング日本酒 新発売 06/27以降順次発送致します これ、ほんのりと「薄にごり」で、微発泡。日本酒と言いながら、日本酒特有の癖というか、こってり感がなく、フルーティーで何か別のお酒みたい。なので、お猪口というよりは、シャンパン用の細長いグラスで飲むのが似合います。アルコール度数も6%くらいなので、軽い軽い。 期間限定のようなので、試してみたい方は是非お早めに!
July 11, 2023
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『ヒューマニスティック心理学入門』のまとめの3回目です。 さて、昨日までのところでアブラハム・マズローに関する記述は大体まとめたので、今日は本書が扱うもう一人の大物、カール・ロジャーズのことについてまとめておきましょう。 カール・ロジャーズは1902年生まれの1987年没ですから、1908年生まれ・1970年没のアブラハム・マズローよりもちょっと年上で、より長く生きた人。ロジャーズもまたマズロー同様、ヒューマニスティック心理学の祖と言っていい人です。 実際、マズローとロジャーズは、一心同体と言っていいほど思想的傾向が似ている。 ロジャーズもまた、成長仮説を元に人間を前進的・目的的な存在として理解するという点でマズローと軌を一にしており、そのため行動主義心理学や古典的精神分析とは距離を置くんですね。また実存主義の「投企」という考え方には部分的に首肯するも、その基本的な反科学的・反生物学的傾向には批判的でした。 で、ロジャーズもまたマズロー同様、「人間の本性が自由に機能し、働き出すならば、それは建設的なものであり、信頼に足るもの」(27)だと考えていた点において、きわめて性善説主義者だったと。この辺り、本書から引用しておきましょう: ロジャーズは、「十分に機能する人間」とは、自分自身の内面の本性に触れている人だという。この人は、自分自身の有機体を信頼しており、それが自由に機能することを許すのである。この人は、すべての有機体的な可能性の中から、最も純粋に満足を与えるものを選択するのである。「人間の基本的な本性は、自由に機能するときには、建設的であり、信頼できるものである」(On Becoming a Person)とロジャーズは書いている。 ロジャーズはその実現傾向を、サイコセラピィへの人間中心のアプローチの中心的な仮説であるとしている。もし人びとが、促進的な態度についての「明確に規定しうる風土」に包まれているならば、自分自身の実現傾向を探り当て、その内面の可能性を現実化することができる、と考えた。だからサイコセラピィの任務は、自己理解を促進して、その人間が、自分の有機体の命ずるところに従って、自分自身の生命が、建設的・実現的な道に向かっていくことを許す、そのように期待することなのである。 多くの心理学者が、人間の本性は刺激に対する反応にすぎないと考えていた時代にあって、カール・ロジャーズは、人間の尊厳性と価値を公然と主張し、ひとりひとりの人間のユニークな可能性を信頼するという、ヒューマニスティック心理学を提唱したのである。(123) で、この「環境さえ整えてあげれば、人は正しい変化を選択するものだ」ということへの信頼があるために、ロジャーズの「非指示的セラピー(non-directive therapy)/クライアント中心セラピー」の根幹があるわけね。セラピストが患者に向かってあれこれ指示するのではなく、患者の環境を整えてやって、患者が自身の力で不都合な現状から抜け出し、新しい自分を再構築するのを見守ってやる、ということこそ、非指示的セラピー/クライアント中心セラピーであるわけだから。ちなみにロジャーズがクライアント中心セラピーの理論を確立したのは、1951年の著書『Client-Centered Therapy』以降。 1940年代まで、ロジャーズはオットー・ランクの思想の影響が強かったが、1950年代末頃には、実存主義の神学版、すなわちキルケゴールとマルチン・ブーバーの影響が顕著になってきた。特にキルケゴールの影響が強かったようだが、その辺り、本書から引用しておきます: こうした洞察のひとつは、『死に至る病』の中の一句であった。この本の中でキルケゴールは、人生の目的は「真にありのままの自己になることだ(to be that self which one truly is)」と述べているのである。ロジャーズはこの一句の意味を次のように解釈した――最もありふれた絶望は、自分が真にありたいと思う自己になろうとせずに、自分でないものになろうとするところから起こるものだ、と。こうした考え方は、まさに、自己およびセラピィについてのロジャーズの考え方の基礎なのであった。(113) この辺りも、マズローの考え方、すなわち、人間は自然な成長を妨げられると神経症になる、というのと非常に近いところがあります。 またブーバーの影響については、以下の引用の通り: 一九五三年から一九六〇年までの間にロジャーズは、人間としてのセラピストがサイコセラピィにおいて重要であることをいろいろなところで書いている。「無条件の肯定的配慮」に加えて、セラピストが今ここにいること、ありのままであること、コミュニケーションがあるという深い感覚、セラピストとクライエントとの一体感などが、きわめて重要であると考えていた。この意味で、セラピィは、純粋に人間と人間の関係なのである。そのことは、まさにブーバーが、「われ・なんじの関係」(I-thou relationship)と述べたことなのである。ブーバーは、「役割」を演じているのではなく、他者と真実を話しているという深い、相互的な経験、あるいはふたりの人間が奥深く、意味深いレベルで出会っていることが、治癒的な結果をもたらすのだと考えていた。ブーバーはこのプロ―セスを、「出会いによる治癒」(healing through meeting)と名付けた。それはまた、ロジャーズが、最も効果的なセラピィの瞬間に経験していたプロ―セスなのだ、とロジャーズは述べる。(115) と、まあ、こんな感じで、マズローとロジャーズの基本的な考え方というのは非常に似ているわけですな。 で、そうであるからこそ、二人の心理学者は、倫理を問題にするわけよ。行動主義も精神分析も、倫理など問題にしないのに。 マズローとロジャーズは、「人間には、その生に意味を与えるような価値の体系、理解の体系、観点の枠組みなどが必要なのだ、と考えていた(139)」んですね。 で、以前はそういうものは、キリスト教が提供していたわけですよ。だけど、キリスト教は、その価値の妥当性を「超自然的な概念、聖典、あるいは支配階級の中に求めたために、それは、先験的な、そして権威主義的な思想になってしまった(140)」と。でも、1960年代なんてのは、そういうものは瓦解してしまったんですね。一方、「科学は、倫理の探求を断ち切ってしまったので、そこからはなんの代案も提出されなかった(140)」。宗教も科学も、人間に必要な倫理の基本たる価値体系の提供をしなくなったので、それで「私たちの生きている現代という時代の究極の疾患は、非・道徳性、不安定感、空虚感、絶望、そして信ずべき、あるいは献身すべきものが何もない(140)」ということだと。 そこでマズローやロジャーズは、「人間の本質に関する知識に確実に基礎を置いた価値体系を見つけなければならない(140)」と考えた。で、これがヒューマニスティック心理学にとっての喫緊の課題だったわけ。だから、マズローは健全な人間を研究して、人間の内面にある(生物学的/科学的に観察できる)本性的傾向を見出し、そこに価値体系の基準を置こうとした(=科学としての倫理の確立)のだし、ロジャーズはロジャーズで、価値の欠如という現代的課題の解決法は、クライエント中心療法の過程の中に、小宇宙のように現れてくると考えたんですな。 この辺の考え方が、昨日も述べましたが、私には非常にエマソン的に見えると。 で、マズローは、1960年代に入ると、この考え方をさらに敷衍して、個々人が自己実現すれば、それはやがて社会全体の改善につながる(143)と考えるようになっていくと。おそらくこの辺りが、マズローがヒューマン・ポテンシャル運動に加担していく所以なんでしょうな。 一方、ロジャーズの考え方は、アーサー・ヤノフの『原初からの叫び』の考え方に非常に近くなっているところも、個人的には非常に面白いのですが、その辺り、本書から引用しておきましょう: 有機体の価値と、同化された人工的な価値との分裂が激しいときには、その人間は意味づけについて疑問を経験するようになる。そうした経験は、個人の危機から発生し、結局そこにまた帰着するという悪循環を繰り返すものなのである。人間がこのように自己自身から疎外されるということは――ロジャーズによれば――、現代におけるストレス、不安、価値の欠如、そして価値の探求という現象を説明するものなのである。サイコセラピィの目標は、このプロ―セスを逆転させることである。自分自身の有機体との接触を喪失した状態にその人を直面させることによって、サイコセラピィはその人を、自分の有機体的な価値づけの過程に連れもどすのである。(中略) 人間は、パーソナリティ変化の必要にして十分な条件を与えられさえすれば、自己理解や事故の再体制化をする能力をもっているのだという信念は、ロジャーズのクライエント中心療法の基盤であった。無条件に需要されているという適切な、成長を導くような環境を与えられれば、人間は、行動を引き起こした要因がわかり、その要因に対する新しい知覚の仕方、反応の仕方がわかるようになるのである。否定されていた態度や行動が、ひとたび意識され、受容されるならば、自己はそれらを同化し、自己の体制を作り変え、その結果、パーソナリティと行動の全体を変えることになるのである。換言するならば、人は内面の自己を探求し、それを受容するときには、有機体の智恵にふれ、それを解放することができるのである。真の自己になる自由を与えられるならば、真のアイデンティティが自然に実現され、それはその人の本質と実存を促進するという意味で、かならずや肯定的なものである、とロジャーズは論ずる。(150‐151) 実に面白い。 で、マズローもロジャーズも、倫理の問題に非常に強い関心を抱いていた、ということから推測されますが、二人は教育の問題にも強い関心を持っていたんですね。つまり、アメリカの教育界が、価値の問題を避け、ひたすら技術主義と行動主義に傾いてしまったことを批判したわけ。(170、176) 確かに、私自身が小学生だった頃、日本の先進的な教育界でも、機械を使った教育の可能性を追究することに非常に熱心だった、という記憶がある。ソノシートみたいなものを、個々の生徒が聴く形で授業を進める、とかね。行動主義的な、つまり、刺激と反応で人間に芸を仕込む、みたいなやり方が広まっていたわけですよ。 だけど、マズローもロジャーズも、それじゃダメなんだ、と考えていた。何しろ二人とも、環境さえ整えてやれば、人間は自然に自己実現するものだ、という考え方ですから、彼らの教育方法もまさにそれ。教師は生徒を教えるのではなく、生徒一人一人の関心に従って、それぞれの生徒が自主学習をするのをサポートする、というスタイルを基本に置くんですな(もちろん、教科によっては、従来型の教育方法の方が効率的だ、という風に柔軟に考えてはいた)。ただ、生徒が深く知りたいと思った時に、その需要に応えられる準備をしておかなくてはならないという意味では、教師にはすごく負担の重い教育方法であることも事実。 しかし、ヒューマニスティック心理学系の教育哲学というのは、その後、大いに普及したところがあって、今では、教育者のほとんどが、マズローやロジャーズの教育哲学を全面的に、あるいは部分的に取り入れているという点では、両者の貢献はすごく大きなものだったと。1950年代から60年代にかけ、教育者の多くはB・F・スキナーの『ウォールデン・ツー』を読んでいて、行動主義的な教育方法の理想とか知識がいかなるものかは知っていたけれど、それはおぞましい教育の未来/教育のディストピアとして知っていたのであって、そういう時代が来ればいいとは思っていなかった。そこへもってきて、マズローやロジャーズが、もっと人間的な教育の理想を語ったものだから、それに飛びついたのも当たり前。かくして、少なくとも二十世紀半ばのアメリカの教育界において、行動主義の独占体制を解体させることにつながったと。(187) ただ、先程述べた、ヒューマニスティック心理学と、1960年代のヒューマンポテンシャル運動との関連について補足すると、当初、ヒューマンポテンシャル運動に関心を抱いていたマズローが、結局、この運動から距離を置いたのは、この運動の参加者たちが、薬物の接種などによる短絡的な目的達成を望むようになったから。(40) またマズローとロジャーズのもう一つの共通点は、晩年になって、トランスパーソナルな領域に対する関心を強めたところで、ロジャーズも1970年代末ごろ、心霊現象や超常現象に興味をもち、カルロス・カスタネダの著作などを読むようになったとのこと。特に妻のヘレンが亡くなってから、降霊会をひらき、霊媒者を通じてヘレンの霊魂に触れようとしたりしたとのこと。ロジャーズは、人間の霊魂は不滅であり、また別な身体を借りて宿ることもある、といったことを信じるようになっていったらしい。(100)それも面白いところです。 とまあ、こんな感じかな。 この本、繰り返しも多いし、それほど優れた本とも思えませんが、マズローとロジャーズについての入門書として考えれば、結構面白かったし、私が欲していた情報を数多く得られたので、私としては大満足、読んで良かった本でした。興味のある方は是非!これこれ! ↓【中古】 ヒューマニスティック心理学入門 マズローとロジャーズ
July 10, 2023
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昨日からの続きで、『ヒューマニスティック心理学入門』の内容紹介を続けていきます。 さて、昨日までのところでは、アブラハム・マズローが、行動主義心理学の徒としてキャリアをスタートさせたものの、途中でこの系統の心理学と決別したという話をしました。何で決別したかというと、マズローは行動主義心理学の還元主義に我慢がならなかったから。以下デカーヴァローの解説を引用しますと・・・ マズローは、オルポートときわめて類似したかたちで次のように論ずる。――行動主義者たちが単一の行動の集積をいくら積み上げたとしても、その人間像はなお不完全なものである。人間有機体は、還元された、個々の部分の総和以上のものなのだ、と。部分と全体は、相互変性(mutual transformation)の連続的な過程の中で、相互に影響を与え合うのだ、と。彼は、人間は統一体であり、自己であり、ゲシュタルト(形態)であり、全体であり、過程(プロ―セス)なのだ、と主張する。行動と総称されるひとつひとつの行為は、たくさんの構成要素から成り立っており、自己完結的な有機体から切り離して研究することはできないのである。(61) とまあ、マズローは行動主義に対して不満を抱いていたわけですが、それと同時に彼は(フロイトに対してはリスペクトを抱いていたものの)フロイト流の精神分析が「病んだ人」をモデルに心理学を構築していることにも反発し、これからの心理学は「健康な人」をモデルにしなければならない、という風に考えて、ヒューマニスティック心理学を創設したと。以下、マズローの精神分析批判について、デカーヴァローからの引用をしておきます: 一九四〇年代にマズローは、自分のフロイトに対する態度は、保留つきの尊敬であることを認めている。彼は、フロイトやその他の古典精神分析が、パーソナリティの半分だけを研究しており、そのために人間の本質を描写することにおいて「最悪の犯罪者」である、と告発した。マズローによれば、フロイトの、すべての行動が無意識の動機によって決定されているという考えは間違っているのである。そうではなくマズローは、神経症的動機づけと健康な動機づけとを区別し、健康な動機づけは無意識の力に支配されることははるかに少ない、と主張したのである。このように区別することは、後年におけるマズローの、健康な人の自己実現の研究を暗示するものである。 一九五〇年代と一九六〇年代にマズローは、フロイトの、無意識と退行は不健康なプロ―セスであるから統制し、吟味しなければならない、という考えに批判を加えた。マズローによれば、無意識や退行もまた、創造性、芸術、愛、ユーモア、愉快さ、などの源泉となり得るものであり、パーソナリティの健康な局面であるから、受け入れて、育てるべきものなのである。一九六〇年代の末ごろにマズローは、フロイトは人間が動物と共有している基本的欲求だけを研究しており、人間にユニークな「より高度の人間の特質」を無視している、と非難した。(64‐5) さて、そんな具合で古典的精神分析とも決別したマズローは、人間というものを「生成の過程の中にある存在(being-in-the-process-of-becoming)(76)」と位置づけ、そういうものとして研究していく覚悟を決めるのですが、ここでマズローが用いる自己実現とか成長といった用語は、実はマズローの発案ではなく、クルト・ゴールドシュタインの「自己実現」という用語、及び「成長仮説」という概念を借用・発展させたものだ、という話は、昨日のまとめの中にも若干書き添えました。ことほど左様に、マズローはフロイド流精神分析には反発したものの、ネオ・フロイディアンたちの影響は受けているんですね。そこは要チェック。 さて、そんなわけでマズローは健康な人間、成長する人間、すなわち彼のいう自己実現者(self-actualizers)を研究対象に据えるようになっていくのですが、そんな中、1943年に書かれた「人間の動機に関するひとつの理論」という論文(これは後に『動機づけとパーソナリティ』(1954)に収録される)の中で、かの有名な「欲求の5段階説」が出てくる。 これは要するに、人間の動機の中にはより高い欲求とより低い欲求があって、低い方から生理的欲求、安全感、愛、尊重、自己実現という順番があると。で、人間は、低い次元の欲求の方から満たしていって、それが満たされると、その欲求に対する要求の度合いが下がり、その一つ上位に欲求が高まる、という形で、最終的な「自己実現」を図ろうとするものだ、という説を展開するわけ。 で、当初は「自己実現」が最高位の欲求と考えていたようなのですが、1960年代も末頃になると、その上にもう一つ、宇宙や宗教や人間存在の神秘的な領域にまで焦点を当てる超個人的な欲求を抱くに至る、という風に考えを進めるんですな。で、この思想的展開は没後出版(1971)の『創造的人間』の中に認められるのですが、このマズローの思想的展開は、1960年代末に登場した「トランスパーソナル心理学」への接続・橋渡しとして理解できると。 とまれ、このようなマズローの説を見ていて感じるのは、マズローの人間観が、基本的にものすごくポジティヴな性善説だ、ということですかね。 ちょうど、樫の木のドングリの中に悪がないように、人間という種子の中にも基本的には悪はない。で、それを適切な環境の中に置くと、発芽して成長していく。個々の種子の発育の仕方はユニークで、どれ一つとして同じものはないけれども、それぞれの環境の中で良い方へ良い方へと育っていく、そういうイメージで人間を捉えている感じがする。ただ、その自然な欲求が満たされないことがあると、そこで初めて人間の健康な成長がゆがめられ、そこに悪の生まれる契機もあるのだけれど、そういう成長阻害の要因がないのであれば、どの人間も健やかに育つはずだ、という性善説が、マズローにはある。そのことも含め、マズローにとっての「自己」についてのデカーヴァローの解説を引用しておきます: マズローにとって自己というものは、複合的な、内面的な、意味づけをする主体なのであり、その中で刺激を形作り、そして、有機体をとおして刺激にかかわっていく反応をうみだしていくところなのである。人間の動機というものは、目的的なものであり、選択に向かうものであり、受け身の反応をするというよりももっと漸進的なものであり、「予測された目標への反応」に制約されているというよりも、むしろ自己動機をもつものなのである。人間はだれでも、特定の主観的な価値観を持っているのであり、それがその人の生き方に指標と方向を与えるのである。このような内面の態度や動機を理解することが、人間の行動や人間性を理解するための絶対的な前提条件なのである。(61‐2) マズローは倫理にも非常に大きな関心を寄せていた。人間の価値は科学的に研究することができると述べている。価値観は人間性の構造の内部に深く根を下ろしているものであり、不正な価値を持つことは、ある種の精神疾患なのだと考えていた。誤った価値観というのは、内面の生物的核心を抑圧すること、成長を圧殺すること、「自分たちにとって善でないもの」をしようとすること、などである。それに反して精神的健康とは、「自己実現に向かう善き成長」ということと同じ意味であり、あるいは、生物的核心の内部に潜在しているさまざまな可能性を、十分な程度にまで開発し、現実化することなのである。自己実現へと導くような価値は、正当な価値なのだ、とマズローは考えた。人間の本製は基本的に信頼できるものであり、自律的なものであり、自己を擁護するものであるから、現実化はいつでも可能なのだ、とマズローは論じている。共生的な環境と自己実現の自由を十分に与えられるならば、人間の本性は、正当な方向へと展開し、成長するものなのである。(80) もう一つついでに、これはデカーヴァローではなく、マズロー自身の文章も引用しておきましょう: 自己実現とは、すでに有機体の中にあるもの、もっと正確にいえば有機体それ自体が内発的に成長することである。ちょうど樹木が、環境から、食物、日光、水を求めるように、人間はその社会的環境から、安全、愛情、ステータスを求めるのである。しかし、樹木においても、また人間においても、まさにここあら現実の発展、つまり個性の発展が始まるのである。あらゆる樹木が日光を必要とし、あらゆる人間が愛情を必要とし、しかもひとたびこうした基本的な必要が満たされると、すべての樹木、すべての人間が、こうした普遍的な必要を自分自身の目的に合わせながら、ユニークに自分自身のスタイルを展開し始めるのである。(『人間性の心理学』183頁) いやあ、本当に気持ちがいいほどの性善説。 こういうのを読むと、マズローが自己啓発思想と親和性があるというのもよく分かります。良いものは、人間の内側にある、というね。だから、それを自由に発展させればいいんだ、という。 これって、要するにエマソンなんだよね。エマソンの思想と同じ。バラが何の屈託もなく自由に自己実現させるように、人間も屈託なく自己実現すればいいんだっていう。だから、エマソンが自己啓発思想に欠かせないピースであるがごとく、マズローもまた、自己啓発思想の中の重要なピースなんだなと。 ちなみに、マズローは、このような徹底的な性善説者ですから、人間性の発露には期待しか持ってないんですな。だから、放っておけと、人間性の良きものであることを信じて、それが自由に発露するのを、受動的に見守っていればいいんだ、という。 で、この物事が起こるのを妨害しないで、起るままにさせて置け、というマズローの考え方は、マズローがタオイズムから学んだ姿勢です。マズローは、「ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ」でマックス・ウェルトハイマーのセミナーに参加していた頃、彼から老子・荘子の道教について聞き及んでいるのですが、以後、マズローは、自然や自己を理解する際に必要な受容性や諦念を学ぶのにタオイズムは恰好の教材であり、西洋の心理学者はタオイズムとかタオ流の無為といったことを学ぶべきだ、と繰り返し主張している。 とまあ、東洋思想を巧みに取り入れている辺りも、マズローが1960年代のアメリカの若者たちに人気があった一つの要因かもしれません。 あとね、1960年代といえば、フランス由来の「実存主義」の華やかりし頃でもあるわけですが、マズローは実存主義者たちの言うところの「投企(project)」という概念にはある程度理解を示しております。それはそうなので、マズローの考える自己実現者は、常に成長過程にあるわけで、己の本性に従って自分の発展していく方向を定め、そこに向かって飛び込んでいくわけだから。しかし、サルトルが言うような意味で、投企する以前、人間存在の意味は無である、とか、そういう話には乗りません。樫のドングリに意味がたっぷりあるように、人間には常に発展の可能性があるのであって、それに意味がない、なんて発想は、マズローにはそれこそ意味がないものに映ったでありましょう。 さて、ここまでマズローについてのデカーヴァローの解説を解説してきましたが、大分長くなってしまったので、この本のもう一つの主題であるカール・ロジャーズについては、また後日、ということにいたしましょう。
July 9, 2023
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ロイ・J・デカーヴァロー著『ヒューマニスティック心理学入門』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきます。 本書は、その副題に「マズローとロジャーズ」とあるように、ヒューマニスティック心理学の祖であるアブラハム・マズローと、「クライアント中心セラピー」を開発したことで知られるカール・ロジャーズの業績を解説した入門書です。なんで二人を並べたかというと、両者には強い共通性があるから。二人の考え方は基本的に同じであり、それを押していくと、片やヒューマニスティック心理学になるし、片やクライアント中心セラピーになる、という。で、この二人の業績によって、二十世紀後半、アメリカの心理学界は大きな転換を迎えることになる。と言って、以後、マズロー的なヒューマニスティック心理学が心理学の主流になったということでもなく、どちらかというと、ヒューマニスティック心理学は、鬼子扱いというか、非主流ではあり続けるのですけどね。 ではまず、マズローの方から行きますか。 マズローは1908年、ニューヨーク生まれのユダヤ系、両親はロシアのキエフ(今となってはウクライナのキーウですが)からの移民です。で、彼は最初ニューヨーク市立大学シティ・カレッジに入り、そこからウィスコンシン大学マジソン校に移って学士号・修士号・心理学の博士号をとっている。で、その後、コロンビア大学で社会心理学の助手をつとめ、ついでブルックリン・カレッジに移って教職に就き、1951年からユダヤ系大学として知られるブランデーズ大学の心理学科長となっている。そして1969年にブランデーズを去り、カリフォルニア州メンロパークにあるローリン財団の研究員になって、ここでキャリアを終えている。 で、このような学び舎/職場の変遷の中で、マズローの心理学に対する取り組み方も移り変わっていきます。 まずマズローがウィスコンシン大学マジソン校で学んでいた頃、この大学はハリー・ハーロウ(Harry Harlow)という学者の下、行動主義心理学のメッカの一つに数えられていたんですな。行動主義心理学ってのは、伝統的にアメリカ心理学の主流でありまして、人間を「刺激に対して反応する存在」として捉えるんですな。つまり人間を動物と同等な研究素材として扱い、どういう刺激を与えればどういう反応をするかを客観的に観察することで、人間がどういう存在であるかを理解しようとする、きわめて科学的というのか、機械論的な学問領域ということになる。 行動主義心理学の魅力は、その科学的な人間観にあります。で、それはマズローにとってもそうだった。マズローは、従来の哲学が思弁的な議論に終始するのに飽きて、もっと客観的に人間の本質を捉えたいと考えた。そしてそれには行動主義心理学が最も適当であると考えたわけ。 ちなみに、行動主義心理学の考え方にはルーツがあって、遡れば19世紀フランスの社会学者、オーギュスト・コントに行き着く。コントは、神学的・形而上的な根拠ではなく、経験的事実に基づいた哲学を志向して実証主義を打ち出したわけであり、社会科学を科学たらしめようとしたわけですな。だから、曖昧な主観に基づくのではなく、客観的な事実に基づいて人間の本質を捉えようとした行動主義心理学は、コント的な実証主義の延長線上にある。となると、学問的に潔癖な、若き日のマズローがこれに惹かれるのも、無理はないわけ。 さらにちなみにですけど、行動主義心理学の流れは、それこそ「パブロフの犬」で知られるイワン・パブロフあたりから始まり、その後アメリカで発展、例えばウィリアム・ジェームズの弟子で動物の試行錯誤学習の研究をしたエドワード・ソーンダイクとか、子供の不安を条件付け実験によって解明したJ・B・ワトソン、そしてオペラント条件付けを研究したB・F・スキナーといった優れた研究者によって引き継がれていきます。スキナーなんて、条件付けの手法で、動物にどんな芸でも仕込んでみせたそうですけど(ティモシー・ガルウェイ『インナーワーク』参照)、人間の行動なんて刺激とそれに対する反応で全部説明できる、という感じの学説をひっさげて、アメリカ心理学界をリードしていたわけ。 で、マズローも当初は行動主義心理学の徒でしたから、条件付けの技術を磨くことで、あらゆる心理的・社会的問題は解決されると信じ、そちら方面の勉学に没頭するんですな。実際マズローの修士論文はハリー・ハーロウの指導の下に書かれるのですが、なにせハリー・ハーロウは霊長類実験室の教員ですから、マズローも最初は霊長類の研究からスタートするわけ。テーマは霊長類の社会的・性的行動における支配の役割の研究。結果、霊長類における支配は、闘争によるよりもむしろ視覚的接触によってなされるということを発見している。1940年代の終わりごろまでには、マズローは優秀な実験心理学者として認められていたとのこと。 ところがその後、マズローはマジソン校を去ってニューヨークに戻るのですが、そこで彼は当時ヒトラー政権を恐れてヨーロッパから逃げてきた一連のユダヤ系研究者たち、すなわちアルフレッド・アドラーとかエーリッヒ・フロムとか、カーレン・ホーナイとかオットー・ランクとか、いわゆる「ネオ・フロイディアン」たちに親炙する機会を得るんですな。で、これがマズローの研究の方向性を大きく変える転機となる。 例えばアルフレッド・アドラーに遭ったこともその一つ。アドラーはマズローの霊長類研究の成果を読んでいて、その要約を彼の主催する『個人心理学雑誌』に寄稿することを勧めているのですが、アドラーとの接触などもあって、1930年代後半頃からマズローの学問的興味の方向が、サルから人間へ、特に女子大生の間にある支配関係の研究に移っていくことになる。 で、そんな風に研究対象をサルから人間に変えた頃から、マズローは、アメリカ心理学の主流であった行動主義心理学から脱皮し始めるんですな。確かに「どういう刺激を与えると、対象はどういう反応を示すか」という観察に基づく行動主義心理学には客観性があり、それが心理学の科学としてのステータスを担保してくれるので、気分のいいところはあるのですが、その反面「人間だって動物の一種だから、動物を研究するように人間を研究すればいいのだ」と言い切って、人間の研究を行動主義の機械論的アプローチでやり切るには無理がある。それに気づいたマズローは、この辺りから行動主義心理学とは決別するようになります。人間の本性を研究し理解するためには、主観や先入観を極力排すべきことはもとよりのことですが、それ以上に「直接人間に出会わなければならない」と考えるんですね。ネズミやハトの観察ではあるまいし、客観一本槍ではダメだと。 それからもう一つ、サルから人間に研究対象を変えてみて、彼はあることに気づきます。それは、当時の心理学(=フロイト流の精神分析)の研究が、ほとんど例外なく、精神病を患って心理学者の元を訪れた人たちを研究対象にしていたということ。対象が病気なのですから、これを研究して出てくる結果も病的になるのは必定。このことについてマズローは「成長を阻害された、未成熟の、不健康な事例の研究からは、阻害の心理学、阻害の哲学しか生まれてこない」(207)と書いております。 マズローはフロイトに対して敬意は抱いていました。しかしその経緯は、フロイトが掘り起こした事実にのみ向けられていて、その理論化には疑問を抱いていた。マズローは、フロイトが、人間の行動が無意識の動機によって決定されているという考え方には批判的だったんですね。マズローによれば、人間には神経症的動機付けだけではなく、健康な動機付けもあるのであって、健康な動機付けは無意識に支配されることが少ないと考えていた(65)。だから、フロイトみたいに神経症的な人ばかりを研究対象にしていては、間違った結論に導かれるのであって、これからの心理学は、病的な人間ではなく、健康な人間の研究をしなくてはならないのではないか――マズローはそういう風に考えるようになるんですな。 とまあ、そんなわけで、マズローは、心理学の第一勢力である「行動主義心理学」とも、第二勢力である「フロイト流精神分析」とも決別し、健康な人間の研究、健康な人間を対象として、人間の本質とは何かを解明する研究に向かうんですね。で、そんな自分たちの「ヒューマニスティック心理学」を、マズローとその一派は、1960年代半ばには「第三勢力(third force)」と名乗るようになると。ちなみに、ヒューマニスティック心理学会の創立は1963年夏(35)、関連雑誌たる『ヒューマニスティック心理学雑誌』の創刊は、それに先立つ1961年の春でした(37)、マズローがアメリカの心理学会の中にヒューマニスティック心理学がある程度確固とした存在として打ち立てられたと確信したのは1968年頃とのこと(38)。 では、そのヒューマニスティック心理学における「人間」とは何か? それはですね、「生成の過程の中にある存在」(19)なんですね。人間とは、前進的なものであり、自主的なものであり、選択するものであり、適応したがるものであり、変化しやすいものであり、絶えず先生を続けている(continuously becoming)な存在であると(19)。すべての人間はそれぞれユニークな有機体であり、自らを導く動機、生きる過程の投企(project)をみずから方向づけ、選択肢、変更する、そういう能力をもった存在であると(19)。で、そうしたモデル的人間のことを、マズローは「自己実現的人間」(self actualizing persons)と呼んだんですね(54)。 ちなみに、この「自己実現」という用語を最初に用いたのはマズローではなく、クルト・ゴールドシュタインという人で、この人は脳損傷を受けた復員軍人の研究で有名な人。その研究によると、損傷を受けた有機体は、自ら生き残ろうとし、その過程で自らを新しい統合体に作り変え、損傷すら吸収してしまう(72)と。つまり、有機体(=人間)というのは、自己を実現しようと努力するときに、積極的であり、生産的であり、創造的なわけ。で、この現象を指して「自己実現」といったクルト・ゴールドシュタインの用語の影響を受けて、マズローは、自らより良い状況を目指して自己実現する有機体であることこそ、人間の本質だと考え、そういう自己実現的な人間こそ、心理学が研究するにふさわしい対象であると考えたわけ。 ・・・とここまで書いたところで時間切れ。この続きは、また明日。
July 8, 2023
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仕事の都合上、ちょっと骨の折れる本を読んでおりまして。自己啓発本にも、手ごわいのがあるのよ。 となると、仕事の進み方もゆっくりになるので、非常に歯がゆいところがある。ということで、今日は仕事の合間に、久しぶりにコメダ珈琲に行って、コーヒーを飲み、シロノワールを食べて参りました。 否、シロノワールではなく、「ミルクノワール」を食べたのでした。今、季節限定でそういうのを提供しているのよ。ま、結局、普通のシロノワールと異なり、蜜ではなく、練乳がかけてあって、よりミルク度が増しているというのが売りらしいのですが。 美味しかったです。でも、やっぱり、結局のところ、普通のシロノワールの方が旨いかな・・・。 ま、とにかく、気分転換になりました。 エネルギー充電したところで、週末、勉強頑張ろう。
July 7, 2023
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デヴィッド・ボウイの「ジギー・スターダスト」を久しぶりに聴いて、やっぱりボウイはいいなと思い、手持ちのCDを通勤のクルマの中で聴いているのですが、あの時代の曲の特徴というのか、前奏が長いなと。 最近の若い者どもは、前奏が長い曲を嫌うそうで、そのためか、最近はいきなりサビに入る曲が流行しているとか。そういうのと比べるから、というところもあるでしょうが、久々に聴いたボウイは、前奏がやたらに長い。 「ジギー・スターダスト」だって、前奏は30秒もある。でも、「Loving the Alien」になると、前奏だけで1分あるからね。 でも、そこがいいのよ。1分の前奏を聴きながら、来るぞ来るぞと構えるのが。 しかもね、この曲の場合、歌が終わってから曲全体が終わるまでもながくて、約2分ある。7分の曲のうち、最初の1分が前奏で、歌が4分、そこから2分間は後奏が延々と続くというね。 すごくいい。 ということで、いきなりサビが来ないとダメなどという連中のことなど放っておいて、我らオールド・スクールの人間は、デヴィッド・ボウイの1分前奏を楽しもうじゃありませんか。これこれ! ↓David Bowie, Loving the Alien
July 5, 2023
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後輩同僚が不満げな顔をしているので、理由を尋ねると、先週末、県内某市で行った市民講座で「民主主義について考える」というようなタイトルで講演をしたら、観客が3人しか来なかったとのこと。 ふうむ、そうですか。こういう世界状況下であるからこそ、今、民主主義って何だろうと考えるのは、価値のあることではないかと、私には思えますけどねえ・・・。そりゃ、ちょっとガッカリでしたね。 それにしても、この頃は、民主主義とは?みたいな、大きな主題ってのは、話題にならんのですかね? 昔は、それこそ『パンツをはいたサル』とか、『日本人とユダヤ人』とか、『タテ社会の人間関係』みたいな、人間とは何か、日本人とは何か、日本社会とは何か、みたいな、取り上げる主題の図柄が大きいものが流行した時代があって、それぞれ面白かったですけどねえ。 もちろん、主題の図柄が大きければ大きいほど、個々の論点はスカスカになる傾向があって、細かく文句をつけようと思えば、いくらでも突っ込むことができる。ですが、そこは目をつぶって、大きな景色として見れば、やはり考えさせるところがありましたよ。 一方、最近のアメリカ文学研究の趨勢を見ると、まあ、重箱の隅を楊枝でほじくるようなものばっかりで、全然面白くない。ああいうの書く人たちって、「重箱隅」っていう言葉を知らないのかな。自分のやっていることが完全にそれだ、っていうことを自覚しないのかしら。 一方、私自身は、数千年に亘る自己啓発本出版の出版史を一人で背負って、図柄の大きい研究をしておりますが、後輩同僚君同様、観客は3人くらいだからな・・・。 『パンツをはいたサル』がベストセラーだった時代が懐かしいわ。「大丈夫、はいてますよ」が、ちらっと流行しているんだから、もう一度、パンサル時代が来てほしい。
July 4, 2023
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私の好きな『リトル・ミス・サンシャイン』でアカデミー賞助演男優賞を獲ったアラン・アーキンが亡くなりました。享年89。 で、アーキン死去のニュースを読んでいたら、彼がかつて『暗くなるまで待って』でオードリー・ヘップバーンと共演していたとあったので、「ん? そうだっけ?」と思い、どの役だったっけなあなどと思いつつ、たまたま大昔に録画してあったこの映画を観直してみました。 すると・・・ 観直すも何も、私はそもそもこの映画を観たことがなかったことが判明! 道理で、アーキンがどんな役で出ていたか、知らなかったはずだわ・・・。 っつーことで、とにかくこの映画を初めて観たわけですけれども・・・ うーん・・・、たしかにアーキンは本作一番の悪役として登場しておりましたが、全体として大した映画じゃないね。もちろん、ヘプバーンが出たからといって、すべてが名画になるとは限らないわけですが。 (以下、ネタバレ注意)まあ、筋書としては、麻薬の密輸の話で、麻薬を人形に隠して密輸しようとたくらんだ女が、あとで取り返すつもりで空港で赤の他人に一時的にその人形を託すのですが、託した男の家に出入りしている手伝いの少女が、その人形を自分の家に持ち帰っちゃうんですな。 だもので、密輸女を殺したアーキンら悪党どもがこの家に踏み込んで人形を探すも、それがあるはずもない。そこで、悪党たちは一計を案じ、この家の主人が麻薬密輸女の愛人で、既にその愛人も殺してしまったということにして、主人の妻を脅すことにするわけ。人形さえおとなしく手渡せば、主人が殺人容疑をかけられることもないぞ、と。 で、その脅した妻というのが、オードリー・ヘップバーンなのよ。しかも彼女は盲目という設定。 だけど、さすがヘップバーンは賢いので、悪党どもの策略を見ぬき、何とか彼らの魔の手を逃れようとするのですが、なにせ盲目というハンデがあるので、なかなか簡単には悪党どもを出し抜けない。 さて、ヘップバーンは悪党どもの魔の手を逃れ、無実の罪を着せられそうになっている夫と再会することができるのでしょうか? ってな話。 最後に、悪党の親玉、アラン・アーキンとヘップバーンの一対一の対決となり、ヘップバーンが盲目であることを逆に利用し、家じゅうの照明を全部壊して、悪党が暗闇の中で動きが取れないようにするというところが見どころなんですが、そこで深手を負ったアーキンが、思わぬところからピョーンと飛び出してきて、ヘップバーンの足を捕まえるシーンがあるのよ。 で、そのピョーンにビックリした私が思わず悲鳴をあげてしまい、一緒に見ていた家内と大爆笑するという・・・。 まあ、その私の悲鳴が、この映画で一番面白かったかな。 ということで、アラン・アーキン、若い頃よりも年を取ってからの『リトル・ミス・サンシャイン』での名演で記憶にとどめておいた方がいいな、と確信した次第。 『リトル・ミス・サンシャイン』で面白い爺さん役を演じたアラン・アーキンのご冥福をお祈りいたします。合掌。 これこれ! ↓リトル・ミス・サンシャイン【Blu-ray】 [ アビゲイル・ブレスリン ]
July 3, 2023
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一昨日は雑誌の取材を受け、その日は実家に泊った私、昨日は大学院時代の恩師・山本晶(やまもと・しょう)先生の追悼学会に参加してきました。 もともと私は山本晶先生の直接の教え子(=ゼミ生)というわけではないのですが、私の師匠が、私が大学院の後期博士課程に進んだ時に他大学に移籍されたので、私はなんとなく梯子を外されてしまったような感じになり、仕方なくというか、便宜的に博士課程の3年間だけ、山本先生の研究室に預けられたような感じになったんですね。その意味で、私は山本先生の教え子としては、外様も外様。 しかし、そこが山本先生の偉いところというか、懐の深さというか、そんな外様の私を、外様と思わせないように、何かと気を使っていただいたところがある。大学院を出て、名古屋の大学に就職した時も、「いいですねえ、国立大学なんて親方日の丸だ。羨ましいようなもんだ」と喜んでくださって、東京を離れることに一抹の寂しさを感じていた私を励ましてくださった。ああいう気遣いを、ごく自然になさるところが、山本先生の山本先生たる所以なんですけどね。 で、その後も私が学会の全国大会などで発表する時は、必ず聞きに来てくださって、面白かったと感想を伝えてくださった。それは私だけでなく、先生は自分が育てたすべての教え子に対して、学会発表の時に応援に駆けつけて下さるのでした。昨日の追悼学会でも、そうした思い出を語られる人がいたのですが、山本先生は、教え子が初めて学会の全国大会で研究発表をする際には、事前に学会会場近くの美術館に赴き、そこで買った記念品を、慰労の意味もこめて発表を終えて下段した教え子に手渡すのが常であったとか。 またある方の思い出によると、その人は学会発表当時まだ所属が決まっておらず、肩書がなかったそうなのですが、そういう時、山本先生は、発表の前に司会者の先生の所へ行ってご自身の名刺を手渡されて、「この人は私の教え子なんです」と、一言、口添えして下さったとのこと。先程も言ったように、そういうことをされるのが山本先生なんですな。 昨日の追悼学会では、その他に、山本先生の教えについて語る人が多かったのですが、それによると、山本先生は、机上の空論のようなものが大嫌いで、まず原典に当たって、そこにある事実を明らかにすること、論を発する時は常に事実に基づいた論であることに留意せよと、非常に厳しく教えられた。それは先生ご自身のご研究の大方針でもあって、たとえば先生はエマソンやソローのご研究がご専門でしたけれど、エマソンの自筆の手紙を何と神保町で発掘され、その本物の書簡をもとに、本国アメリカのエマソン書簡集にあった不備を正されたことがある。こういう形で、まごう方なき文学的事実を確立することこそ学問の基本だ、というのが山本先生の学問なんですね。 またもう一つ、山本先生の教育方針として顕著なのは、学問上の形式を重視されたこと。先生はMLAが定めた論文の形式を遵守することについても、細かく教えられたそうで。 で、教え子たちは、そんな山本先生の形式重視の教え方に、若い頃から納得していたのではなく、学生時代・院生時代は、「形式より中身だろ」と思って反発したようなところもあったそうですが、研究者として長じるにつれ、山本先生のご指導がいかに正しいものであったかを思い知ることになったと。例えば外国に留学した際、向こうの指導教授から論文形式の正しさを褒められ、それが自信につながった、などと思い出を語る教え子もいました。 あと、山本先生は、正論をよく述べられる方でしたけれど、その正論に血が通っていた。 昨日の学会でもそういう例を語る方(女性)がおられましたが、その方は一度社会人になられてから大学院に進学したので、その時には既に結婚しており、修士2年の時には懐妊・出産ということになった。 で、当時夫の仕事の関係で名古屋に住んでおられたその方は、身重の身体で毎週東京の大学に通うのは辛いということで、月2回の通学で指導していただけないかと山本先生に相談されたと。 すると山本先生は「子どもが出来たので、月2回にしてくれというのは良くない。それは生まれてくる(きた)子供に、自分の責任を負わせることになる。そうではなくて、名古屋からの通学は遠距離で大変だから、という理由なら、認めましょう」と仰られたとのこと。 ああ! いかにも山本先生らしい! 先生の正論は、正論であると同時に、優しい論でもあるのでした。先生は、そういう意味で、優しい先生でしたなあ。でまた、そういう風に優しい先生だったからこそ、先生のことを慕う教え子というのは大勢いて、だからこそ、昨日の追悼学会も催されたのでありましょう。 また、それで気づけば、現在、私の母校には、山本先生の元ゼミ生が大勢、教授として在籍し、山本先生の学問を継承している。 一方、私の師匠の大橋吉之輔先生は、弟子を作らなかった人でありまして、先生の元ゼミ生で、大学でアメリカ文学研究を続けている人はそれほど多くないし、少なくとも母校には一人も残っていない。 そのことに気づいて、ううむと唸りましたね、ワタクシは。そうとなれば、私もますます奮起して、山本先生の弟子たちに負けない業績を出さねば! 昨日の追悼学会、中にはTPOを弁えず、山本先生のことを話すというよりは、自分の自慢だけして、まったく論にもならないことを軽薄にしゃべって終わったならず者もいましたが、総じて気持ちの良い学会になったのでした。 で、この学会がはねた後、私は同じくこの学会に参加していた大学時代のゼミ仲間と久闊を恕することにいたしまして、久しぶりに会ったM君と差しで飲み、そして名古屋への帰路についたのでございます。 この週末は、インタビューと学会、そして旧友との楽しい一席と盛り沢山でした。今日は一日身体を休めて、明日からの新しい週に備えることにいたしましょう。
July 2, 2023
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ひゃー、疲れた! 今日は名古屋から新幹線に乗って、はるばる実家に戻ってきました。某誌から拙著についてのインタビューを受けるためなんですが、向こうの人からの提案で、新百合ヶ丘と言うところにあるレンタル・オフィスでインタビューを受けることに。 レンタル・オフィスって初めて入ったけど、なるほどこういうものなのね。 担当者いわく、最近は雑誌の編集者も在宅ワークが多く、必要な時だけこの種のレンタル・オフィスを借りるのだとか。たしかに、その方が社のオフィスを維持するよりコスパがいいのかもね。 で、インタビューに関しては、上手くいきました。取材してくれた若い記者の方も、拙著をよく読み込んでくれていたので、話がスムーズに噛み合って。 で、彼も今は雑誌の編集部に配属されているけれど、いずれ単行本部門に移るそうなので、今後もお世話になるかもしれない。そういうことも含めて、いい人脈作りになりました。 で、意気揚々と実家に帰り、一息ついていたのですが、そうしたら母が私をジーッと見て、不思議そうな顔をしている。なあに?と聞いたら、あなたは誰?と。 え? 息子だよ、と言うと、この間来た息子とは大分顔が違うと。 ひゃー! ついに来たか! で、その後も、私は息子の友人扱いにされてしまったのでした。 まあ、明日になったら、息子だと気づいてくれるかな? そう願いたいものでございます。
June 30, 2023
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明日、6月30日をもって、名古屋にある「ちくさ正文館」という本屋さんが閉店するとの報が入ってきました。 ちくさ正文館。この名前には私も思い出がありまして。 今から30年以上前、はじめて名古屋の大学に赴任した時、なにしろ私は神保町に入り浸っていた人間なので、この辺りにはいい本屋がないと、散々嘆いていたわけ。 すると、同僚の先輩方から異口同音に言われたのは、「ちくさ正文館があるじゃないか」というセリフ。マジでこのセリフ、何回聞いたことか。 それほど、愛知県内の大学の先生方の間で、ちくさ正文館への信頼は大きかった。東京の人間が紀伊国屋や三省堂や丸善に寄せるのと同じ熱量の信頼を、この本屋さんに向けていたような気がします。 で、ならばそのアドバイスに従って、私がこの本屋に入り浸ったのかと言いますと、そうでもない。 というのは、当初、私が住んでいたところから、この本屋にたどり着くまでに、えらい時間が掛かったのよ。で、そうこうしているうちに、アマゾンで買うことが当たり前になってしまったし、ちょっとした本は、東京に帰省した際、神保町で買えたものだから、名古屋人の誇りたるちくさ正文館に行くこともなかったという次第。 まあ、そのうち、機会があったら行けばいいやと思っている内に30年の年月が過ぎ、そして明日、この本屋は閉店すると。 あーあ。なんか申し訳ない。せめて一度でも行っておけばよかった。後悔先に立たずだけど。 というわけで、この素敵な本屋さんに対して1ミリの思い出もないのですけど、その後悔をもって、ちくさ正文館の閉店を歎きたいと思うのであります。正文館フォーエヴァー!!
June 29, 2023
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島田雅彦さんの新刊『時々、慈父になる。』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 普段、この種の本を読まないワタクシがなぜこれを読んだかと言いますと、たまたま今、某アメリカ作家の子育てエッセイみたいなのの書評を頼まれているのですが、それを読んでいる間に、これまたたまたま、日本の作家の島田雅彦さんのこの本が出たことを知り、同じく作家の子育てエッセイなのだとしたら、比較になるかなと。これこれ! ↓時々、慈父になる。 [ 島田 雅彦 ] で、読んでみたのですが、うーん、この本は「子育てエッセイ/子育て私小説」というほど、そこまで子供のことが書いてあるわけではなく、島田さんの30歳から60歳あたりまでの30年間の来し方を綴ったものであって、その中に時々、息子さんである「ミロク」さんのことが出てくる、という感じですな。ま、もちろん、子供を持つということは人生の一大事であって、ミロクさんの存在が島田さんの人生観になにがしかの影響を与えていることは間違いないのではありますが。 で、ふんふんと読み始めたのですが、第2章に入って、ミロク君に幼稚園のお受験をさせることになった、というくだりがあり、そこで玉川学園にするか、桐蔭学園にするかで迷う、という話が出てくる。 ここは面白かった! というのは、私はその両方に在籍していたから。どちらに転んでも、ミロク君はワタクシの後輩ということになるのよ。 で、島田さんが、玉川学園の卒業生の知り合いと桐蔭学園の卒業生の知り合いに話を聞いて、前者の卒業生が「楽しかった!」と語り、後者の卒業生が「辛かった!」と語ったのを聞いて、前者に息子を入れようとするも、その後考え直して、結局、その後の受験に有利な後者に息子を送ったという展開にも大笑い。前者の楽しさ、後者の辛さ、両方分かるわ~。でも、私は後者も楽しかったけどね。 とはいえ、少し長じてからミロク君が日本の学校制度には合いそうもないなと判断した島田さんは、彼をアメリカの音楽系の大学に送ることにする。学費、大変だったみたいですけどね。でも、ミロク君はアメリカの大学でのびのびと育ち、自分の好きな道に行く基礎を築いたようですから、子育てとしては成功したことになる。めでたし、めでたし、でございます。 とまあ、そんな感じで、本書には島田さんとミロク君の関係が色々と書かれているのですが、私が書評を頼まれているアメリカ作家の子育てエッセイと比べると、島田さんのミロク君に対する執着の度合いはよほど低い。いや、そうではなくて、島田さんが普通で、アメリカ作家の方が異様なんですけどね。 アメリカ作家の場合、56歳くらいで思いがけず父親になった、というのがあって、それで子供が成人を過ぎて、独り立ちするまで生きていられるだろうか、という不安もあり、自分がこの世から消え去った後でも、子供が自分のことを覚えていてくれることを願うあまり、異様なまでの執着が生じているわけよ。だから、同じく作家の子育て私小説と言っても、性質が大分異なる。 その意味では、あまり比較対象にはならないので、わざわざ島田さんの本を読むことはなかったかな。 でも、そういう仕事上の都合とは別に、島田雅彦という作家のここ30年くらいの活動については、この本を読んでしっかり把握しましたので、その点では読んで良かった。特に、芥川賞選考委員になった件とか、付き合いのある他の作家との交流とか、島田さんが嫌いな作家のこととか、色々、面白いことが書いてありますしね。 読んだからといって大感動の巨編ではないですけど、職業作家の暮らしぶりが分かるという意味で、面白くなくはないこの本、興味のある方は是非。
June 28, 2023
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