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3・野村騒動
* 野村 増右衛門 (のむら ますえもん)は、 江戸時代 中期の 武士 で 桑名藩 の 久松松平家 の家臣。桑名藩領の 員弁郡 島田村出身。はじめ 郡代 の手代で八石二人扶持という微禄の小者であったが、政治財政の才幹に秀でて文武両道に長じていたことからめきめき頭角を現した。
藩主 松平定重 にも重用され、数年の間に異例な出世を果たして七〇〇石の郡代となり、その勢いは門閥家老を凌いで藩政を牛耳るまでになった。当時の桑名藩では災害が相次いで藩財政が窮乏していたため、野村は藩政改革を行ない、倹約をはじめ、元禄大火による城郭並びに城下の復興再建、幕命による 津藩 との 相模 酒匂川 の大工事の完成、領内町屋川下流の新田開発、員弁郡宇賀川改修による農地の開発、神社仏閣の造営修理、道路河川の修復、地場産業の開発などに寄与するなどの政策を実施した。
宝永七年(1710)三月、豪商山田彦左衛門の世話で藩金二万両を調達するため、野村は江戸に向かった。しかしその留守中に、桑名では公金の横領や農民の搾取、豪華な私生活、一族親族の登用その他様々な嫌疑の訴状が家老などの連名で出され、野村は逮捕されて糾問されることとなった野村は十数箇条にわたって出された訴状に対してほとんどは的確に弁明したが、わずかに会計に関する些細なことで間違いがあり、それが有罪とされて野村は死罪を宣告された。
五月二九日、野村は死罪に処され、さらに一族四四名が死刑となり、関係者に至っては三七〇人余(一説に五七一人)に及ぶ大粛清事件になった 。しかも野村一族の死刑では、二歳から6歳の幼児一二名(養子も含む)という厳しく残酷なものであった。
関係者の処罰でも勘定頭や普請奉行、台所賄頭から馬廻りに至り、罪状に至っても「朝夕野村へ心安く致せし故なり」とされており、野村と親しいだけで処罰(追放・所払い)された者も少なくなかった( 野村騒動 ) 。この事件は桑名藩の公式記録が後年に全て焼却されているために不明な点が多いが、敏腕を振るう野村に対して長期間ないがしろにされた(と思った)譜代家老らの憎悪(私怨)によるものとされている。
この事件により、野村の死から三ヵ月後の閏八月に久松松平家は 越後 高田藩 に懲罰的に移封された 。また 文政 年間に久松松平家が再び桑名に戻ってくると、野村は無罪として赦免され、文政一〇年(1827)に供養塔が建立された 。
17、抜擢家臣の改革の裏工作で謎をうやむやに「加賀騒動」
「加賀騒動」 (かがそうどう)とは、 江戸時代 に 加賀藩 で起こった お家騒動 のこと。 伊達騒動 、 黒田騒動 または 仙石騒動 とともに三大お家騒動と呼ばれる。
加賀藩 ( 前田氏 )は一〇〇万石以上の 外様 の大 大名 であり、 江戸幕府 はその力を削ぐことに力を注いでいた。その一つが目付役として幕府より加賀藩に派遣された 本多家 の存在であった。藩主は背後に幕府の威光を背負った本多家の意向を尊重せざるを得ず、藩の運営は本多家をはじめとする年寄衆を含む重臣会議で決定されることになっていた。
第五代藩主となった 前田綱紀 は藩主による独裁体制をめざし、藩政改革を進めた。一方加賀藩の財政は 元禄 期以降、一〇〇万石の 家格 を維持するための出費の増大、領内の金銀山の不振により悪化の一途を辿っていた。 享保 八 年(1723)、藩主綱紀が隠居し息子の 前田吉徳 が第六代藩主となった。
吉徳はより強固な藩主独裁を目指した。 足軽 の三男で御居間坊主にすぎなかった 大槻伝蔵 を側近として抜擢し、吉徳・大槻のコンビで藩主独裁体制を目指す一方、藩の財政改革にも着手する。大槻は米相場を用いた投機、新税の設置、公費削減、倹約奨励を行った。
しかし、それらにより藩の財政は悪化が止まったものの、回復には至らなかった。さらに、悪化を食い止めたことを良しとした吉徳が大槻を厚遇したことで、身分制度を破壊し既得権を奪われた門閥派の重臣や、倹約奨励により様々な制限を課された保守的な家臣たちの不満はますます募り、 前田直躬 を含む藩内の保守派たちは、吉徳の長男 前田宗辰 に大槻を非難する弾劾状を四度にわたって差出すに至った。
延享 二 年(1745)六月一二日、 大槻を支え続けた藩主吉徳が病死し、宗辰が第七代藩主となった。その翌年の吉徳の一周忌も過ぎた七月二日、大槻は「吉徳に対する看病が不充分だった」などの理由で宗辰から蟄居を命ぜられた。
さらに延享五年(1748)四月一八日には禄を没収され、 越中 五箇山 に配流となる。その後、宗辰は藩主の座に就いてわずか一年半で病死し、異母弟の 前田重煕 が第八代藩主を継いだ。