歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年06月02日
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カテゴリ: 江戸時代




上で、21日に勅使・
大原重徳 に随従して京都を出発、6月7日に江戸へ到着する。


当地において勅使とともに幕閣との交渉に当たり、7月6日に慶喜の将軍後見職、9日に春嶽の 政事総裁職 の就任を実現させる( 文久の改革 )。


勅使東下の目的を達成したことで、8月21日に江戸を出発、 東海道 を帰京の途上、 武蔵国 橘樹郡 生麦村(現 神奈川県 横浜市 鶴見区 生麦)で イギリス の民間人4名と遭遇し、久光一行の行列の通行を妨害したという理由で随伴の薩摩藩士がイギリス人を殺傷する 生麦事件 が起こる。


閏8月6日に京都へ到着、9日に参内して幕政改革の成功を復命した後、23日に京都を発し帰藩する(9月7日鹿児島着)。イギリス人殺傷の一件は結果的に、翌文久3年(1863)7月の 薩英戦争 へと発展する。


公武合体運動の挫折、文久3年(1863)3月に2回目の上京をする( 3 4 日鹿児島発、14日京都着)が、長州藩を後ろ盾にした尊攘急進派の専横を抑えられず、足かけ5日間の滞京で帰藩する(18日京都発、4月11日鹿児島着)。


しかし帰藩後も、尊攘派と対立関係にあった 中川宮 近衛忠煕 忠房 父子、また、尊攘派の言動に批判的だった 孝明天皇 から再三、上京の要請を受ける。


長州藩の勢力を京都から追放するべく、薩摩藩と 会津藩 が中心となって画策し、天皇の支持を得た上で決行された 八月十八日の政変 が成功した後、3回目の上京を果たす(9月12日鹿児島発、10月3日京都着)。


久光の建議によって朝廷会議(朝議)に有力諸侯を参与させることになり、12月30日に一橋慶喜、松平春嶽、前土佐藩主・ 山内容堂 、前 宇和島藩 主・ 伊達宗城 、会津藩主・ 松平容保 京都守護職 )が朝議参預を命じられる。久光自身は翌 元治 元年(1864)1月14日に参預に任命され、同時に 従四位下 左近衛権少将 に叙任される。


かくして薩摩藩の公武合体論を体現した 参預会議 が成立するが、孝明天皇が希望する 横浜 鎖港をめぐって、限定 攘夷論 (鎖港支持)の慶喜と、武備充実論(鎖港反対)の久光・春嶽・宗城とのあいだに政治的対立が生じる。


結果的に久光ら3侯が慶喜に譲歩し、幕府の鎖港方針に合意したものの、両者の不和は解消されず、参預会議は機能不全に陥り解体、薩摩藩の推進した公武合体運動は頓挫する。


久光は3月14日に参預を辞任、小松帯刀や西郷隆盛らに後事を託して4月18日に退京する(5月8日鹿児島着)。


倒幕の決断、久光が在藩を続けた約3年間に中央政局は、元治元年(1865)の 禁門の変 (7月19日)、第一次 長州征討 慶応 元年(1865)の将軍進発(5月16日)、 条約 勅許(10月5日)、慶応2年(1866)1月21日の 薩長盟約 の締結、第二次長州征討、将軍・ 徳川家茂 薨去 (7月20日)、徳川慶喜の将軍就職(12月5日)、孝明天皇の 崩御 (同月25日)、慶応3年(1867)の祐宮睦仁親王( 明治天皇 )の 践祚 (1月9日)、等々と推移する。


この間、慶応2年(1866)6月16日から20日にかけて、イギリス 公使 ハリー・パークス の一行を鹿児島に迎えて、藩主・茂久と共に歓待し、薩英戦争の講和以後続く薩摩藩とイギリスの間の友好関係を確認する。


慶応3年(1867)の4回目の上京(3月25日鹿児島発、4月12日京都着)では、松平春嶽・山内容堂・伊達宗城とともに 四侯会議 を開き、開港予定の布告期限が迫っていた兵庫(現 兵庫県 神戸市 )開港問題や、前年9月の再征の休戦(事実上の幕府の敗北)以来保留されたままの 長州 処分問題をめぐり、四侯連携のもとで将軍・慶喜と協議することを確認する。


しかし、5月14、19、21日の 二条城 における慶喜との会談では、長州処分問題の先決を唱える(寛典処分を意図する)四侯に対して、慶喜は対外関係を理由に兵庫開港問題の先決を主張する。


同月23、24日の2日間に及んだ朝議の結果は、2問題を同時に勅許するというものだったが、慶喜の意向が強く反映され、長州処分の具体的内容は不明確であった。


この事態を受けて、慶喜との政治的妥協の可能性を最終的に断念した久光の決断により、薩摩藩指導部は武力 倒幕 路線を確定する。


病身の久光は8月15日に 大坂 へ移り、9月15日に帰藩の途に就く(21日鹿児島着)。


10月14日に久光・茂久へ 討幕の密勅 が下され、また同日の徳川慶喜による 大政奉還 の奏請を受けて翌15日、朝廷より久光に対し上京が命じられるが、病のためそれに応じられず、代わって藩主・茂久が11月13日、藩兵3000人を率いて鹿児島を出発、途中 周防国 三田尻 (現 山口県 防府市 )において18日、長州藩世子・ 毛利広封 と会見し 3藩提携による出兵を協定して、23日に入京する。その後、中央政局は 王政復古 戊辰戦争 へと推移した。


明治維新後 維新 後も鹿児島藩(薩摩藩)における権力を握り続けたが、新政府が進める急進的改革に批判的立場をとり、また藩体制の改革を要求する 川村純義 野津鎮雄 伊集院兼寛 等の戊辰戦争の凱旋将兵(下級 士族 層が中心)と対立する。


明治2年(1869)2月、勅使・ 柳原前光 が大久保利通を随伴して鹿児島に下向、その働きかけに応じて上京し(2月26日鹿児島発、3月2日京都着)、3月3日に参内、6日に 従三位 参議 兼左近衛権中将に叙任される(13日京都発、21日鹿児島着)。


明治3年(1870)1月から2月にかけて、久光と西郷隆盛へ上京して政府に協力するよう促すため、大久保が 東京 から帰藩するが、政府に不満をもつ久光と西郷を説得できず、両者の引き出しに失敗する。


同年12月、勅使・ 岩倉具視 が大久保等とともに鹿児島に下向し、久光および西郷に上京を要請する。






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最終更新日  2024年06月02日 06時42分06秒
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