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(シーボルトじけん)は、江戸時代後期の1828年にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。
役人や門人らが多数処刑された。1825年には異国船打払令が出されており、およそ外交は緊張状態にあった。
文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した(その後死罪判決を受け、景保の子供らも遠島となった)。
シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。当時、この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられた。
樺太東岸の資料を求めていた 景保にシーボルトが クルーゼンシュテルン の『世界周航記』などを贈り 、その代わりに、景保が伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈った。この縮図をシーボルトが国外に持ち出そうとした。
3「シーボルトの履歴」
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト (ドイツ語 :, 1796年2月17日 – 1866年10月18日)は、ドイツの医師・博物学者。標準ドイツ語での発音を日本語で一般的な方法で音写すると「ズィーボルト」だが、日本では「シーボルト」で知られている。出島の三学者の一人。
生涯
祖父のカール・カスパール・シーボルト。ドイツ近代手術の礎を作った一人と言われる
誕生
神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルク(現バイエルン州北西部)に生まれる。シーボルト家は祖父、父ともヴュルツブルク大学の医師であり、医学界の名門だった。
父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルト。
シーボルトという姓の前にフォン (von) が添えられているが、これは貴族階級を意味し、シーボルト家はフィリップが20歳になった1816年にバイエルン王国(ナポレオン戦争の終結に際してヴュルツブルク一帯を領土に加えた)の貴族階級に登録された。シーボルト姓を名乗る親類の多くも中部ドイツの貴族階級で、学才に秀で、医者や医学教授を多数輩出している。
父ヨハン・ゲオルク・クリストフは31歳で死去した。父の死は1歳1か月のときである。
以後、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられる。妻マリア・アポロニア・ヨゼファとの間に2男1女をもうけたが、長男と長女は幼年に死去し、次男のフィリップだけが成人した。
大学時代
フィリップが9歳になったとき、母はヴュルツブルクからマイン川を半時間ほど遡ったハイディングスフェルト(ドイツ語版)に移住し、1810年ヴュルツブルクの高校に入学するまでここで育った。
12歳からは、地元の司祭となった叔父から個人授業を受けるほか、教会のラテン語学校に通う。
1815年にヴュルツブルク大学の哲学科に入学するも、家系や親類の意見に従い、医学を学ぶことになる。大学在学中は解剖学の教授のイグナーツ・デリンガー(ドイツ語版)家に寄寓した [4] 。医学をはじめ、動物、植物、地理などを学ぶ。
一方で、大学在学中のフィリップは、自分が名門の出身という誇りと自尊心が高かった。
またメナニア団という一種の同郷会に属し議長に選ばれ、乗馬の奨励をしたり、当時決闘は常識だったとはいえ、33回もの決闘をして顔に傷も作った。江戸参府のときに商館長ヨハン・ウィレム・デ・スチューレルが学術調査に非協力的だとの理由で彼に決闘を申し入れている。
植物学との出会い
デリンガー教授宅に寄宿し、植物学者のネース・フォン・エーゼンベック教授の知遇を得たことが彼を植物に目覚めさせた。ヴュルツベルク大学は思弁的医学から、臨床での正確な観察、記述及び比較する経験主義の医学への移行を重視していた。
シーボルトの家系の人たちはこの経験主義の医学の『シーボルト学会』の組織までしていた。各恩師も皆医学で学位をとり、植物学に強い関心をもっていた。
エーゼンベック教授、デリンガー教授がそうであり、エーゼンベックはコケ植物、菌類、ノギク属植物等について『植物学便覧』という著作を残している。1822年にはゼンケンベルク自然科学研究学所通信会員、王立レオポルド・カロリン自然研究者アカデミー会員、ヴェタラウ全博物学会正会員に任命され、フランクフルトに新設の博物館用の標本見本の収集を依頼される。
1820年に卒業したシーボルトは国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業する。しかし既に述べたように名門貴族出身だという誇りと自尊心が強く町医師で終わることを選ばなかった。
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