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江戸屋敷とその周辺
参勤交代により、領地より江戸に戻った大名は、それぞれの上屋敷に入りました。ここで江戸屋敷について、若干の説明をしてみます。もちろん江戸屋敷とは、名の通り江戸にある屋敷のことですが、それには、上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷などがあったのです。これら屋敷の区別がついたのは、明暦三年(1657年)一月十八日に起きた明暦の大火以後のことでした。幕府は、それまで江戸城内の吹上御苑や大手門内にあった大名たちの屋敷を、城外の外桜田周辺へ移転させました。ただし、屋敷の建築費は自前です。この上屋敷は言わば本邸で、大名本人とその家族が住みました。その内部は、表、中奥、奥に三区分され、その構造は江戸城本丸御殿に似せて作られていました。表とは大名家の役所であり、中奥は当主の生活の場、奥は正室やその子供たちが起居していました。これら江戸屋敷の土地は、はじめは幕府から与えられたのですが、それは格式によって面積に差がありました。各大名は建設費用が自前ということもあって、逆に、立派なものが現れました。特に人目につく屋敷の御成門は。豪華に作られました。 . 御成門とは、将軍の訪問を受ける際だけに使用される門のことです。さあこうなると、各藩とも後には引けません。さらに立派な門が、次々と現れました。それを見るための、庶民のツアーがあったと言われます。遂に幕府は、日光東照宮の『日暮の門』以上のものを作らないようにとのお触れを出すほどになったのですから、その豪華さが想像できると思います。いまも赤門の名で広く知られている東京大学の門は、元加賀藩百二十万石上屋敷の表御門で、文政十年 ( 1827年 ) 、徳川第十一代将軍家斉 ( いえなり ) の二十一女の溶姫 ( やすひめ ) が、加賀藩主前田斉泰 ( なりやす ) に輿入れをした時に、溶姫を迎えるため建てられたものです。江戸時代における諸侯邸宅門の非常に優れたものとして、現在は重要文化財とされています。
ところで、すべての大名が上中下 ( かみなかしも ) の屋敷を有したわけではなく、大名の規模によっては中屋敷を持たない家や、上 ( かみ ) ・中 ( なか ) 屋敷の他に複数の下屋敷、蔵屋敷を有する家など、様々でした。中屋敷の多くは上屋敷の控えとして使用され、隠居した主や成人した跡継ぎの屋敷とされました。中屋敷や下屋敷にも上屋敷と同様に長屋が設けられ、そこには参勤交代で本国から大名に従ってきた家臣などが居住していました。その家臣たちも家族連れであり、しかも多い藩ですと2千人から3千人、500世帯くらいが住んでいたというのです。そうなれば、家来たちを町の中の長屋に押し込める訳にもいかず、それなりに大きな建物を必要としたのです。例えば土佐藩の場合、江戸屋敷全体の居住者は3195人を数えたというのですから、さしずめ今でいう大住宅団地が、江戸城の周辺にいくつもあったことになります。大名にとっては本国の居所と同様の重要な屋敷であり、格式を維持するため莫大な費用を必要としていたのです。
明暦の大火後、幕府は大名に請われれば、郊外に避難地を与えました。これが下屋敷です。下屋敷は主に庭園などを整備した別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれました。上屋敷や中屋敷と比較して規模の大きいものが多かったのです。ところで江戸市中はしばしば大火に見舞われているのですが、その際には大名が下屋敷に避難したり、復興までの仮屋敷としても使用されました。この他にも、藩によっては様々な用途に利用され、遊びや散策のために作られた庭園として、あるいは農地として転用される場合もありました。このほかにも、大名が民間の所有する農地などの土地を購入して建築した屋敷は、抱屋敷と呼ばれました。このようにして各藩は、江戸市中から郊外にかけて、複数の屋敷を持っていたのです。これらの屋敷はその用途と江戸城からの距離により、上屋敷、中屋敷、下屋敷などと呼ばれたのです。
そして蔵屋敷です。蔵屋敷は、国元から運ばれてきた年貢米や領内の特産物を収蔵した蔵を有する屋敷で、収蔵品を販売するための機能を持つ屋敷もありました。主に海運による物流に対応するため、隅田川や江戸湾の沿岸部に多く建てられました。これら各藩の江戸屋敷は、江戸の面積の六割を占め、神社仏閣が二割でしたから、町家としては、残る2割しかなかったのです。
それぞれの屋敷の広さには、石高による基準が存在しました。元文三年(1738年)の規定では、1から2万石の大名で2500坪、5から6万石で5000坪、10から15万石で7000坪などとされていました。しかし実際には、この基準よりはるかに広い屋敷も多く、上屋敷だけで103・921坪にも達した加賀藩などの例もあり、厳密な適用はされていませんでした。江戸時代の末期には、全国に300藩あると言われていましたから、単純計算で約900の江戸屋敷があったことになります。「それじゃ全部で、郡山の東部ニュータウン程度か」と思われるかも知れませんが、さにあらず、大名屋敷の坪数はいま示したように、とてつもなく広いものですから、ほぼ、現在の山手線を上回るほどであったと言っても良いくらい広大なものでした。一般の職人や商人は、日本橋やその周辺にまとめられ、大名と町人の居住地は画然と分割されていました。この江戸城周辺にまとめられた江戸屋敷屋敷の群は、もし幕府への反乱軍が江戸へ攻めてきた場合、即その楯ともなり得るものとしたのです。そして江戸の経済は、幕府と神社仏閣と大名屋敷の需要でもつ、大消費都市だったのです。これら屋敷の前の道路や江戸城回りの堀は、それに接する全ての屋敷がそこの管理責任の問われる場所でした。ですから屋敷前の堀で魚釣りをしたり網を打ったりする者がいたら、例え他所者がやっていても、その藩の責任とされたのです。
上屋敷に住んでいた奥方や子供たちは、ある意味人質ですから国元へは戻れません。江戸で生まれた子供たちは、江戸で成長し、江戸で結婚し、江戸で死んでいくことになります。こうなると、いわゆる『江戸っ子』の典型みたいな大名が仕上がります。それは、自分の領地であるにも関わらず、草深い田舎に行くことを嫌がる風潮を生むことになったのです。しかし参勤交代の制度がありますから、行かないわけにはいきません。しかし行ったとしても、「それではしっかり領地での政治をやろう」という気は起こらなかったと思われます。一方、国元は国元で、主君が留守でも政務は着実に執行されています。ですから国元の重臣たちには、主君が江戸から来て「あれこれ」指示されるのが迷惑であると思っていたようです。さらに主君の参勤交代に随行して江戸に来た藩士も江戸で勤務し、やがて江戸で生まれた息子にその職務を譲り、隠居する者も出てきます。彼らは国元に対して、「カネ送れ! モノ送れ!」を、ご主君が必要とされているという大義名分で連発しますから、国元の重役たちは、「我らや領民の苦労も知らず、花のお江戸で遊んでいる連中が何を言うか」ということになります。そのために、国元と江戸在勤の者との間に分裂が発生します。正室の子は江戸でしか生まれませんが、側室の子は国元でも生まれます。江戸にも国元にも男子がいるということから、お家騒動にもなりかねなかったのです。
とは、名の通り江戸にある屋敷のことですが、それには、上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷などがあったのです。これら屋敷の区別がついたのは、明暦三年(1657年)一月十八日に起きた明暦の大火以後のことでした。幕府は、それまで江戸城内の吹上御苑や大手門内にあった大名たちの屋敷を、城外の外桜田周辺へ移転させました。ただし、屋敷の建築費は自前です。この上屋敷は言わば本邸で、大名本人とその家族が住みました。その内部は、表、中奥、奥に三区分され、その構造は江戸城本丸御殿に似せて作られていました。表とは大名家の役所であり、中奥は当主の生活の場、奥は正室やその子供たちが起居していました。これら江戸屋敷の土地は、はじめは幕府から与えられたのですが、それは格式によって面積に差がありました。各大名は建設費用が自前ということもあって、逆に、立派なものが現れました。特に人目につく屋敷の御成門は。豪華に作られました。 . 御成門とは、将軍の訪問を受ける際だけに使用される門のことです。さあこうなると、各藩とも後には引けません。さらに立派な門が、次々と現れました。それを見るための、庶民のツアーがあったと言われます。遂に幕府は、日光東照宮の『日暮の門』以上のものを作らないようにとのお触れを出すほどになったのですから、その豪華さが想像できると思います。いまも赤門の名で広く知られている東京大学の門は、元加賀藩百二十万石上屋敷の表御門で、文政十年 ( 1827年 ) 、徳川第十一代将軍家斉 ( いえなり ) の二十一女の溶姫 ( やすひめ ) が、加賀藩主前田斉泰 ( なりやす ) に輿入れをした時に、溶姫を迎えるため建てられたものです。江戸時代における諸侯邸宅門の非常に優れたものとして、現在は重要文化財とされています。
ところで、すべての大名が上中下 ( かみなかしも ) の屋敷を有したわけではなく、大名の規模によっては中屋敷を持たない家や、上 ( かみ ) ・中 ( なか ) 屋敷の他に複数の下屋敷、蔵屋敷を有する家など、様々でした。中屋敷の多くは上屋敷の控えとして使用され、隠居した主や成人した跡継ぎの屋敷とされました。中屋敷や下屋敷にも上屋敷と同様に長屋が設けられ、そこには参勤交代で本国から大名に従ってきた家臣などが居住していました。その家臣たちも家族連れであり、しかも多い藩ですと2千人から3千人、500世帯くらいが住んでいたというのです。そうなれば、家来たちを町の中の長屋に押し込める訳にもいかず、それなりに大きな建物を必要としたのです。例えば土佐藩の場合、江戸屋敷全体の居住者は3195人を数えたというのですから、さしずめ今でいう大住宅団地が、江戸城の周辺にいくつもあったことになります。大名にとっては本国の居所と同様の重要な屋敷であり、格式を維持するため莫大な費用を必要としていたのです。
明暦の大火後、幕府は大名に請われれば、郊外に避難地を与えました。これが下屋敷です。下屋敷は主に庭園などを整備した別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれました。上屋敷や中屋敷と比較して規模の大きいものが多かったのです。ところで江戸市中はしばしば大火に見舞われているのですが、その際には大名が下屋敷に避難したり、復興までの仮屋敷としても使用されました。この他にも、藩によっては様々な用途に利用され、遊びや散策のために作られた庭園として、あるいは農地として転用される場合もありました。このほかにも、大名が民間の所有する農地などの土地を購入して建築した屋敷は、抱屋敷と呼ばれました。このようにして各藩は、江戸市中から郊外にかけて、複数の屋敷を持っていたのです。これらの屋敷はその用途と江戸城からの距離により、上屋敷、中屋敷、下屋敷などと呼ばれたのです。
そして蔵屋敷です。蔵屋敷は、国元から運ばれてきた年貢米や領内の特産物を収蔵した蔵を有する屋敷で、収蔵品を販売するための機能を持つ屋敷もありました。主に海運による物流に対応するため、隅田川や江戸湾の沿岸部に多く建てられました。これら各藩の江戸屋敷は、江戸の面積の六割を占め、神社仏閣が二割でしたから、町家としては、残る2割しかなかったのです。
それぞれの屋敷の広さには、石高による基準が存在しました。元文三年(1738年)の規定では、1から2万石の大名で2500坪、5から6万石で5000坪、10から15万石で7000坪などとされていました。しかし実際には、この基準よりはるかに広い屋敷も多く、上屋敷だけで103・921坪にも達した加賀藩などの例もあり、厳密な適用はされていませんでした。江戸時代の末期には、全国に300藩あると言われていましたから、単純計算で約900の江戸屋敷があったことになります。「それじゃ全部で、郡山の東部ニュータウン程度か」と思われるかも知れませんが、さにあらず、大名屋敷の坪数はいま示したように、とてつもなく広いものですから、ほぼ、現在の山手線を上回るほどであったと言っても良いくらい広大なものでした。一般の職人や商人は、日本橋やその周辺にまとめられ、大名と町人の居住地は画然と分割されていました。この江戸城周辺にまとめられた江戸屋敷屋敷の群は、もし幕府への反乱軍が江戸へ攻めてきた場合、即その楯ともなり得るものとしたのです。そして江戸の経済は、幕府と神社仏閣と大名屋敷の需要でもつ、大消費都市だったのです。これら屋敷の前の道路や江戸城回りの堀は、それに接する全ての屋敷がそこの管理責任の問われる場所でした。ですから屋敷前の堀で魚釣りをしたり網を打ったりする者がいたら、例え他所者がやっていても、その藩の責任とされたのです。
上屋敷に住んでいた奥方や子供たちは、ある意味人質ですから国元へは戻れません。江戸で生まれた子供たちは、江戸で成長し、江戸で結婚し、江戸で死んでいくことになります。こうなると、いわゆる『江戸っ子』の典型みたいな大名が仕上がります。それは、自分の領地であるにも関わらず、草深い田舎に行くことを嫌がる風潮を生むことになったのです。しかし参勤交代の制度がありますから、行かないわけにはいきません。しかし行ったとしても、「それではしっかり領地での政治をやろう」という気は起こらなかったと思われます。一方、国元は国元で、主君が留守でも政務は着実に執行されています。ですから国元の重臣たちには、主君が江戸から来て「あれこれ」指示されるのが迷惑であると思っていたようです。さらに主君の参勤交代に随行して江戸に来た藩士も江戸で勤務し、やがて江戸で生まれた息子にその職務を譲り、隠居する者も出てきます。彼らは国元に対して、「カネ送れ! モノ送れ!」を、ご主君が必要とされているという大義名分で連発しますから、国元の重役たちは、「我らや領民の苦労も知らず、花のお江戸で遊んでいる連中が何を言うか」ということになります。そのために、国元と江戸在勤の者との間に分裂が発生します。正室の子は江戸でしか生まれませんが、側室の子は国元でも生まれます。江戸にも国元にも男子がいるということから、お家騒動にもなりかねなかったのです。