『福島の歴史物語」

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2007.12.18
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     星 ヶ 城

 さて、いろいろとここまで模索をしては来たが、まだ星ケ城の位置が不明である。間違いなくこの関連した地域に、星ケ城は二つある。それは宇津峰山頂の星ケ城跡と田村町御代田の星ケ城跡である。そして宇津峰山頂の星ケ城跡には天皇たちが祀られ、御代田の星ケ城跡の近くには雀之宮神社が祀られている。これはいったい、どういう意味なのであろうか?
 今まで私は、宇津峰城本丸跡が、この唄で言う星ケ城と思い込んでいた。しかしそこであるとすれば、もともとの天台宗の寺院がまた宇津峰山に戻ったということになるのであろうか? しかし現在、宇津峰山には、後亀山天皇、後村上天皇、皇子しか祀られていない。しかも目立たぬ程の小さな祠でしか・・・。
 では、御代田の星ケ城がそれだとすると、それだけが他との関連もなく出てくるのはおかしい。そうなると雀之宮神社と関連するのであろうか? あそこにも目立たぬ程の小さな祠が祀られている。
 私は御代田に行ってみた。今は阿武隈川に臨んだ所に星ケ城跡の案内板があり、すぐその近くに神護山高安寺がある。住職の三ツ本光照氏は、
「私は歴史をよく知らないが、お寺なのに神護山という名が気になっていました」
と言う。
「そうですか、たしかにこれは[神を護る山]ですよね・・・。この神護山という名は、雀之宮神社とは関係ありませんか?」
そう言いながら私は地図をなぞっていた。
 高安寺は御代田の北町にある。すぐ南には、舘、外城と、御代田城に関連する地名が接している。さらに高安寺の西には、内手、六地蔵。その東に雀宮という地名が続いている。しかも高安寺から雀宮の祠までは、約三〇〇メートルくらいという至近距離なのである。
「例えば、明治の廃仏毀釈以前には雀之宮神社と神護山高安寺とを一緒に祀っていたとか・・・?」

 そう訊きながらふっと気が付いた。ここに至る間に、私が語る「雀之宮神社」という名に、誰も何の異論もなくスムースに聞いてくれていたことにである。[雀之宮神社]とは、雀宮にある名もない小祠に、便宜上、私が勝手につけた名である。不思議と言えば不思議な話であった。
雀宮周辺

 三ツ本氏は、
「それも考えられますが、残念ながらこれらに関連することは何も伝えられていません。ただ近所に、この辺の歴史に詳しい方が居られますので・・・」
と言って折笠佐武郎氏を紹介してくれた。
 期待をして折笠氏宅にお伺いしたが、私の疑問については実がなかった。そしてここでも、この唄は、知られていなかった。ただこの御代田にも、月夜田という地名のあることを知ったが、今までの私の説明もあって「この唄との関係はないと思う」と言われた。
 しかし私は逆に、ここにも月夜田という地名があることに驚かされていた。
 二ツ村、二ツの菅舩神社、二ツの月夜田と二ツの星ケ城、二ツの石の伝説。これらは、何らかの関連性を表しているのであろうか? このいくつもある対の組み合わせは、やはり宇津峰宮を隠す意図であったのであろうか? 当然ながら私はそう強く思った。しかしこの地名を知った時、先にここの月夜田を知らなくてよかったとも思った。もし知っていたらこの土地にこだわり、須賀川市の月夜田を知らずに、調査が頓挫していたかも知れないと思ったからである。これこそが神のご加護であったのかも知れない。私は、須賀川市の月夜田と先に出会えたことに感謝している。
 ここで仙道田村荘史を再読してみた。この六頁に、[守山に隣る山中に田村大元明王あり、社内古碑あり大同二(八〇七)年の四字を認むべし。実に之れ田村最古の資料とす]という記述があり、さらに同じ一六四頁に、[大元明王髻守岩瀬郡小山田村於今明王壇と云う所鎮守山泰平寺、とて中は大元明王、左熊野三所権現、右八幡菩薩あり利宗三代の時近便りとて後地極めて守山山中に建立ありと見え、大槻博士の伊達行朝勤王事歴にも小山田説(石川郡川東村大字小山田なり)を採られたり]という記述があった。
 ——うーん。鎮守山泰平寺と明王壇か・・・。前にもこの本を読んでいたのに、気がつかなかった。
 私は、鎮守山泰平寺・大元帥明王が、明王壇にあったといういくつかの記述が頭の中をよぎっていたのに気がついた。考えてみれば、あの「太平記」が、南北朝の戦乱を描きながら「争乱記」などと名付けられず、平和を願ってあえて「太平記」という題にされたという説がある。この説を流用し、泰平寺という名は戦乱の世の中だからこそ、あえて泰平を祈って付けたと考えたらどうなるであろうか? そうすると鎮守山は、鎮守府大将軍・北畠顕家と関連なしとも、言い切れないのではないか? とすれば鎮守山泰平寺は、将に南朝方の、つまりは北畠氏または田村氏の命名と思われる。しかしこれを主張すると、守山の大元帥明王が大同二(八〇七)年に建立されたという説は南北朝時代より大分以前の話であり、[田村郡誌]にある康永二年・興国四(一三四三)年とも年代が合わなくなる。このことは何を表しているのであろうか?
 歴史によると、この康永二年・興国四年という年は、関東の南朝方の拠点であった関・大宝両城が陥落しまた南奥の南朝方として重きをなしていた白河の結城氏が北朝方に降り、田村氏を含めた南朝方の凋落が目立った年である。このような年に、月夜田の明王壇にあった大元帥明王社が、より守山に近い重石に遷宮されたことについては、それなりの理解が出来る。しかし田村氏の本拠地であり、守りの堅い守山に近づいたといっても、せいぜい二~三キロメートルでしかなく、守山からまだ七キロメートルも離れている。また特に要害の地でもない、ということからも遷宮の本当の理由は掴みきれていない。
 私は明王壇の地名を求め、図書館で須賀川市の住宅地図に詳細に当たった。しかしその地名は・・・、なかった。そこで須賀川市史に当たってみた。やはり明王壇はなかったが、中世編に次の記述を見つけた。
[(塩田菅船大明神) 祭神 天照皇大神、伊邪那岐神、伊邪那美神、猿田彦神、天太玉神。蓬田岳菅船神社を本社とする菅船神社群のうちの一社であり、祭神は猿田彦神であった。その後、正慶二(一三三三)年、北畠顕家が御旗神社を菅船神社へ遷し、応永二三(一四一三)年、当地の塩田右近太夫が、伊邪那岐神命、伊邪那美神命を合祭した]という。
 この記述は、神清水・菅舩神社宮司の鈴木定氏が「御旗神社が神清水の菅舩神社に合祀され」と言っていたことと、将に合致する。しかも時代は、南北朝なのである。話が合う。しかしここからも、遷宮した理由を知るには至らなかった。






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最終更新日  2007.12.19 13:22:17
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