歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年05月29日
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カテゴリ: 江戸時代




(しんぽんぎみんそうどう)は、 江戸時代 において 備中国 下道郡 (現在の 総社市 )で起こった農民 一揆 、民衆騒動である。


この事件で犠牲となった4人の村民を(新本) 義民四人衆 (ぎみんよにんしゅう)と呼ぶ。


岡田藩5代目藩主 伊東長救 の時に起こった。


江戸時代の 慶長 20年 1615 )、 岡田藩 初代藩主・ 伊東長実 が藩領の備中国10か村にある村民の共有林である 入会山 [1] を順次取り上げ藩有林としていった。


岡田藩領であった同国下道郡新庄村・本庄村(現・総社市新本地区)においては 1661 万治 4年 / 寛文 元年)頃より入会山の藩有化が行われた。藩側は山を造林し、「留山」として村民の入山を禁じた。


さらに約50年後の 1716 正徳 6年 / 享保 元年)頃には、残されていた共有山であった新庄村の大平山・本庄村の春山の大部分を取り上げた。


また、造林を伐採し、割り木・用材とし、それを藩庁のある同郡岡田村(現・ 倉敷市 真備町岡田)まで運搬することを村民に命じた。


それに伴い村民に支払われる運賃は、 1 駄(約42 )4分5厘という低い額であった。


低賃金の上、重労働・農作業その他生活の時間が奪われることになり、生活に支障を来す事態となったため、新庄・本庄両村民(203人とされる)は会合を開き、留山とされた山の返還と割り木・用材運搬の中止を嘆願することを決意。


それらを主な内容とした三箇条の嘆願書を作成し、 享保 2年( 1717 )に藩側へ提出した。しかし藩と村民の意見は対立した。


この事態に同郡川辺村の蔵鏡寺住職など識者が仲裁を行い、数度にわたる藩側と村民側との話し合いが行われた。


結果、一部の山を開放し、下草を取ることが許可された。同年 15 、村民側は会合を開き、開放に制限があることに不満があるも譲歩し、これを受け入れた。


しかしながら、村民は全留山の開放を求めることを誓い、神文誓書を作り、鎌で切った指の血で署名し、これを本庄村にある稲荷山の大岩の下に埋めたといわれる。 


14 、住職等の協力の下、藩と村民の間に正式に調停が成立。役人が来村し、山の引き渡しを行った。


翌享保3年( 1718 )、藩側が開放許可された山において、許可していない木々の伐採行為が行われていることを疑い、取り締まりを強化。同年 12 30 に盗伐が発覚。藩は盗伐調査を行い、盗伐者の出頭を命じた。し


かし、村民からは誰一人として出頭する者はなく、藩と両村民は激しく対立することとなり、 庄屋 が投獄される事態になった。


村民は江戸の屋敷にいる藩主・ 伊東長救 に直訴を決め、 松森六蔵 (まつもり ろくぞう)・ 荒木甚右衛門 (あらき じんえもん)・ 森脇喜惣治 (もりわき きそうじ)・ 川村仁右衛門 (かわむら にえもん)の4人を村民代表として選出、要求書を持たせ、同年 13 に江戸の藩主の元へと派遣した。数日後、4人は無事江戸へと到着し、藩主への要求書提出を成功させた。


嘆願要求は、ほぼ内容通り実現されることとなったが、それと引き替えに4人の村民代表は反上の罪により処刑、その家族は国外追放、さらに財産没収および家屋取り壊しとなることとなった。


享保3年 1718 )、 新本川 の飯田屋河原とよばれる川原で、村民の目前で4人は打ち首によって処刑が実行された。


享年はそれぞれ六蔵77、甚右衛門44、喜惣治36、仁右衛門44だったとされる。


なお、処刑こそ逃れたが、罪に問われた者は多く、60名弱に及ぶ。


村民は4人を義民と呼び、厚く弔い、それぞれの出身地、仁右衛門は本庄村稲井田集落、他の3人は新庄村小砂集落内(西明寺)に墓を建てた。現在も墓が残っている。



年譜


慶長20年( 1615 )7月 - 岡田藩が領内の共有林・入会山を藩有(留山)化し始める。


万治4年 / 寛文元年( 1661 )頃 - 新庄・本庄両村内の入会山の留山化が始まる。


正徳6年 / 享保元年( 1715 )頃 - 新庄・本庄両村の大部分の入会山が留山となる。また、留山を伐採して用木とし、岡田村まで運搬する賦役が始まる。


享保2年( 1717 )1月 - 会合を開き、三箇条の嘆願書を作成、藩へ提出。後日、村民と藩の間で会合が開かれる。


3月15日 - 神文誓書を稲荷山の巨岩下へ埋める。


4月14日 - 村民と藩の間で、制限付きで留山が一部開放する調停が成立する。


4月24日 - 引き渡された山と留山の境界に杭が打たれる。


4月25日 - 村民一同で祝いをする。


9月15日 - 藩が留山の取り締まりを強化。


12月30日 - 村民が藩の指示を守らず、相当数の立ち木を伐採。


享保3年 15 1718 14 - 藩の役人が村の状態を調べる。


2月8日 - 盗伐の疑いがある村民51人に出頭が命じられる。


2月9日 - 村民は誰一人として出頭せず。


2月10日 - 庄屋が投獄される。


2月12日 - 村民は会合を開き、江戸の藩主への直訴を決める。


2月13日 - 逃散を装って、代表者4人が江戸へ向かう。


2月14 - 17日 - 村民一同が、庄屋の帳面につく。


2月29日 - 代表4人が江戸へ到着。


3月4日 - 藩主へ直訴を成功させる。


3月19日 - 村民15人が投獄される。


5月29日 - 代表4人が有井村の牢に投獄される。


6月7日 - 村内の川原にて、 代表4人の処刑が実行される


6月16日 - 代表4人の親族が国外へ追放される。






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最終更新日  2024年05月29日 13時56分26秒
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