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23、斉彬対久光の熾烈な後継者争い呪詛事件「お由羅騒動」
「お由羅騒動」 (おゆらそうどう)は、 江戸時代 末期( 幕末 )に 薩摩藩 (鹿児島藩)で起こった お家騒動 。別名は 高崎崩れ 、 嘉永朋党事件 。
藩主・ 島津斉興 の後継者として 側室 の子・ 島津久光 を藩主にしようとする一派と嫡子・ 島津斉彬 の藩主襲封を願う家臣の対立によって起こされた。
事件の名前になった お由羅の方 は、 江戸 の町娘( 三田 の 八百屋 、 舟宿 、 大工 など多数の説がある)から 島津斉興 の 側室 となった人物である。彼女が息子・久光の藩主襲着を謀り、正室出生の斉彬 廃嫡 を目したことが事件の原因とされる。
しかし、これはただお由羅が望んだだけのことではなく、祖父・ 重豪 の影響が強い斉彬を嫌っていた斉興や 家老 ・ 調所広郷 などの重臣達の方が久光を後継者にと望んでいたとされる。彼ら久光擁立派は、重豪同様の「 蘭癖 大名」と見られていた斉彬がこの頃ようやく 黒字 化した薩摩藩の財政を再び悪化させるのではと恐れていたのである。
それに対し、斉彬の早期の家督相続を希望していた勢力もある。壮年の斉彬にいつまで経っても家督相続せず倹約ばかりを強いる斉興へ反発を感じる若手下級武士や、斉彬を高く評価する 阿部正弘 である。 琉球 を実効支配し、外洋にも面していた薩摩藩はこの当時多発していた外国船の漂着・襲来事件に巻き込まれる事が多々あった。
このため、 西洋 の事情に疎い斉興より海外事情に明るい斉彬の藩主襲封が望まれたのである。久光は 文化 十四 年(1817)生まれで、 文政 元年(1818)に父・斉興のごり押しで 種子島家 の 養子 となったが、 文政 八 年(1825)に斉興の心変わりにより種子島家との養子縁組を解消し、島津一門家筆頭の 重富島津家 へ養子に入ることとなった。
名族ではあるが家老どまりの種子島家に対し、重富家の養子ともなれば次期藩主の地位を狙える立場となる。一方で斉興は嫡子である斉彬に対して家督を譲らなかった。これは斉彬が既に将軍家へのお目見えも終了し、 将軍 ・ 徳川家斉 の弟で 御三卿 の 一橋家 当主・ 一橋斉敦 の娘・ 英姫 を正室としていた事もあり廃嫡が不可能とわかり、どうしても斉彬に跡を継がせたくないため、藩主に居続けたものと思われる。
その結果、斉彬は薩摩藩世子という立場のまま四十歳となったが、この頃には嫡子が 元服 すれば早々に藩主位を譲って 隠居 するのが習慣であり、この事態は異常であった。当時、藩政は下級藩士出身でありながら斉興に重用され、家老にまで上り詰めた調所が強引な改革を進め破滅的だった財政を改善していたが、調所は久光を支持していた。
これに対し、国元の若手藩士を中心として斉興と調所に対する不満が高まっていた。斉彬と若手藩士は「斉興隠居・調所失脚」で結束し、 嘉永 元年(1848)、ついに琉球における 密貿易 を 老中 ・ 阿 部正弘 に密告するという、一歩間違えば藩 改易 に成りかねない紙一重の手段に打って出た。
琉球での密貿易は 慶長 十四 年(1609)に藩祖・ 島津忠恒 (家久)の琉球出兵で琉球が薩摩の勢力圏に入って以来、行われてきた公然の秘密で、薩摩藩の主要な収入源の一つであった。
調所は密貿易に商人を関わらせ、利益を上げさせることで藩の借金を棒引きにさせていた。調所は阿部から直接事情聴取を受けた直後の 嘉永 元年十二 月十九日 (1849)、薩摩藩江戸芝藩邸で急死する。これは密貿易関与により斉興が隠居に追い込まれないよう一人で罪をかぶり 服毒自殺 したものとされる。
これにより調所の排斥には成功したものの、肝心の斉興は隠居しなかったため「斉彬襲封」の実現には失敗した。一方、補佐役を失った斉興はさらに斉彬を恨み、是が非でも久光に跡を継がそうと思う様になった。お由羅の方は我が子・久光擁立を計った調所に同情していたらしく、調所の遺児を密かに側用人として召抱えるなどして支援していた。
一方その頃、斉彬は多数の子女を儲けていたもののその多くが幼少の内に死亡しており、生き残っていたのは女子3人だけで、久光の子女が無事に成長していたのとは全く対照的であった。
また、斉彬の実弟 池田斉敏 も早世している。斉彬派の家臣はこれを「お由羅の方が斉彬とその子女を呪ったものである」と考え、お由羅の方及び久光を擁立する家臣を、これを理由として排除しようと計った(事実 呪詛 していたともいう。
当時は高貴な家でも生まれた子女が育たないことは珍しくな斉彬家と久光家に何らかの環境や育児法の違いがあったことも考えられるが、それは当時の医学知識では知る由もないことであった。
ここに及んで斉彬派は江戸家老・ 島津壱岐 や 二階堂主計 といった改革派に加え、藩内若手の期待を得たのに対し、久光派は 島津久宝 ・ 久徳 ・ 伊集院平 ・ 吉利仲 といった斉興側近の家老で固め、調所が築いた安定を堅守しようと鋭く対立した。
嘉永二年(1849)に斉彬の四男・篤之助が二歳で夭逝すると、斉彬・久光両派の対立は正に一触即発の状態となり、特に血気盛んな若手の多い斉彬派による久光派重臣襲撃の噂が絶えなかった。その機先を制するかの様に同年十二 月日 (1850)、斉彬派の重鎮で町奉行兼物頭・ 近藤隆左衛 門 、同役・ 山田清安 、船奉行・ 高崎五郎右衛門 が久光、お由羅及びその取り巻きの重臣らの暗殺を謀議したとの咎で捕縛され、間もなく 切腹 を言い渡された(即切腹となったため謀議の真偽については不明)。同罪状でその他3名が切腹を命ぜられ、引き続き斉彬派約五十名に 蟄居 ・ 遠島 などの処分が下された。
その際に、これを恥じて自殺したものも多い。また、騒動の前に病没していた二階堂は士籍を剥奪されるなど、斉彬派へ徹底した弾圧がおこなわれた。この禍は本国のみならず江戸屋敷まで及び、嘉永三年 四 月二十六日 (1850)、島津壱岐は更迭され 隠居 謹慎を命ぜられたに切腹)。
ここに至って残るは斉彬本人のみとなり、襲封は絶望的であるかに見えた。この時 西郷吉之助 (隆永、後の隆盛)は、父・吉兵衛から吉兵衛が御用人をしており 介錯 を務めた 赤山靭負 の切腹の様子を聞き、血衣を見せられ、斉彬の襲封を強く願う様になる。