歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年05月29日
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カテゴリ: 江戸時代





16、「多田 加助」
(ただ かすけ、 寛永 16年( 1639  -  貞享 3 11 22 1687 ))とは、 1686 (貞享 3 年)に 信濃国 松本藩 で発生した 百姓一揆 である 貞享騒動 ( 加助騒動)を主導した 百姓


別名、 多田嘉助 。一説には 陽明学 を身につけていたと言われる。



貞享騒動


家は代々、 安曇郡 長尾組中萱村の 庄屋 (名主)であったが、参謀格の同郡楡村の庄屋・小穴善兵衛と同様 強訴 を起こした時点では庄屋の身分は取り上げられていた。


安曇野 で数年続いた不作により疲弊した百姓に対してこの年下されたのは年貢の増徴命令であった。


そこで同郡中萱村の熊野権現の拝殿にて密議のすえ年貢減免を訴えることになった。


10月14日(旧暦) 5カ条の訴状 を松本城下に赴き 郡奉行 に提出した。それを知った何千もの百姓が城の周りに結集し、中には狼藉を働いた者もいた。


訴えは4日後にいったん聞き入れられたものの1か月後に覆され、 11 22 日 ( 旧暦) には 首謀者の加助ら8名が 、20人が連座で 獄門 に処せられた。


その間藩主 水野忠直 は江戸詰のため不在であったが、早馬で事の次第を把握しており、約束の反故と捕縛・処刑の裁可を下している。


加助は磔にされるとき、役人から口を極めて嘲弄侮辱されたのに対して、「きっと怨みを晴らしてみせる」といい、 刑場 の矢来の外に集まって涙にむせぶ千余人の領民に向かって、「今後年貢は5分摺2斗5升だ」と絶叫しつつ刑死したといい、加助が 松本城 天守閣を睨んだ瞬間に大きく傾いたという伝説がある。


助ら、 勢高刑場で処刑された者の遺体は川手往還(城下から川手組に通ずる)の新橋付近で、 善光寺街道 沿いの出川刑場で処刑された者は刑場脇付近で、それぞれ梟首された



義民の顕彰


1725 、水野家6代目である 水野忠恒 江戸城 内で刀傷事件を起こし、水野家は 改易 された。翌年 戸田家 が松本藩に入封したのが 義民 顕彰のきっかけとなった。


小穴善兵衛の故地であった楡の 共同墓地 精進場に長尾組・上野組の人々による「貞享義民五十年忌経典二千部供養塔」が建てられた。


明治になり 自由民権運動 が吹き荒れる中、地元 穂高 出身の 松沢求策 が民権家としての加助を 新聞 紙上で取り上げて連載した。


翌年(明治12年、1879年)にはそれを「民権鑑加助の面影」として舞台化させ、松本常盤座で初演。各地で上演された。


1916 には 半井桃水 の新聞小説「義民加助」が 朝日新聞 に連載され、全国的に知られることとなった。


墓は貞享義民社( 長野県 安曇野市 三郷明盛)隣にある。 貞享義民社とは、多田家敷地内で加助らを祀った小さな祠が騒動200年祭を期して旧郷倉跡に移されて加助神社に改められたものがその始まりである。


騒動の後「加助のたたり」を怖れた水野家が屋敷内に祀るために作らせた加助坐像が、後年水野家から加助神社に寄贈され、本尊となっている。宗教法人「貞享義民社」となったのは1960年のことである。


なお同年多田加助旧宅跡が長野県文化財に指定された。1986年11月3日には テレビ信州 制作でドラマ「義勇天を貫く」が放映された(演・ 寺田農 )。


騒動300年祭後の1992年には地元の人達によって 貞享義民記念館 が建てられたが、貞享義民社のすぐむかい側である。






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最終更新日  2024年05月29日 13時53分52秒
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