Rainbow Seeker 

その2



 さて中に入ってまず感じたことは、東洋の子供が珍しいのかパリと違って

娘の方を店員がよく見ることである。次に、置いてある物はすべてイギリス

製というわけではなく、トレドの銀細工をはじめ地元の商品もたくさんある

こと。三つ目にパリよりもマドリードの方が客数が多く、特にこの唯一の百

貨店で買い物をすることがステータスシンボルになっているらしく、一種の

レジャーになっていることである。その点日本と似ている。このようなこと

は以前の旅ではまったく気付かなかった。土産コーナーが一階にあったの

で、いくつかそこで買い、私の皮ジャンパーを買うために上階へ上がった。




 たくさんあり少し迷ったが、店員が日本のように結構積極的に接客するの

で彼が勧める中に気に入ったのがあったので決めた。柔らかい子羊の皮で作

られた品だった。彼はやたらチャックで取り外しできるキャップが付いてい

ることのメリットを強調していた。日本円で6万円くらいだった。次は妻の

を見に行ったが、なかなか彼女の気に入るのが見つからず、パエジャの鍋

(これは今の重宝している)と、娘の人形やおもちゃで案外良いのがあった

のでそれらを買って、明日また来ることにして外へ出た。ともかく私はショ

ッピングには弱く疲れやすい。

百貨店全体の印象を言えば、日本の方が内装にしても接客サービスにして

も、トイレの位置、清潔度にしてもあらゆる点でかなりグレードが上であ

り、またゴージャスである。ただ、ディスプレイに関してはそれぞれ商品の

個性や色彩を生かしてうまく配列してあるなと思った。いったんホテルに戻

り、荷物を置き、少し休み、レティーロ公園へ散歩に行くことにした。早速

革ジャンパーを着て歩いた。疲れていたのでメトロを利用し、SEVILL

Aから次の駅BANCO DE ESPANAまでメトロを利用した。驚い

たことにこれもオリンピックのせいだろうが、地下鉄の電車も含め、通路も

ベンチもあらゆる物が新品できれいだ。おじさんが掃除をしているのをよく

見かける。




 78年頃のメトロは裸電球が露出していて、どういうわけか各窓の上の部

分が常時開いているため、ゴーッという凄い轟音とともに、風が勢いよく入

ってきて、友人と話していても声がよく聞こえなかった。車内はなんとも言

えぬ独特の活気がみなぎっていた。強風は私をすべてから解き放ち、マドリ

ッ(スペイン人はこう発音する)に来たという強烈な印象を私の心に吹き込

んだ。私はその雰囲気が大好きだった。あの頃を思い出すと、懐かしさのあ

まり胸がキュッと締めつけられる思いがする。




 さて、再び郵便局の前に出て来た。そこで写真を撮る。すでに陽は沈んで

しまいかなり薄暗い。風が気持ち良い。散歩道をゆっくり歩き途中で左に折

れ坂を上っていく。ゲルニカのある美術館別館の前の広い道を渡ると、そこ

はもうレティーロ公園である。左右には、あちらこちらにベンチのある緑の

森が広がっているが、木々はそんなに多くない。若干のスロープをぶらぶら

と上っていくと、水をたたえた大きな池があり、古代ローマを彷彿とさせる

アルフォンソ12世像と白い遺跡風建物が対岸の水辺に浮かび上がってい

る。とても美しい。もうあたりは黄昏時で薄暗いがそれでもまだ人の姿は良

く見える。水辺をカヌーで漕いで行く若者もいれば、池の周辺をジョギング

している人もいる。来年1992年のバルセローナ・オリンピックへの熱い

思いが彼らの真剣な眼差しから伝わってくる。私たちのように散歩している

家族連れや老人たちもいる。しばらくして結構冷え込んできたし、腹も空い

てきたので日本料理の「どん底」へ向かうことにした。メトロのRETIR

Oに向かう途中、美しい真っ赤な夕焼けが遠くの空に鮮やかに見えた。





 再びSEVILLA駅の階段を上がって、わがホテル・アストリアスの前

を通り、いつも混雑しているサンジェロニモ通りを渡り、以前の記憶を頼り

にある筋を入る。私の記憶では入って比較的早い段階で左手にその看板が見

えたのだが、どうも見当たらない。どんどん娘を抱いて進み、途中右に曲が

り、一本筋を変えて探してみるがそこにもない。さらにもう一本筋を変えて

みたが、やはり見当たらない。ここでしばし熟考し、そもそも最初の入り方

が誤っていたのではないかと思い、元の地点に戻ることにする。疲れ出し、

首筋に汗が流れる。熟睡した娘を抱いているので、私の斜め掛けのカバンは

だんだん後ろの方へ回っていた。その後ろを妻がついて来る。




 やっとのことで元の場所に戻り、今度は一本左の筋に入ると、すぐに『ど

ん底」の看板が見えた。ところが残念ながら電気が消えていた。まだ早すぎ

たのである。仕方がないので一旦ホテルに帰ることにした。ホテルまで実に

近かった。本当に一本筋が違うととんでもないロスタイムが発生するもので

ある。一時間ばかりだが、ホテルのベッドに横たわり休憩できたのはタイム

リーだった。7時半頃「もうお腹ぺこぺこや」ということで、エレベーター

を降りた。眠たがる娘を抱きながら再度「どん底」の看板の見える所まで来

た。今度はちゃんと電気がついていた。そして、”事件”が起こったのは、

その店の1,2軒前まで来た時であった。突然「あっ、ドロボー」と妻の大

きな悲鳴が後ろから聞こえた。ただ事ではない声に一瞬何がおこったのか判

らず、妻に何か起こったのかと思って振り返った。




 すると「その人があなたのカバンからカメラを盗ろうとした」と腕を組み

ながら言い、視線を私のまさに真横を通って道を渡ろうとしているジャンパ

ー姿のスペイン人にキッと睨むように向けた。私はすべてを了解し「何すん

ね、バカヤロー」とその男に向かって大きな声を発した。するとその男は一

旦こちらを見て、早足で逃げて行き群集の中に消えた。娘もその声で目を覚

ました。妻の一声のおかげでカメラは無事だった。店に入って詳しく事の経

緯を聞いた。それによると、「あなたと私の間にその男がふと入り込み、あ

なたの後ろに急接近しだした。その辺からどうもおかしいと思って彼の挙動

を注視していると、やおら背中に回った私のバッグのサイドポケットに手を

突っ込んだ。(そこにはカメラが入っていて、しかもチャックは途中までし

か掛けられていなかった)それを見るや否や思わず前述の叫びを発した、男

はすごく驚いて振り向いて私をジロっと一瞥し逃げ始めた、多分、あなたの

後ろに私という身内がいることに全く気付いていなかっただろう」というの

である。




 注文した和食が出てきても、まだ興奮が収まらずその話でもちきりだっ

た。そば定食などを食べ、私はアサヒビールを飲んだ。周りの人はみんな地

元の何とかという小型のびんビールを飲んでいるのに気付き、調べてみると

値段も安かった。それにすれば良かったと少し悔いた。定食の味のほうは二

重丸で、私たちの期待を裏切らなかった。1982年の4~5月マドリッド

滞在中、妻とよくここでカツ定食(当時1000円位)を食べに訪れたの

で、それには確信を持っていた。ただ、店内の様相はずいぶん変わった。以

前は入ってすぐカウンターが右側にあり、奥にテーブルや座敷があり、店の

幅が狭く細長い感じだった。それに対して今は、奥行きは同じようだが、幅

が2倍は広くなり、カウンターはなくなって右半分がテーブル、左半分が座

敷となっている。日本料理店の成功例の一つを目の当たりに見た思いがし

た。食後ゆっくり歩きながらホテルに帰り、明日のプランを立てた。ベッド

に入ってもマドリッドの活気ある喧騒がビルの谷間から窓を通して心地良く

聞こえてきた。そして......




 私はある日本人の神父さんとある日本人の女性と3人で歩いたマドリード

の夜を思い出した。前にも述べたように、私は単独でうまくスペインに19

78年6月中旬プエルタ・デル・ソル号で真夜中に入国することができたの

だが、その翌朝、食堂車へ朝食を取りに行くと、日本の女性4人が大きなテ

ーブルを囲んですでに食事を始めていた。私は一人旅の寂しさと身軽さから

そのうちの年配の(と言っても40前後か)女性に「おはよう」と言って話

しかけた。彼女は快く同じテーブルに座るように勧めてくれた。話している

うちに、彼女がパリまでの飛行機の中で知り合った日本人に教えられたアマ

デオという名のホテルのことに話が及んだ。どこに泊まるあてもない私は一

緒に行ってもよいか訊いた。彼女は「良いどころか私も今回は一人旅で少々

心細く思っていたところだから大歓迎です」と言った。側にいた女子学生た

ちにはマドリッドのチャマルチン駅に先に来ている留学生の男性が迎えにく

ることになっていて、彼がどこかホテルを案内するらしい。




 食後それぞれの部屋に戻った。寝台はすでに片付けられていた。タバコを

吸いながら乾いた黄土色の大地に灼熱の太陽が照りつけるのを見る。列車の

揺れとゴトゴトという音が何とも言えぬ旅情をかもし出す。スペイン人に嫌

われたナポレオンは「ピレネーを越えるとアフリカだ」と言ったそうだが、

緑の多いフランスから入ってくると本当にそう思う。もっともアンダルシア

地方やガリシア地方等へ行けば話は別だが。同部屋の米国人とも何やら話し

た。まもなくチャマルチンに着いた。ホームで彼らと合流した。留学生の日

本人男性はホームでちゃんと彼女たちを待っていた。彼らとともに、例の2

階へ上がる。そこで両替をしようとすると、留学生の男が外の銀行へ行った

方が空いていると言うので、みんな彼と一緒に行く。




 両替を済まし、さてこれからどうしようかという話になり、私と年配の女

性(これからA嬢と呼ぶ9はアマデオに直行するつもりだという旨を彼に伝

えると、彼は「私もいくつかホテルを知ってますがまずはそこへ一緒に行き

ましょう」と言った。そこでどのルートでアマデオへアプローチするかの話

になったが、彼とA嬢以外マドリッドは初めてだし、しかもA嬢は夫と以前

来たことがあるがその時はすべて彼に任せていたとのことで、全く地理に疎

く、結局留学生の彼に頼るしかなかった。彼の言うにはメトロでも行けるが

これだけ(7人)いるんだからタクシーで行った方が安上がりで便利だとい

うので、再度駅に戻り2台のタクシーに分乗した。大きな荷物はタクシーの

屋根の上にどんと乗せられ、ゴムの紐で固定された。




 私は助手席に座った。ラジオから陽気なメロディーに乗ってスペイン語の

歌が大きな音量で流れていた。行き先が留学生から伝えられた後、2台のタ

クシーは窓を思いっきり開けて6月のマドリッドの青い空の下を日本で言え

ば銀座にあたるホセ・アントニオ通りへ向かって走り出した。途中信号待ち

の時、突然フロントガラスに洗剤入りの水が撒かれ、小学生くらいの少年が

ガラスを拭き始めた。そして信号が変わる前にすばやく運転手のそばに来て

手を出してお金を請求した。どうするのか見ていると、彼はいくらかその少

年にあげた。左にお城のような立派な石の建造物が見えると、運転手は英語

で「あれはPOSTOFFICEだ」と誇らしげに教えてくれた。みんな

「へぇ~すごい」と感嘆の声をあげた。運転手は満足そうだった。




 右に曲がると上り坂になって道が左右に分れていた。屋上部分にゴージャ

スで洒落た装飾が施された背の高い古風なビルが左右にいくつも並んでいる

のには驚いてしまった。右の方の道を上ってしばらくすると、我われの大切

な目標物であるSEPUという名の百貨店が見えた。そこを右に曲がってす

ぐ左のビルの上の方を見上げると、AMADEOと書かれた小さな看板が目

に入った。すぐにもう一台のタクシーも無事到着した。エスカルゴのように

なっている幅の広い階段を4階か5階まで上がった。目立たないがよく見る

とドアの横にAMADEOと書いてあったのでブザーを押した。まもなくし

て背の低いおばあさんが少しドアを開け、腰に手を置いてしげしげと私たち

を足元から頭のてっぺんまで眺めた。




 「部屋は開いていますか」と留学生が聞くと少しして「ハポネス?(日本

人か?)」と訊き返した。「そうです」と留学生が答えると頭を軽く振っ

て、中へ入れというジェスチャーをした。おばあさんから宿泊費に関する説

明を聞いた後、どういう訳か留学生と3人の女学生は違う所へ行くと言って

去って行った。確か一人部屋で一泊700円くらいだったと思う。トイレは

共同、シャワーは一回100円で利用する時申し出ることになっていた。私

はその安さにもう感動さえした。結局、私とA嬢が残った。パスポートを見

せ3日分を前払いした。その時私がサウス・コリアだと言ってパスポートを

差し出すと問題ないというようなことを言った。




 私の部屋は奥の方の窓のない暗い1人部屋で、その部屋につながる大理石

でできた廊下が歩くとよく響いた。荷物を置いてリビングになっている先ほ

どの部屋にもう1度行くと、さっきのおばあさんが紅茶とクッキーを出して

くれた。名前はアデラさんといい若くて美しかった頃の写真を見せてくれ

た。「Very Beautiful」と言うとにこっと笑った。猫が一匹

いて窓の近くで日向ぼっこしていた。その猫に向かって、「アキ、アキ A

QUI AQUI(ここの意味)、KO,KO」と言ってこっちを見たので

少し日本語が分るのかなと思った。何人かのまた別の日本人がリビングの大

きなテーブルで紅茶とクッキーを朝食にしていた。落ち着いた午前のひとと

きを堪能した。今、自分はスペインにいるんだと実感した。


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