長崎オフ会記録1



日 時:平成21年2月14日(土)午後2時~
会 場:長崎市立図書館


◎開  会

○福岡県大野城市職員 山崎栄子 大変長らくお待たせいたしました。
ただいまより「第14回自治体職員有志の会オフ会in長崎」を開催させていただきます。私は、有志の会会員で福岡県大野城市職員の山崎栄子と申します。どうぞよろしくお願いします。
本日は、皆さまに九州でお会いできますことをとても嬉しく思っています。遠方からお越しの方もたくさんいらっしゃいますのでほんとにどうもありがとうございます。せっかくの機会ですので、ぜひ長崎を中心に、九州を満喫していただきたいと思います。また、本日は、長崎市の職員の皆様にも多数ご参加いただき感謝申し上げます。本日がみなさまにとって、有意義な一日になりますよう、不慣れではあるが司会を努めさせていただきます、どうぞよろしくお願いいたします。
 それでは、早速プログラムに入りたいと思います。まず、有志の会を代表して三重県職員の山路栄一からご挨拶いたします。山路さん、よろしくお願いします。

◎有志の会代表挨拶

○三重県職員 山路栄一 みなさん、こんにちは。
 ただいまご紹介いただきました、三重県職員の山路です。今日は自治体職員有志の会の第14回目のオフ会に参加いただきありがとうございます。「自治体職員諸君!書類を捨てよ、町へ出よう」寺山修二の小説を思い浮かべるような素晴らしいテーマでご講演くださる田上市長、どうもありがとうございます。それから、準備にあたってくださった長崎市職員の浜口さん、室谷さんをはじめ地元スタッフのみなさま、どうもありがとうございます。
自治体職員有志の会なんですが、少し紹介させていただきますと、今年で設立7年目を迎えるん
ですが、当初は二、三十人の程度の集まりでした。設立のきっかけは、三重県四日市市で開催された当時の改革派6県知事のシンポジウムに触発され、今日は欠席されていますが、神戸市役所の大島さんなどと何人か参加して、首長だけではなく職員も、自治体の枠を超えて、それから、その担当を越えて連携、協働をしようということで、メーリングリストを発足させまして、それが今では47都道府県で600人以上の会員になっています。で、こうやって、年に数回、会員主体のオフ会を、それから毎年夏にですね、公開のシンポジウムを開催してまして、昨年の川崎でのシンポでは田上市長にお願いして、浜口さんと室谷さんに参加していただきまして、今日のオフ会につながっております。
せっかく機会をいただいたんで、公務員は叩かれることが多いんですけども、素晴らしい人を一
人ご紹介したいんですけども、東京都の交通局長の宮端さんという方で、東京観光で有名な「はとバス」の社長になられたんですね。宮端さんのお話しの中にあるのは、米大統領に就任したオバマ氏の演説によく出てくる言葉は「チェンジ」という言葉がチャンスに似てる。CHANGEはCHANCEにスペリングが似ていますが、大文字で書くとその違いは「G」と「C」であり、その「G」の文字から「T」を取れば「C」になり、宮端さんはその「T」は「TABOO」とのことだとおっしゃるんですね。タブーとは何かと言うと、「前例踏襲」、「横並び」、「お伺い」を意味するというのです。こういったものを打ち破るためにどうすればいいのかというと、これは私の考えなんですけれども、三つの「N」を心がければ、つまりMission(使命)を意識し、Passion(熱意)をもってAction(行動)を起こしていけば何とかなるんじゃないかという気がします。
「We must change to remain the same.(変わらずに生き残るためには自ら変わらなければなら
ない)」これは、ヴィスコンティ監督の映画『山猫』に出てくるんですけれども、私たち自身が、変わらず生き残るためには、私たち自身が変わらなければならないんだということなんですけれども、これを自治体なり職員が、考えるとなると自治体が存在意義が認められ、職員が必要とされるためには、職員自身も変わらなければならないということになるんじゃないかと思います。それで、宮端さんの話しに戻しますと「なら・しか」運動というのを展開されるんですね。交通機関なんで、セーフティ、安全第一、「はとバスなら安心」、それから、「はとバスしか乗らない」という運動を展開されて、「たかがはとバス」と言われたのを「されどはとバス」に、「さすがははとバス」にしたのです。私が思うのは、私たち自治体職員もやっぱり「たかが小役人」と言われるより「されど役人」、「さすがはお役人」、「役に立つ人」と言われるようになりたいと思っています。
今回のオフ会は前市長が銃撃されるというまさに市の最大の危機に立ち上がった田上市長の思
いを伺うことによって、自治体の共通の課題を探る道を考えて行きたいと思います。当選間もない田上市長に失礼にもかかわらず、ご連絡させていただいたところ、さすがは勉強家で、「山路さんのことも自治体職員有志の会のことも知ってます」ということで、嬉しかった思いがあります。
最後なんですけれども、一番固い宝石と言われているダイヤモンドを研磨するのはダイヤモンドですよね、ダイヤモンドはダイヤモンドで磨かれると、やっぱり私は、人を磨くのは人だと思っております。是非、人は人で磨かれるということで、このオフ会を通じて、自分を磨く機会にしていただければと思います。どうもありがとうございました。よろしくお願いいたします。(拍手)

○福岡県大野城市職員 山崎栄子 ありがとうございました。続きまして、開催地を代表してウェルカムスピーチを長崎市職員の浜口誠さんからお願いいたします。浜口さんよろしくお願いいたします。

◎ウェルカムスピーチ

○長崎市職員 浜口 誠 みなさん、こんにちは。長崎市の浜口でございます。
 今回は、山路さんが先ほどおっしゃいましたように、昨年7月の川崎のシンポジウムで会ったんですが、それから、長崎でオフ会をやりたいということで、それから準備して、まだまだだと思っていましたが、この日を迎え、逆に肩の荷が降りたような感じです。
 皆さん方、昨日、一昨日からおみえの方もいるようですが、長崎の街を是非楽しんで帰っていただきたいと思います。田上市長さんが発案された「長崎さるく」を昨日の暴風雨の中参加された方が何人いらっしゃいますが、心苦しかったんですが、また、明日もきれいに晴れ渡るような天気ですので、是非参加してください。また、皆さん方のお手元にパンフレットをお配りしていますが、この中でわからないことがあれば「ここへ行きたいとか」、是非周りの職員に気軽に聞いてください。ここ長崎は、1571年にポルトガル船が来航して歴史がはじまったんですが、人と人との交流の中のDNAと言いますか、ホスピタリティーが非常に高いまちでございます。電車の中で観光客の方がパンフレットを見てらっしゃいますと、長崎人は心の中で「どこに行くのかな、教えてあげたいな」と思っているところがございまして、それをなかなか自分からは言い出せないで、(観光客が電車を)降りていったりします。是非周りの職員にも「お土産はどこがいいですか」と聞いてください。
話は変わりますが、今年は安政の開港から150年目を迎えます。長崎はずっと開港していたんですが、ペリーが来航して幕末の激動の時代には、多くの知識が長崎に伝えられました。今も地方自治体にとっては、それに似た激動の時代、地方分権の時代を迎えております。ちょうど、150年前に開港してから海軍伝習所が長崎にできました。それから、医学伝習所、英語伝習所、図書館のあるここはその昔、新町といっていたんですが、ここには新町活版印刷伝習所ができています。ここから技術が横浜に伝えられ、初めて新聞が発行されています。いろいろなものが激動の時代に伝習所という仕組みの中で、幕末の志士たちが長崎の地でいろいろな知識を学んだと思います。今日のこのオフ会が、激動の時代を迎えております皆さん方の公務員人生にとってのひとつの伝習所となりますように、祈念いたしまして、簡単ですが、歓迎のご挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。(拍手)

○福岡県大野城市職員 山崎栄子 浜口さんありがとうございました。それでは、講演に移りたいと思います。講演は、長崎市市長の田上富久様にお願いいたします。
 田上市長は、昭和31年生まれ、昭和55年に長崎市役所に奉職されました。広報・観光部門を長くご担当され、観光振興課主幹時代には「長崎さるく博」を企画立案され、大成功をおさめられました。その後、平成16年からは統計課長を務められ、平成19年、伊藤前市長が暴漢に銃撃されるとうい非常事態のさなか、急きょ市長選に立候補され、激戦を制して初当選。平成19年4月第32代長崎市長に就任されました。
 本日は、「自治体職員諸君!書類を捨てよ 町へ出よう」をテーマにご講演をいただきます。
 なお、市長ご講演後の意見交換会では、グループワーク形式で進める予定であすが、その際ご講演を受けての気づきについて意見交換をいたします。また、グループごとに市長へ5分間質問タイムも設けているので、みなさんメモにとるなどして、あとの交換会に備えてください。
 それでは、田上市長よろしくお願いします。


◎講演「自治体職員諸君!書類を捨てよ 町へ出よう」

○長崎市長 田上 富久 みなさんこんにちは。
 自治体職員有志の会の皆さん、ようこそ長崎へいらっしゃいました。あこがれの有志の会の皆さんとお会いできて、今日は大変嬉しく思っています。先ほど山路さんからお話しがありましたが、時々ネットを見ながら、有志の会にはどんなに人が入っているのかと、よく思っていました。
 ネットワークの力はすごいということを以前からいろんな経験の中で感じてましたので、また、そういう所に入ることで、どんどんどんどん知らないうちに力がついてくるという経験が私にもあって、ここにいるたくさんの方がどんどん伸びていくのだろうなと感じながら、私は入る勇気がなくて過ごしていましたけども、今日はそういう皆さんが長崎に来てくれるということで非常に嬉しく思っています。今日はテレビが入っている関係で、予定していた話の半分くらいになるかもしれませんが(笑)、いろいろお話しをしていきたいと思います。
 ネットワークの力についてすぐに思い出す話があって、履歴の中で広報と観光が長かったという紹介がありましたが、広報が長くて、26年半のうち13年半ぐらいが広報で仕事をしていました。観光は3年とちょっとで期間は長くないんですけれども、いろんな体験をさせていただきました。広報には2回行って、市役所に最初昭和55年10月にいきなり入って、8年半ずっと広報課にいました。今ならあり得ない人事であろうと思いますが、そのときの課長が人を動かしたがらない人で、異動がない時期があったんですね。そうすると、課長が替わったとたん、動くことになって、異動と思っていたら、先輩が替わり、次に後輩が先によその課に引き抜かれ、真ん中にいた私が残って結局8年半いた経験があります。
 8年半いたときに、5、6年目に「全国広報セミナーが鹿児島であるので、広報のネットワークを作りたい。すでにそういうネットワークに参加している人たちがいるので、福岡に集まって、福岡から時計回りに、ぐるっと、大分、宮崎、鹿児島、熊本、長崎とまわって、1週間で九州を回りたい。最後の前の日に長崎に入りたいが受け入れてもらえないか」と電話があり、どういうグループかひとりも知らないままに、先ほどの浜口くんの話ではないんですが、受け入れるのは結構得意なんで「よかですよ」と言って受け入れました。
 それがすごいグループで、いきなり、飲み会で、暴れまわって(笑)、芸を出し尽くして(笑)、なんと言うか、無法者の集まりのようで、それがまたすごく面白くて、私だけ人質になって、次の日に福岡に行って、そこでまた新しいネットワークを深めたんです。
 そのグループが、次の年ぐらいから、全国の広報コンクールの中に何人も名を連ねるようなメンバーだったということがわかりまして、その格差は何だろうと思ったわけですが、すごいひどい暴れ方をする友達も、作る広報紙は素晴らしくて、その落差が面白いんです。それで、これは面白いと思って、県内でそういったネットワークを作ろうと呼びかけて、近くの郡の仲間たちと時々集まるようになりました。そしたら、翌年の県の広報コンクールは全員そのメンバーの中から出たんですね。その時もそんなに根詰めてやっていたわけではないんですけども、本当にネットワークの力の相乗効果はすごくて、集まることで、それぞれのパワーがアップする、1+1=3になって、5になる。知らないうちに力が付いてくる。それがほんとに絶大なものがあるなとその時に強く感じました。そして、そのネットワークが実際に今も続いてて、たまに集まって、当選の際も、全国から集まってお祝いをしてくれたんですけども、ほんとに宝物です。
 よく、広報の仕事は、やった仕事が広報紙として残るからいいよねと言われるが、やった仕事なんか誰も振り返らない。残るのは、人と人とのつながりだけで、それが最大の宝物だと思っています。そういう意味で、今日また新しいネットワークが、うちの市役所の職員と生まれるということになると、これは非常に嬉しいことだなと思っています。

◇「私の履歴書」

 私の履歴書について、まず学生時代の話から始めます。
非常に暗い学生時代を送りまして。なぜ暗かったかというと、大学に入ったものの、自分が何をしたいのかがわからなくて、もやもや過ごしている状態が続いていて、友達はたくさんいたので遊ぶ時は楽しかったのですが、心のどこかに何か燃焼しないものが残っているというもやもや感がずっとあって、ほんとに暗い学生時代を過ごしました。
 そのときに気づいたことが、ただひとつだけあって、「考えていてもわからない」ということがよくわかりました。動くしかないということで、動きはじめると、やっぱりいろんなことが動いてきて、見えてきて、やっと前に少しずつ足が進むようになって、暗さから少しずつ抜け出ることができるようになった経験があります。それで、何をやったかというと、主にアルバイトをしていた。いろんなバイトをさせてもらって、バイトの経験は忘れられないが、そこで学んだことは、さっき言った、「考えるより動くこと」だったんです。
 その後、昭和55年に市役所に入って、4月1日から採用されると思っていたのに、採用されなくて、3月の終わりになっても、採用が来なくて、なんでだろうと思って、こっちから市役所に電話をしたら、「あなたは4月の採用はありません」と言われた。当然、4月に採用されるとばっかり思い込んでいたので、びっくりしたんですが、その頃、定年制がなくて、「60歳になった誕生月に辞める」のが慣習になっていて、今月は5人退職したから、5人採用するという仕組みだった。だから、4月に全員補充するわけではなく、それを知らなかったので、人事課の係長に電話したところそういうふうに言われました。その時にすごく有り難かったのは、「アルバイトならあるよ」と。清掃部という所で、事務と現場でゴミを集める仕事があるということで、「どっちかするね?」と言われて「ゴミを集める方を是非させてください」と言って、次の日から行くことになったんですけども、これが本当に貴重な経験になりました。
 私はもともと五島の出身で、五島列島から100キロぐらい西のところで、そこで、中学まで育って、高校時代が長崎市内で、大学が福岡で、就職が長崎という、Jターン組なんですね。長崎の地理は、高校時代しかいなかったので、そんなによく知らない、この粗大ごみを集める仕事を4ヶ月ぐらいさせてもらって、これですごく地理を覚えました。生ゴミ班と粗大ゴミ班があって、生ゴミ班は、東西南北に市内を分けるので、区域が限られているんですが、私の入った粗大ゴミ班は市内全域を担当していたんで、ほんとにあっちこっちと狭い道を含めて、トラックで毎日通っていました。現業職のみなさんと作業をしたり、風呂に入ったりと、それはすごくいい経験になったんです。
それもやっぱり、学生時代に、とにかく行動する、動いた方が面白いということを体験していたことが清掃部でアルバイトするきっかけになった。その4か月が終わって、まだ採用が来ないんで、仲間と一緒に、仲間のひとりが段ボールなどを集める仕事をやろうと言ってやったが、1週間で全然お金にならなくて、「これでは食えない」ということで、みんなで一斉に辞めて、そしたら、残りのメンバーでミニ開発に入って、そこにつてがあってバイトをやった。4、5人で入って、9月の下旬ぐらいにバイトが一区切りついたところで、一回、五島に帰るからって言って帰ったら、人事課から10月1日に採用ということの連絡をもらいました。
それから広報の仕事をしたが、ここでは、ほんとにたくさんのことを学ばせてもらいました。広報で学んだことは、いっぱいあるんで、これだけ話しても一時間ぐらいになるんですけれども、一番後に続くという意味では、仕事の本質というものを考えさせてもらった場所だったんですね。
広報とは何だろうと考えてまして、例えば、広報誌を作るとなると、写真を撮ったり、原稿を書いたり、レイアウトをしたりするんですね。広報誌を作るということを仕事だと思ってるんですね。そして、一生懸命良いものを作ろうと四六時中そういうことを考えているんですけども、よく考えると、最初は全部自分で作っていたんですけども、途中から少しずつ委託に出すんですね、そうすると、参加するプロの人は、写真を撮ると上手いし、レイアウトも上手い、文章も上手い。任せた方が良いものができるので、では、「自分の仕事は何だろう?」ということを考えたときに、今市民に知らせなければならないことは何だろうか、市民が知りたいことは何だろうかということを知って、それを、じゃあ、どういう方法で知らせたらいいんだろうということを考えて、それを形にすることが自分の仕事だと考えて、それを自分で作るか、委託するかは、次の次元であって、一番大事なことは、今、市民に知らせないといけないことをちゃんと分かっていること、それを形にして届けること、結果として出すことが自分の仕事だというふうに思ったんですね。
そうすると広報の仕事を委託するということは何だろうというふうになるんですが、委託とはそれまでは、業者に委託を出すというような言い方をしていたんですが、そうではなくて、自分がプロデューサーになって、市民に知らせないといけないことを知らせるという仕事を完結するのに必要なスタッフとして、プロとして民間の方に入ってもらうことが委託だというふうふうに思ったんですね。ですから、広報課は、決して、委託先の人を業者扱いしなかった。一緒にスタッフに入ってもらうんで、時にはけんかもするし、いろんな議論もしますけども、業者扱いはしなかった。
それは、プロデューサーとして、こちら側が、仕事の目的、段取り、迷ったときの方向付けをしたり、決断したり、そういうプロデューサー役をきちんとやって、こちらが「これを作りたいんだ!」という思いを強く、熱く持っていると、そういう人達が応えてくれる。こちらが思っていないと、「なんかわからんけど、なんか作らんば」というような感じだと、相手はその大きさに応じたものしか出してくれない。こちらが、強い思いを持っていると、同じ大きさで返してくれる。その経験をたくさんしました。それは、ほんとにいい経験だったと思っています。ですから、委託するということは、こちらがプロデューサーになることなんだということを広報時代に学んだ。そういういろんな仕事をするために、仕事の本質みたいなものを考えさせてもらった広報時代でした。そういうのを経て、いくつかの仕事を経て今にいたるわけですけども、今回のテーマにしてる「書類を捨てよ。町へ出よう。」は寺山修二のパクリなんですけども、ほんとに書類を捨てられたら、困るんですけども(笑)、今年のテーマで、職員に呼びかけ続けたいと思っています。

◇「書類を捨てよ 町へ出よう!」
◇成果は組織の中ではなく外に出る

 この根っこにあるのは、成果は組織の中ではなく外に出るということです。これは、ドラッカーが言っている言葉です。ドラッカーの中では、いろはの「い」の字であるが、これを見たときに目から鱗が落ちる気がした。行政にはこの感覚が足りない、と。これがしっかりしていないと、すべてがぶれてしまうと感じました。自分たちの仕事の成果はどこに出るんだろうと思ったら、確かに物作りの仕事でも、その物が売れて、どっかで活躍してる、例えば、風車を造っている人が、作ったものはヨーロッパで活躍していることを考える。ただ、その成果を知らずに工場の中で風車を造るという感覚で仕事をするのと、これが、ヨーロッパのあの辺りに行って、こんな風が強いんだから、こういう設置をすれば、うちの風車の力はもっと出るんじゃないかということまで知って仕事をするのとは、全く仕事の仕方が違ってくる。
 「二人の石工」という話があるが、歩いていたら石工がいて、「何しているんですか」と言ったら、「このいまいましい石を積んでるんだ」と嫌そうに仕事をしている石工がいて、もう少し先にも石工がいて、「何してるんですか」と言ったら、「すごい教会を造ってるんだよ、大聖堂を造ってるんだ」と言ったという話で、同じ仕事をしているのに、それだけ感覚が違うという、まさにそんな話しだと思うんですけど。「成果は外に出る」という、その成果をイメージできないといい仕事ができないんじゃないかということを強く感じました。
例えば、市民の方から福祉の仕事について言われたことがあるんですけども、市役所に行ったら書類の書き方は親切に教えてくれるが、「これと同じような制度が県にもありますよね」と言った時に、よく知らなかったり、財団などの民間の組織の補助制度を知らなかったりする。自分たちの方がよく知ってたりすると。それは、自分たちの視点から見て、どこかにいい制度がないかということで探すんで、自分たちの方がよく知ってたりすると。そのお話しを聞いたときに、やっぱり、この制度がどこまでいって、そこでは、どういう人達がこの制度を使っていて、どういうことに困っているかを考えないと、ほんとに今やっている書類の書き方で終わってしまうんだな、と。そこを変えると、もっともっと役に立てることがあるかも知れない、と。そういうことが市役所の中にいっぱいあるんじゃないか、現場を知らないばかりに、そんなことがいっぱいあるんじゃないかと思います。それは気をつけないといけないことで、自分の仕事の現場や成果が出るのはどこかを考えるところから始めなければいけない。
そういう意味で、よく言われる、「クレームは宝」というのはそのとおりです。私も平成17年の国勢調査のときの統計課長で、5年に1回なので、上手くすると国勢調査に当たらずに済む(笑)という人もいましたが、たまたま当たったんです(笑)。国勢調査をしたことないから、最初に前の資料、記録を探して参考にした。そこですごくいい資料があって、それは苦情の記録なんですね。どういう苦情があったかというのが非常に参考になりました。
それで、その時に苦情を言った自治会長に電話したら、大学の近くでとにかく大変だったと、今回は頼まれても調査しないということだった。なぜかと聞いたら、学生のアパートが多くてつかまらない。アパートを見ていて、電気が点いたとたんに走っていっても、着いたらもう消えている。もう、とてもこの仕事はほかの人にもさせられない、次は辞めるという話で、仕方なく別の統計の調査員さんにお願いしたが、そのお陰で工夫ができた。
統計調査の調査員さんというのは、会えなければ最低限、男女の情報などだけを調べて書く。それをどうやって調べるかは、不動産屋さんに聞いたりするんです。それがわかったんで、大学の近くだけ、不動産屋さんを一軒ずつ回って、調査員が来たときには、「最低限の部分だけ教えてください」と、これは法には触れないのでお願いしますと、そのことをずっと一軒一軒お願いして回りました。そのおかげで、随分、最低限の部分の調査ができて効率がよかったというか、しなかった時に比べたら、相当の仕事ができたと思う。そういうことで、クレームは前もって準備するための材料になる。すごくクレームは宝だと思った。
 実際、始まってからも、恐い人からのクレームがあって、怒鳴り込んでこられた。ちょっと強面の方で、統計課は市役所から離れていて、私がたまたま市役所の方にいたら携帯に電話があって、「すぐに戻ってきてください、苦情が来てます、恐いんです」ということで、すぐ戻って、私もほんとに恐くて、話を聞いて、現場に行って対応したんですけども、できるだけのことをして、もう一回出会って話をしたら相手がびっくりして、「そこまでやるのか、思ったよりやるじゃないかと」と、ニコニコして帰って行った。
 その強面の方が、私が選挙に出るときにすぐ走ってきてくれて、「応援するけんね」と言ってくれて、ほんとに今でも時々会うと「応援しよるけんね、がんばってね」と励ましてくれる。もともとは、恐いイメージだったんですけど、そういう意味では苦情を言ってくる方ほど一生懸命で、そういう方に対してもきちんと応対すると、実はすごい味方になってくれる人が多い。ほんと、そういう意味では、クレームは現場で出でるわけで、とにかく成果が出るはずの場所に行ってみる。福祉なんかの職場に異動で行って、机にしがみついてないで、やっぱり現場をまず見るということがすごく大事なんだろうと思います。

◇仕事の資源は何か?

それから、二つ目に書いている、仕事の資源は何かということなんですけども、今、私たちが仕事をする時に、仕事の資源として、「予算と人」を挙げるが、私はそれに加えて「協働できる市民」は大事な資源だと思う。同じ目的で活動してる、同じベクトルを持っている市民活動というのは、実は大きな力を少ない資源で得ることができることを意識しておく必要がある。また、その方たちが喜んでくれて、その恩恵を受ける皆さん方が喜んでくれるという環境を作れるという意味では、協働できる市民というのをこれからはしっかり意識する時代なんじゃないかなと思います。
 そういう意味でいうと、前に言われてショックだったのが、「市役所は自分たちが作った仕事は予算を付けてするが、地域のためになると思って、自分たちが提案しても絶対にやってくれない。」ということを言われたことがあって、確かにそれがいい仕事であったら良いわけで、自分達のところで完結してしまおうと思ってしまう「予算と人」と自分たちが考えた事業で完結したと思ってしまってるということが以前は多かったと思います。そういう意味で、市民と連携することで、いろんなヒントをもらえることにつながるし、連携することにつながる。ですから、仕事の資源として是非、「協働できる市民」とつながらなければ、もったいないと思います。
そういう意味で、今うちに、市民協働推進室ができて、今日もメンバーが来てますけども、市民協働推進室にいろんな市民活動をやっているグループの情報とかあるので、ここを市役所中のセクションがもっと上手に使って機能すれば、もっともっと市役所の仕事は有効に働くと思います。今日はメンバーも来てますので、あとからいろんな話しを聞いていただければと思います。

◇町(現場)からの発想

それから、「町(現場)からの発想」、これも同じことなんですが、市民の中の資源を使い切れないところがあって、国際交流なんかでも、私も昨年、長崎にはヨーロッパに姉妹都市が三つあって、昨年、全部が三十周年を迎えまして、ハードスケジュールで行く計画を立てていたら、市民の皆さん方が「そこに行くんだったら、こんな情報があるよ」とか「自分たちもこんな計画を立てて一緒に行くので、向こうで落ち合いましょう」とか、いろいろと提案してくれた。そういう方たちには、さっき言ったこだわりがあって、いろんな経験を持っているので、いろんなことをこまごま提案してくれるんですけども、それを受け取り方によっては、クレーマーまでは行かないが、上手につきあえない存在にしてしまったり、協働の経験が足りなくて、そういう人の力を十分に生かせなかったりしていると感じた。
それはすごくもったいないことで、そういう人と協働する経験値をもっともっと増やしていかなければいけない。それは、決定的に足りない部分で、統計課長時代にも、総合計画のチェックを施策レベルでやろうという会議があって、そこに行ったことがあるんですけども、その中に「パートナーシップのまちづくり」と書いてあるんですね。パートナーシップのまちづくりという施策を検証しようとする課長の会議だったんですけども、そこに出てきた事業が「長崎伝習所」という、これは早い取り組みだったんで、全国でも注目された事業だったんですけども、いろんなまちづくりに関するテーマを市民から募集して、そのテーマで塾生まで市民から募集して、そのテーマで塾長さんを中心にいろんな研究をしてもらって、そこから出た提案を市がもらうという活動ができた。公募体で、まちづくりのネットワークが広がって、いろんな活動が生まれています。
東山手の地球館という、洋館を使った建物の中に、留学生のみなさんが喫茶店をやったり、自分のお国の料理を毎日日替わりで――今日は、マレーシア、今日は、シンガポール、今日はベトナム――みたいに出してくれるレストランがあって、そこをやっている国際交流地区というグループのみなさんは、まさに伝習所から生まれた活動なんです。地球館の活動も全国に誇れる活動だと思うんですけども、そういうものを筆頭にいろんな事業が、活動が、この伝習所から生まれて来ました。
 ですから、伝習所が市民との協働ということについては何の異議もないんですが、「パートナーシップのまちづくり」の事業にそれしか挙がっていないのはおかしい、と思いました。それで、「こんなのもあるじゃないか」というのを挙げていくと、ほとんど、市民活動の情報が市役所の中にないということが、よくわかりました。当時「子育てネットワーク」といって、若いお母さんたちが、子育てがうまくいかなかったり、ちょっとしたことで、すごく悩んだり困ったりするときに、ネットで子育て仲間とやりとりしたり相談したりする活動が全国で広がっていました。 で、長崎でもそういうネットワークが生まれて、じゃあ、オフ会で時々集まるだけではなく、「日常的にどんなお母さんでも来れるような場所を作りたい」ということで、古いアパートを借りて、そこでネットワーク活動をしていたんですね。そこには、一日何組も若いお母さんと赤ちゃんが来て、時間を過ごして帰っていくという活動をしてたんですけども、その活動はすごく良い活動で、最終的にそういうニーズがあるということがわかったので、市の方でもそういう事業に補助金を出すことにして、市内各地にそういう場所を設置するようにしています。
そういうのがまさに、市民から生まれた官民協働の動きなんですけども、そういうお母さんたちの動きがあるというのが、市役所の中には情報がなかったんですね。そういう、先々、市役所の事業としてできるかもしれないというヒントが町のあちこちに生まれてきてるんです。困ってるから自分たちで解決しようと、自分たちで解決して、それで終わりというパターンもあって、それはそれで構わないし、それが大原則なんですけども、それを行政と組むことでもっと効果がでるかもしれないし、これはむしろ、これだけニーズが高いんだったら、行政の仕事としてやっていくべき事業であるとか、サポートしようとかいう発想につながっていくと思うんです。そういうのを、先々拾っていくためには、やっぱりその情報がなければいけないんですけども、なかなかそういう情報が入ってくるチャンネルがないんですね。
そこで、先ほど言いました市民協働推進室が出来まして、そういう情報がずいぶん入るようになってきたんですが、それは、行政の新しい仕組みを見つけるという作業でもあるし、そういう活動をしている方を応援していくための第一歩でもあると思うんですね。そういう意味でも、市役所から飛び出て、どういう市民活動をしているか、それは、自分たちがサポートするべきか、フォローすべきかを見極めるためにも、そういう現場をやはり知っておかなければいけない。今は、そういう時代だと思います。
 今、「ちゃんぽんミーティング」というのをやっていまして、月に一回、ちゃんぽんを食べながら、1時間30分ほど、テーマを決めて、市民のみなさんも参加してもらって、市役所の大きめのテーブルで話しをするんです。先月は、長崎の川を生かすというテーマで、参加したみなさんから話を聞きました。後ろに自然環境保全課の職員が控えて、質問が出ると答えてくれる。そして、環境保全課がやっている環境を守ろうという活動と、市民のみなさんの活動は、ほんとに同じ方向を向いてる。同じことをやっているんですね。それを全部環境保全課がやろうと思ったらとてもできないんですね。とても出来ない活動を、みなさんがやっているということで、みなさんと連携して、フォローしてあげると、ものすごく喜んでくれるんですね、そしてすごく活気付きます。
そういう、ちょっとしたつながりを付けるだけで、すごく良い成果が生まれる。そして、活動は地域ごとに出来ているので、その地域が自分たちの力で良くなって行くという喜びを感じることができるんですね。そういう自分の中にエンジンを持った市民の方はたくさんいらっしゃいますので、そういう方とのつながりは非常に大事だと思っています。

◇3「これからの自治体職員」
◇雇い主=市民が求めているのは「言葉が通じる職員」

それから、時間が迫って来ましたので、「これからの自治体職員」という所に行きますけれども、そういう意味で言うと、我々の雇用主である市民が求めているのは、簡単に言うと「言葉が通じる職員」だと思うんですね。結構、通じません。難しい制度とか、難しい言葉を使ったりするし、ザックリ感で話さないんで、積み上げみたいな感覚で話しをすると言葉がなかなか通じないんですね。市民のみなさんは、市役所の職員と普通の言葉で普通にしゃべりたい。「自分たちはこんなことやってるんですけど」とか「こんなことしたいんだけど」とか「いい仕組みはないですか」とか「こんなことで今、困っているんです」とか、いろんなことを普通の言葉でしゃべりたいと思うんだけども、返ってくる言葉がすごく難しい言葉になって返って来る。
それは、陳情のときにも時々感じるんですけども、何でここまで難しい言葉で言わなければならないんだろうと、ほんとざっくり、簡単に言えばいいのにと思うことがあって、事前の勉強会で修正することが結構あるんです。みなさん、そういうコミュニケーションを取りたいんだけれども、市役所は敷居が高いと思われている方はたくさんいらっしゃいます。こちらから見ている敷居よりも、市民が見ている敷居はもっと高い。壁はほんとに高いんです。ですから、それを知っておかないと、普通に話しているつもりでも、向こうからは、こちらが見えていない壁が見えているということがよくありますので、そういう意味で言えば、「普通の言葉が通じる職員」というのを市民のみなさんは求めているんだと思うんです。じゃあ、「言葉が通じる職員」というのは、どんなふうにして言葉が通じるんだろうと考えれば、やっぱりそれは、壁を越えて向こうに行って話すことが一番なんですね。
 話していると、最初は、自分が経験したことがない課の仕事の苦情やいろんなことを言われるが、そこで嫌になって、それでやめるとそれまでなんですけども、そこを頑張って、クリアして話し続けると、だんだん言葉が通じるようになるんですね。言葉が通じるようになれば、一緒にやろうと、チームが作れるようになります。
 今日、長崎市から参加しているメンバーは元気なメンバーが多く、そういう経験をしている人たちが多いんですけども、そういう人がどんどん増えてほしいと思っています。


◇コーディネーターとプロデューサー

その後に、コーディネーターとプロデューサーというのが書いてあるんですが、今、求められる職員は、もちろん仕事ができる書類もきちんと作れることは大事なことで、それがどうでも言いいというつもりは全然ありません。それに加えて、今までできなかったことで言えば、「コーディネートができる職員」、「プロデューサーになれる職員」が必要だと思います。で、うちでやっているいろんな仕事の中で、「長崎夢市場運動」があるが、これは、長崎の町を市場に見立てて、いろんな食材があるし、いろんなおいしい料理があるし、いろんなスイーツがあるし、いろんなものが長崎の中にあるので、これを、長崎を市場に見立てて、それをもっともっと元気になってもらって、いっぱい作る、いっぱい加工する、いっぱい売るというような流れを作りたいというのがこの運動なんです。
いろいろやっているんですけども、その中の一つに、作る人、加工する人、売る人、食べる人をつなごうという活動をしてるんですね。例えば、伝統野菜というのを掘り起こして、それを作ってもらおうとするんですけども、作っても、美味しいけど売れない、作っても仕方ないという話があるんですね。ところが、実際に出来たものをスーパーとかホテルの方に食べてもらうと「これはいい、うちで買いたい」というふうに話しがまとまると、俄然、作る意欲が沸いてきて、どんどん作りたいというふうになってくるんですね。ですから、つなげるだけで活性化するわけで、作った人も買った人も喜ぶという関係が作れるんです。
それが今、実際に長崎のあちこちに起きてきています。「わかめつるり」は地元のおばちゃんが一生懸命に作っているが、作っても売れなければ仕方ないが、今はそのサイクルがつながったお陰でどんどん売れるようになり、作るのが追いつかなくなって機械化を図ろうということになっています。そういうことをひとつずつ丁寧にサイクルをつなげていくということで、どんどん元気になるのがふえている。まさにそれは、コーディネート力で、長崎の食推進室が担当でやってるんですが、ほんとにコーディネートが上手で、いろんな人と人を結びつけており、よく見つけてくるなぁと感心するんです。
長崎は鯨を食べる文化があって、調査捕鯨だけなんだけども、それで持ってきたものを売ってよいことになってます。ここ1、2年は妨害活動で量が減ってるんですけども、鯨は、鯨を食べる文化があるところでしか売れないから、長崎に集まってくるんですね。長崎は、鯨を売ったり、食べたりする料理店が結構あるんですけども、鯨をもっと食べよう、鯨を食べる文化を大事にしようという運動を始めてパンフレットを作っても、そんなに成功しなかったんですけども、「くじらあります」という文字を染めた暖簾のようなものを作ろうというアイデアを水産農林部の女性職員が出して、売ってたり、食べさせてくれるお店の入口に貼ってもらったら、「食べたいという人」と「食べてくださいという人」が、それでつながったんですね。そうすると、どんどん店に行く人が増えて、売上が前より2倍にも3倍にもなったということがあります。それは、まさにつないでくれた暖簾だったんですね。つなぐというだけで、大きな効果は、予算や労力を使わなくても、つなぐこと、それを意識するだけでそういうアイデアが出てくる。これは、ほんとに大きな転換期だったと思います。そういうコーディネートという仕事も意識する必要もあります。
 プロデューサーというのは、「長崎さるく」という街歩きは、まさにプロデューサーの一つの例だと思うんですけども、こちらから、長崎の力を活かすために、仕組みを作って、呼びかけて参加してもらって、実際に動いているのは市民の皆さん。街歩きのガイドをしてくれる市民のみなさんがいるから、これは動いている仕組みなんですけども、ここまでもってくるには数年間は必要だったが、最初の一歩は市役所と市民が考えたことからスタートしています。今はない仕組みを生み出す、これがプロデューサー力だと思うんです。そういう、コーディネート力、プロデューサーとしての力がこれからはすごく大事になってくる。
なぜかというと、さっき言ったように、ニーズは外にある。それを見つけてきて、しかもこれは今小さいニーズだけれども将来的には絶対大きなニーズになるというような、必ず「種」があるんです。だから、ゼロから生むというのではなくて、見たときに「これは」というふうに思う、最初に気づくことからスタートする。それは、やっぱり外に出て、しょっちゅういろんなものを見てないと気づかないわけで、市役所からどんどん出ていって、いろんな物を見て、いろんな人とあって、それから、いろんなことに気づく感性というものを磨いてほしい。それは、気づいたら身に付いてるというものだろうと思うんです。先ほど言ったネットワークと一緒で、気づいたらなんか力が付いてたというようなもんだろうと思うんで、とにかく表に出て動いてほしいなと思います。
 私が今やろうとしているのは、ガバナンスの連載が3月で終わるのでそこに書いたんですが、「WIN-WINの関係づくり」だというふうに思っています。先ほどご紹介した「長崎さるく」にしても、あれはどういうことが起きているかと言うと、ガイドさんが自分の町を案内すると、案内されるお客さんが必ず最後に喜んでくれる、最後に拍手をしてくれたりするんですね。その皆さんが喜んでくれているのを見て、自分が喜ぶという関係がそこに生まれていて、それを長崎のあちこちにそういうシーンを作っていくという仕掛けが「さるく」だというふうに思っています。
今までそれが、誰かが得するとか、誰かが損するとか、そういうものをベースに考えてきた部分があったけども、そうじゃなくて、どちらにとっても良いという仕組みを作れないかという、それをあちこちに生むという作業をして行くべきだと自分では思っています。そういう意味で言うと、今日もまさにそういう場だと思うので、是非、今日参加した人たちが、間違いなくなると思うんですが、WIN-WINの関係を作って、自分ができること、得意なことを出して、不得意な所は出す必要はありません。得意を出し合うことだけで、WIN-WINになれるよう、是非、そういう関係が今日生まれればいいなと思いますし、また、みなさん帰った時にそれぞれの地区でWIN-WINの関係をいっぱいふやしてくれると、先ほどの鯨の話しもそうですけども、暖簾一つで、WIN-WINが生まれるという、そういうことだろうと思いますので、是非それを全国のあちこちで、みんなで、自分の持ち場で続けて行っていただきたいなと思っています。
ということで、ちょっと過ぎましたけども、私の話を終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)

○福岡県大野城市職員 山崎栄子 田上市長、貴重なお話しをどうもありがとうございました。この講演を踏まえまして、意見交換をこの後させていただきますので、その前に10分間の休憩を取りたいと思います。こちらの時計で3時10分になりましたら、グループワークのほうを開催いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。


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