瑠璃色の魔法

瑠璃色の魔法

平成十七年の学びと気付き



小さい頃からこの歳になっても、その歳その歳なりの全く違った学びがあります。
時には正反対の悟りであったり、逆のことに価値を見出したり、一見矛盾するような信念を身に付けたりします。

それは多分人によって、いつどんな場面に出会い、どんなことを見聞きするか、どんな人たちに囲まれてどんな影響を受け、どんなことを思っていくのかによっても、それらがどんな順番で訪れるかによっても、百人十色で違うものなのでしょう。

ある人は還暦にして気付いたことを、ある人は十代で気付くかもしれないけれど、その人がまだ気付いていないことを同じ世代のほかの人たちはとっくに気付いているのかもしれません。

ひとがみな自分だけはもっとも正しい、あるいはもっともましな価値観で物を見聞きし判断しているはずだと思っているような気配を感じたのはすでに二十歳も過ぎてからでした。
それまでは教育のようにこういう正解があってそれをいくつ憶えていて唱えることが出来るかという形で一生死ぬまで成長していくのだろうと思っていたかもしれません。
だから、教えられなかったことや誰からも教わらなかったことは知らなくても罪でもないし大きな顔でいたられたものです。
そのくせ自分ほど謙虚でつつましい内省的な人間はいないと思ってもいたり。

でも尊大だったな、身の程を知らなかったなと思ったのは、祖母の死の際に集まってくれた遠縁のおじさまが言った一言でした。
それは古い諺ですが、私はそれまで座右の銘と言うものを持っていませんでしたけれどもそれを当面、ひょっとすると一生の大切な言葉にしようと思っています。
大切なのでさすがの心情露出狂の私にも記すことが出来ません。

まさに老賢者というのは昔からこのように若者をハッとさせてきたのかと思う出会いでした。
その方はほどなく亡くなられましたが、たった一日の出会いでこれほど私の人生も運命も変えてくれたとは気付かなかったかもしれません。
しかしそれはすべて含みおいていたのに違いないと思います。
自分がなんら意識していないところで、誰かに何かを思わせることはある。
良いことであれ悪いことであれ。影響を受けながら人は生きている。
影響を受けながら影響を与えながらバランスよく、満ちては引く潮のように、寄せては返す波のように、揺れながら生きていくのが人なのだなと。

人が言っていることが理解できなくても、それどころか間違っていると思っても、それはその人にとって過去の積み重ねの中から過剰反応をして強く言い過ぎていたりすることはあったとしても、何らかの形でその人也の真実を悟ったと思ったから語っているのであろう、とアタマでなく心底思えるようにようやくなってきました。
今までアタマだけだったのか!と気付いたのには、二つの要素があります。
だって自分ではわかっているつもりだったし。

ひとつには、判っているのに実行できていない。
これは、判っているという言葉そのものを勘違いしていたのであって、正確に言えば「その理屈を聞いたことがあり、その理屈はある前提条件においてある一定の条件の中で破綻する部分はないと思われ、そして自分は一度聞いたことがあるという記憶をしており、さらにきっかけを貰えばそれを復唱してみせるだけの能力もあります」という単にそれでしかなかったのだ。
長いから簡単に言うと、記憶している。覚えている。そうしたほうが良いのかもしれないね、という誘惑も感じている。
でも!でも、本当に解っていたら、そくその考え方を上手に利用できるはずなんですよ。
上手に。つまり、完全に洗脳されてしまったり、自分の根幹が揺らいで「どっちのやり方で行くのが正しいんだろう?」なんて迷ったり戸惑ったりせずに。本当に理解していたら、の話しだけれど。
でも大抵はそんなに簡単にいかない。
だって人は自分で経験して実感を持って「ああ!」とピンと来たものが一番優先順位が上だから。
それで、いつか役立つようにいろんな人の意見や経験話をストックしてるんだと思う。それで、「知ってる」って言うんだけど、理解まではしていない。本当に実感を持って「それだ!その考え方だ!そのやり方だ!」とポンと膝を打てたなら、絶対に試みていると思うから。試行錯誤しながらも、実際やると思うから。
やろうとしていないのは、わかっていない証拠。心の底から理解していない証拠だったんだなあ・・・と今、省みるわけです。

ふたつめには、自分が楽になったこと。以前の私は、「人の立場もわかる。だから自分としてはやりづらい」と思うことが多かったけど、それって矛盾していた。
要するに、「あの人の立場はこうだから、これは嫌だろうな。あの彼の立場はこうだからこう思うだろうな。あの子の立場はこうだから、こうしたいんだろうな。こんなにいろんな人の立場になって考えている私って偉いな。でも人の事を考えてあげちゃうから結局は私が一番つらい立場なのよね」とか思っていた。
けど、それって自分に対して無責任。何と言うか、最近、「わが国」という言葉が嫌われて、自国民なのに「日本」って言う人が多いんだって。相対的な言葉と絶対的な言葉ってあるけど、日本って言葉は絶対的な言葉。
たとえば「おとなりさん」「お向かいさん」という言葉は相対的で、「何号室の人」「南の角の家の人」は絶対的と。なぜって、そこには「自分から見て」どこか、自分から見た世界というのが抜けてる。自分が今どこにいるか、自分の家はどこなのか、自分はどこに立っているのか・・・それがわからないと、自分の前、自分の横、って言葉は出てこない。
絶対的な指定というのは便利な言葉。自分がどこにいるかは隠したままでその場所を指定できるし、人に隠すだけじゃなく、自分で自分の居場所を確認しなくてもいい。堕落しててもまるでイッちょ前の社会人みたいに大人っぽい会話が出来るもの。
私も昔は相対的な言葉って嫌いだった。うち、とか仲間、、地域、そんなものに自分がどんな立場でどんな位置に所属しているか、そんなのってイヤな主義だと思ったし、もたれあい社会っぽい気もして。
でも前々逆だったなぁと今は思う。自分は何者です、って自分に責任を負って言わないといけないし、だから自分が今現在この瞬間に何者でありどういうレベルの大きさのものを代表して言っているのかも自覚していなくてはならないのだから、私って誰?何のために生まれてきたの?誰の役に立ってるの?ねぇ誰か教えて・・って人でも生きていける平和な社会では許されるようなあいまいさの余地がとっても少ないわけ。
だから、自分という人間は、この世の中には自分以外には二人といなくて、いついかなるときにも自分が自分をあつかうことだけは特別なものだというのが多分暗黙の諒解なのが成熟した社会なのだろうと思う。
そうやって「あの人がこう思う以上、あの人は周りとうまくやりつつも可能な範囲において自分の最も快適な結果を追い求める権利がある」ということが理解できると、「自分はこう望む。周りの人は色々望んでいて、その力関係やあとあとの影響はこうなりそうな見込み。その中で自分の最終的な利益の最大値はこのくらい。そのためにはこの人に肩入れをして、この人をなだめて、この人にこういうここメロ使いをしておくのがよさそうだな。皆のためにも自分のためにも。」
こういう、三者一両損みたいな結果をだすにしても自分の一番望む形を明確に追い求めてそれでもかなりの妥協を強いられる場面だなーなどと納得して受け入れられる。
自分の立場をハッキリ自覚して、いろんな人の気持ちはあくまでも情報として、だけど自分の幸せを追求する。それでも一人勝ちは無理なのだから、そこが後先を考えて我慢できる。その絶妙の押しと引きというのは、本当に回数をこなし、成功と失敗を繰り返していくなかで経験でまなぶんだと思う。頭の中で正解を出してからそのとおりに現実にできるはず、と思っているのが子供だったと。
子供時代は体で学ぶことや失敗して学ぶということがとても馬鹿げていると思っていて、なんだかみんなが失敗する中自分だけは失敗せずに上手くやれるはずだしやってみせようとも思っていた。だから時々大人がバカに見えたりして。
でも気付きを得た今では、年配の人を敬う、という言葉は言われなくても心の内側から実感としてふつふつと湧いてくる。デキるからとか失敗しないからとかじゃなく、成功への模索をとてもたくさんしてきたはずだから。

一方で年下でも子供でも赤ん坊でも、やっぱり敬う気持ちが出る。自分の全くしていないことを、もう生まれて数年でしているかもしれないのだから。

人は学ぶ順番が違う。ただそれだけ。だから「進んでいる」も「遅れている」もない。今生にとどまらず、生まれ変わってでも学び続けるとしたら、本当に他人の進み具合などは気にするのも馬鹿馬鹿しいほどどうでもいいことだ。大切なのはそれを参考にするかしないかだ、生かすか生かさないかただそれだけだ。

以上長くなりましたが今年もたくさん学びたいと思います。
そしてここにメモを増やしていく所存です。
自分のための覚え書きですが、縁あって目にとめて下さった皆さんにいくばくかなりともお役に立つことがあれば幸甚に思います。

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