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2024年06月04日
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カテゴリ: 江戸時代






*「前田 利孝」 (まえだ としたか)は、 上野 七日市藩 の初代藩主。七日市藩前田家初代。


前田利家の五男。父・利家の死後、兄の 利長 が、 徳川家康 本多正信 の画策した「家康暗殺計画」の疑惑をかけられたため、その弁明の証として利長の生母・ 芳春院 (まつ)と共に人質として江戸に送られて幼年期を過ごした。


大坂の陣 では徳川方として参戦して武功を挙げたことから、 元和 2年(1616)12月26日、七日市に1万石の所領を与えられた。


寛永14年(1637年)6月4日に死去し、跡を子の 利意 が継いだ。 享年 44歳。利孝の七日市藩領は、加賀の前田本家が 参勤交代 する際の中継地として、以後重要な役割を果たすこととなる。


*「前田 利意」 (まえだ としもと)は、 上野国 七日市藩 の第2代藩主。七日市藩前田家2代。


初代藩主・前田利孝の長男。母は本多康俊の娘。正室は 戸田庸直 の養女( 戸田忠光 の娘、のちに離縁し、 二の丸殿 と通称された)。


寛永2年(1625)、 江戸 滝口邸にて生まれる。寛永14年(1637)、父の死去により跡を継ぐ。 館林城 代( 正保 元年(1644))や 大坂 御加番代を務め、 貞享 元年(1684)に将軍・徳川綱吉より朱章を賜る。貞享2年(1685)4月27日(もしくは4月28日)に61歳で七日市にて死去した。跡を子の 利広 が継いだ。法号は霊雲院殿桃岳宗吾大居士。墓所は 群馬県 富岡市 の長学寺。


土芥寇讎記 』の利広の項目に拠れば、利広は女性に溺れることもなく、「善ありて悪なし」の「誉の将」とされている。一方利広の評価は「父親(利意)と比べて抜群に良い」ともされており、「父親(利意)は美女を好んで弊害が多く、浪費していた」とされている。


*「前田 利広」 (まえだ としひろ)は、 上野国 七日市藩 の第3代藩主。七日市藩前田家3代。


第2代藩主・ 前田利意 の長男。


正保2年(1645年)9月19日、七日市で生まれる。 貞享 2年(1685)、父の死去により家督を継ぎ、藩主となる。


元禄元年(1688年)、 大坂 御加番代を務めた。元禄6年(1693年)7月9日、49歳歳で死去し、跡を長男の 利慶 が継いだ。


土芥寇讎記 』に拠れば、女性に溺れることもなく、「善ありて悪なし」の「誉の将」とされている。その評価は「父親と比べて抜群に良い」「父親と違って浪費しない」とされている。


*「前田 利慶」 (まえだ としよし)は、 上野国 七日市藩 の第4代藩主。七日市藩前田家4代。


第3代藩主・ 前田利広 の長男。


元禄6年(1693)、父の死去により家督を継ぐ。同年11月28日、 下総国 古河藩 主・ 松平忠之 改易 のとき、古河の在番を務めた。


元禄8年(1695年)8月頃に病に倒れる。


嗣子がなかったため、家督をこの時に弟の 利英 に譲ったといわれているが、利英は利慶の死後に家督を継いだとも言われており、定かではない。


元禄8年(1695年)9月7日、江戸滝口邸にて死去した。 享年 26歳。墓所は 群馬県 富岡市 の長学寺。


*「前田 利英」 (まえだ としふさ)は、 上野国 七日市藩 の第5代藩主。七日市藩前田家5代。


第3代藩主・ 前田利広 の次男。


元禄8年(1695)、兄で先代藩主の 利慶 が死去、もしくは病に倒れたときに家督を継いで藩主となったと言われている。


元禄13年(1700年)、将軍・ 徳川綱吉 御目見 した。宝永5年(1708年)1月頃から病に倒れる。嗣子がなく、一族(祖父 利意 の外孫でもあり従弟にあたる)の 利理 を養嗣子として迎えて、2月15日に 七日市陣屋 で死去した。


*「前田 利理」 (まえだ としただ)は、 上野 七日市藩 の第6代藩主。七日市藩前田家6代。


元禄12年(1699年)、七日市藩分家で2500石を領した 旗本 前田孝始 (苗木山前田家の 孝矩 の子で七日市藩初代藩主・ 利孝 の孫)の長男として生まれる(生年は元禄13年(1700)1月18日説もある)。


宝永5年(1708)に第5代藩主・ 利英 (母方で従兄、父方でも又従兄にあたる)が死去したため、その養子として 家督 を継ぐ。


正徳 3年(1713)に大和守に任官され、後に従五位下・丹後守に叙位・任官する。しかし藩政は御用人で娘婿の保坂庄兵衛に任せきりで顧みなかったといわれる。


享保 8年(1723)に 大坂 加番代に任じられ、 延享 4年(1747)には 駿府 加番 に任じられる。


延享5年(1748)6月に 朝鮮通信使 の接待役を務めた。宝暦6年(1756年)11月7日、七日市で死去した。享年58歳。跡を四男・ 利尚 が継いだ。


*「前田 利尚」 (まえだ としひさ)は、 上野 七日市藩 の第7代藩主。七日市藩前田家7代。


享保17年(1732年)、第6代藩主・ 前田利理 の四男として生まれる(生年は 元文 2年(1737)9月27日説がある)。


寛延 3年(1750)12月18日、従五位下・大和守に叙位・任官する。宝暦6年(1756)、父の死去により 家督 を継ぐ。宝暦12年(1762)5月23日に 駿府 加番 に任じられる。


明和 8年(1771)に旱魃で大被害を受け、税収入が激減したため、本家の 加賀藩 より援助を受けた。






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最終更新日  2024年06月04日 08時30分34秒
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