歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年10月28日
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カテゴリ: 安土桃山時代






同盟の効果


同盟締結による三者の利益は明らかで、


武田氏では、 信濃 における覇権を確固たるものにするため、 天文 22年( 1553 )から始まる川中島の戦いで 越後国 上杉氏との数次にわたる争いが本格的になった。この合戦では、 甲相同盟 により同じく北武蔵において上杉と対決していた北条と相互に兵を出し、今川氏からも援軍が派遣されている。不利な点は、今川氏と北条氏が三河から下総までを支配しているため、日本海側に領地を獲得しない限り直接海に出られない、又交易出来ないということである。


北条氏では、今川氏との友好関係を取り戻し、北武蔵侵攻において武田氏とは上杉謙信という共通の敵を持つことで甲相同盟により後背の憂いをなくし、上杉を名目上の主と仰ぐ、佐竹・宇都宮・長野・里見などに対して関東の平定を押し進めることが可能となった。


不利な点は上洛する道を今川氏と武田氏に塞がれていることが挙げられる。ただし北条氏はそもそも上洛を志向していないという説が有力である。


また、永禄9年10月26日に今川氏真の名前で駿府の今宿に出された法度に駿河・関東が共に凶作で 伊勢国 から駿府を経由して関東に売却する米に関しては 米座 でなく 商人頭 友野氏 が扱うように命じた規定があり、関東が凶作で北条氏の領国が飢饉に陥った時には今川氏が救援の手を差し伸べていたことが判明する


今川氏では、新たに影響を及ぼした三河の経営など、領内の支配体制を確立しつつ、戦略面においては争う相手を織田氏のみに絞ることが容易になった。


武田氏の太平洋沿岸への進出が事実上不可能であること、北条氏が将来上洛を企画しても陸路では難しいことを考慮すると、三国同盟は今川氏が最も得をすると考えられる。 ( そもそも働きかけているのは今川家の 太原雪斎 である )


その一方で、三国同盟で解決出来なかった問題もあった。例えば、三河・信濃・美濃の国境地帯に勢力を置く、 東濃地方 遠山氏 は隣の信濃の木曽郡・伊那郡が武田氏の支配下に入ると、その傘下に入って美濃の 斎藤道三 に反抗しつつ、三河北部にも度々進出して今川氏と戦っている。


斎藤氏と織田氏が同盟を結んでいる時期には武田氏が遠山氏の動きを抑えつつ今川氏と共同で対処する方針を取ったが、斎藤道三の死後に織田氏と斎藤氏が敵対関係に入ると、遠山氏の動きも活発化して今川氏の三河進出に支障を来たす事態となった。



善得寺会盟


甲相駿三国同盟 は別に「 善得寺会盟 (善得寺の会盟、善徳寺の会盟、または会盟を会談)」と呼ばれることがある。


また「善得寺会盟」を出来事、甲相駿三国同盟を外交状態と、区別して表記されることもある。が、「善得寺会盟」自体の史実性は否定されている場合も多い。


善徳寺は現在の 静岡県 富士市 今泉に所在した 臨済宗 寺院で、創建は 南北朝時代 。善徳寺城と呼ばれる 城郭 でもあった。


今川義元も幼い頃に入山し、後北条氏との争いで焼失するが、その後再建された。


この同盟の功労者として今川氏に仕えた太原雪斎の名がよく挙げられている。雪斎は 善得寺 で修行していたことがある僧で、主君今川義元に武田氏・北条氏との同盟の重要性を説き、武田信玄と北条氏康をも説得したとされる。


そして、三者の会談の場として、権力から中立である寺院がふさわしく、自身とも縁が深い善得寺を斡旋した、というものである。


この三者会談は小説や歴史ドラマなどにも取り上げられることが多く、武田信玄、北条氏康、今川義元の三人が実際に顔を合わせて盟約について話し合った様子が描かれている。


有名なものでは、 NHK 大河ドラマ『武田信玄』 で、三人が富士山の見る方角について和やかにかつ敵愾心を持って会談する場面がある。


しかし、このように戦国大名が直に対面する機会は全体から見ると非常に希であること、この「会盟」の出典が北条側の軍伝のみであり「会盟」の記録に誤った部分があること、またこの時期の武田氏は、すでに上杉氏との争いで予断を許さない状況にあり、信玄の出席に現実味がないことなどから、「善得寺会盟」なる逸話は創作であるとされるのが一般的である。


実際には、太原雪斎の働きかけによって武田氏・北条氏それぞれの重臣が協議を行い、当主の合意が得られた結果、と考えられている。



外交情勢の変化と三国同盟の崩壊


永禄年間には三国を巡る外交情勢にも変化が生じ、今川氏は尾張国内を統一し台頭していた 織田信長 と対立し、 永禄 3 年( 156 )には 桶狭間の戦い において義元が討死し氏真が当主となるが、今川領国は三河において 松平氏 (徳川家康)の自立を招くなど動揺を招いた。


一方、武田氏は永禄4年9月の第四次川中島の戦いを契機に川中島四郡の支配を安定させ、上杉氏との抗争は続くものの北信を巡る戦いは収束していた。


ところが、今川氏真が三河を失い、続いて永禄6年( 1563 年)に 遠州忿劇 と呼ばれる国衆の大規模反乱が起きると、信玄は穴山信君の重臣である佐野主税助に対して秘かに反乱が駿河にまで広がるようであれば(出陣中の上野国から)急遽帰国して「彼方の調」を行う旨を伝えている。






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最終更新日  2023年10月28日 06時42分30秒
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