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7伊東祐長・郡山を経営する
7 伊東祐長・郡山を経営する
郡山へやって来た伊東祐長は、たった一人での旅であったとは思えません。伊豆から送り出す兄の佑時としても、これから弟の行く郡山の地には、行ったこともなく見たこともない土地なのです。ともあれ行った先での生活のためには食料が必要です。農作業のため、鋤鍬を持った多くの百姓たちも連れてきたと考えられます。しかしそれだけでは不安です。なにか、悪い獣がいるかも知れないのです。ところで、清水正健 ( まさたけ ) 氏の編まれた『荘園志料(下)』によれば、記録が少ないとしながらも、田村荘や石川荘の存在を挙げておられるのですが、安積荘もすでに荘園化していたであろう、とされているのです。とすると、元々の統治者と変わった祐長に対して、受け入れ側の住民の反抗があるかも知れないのです。その場合の治安維持のための武力も必要です。
ところで私は、日和田の聖坊の福聚寺に宿泊した伊東祐長の一行は、そこから片平方面へ向かったと考えています。もちろん先遣隊が来ていて、祐長らを案内したと思われます。このことについて、郡山市史には、『笹原川、逢瀬川、藤田川などの合流点近くの郡山、安積町、富久山町、日和田町の阿武隈川流域に求め、伊東氏の開発進展によって、水利権や用水確保の必要から次第に上流へと上り片平などに嫡流の居城がおかれた』とあります。しかし私は逆に、伊東祐長らは先に奥羽山系の山裾である片平に入り、流れ出る水を利用して棚田を開拓、その後下流の郡山、安積町、富久山町、日和田町方面へ開拓を進めていったと考えています。今でもこの地区では、棚田が耕作されているのです。その他の理由としても、熱海町、大槻町、片平町の山裾には、伊豆から勧請された神社が多いこと、片平町には大きな舘跡がある上に館に関する地名が多いこと、それに今でもある常居寺、岩蔵寺、広修寺などが集中している寺町を形成していたこと、などに思っています。なお常居寺には、伊東氏累代の墓があります。
ところで片平町の南となる大槻町には、今現在、多くの相楽さんが住んでおられます。しかも、この相楽さんについては、いまでも大槻町に住む高齢の方は『相楽さん』とは呼ばずに、『相楽様』と呼ぶ土地柄なのです。私は、この2つの町の位置関係と『相楽さん』の多さから、相楽氏は伊東祐長の治安維持の一翼を担ったのではないかと想像しました。そこで現在、大槻に住む相楽モトさんに尋ねてみたところ、「戦国時代に、茨城県の結城から移り住んだと伝えられている」とのことでした。ここでちょっと説明しておきますと、最初の相良はアイリョウと書きましたが、後にアイラクと変化しています。伊東氏とアイリョウの相良氏は、深い親族関係にあったのです。相良城は、いまの静岡県牧之原市にありましたが、恐らく大槻町に来たのは、ここの相良氏の庶流であったと思われます。
その後、相楽モトさんより、天保十三年(1842年)に記述された『萬書覚扣帳』のコピーを頂きました。それには『鎌足胤、これは藤原鎌足の血筋という意味です。鎌足胤、伊豆伊東ヨリ十四代之末葉、城主・伊東祐頭。永正年中、大槻・駒屋・八幡・山口・大谷、右五ヶ村領ス』とあり、さらに、『相楽ト改号云々』とありました。この文面により、アイリョウからアイラクと変えたことが明確になります。そこで大槻町の長泉寺にある相楽モトさんのお墓を見せて頂いたところ、鎌倉時代のものと思われる墓碑が数基祀られていました。ですから間違いなく、その頃すでに、大槻に相良氏のいたことが証明できます。また相楽モトさんより頂いた『相楽半右衛門伝』に、『相楽荘を名字の地とした武士に相楽氏がいる。この相楽氏は、源頼朝に仕えて関東御家人となり、元久二年(1205年)に相良長瀬が肥後国人吉の地頭職を得て、鎌倉時代後期には惣領家が九州へ移住した』とあったのです。この佐良氏が、伊東祐長の下で治安維持に関わった一人と想像できます。
実は私の義弟の妻が、熱海町の狩野家の出身でした。このような私の話から、彼女がうっすらと、『先祖が伊豆から来た』と思い出してくれたのです。私は彼女の実家を訪ねたのですが、「詳しくは分からないので、狩野の本家に聞いてくれ」とのことだったのです。そこで本家の方と、狩野家の菩提寺に行ってみたのですが、それ以上のことは分かりませんでした。しかし私には、それで充分でした。片平の北が熱海でしたから。『太平記巻一』に、南北朝時代の人物として『狩野下野前司』、巻六に『狩野七郎左衛門尉』、巻十に『狩野五郎重光』、巻十四に『狩野新介』、巻三十七に『ひとかたの大将にもとたのみし狩野介も、降参しぬ』というように、狩野の姓が見られたのです。さらに文治五年(1189年)、狩野行光が奥州合戦に於いて戦功があり、源頼朝から恩賞として一迫川 ( いちはさまかわ ) の流域、今の宮城県栗原市周辺を給わっています。狩野氏は、宮城県地方にも勢力を持っていた氏族だったのです。この一族を、伊東祐長は自己の本拠である片平の北の守りを、熱海の狩野氏に委ねたのではないかと考えられます。ちなみに家族数は少ないのですが、狩野さんは、いまも熱海町を主にして住んでおられます。トータルとして考えれば。片平の伊東祐長を中にし、北の熱海に狩野氏、南の大槻に相良氏を配置することで、戦いの場合を想定していたのかも知れません。
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