歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年05月15日
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カテゴリ: 江戸時代





封建社会の当時にあっては、家門の長が主要な部屋の襖絵を描くのが常識であり、この障壁画制作時には松栄は才能豊かな永徳に家督を譲って、自身はすでに隠居の身であったと考証されている。聚光院方丈障壁画のうち、室中(しっちゅう、方丈正面中央の部屋)を飾る『花鳥図』は特に評価が高い。


その後、永徳は天正4 7年(1576 1579年)、織田信長が建立した安土城天守の障壁画制作に携わった。信長亡き後は豊臣秀吉の大坂城や聚楽第の障壁画を制作し、晩年には内裏の障壁画制作にも携わった。これらの作品群は、当時の日記や記録類にその斬新さを高く評価されており、現存していれば永徳の代表作となったであろうが、建物とともに障壁画も消滅してしまった。


現存する永徳の代表作としては、前述の聚光院方丈障壁画のほか、旧御物の『唐獅子図屏風』、上杉家伝来の『洛中洛外図屏風』が名高く、東京国立博物館の『檜図屏風』も古来永徳筆と伝えるものである。


永徳は細画(さいが)と大画(たいが)のいずれをも得意としたが、大量の障壁画の注文をこなすために、大画様式で描かざるをえなかったという。細画とは細部まで細かく描き込んだ絵、大画は豪放な作風の絵と解釈されている。


近世初期の狩野派には他にも重要な画家が多い。国宝の『高雄観楓図』には「秀頼」の印があり、古来、狩野元信の次男・狩野秀頼(生没年未詳)の作とされているが、『高雄観楓図』の筆者の「秀頼」は別人で、元信の孫にあたる真笑秀頼という絵師だとも言われている。


狩野宗秀(そうしゅう、1551 1601)は元秀(もとひで)とも称し永徳の弟で、安土城障壁画制作などで永徳の助手として働いた。


屏風、肖像画などの現存作がある。やはり永徳の弟である狩野長信(1577 1654)は『花下遊楽図』(国宝)の筆者として名高い。狩野家直系以外の絵師としては、川越・喜多院の『職人尽図屏風』の筆者である狩野吉信(1552 1640)、京都・豊国神社の『豊国祭図屏風』の筆者である狩野内膳(1570 1616)らが知られる。また、関東では元信の弟子筋に当たる 小田原狩野派 といわれる絵師たちがおり、前島宗祐や玉楽、官南などの名が伝えられている。



江戸時代前期


狩野興以筆 花鳥図 ホノルル美術館


狩野永徳は父の松栄(直信)に先立って48歳で没した。その後を継いだのは永徳の長男・狩野光信(1565? 1608)と次男・狩野孝信(1571 1618)である。


光信は、園城寺勧学院客殿障壁画などを残し、永徳とは対照的な、大和絵風の繊細な画風を特色とした。こうした画風が制作当時の一般的な好みに合致しなかったためか、『本朝画史』などの近世の画論は一様に光信を低く評価している。


狩野家の頭領である光信が死去した時、その子の狩野貞信(1597 1623)はまだ12歳の若年であったので、光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。封建制度の下では、光信の長男である貞信の家系が宗家となるはずであったが、貞信が27歳で早世し後継ぎがなかったため、以後、幕末に至る狩野家の正系は孝信の子孫となっている。孝信には守信(探幽、1602 1674)、尚信(1607 1650)、安信(1613 1685)の 3 人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、木挽町(こびきちょう)狩野家、中橋狩野家(宗家)の祖となった。


末弟の安信は前述の貞信の養子という扱いで狩野の宗家を継ぐことになったが、絵師として最も名高いのは探幽こと守信である。


守信は、後に出家して探幽斎と称し、画家としては狩野探幽の名で知られる。後に江戸に本拠を移し、江戸幕府の御用絵師として、画壇における狩野派の地位をますます不動のものとした。


探幽は幼少時より画才を発揮し、慶長17年(1612年)、11歳の時に駿府で徳川家康に対面、元和7年(1621年)には江戸鍛冶橋門外に屋敷を得て、以後江戸を拠点に活動し、城郭や大寺院などの障壁画を精力的に制作した。


探幽の作品のうち、江戸城と大坂城の障壁画は建物とともに消滅したが、名古屋城上洛殿の障壁画(水墨)は第二次大戦時には建物から取り外して疎開させてあったため空襲をまぬがれて現存しており、他に二条城二の丸御殿や大徳寺方丈の障壁画が現存する代表作である。これら大画面のほかにも、掛軸、絵巻、屏風などあらゆるジャンルの作品を残している。二条城二の丸御殿障壁画は25歳の若描きで、永徳風の豪壮な画風を示すが、後年の大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、余白をたっぷりと取った穏やかな画風のものである。絵巻や屏風には大和絵風の作品もある。


探幽は写生(スケッチ)や古画の模写を重視し、写生図集や模写画集を多数残している。「探幽縮図」と称される探幽筆の古画模写は多数現存しており、各地の美術館や収集家が所蔵しているが、これらには今日では原画が失われてしまった古画の模写も多数含まれており、日本絵画史研究上、貴重な資料となっている。



江戸時代中期以降


江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していた。


奥絵師 」と呼ばれる、もっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「 表絵師 」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「 町狩野 」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいた。






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最終更新日  2024年05月15日 07時21分00秒
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