歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年02月28日
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カテゴリ: 江戸時代





「唐津藩領明和8年一揆」1771年(明和8)肥前国藩領で起った一揆。参加農漁民は1万人とも2万3000人とも言われている。普代藩の唐津藩で、1762年(宝暦12)に土井利里から水野忠任へ藩主交替し、新藩主が転封費用などによる財政窮乏打開策にために年貢増微策を実施した。


これが反対し既得権を守ろうとする農漁民が蓑、笠、鎌などを携え、7月20日、城下町近くで幕府領との境に位置する虹の松原に屯集した。虹の松原一揆とも呼ばれ、要求内容は無年貢地への課税廃止や新規運上の廃止など、水野氏新政策への反対である。


一揆勢は7月24日に解散するが、この後も庄屋層が藩側と交渉し全面譲歩を勝ち取る。首謀者は平原村大庄屋の富田才治らと言う。



◎「虹の松原一揆」 は、1771( 明和 年)に 肥前国唐津藩 で発生した 一揆 である。 唐津城 に近い 虹の松原 (現在の 佐賀県唐津市 )に集結した農民が新税の撤回を要求、藩にこれを認めさせた。なお、「虹の松原」は 明治 時代以後の呼称であり、当時は「二里松原」と呼ばれていた。この事件ももとは「 松原寄り 」と呼ばれていた。


当時の唐津藩主 水野忠任 が課した 農民 への増税に対して不満が高まり、これに対して一揆が計画された。虹の松原は、もともと唐津藩の初代藩主 寺沢広高 の命令で植林された 防風林 であるが、当時は 幕府 の直轄領( 天領 )となっていた。 唐津城 にも近い松原に集団で立てこもることで 武力 的に威嚇するとともに、天領での事件ということで幕府から唐津藩への処罰をも懸念させる事態とした。


また、役人達に発覚しないように、統制のとれた行動ができるよう、緻密な計画を立て実行された。最終的には武力的衝突もなく、一滴の血も流さず、農民は唐津藩に増税を撤回させることに成功した。


しかし、 面目を潰された藩は以後厳しい取り調べを行ったため、その翌年、指導者であった冨田才治ら4人は見かねて首を差し出すことで合意、西の浜で処刑されることでこの事件を終結させた。



唐津藩 (は、 肥前国 唐津を支配した 。居城は 唐津城 佐賀県唐津市 )。 寺沢広高 豊臣秀吉 に仕え、1592の 文禄の役 では肥前 名護屋城 の普請役、後方兵站の責任者を務めて功績を挙げたことにより、1593年に秀吉から名護屋を含む上松浦郡一帯およそ8万3000石を与えられ、 長崎奉行 に任じられた。


慶長の役 には 朝鮮 に渡海して活躍している。1600年の 関ヶ原の戦い では東軍に与して功績を挙げたことから、戦後に 肥後国 天草一郡およそ4万石を加増され、都合12万3000石を領する大名となって栄華を極めた。


しかし広高の死後、その跡を継いだ 寺沢堅高 のとき、 島原の乱 が起こるとその乱が天草にも飛び火し(堅高は 松倉勝家 ほどではないが、やはり領民に厳しい政治を敷いていた)、戦後にそれを 幕府 から咎められて天草4万石を没収される。堅高はほどなくして心労により自殺し、堅高には嗣子がなかったため寺沢家は 改易 となった。


その後、 播磨国明石藩 より 大久保忠隣 の孫の 大久保忠職 が8万3000石で入る。その跡を継いだ 大久保忠朝 は、1674年に 庄屋 が領内を転勤する「転村庄屋制度」を創設、以後この制度は 幕末 まで続けられた。忠朝は 下総国佐倉藩 へ移封となった。


入れ替わりで 松平乗久 が7万石で入り、孫の 松平乗邑 のとき、 志摩国鳥羽藩 へ移封となる。入れ替わりで 土井利益 が7万石で入り、利益から4代目の 土井利里 のとき、 下総国古河藩 へ移封となる。代わって 水野忠任 三河国岡崎藩 より移されて6万石で入った。


1771 年、水野忠任が科した農民への増税を契機に、 虹の松原一揆 が起こり、農民は無血で、増税を撤回させるに至った。忠任から4代目の 水野忠邦 のとき、 遠江国浜松藩 へ移封される。忠邦は、 天保の改革 を行なったことで有名である。


代わって 陸奥国棚倉藩 より 小笠原長昌 が6万石で入り、以後は 小笠原氏 の支配で 明治 時代を迎えることになる。


唐津藩最後の藩主となった 小笠原長行 は幕末期に 老中 ・外国事務総裁を兼任して幕政を担った。しかも1868年の 戊辰戦争 では旧幕府軍に与して 箱館 まで転戦するなど、最後まで幕府に忠義を尽くした人物である。


しかしこのため、長行を歴代藩主として数えず、その養父である 小笠原長国 をもって最後の藩主とする史料も多い。唐津藩は表向きの石高は6万石から12石であったが、実高は20万石前後だったと言われている。また、藩主家が中途半端に変わることが多く、長期間による藩主家の一大支配がなかった土地柄であった。



「富田才治」(1724~1772)1771年(明和8)に肥前国唐津藩領で起こった唐津藩領明和8年(虹の松原一揆)一揆の首謀者と言われる。平原村の大庄屋であり、隣村半田村長頭らとともに一揆指導者として自首し処刑された。


従来、一揆後に書かれた記録によって、富田の深謀遠慮が強調されてきたが、佐賀藩多久領の家臣の一揆見聞録によると、彼は最後まで実力行使を避けようとした。中下層農民の突き上げにより虹の松原に屯集する一揆が起こったとされる。



※「唐津藩領明和8年一揆」譜代大名の唐津藩で土井利里から水野忠任へ藩主交替に伴って、新藩主が転封費用の捻出に年貢増微を実施した。この増税に農漁民1万人とも2万3000人と言われる一揆が勃発した。


蓑、鎌、笠などを携え「虹の松原」に集結した。その後庄屋層も藩側と交渉し全面譲歩を勝ち取った。 農民一揆の首謀者は平原村の大庄屋富田才治、自分が首を差し出すことで事態の収拾がつくのであればと,自首し、西の浜で処刑された。






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最終更新日  2024年02月28日 07時35分08秒
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