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吉永小百合主演の「母(かあ)べぇ」を観た。それは1940年2月、東京で暮らす家族が楽しい夕食を囲んだ翌早朝、ドイツ文学者である夫が治安維持法違反で検挙され、残された母娘の波乱の日々が始まる…。のだが、此処まで観たとき全く同じ場面を体験した方がいて、その方から生々しい話を聞いた時のことを思い出していた。山岳俳句で有名な俳人「石橋辰之助」の奥様からであった。その話を聞いたのがかれこれ、10年ほど前の事なのにまるで昨日のことのように蘇った。京大俳句事件、俳句弾圧があったという。
「…昭和15年5月3日でございました。朝の4時半、戸を開けようとする音がしました。余りにも早い訪問者ですから、もしや?という気持ちで鍵を開けようとすると、その鍵が落ちるか落ちないかという間に、向こうからぱっと開けて特高4人が土足で入ってまいりました。その内の2人は主人の書斎へ、後の2人は寝ております主人の頭の上にまいりまして「起きたまえ!」そう言っていました。そのうちに書斎の中の本がバタバタと倒れる音がしました。その音を聞き主人は、特別に本を大事にしていた人でしたから「君達は何をするんだ!君達が読んで解る本など一つもない!」と申しましたが、そんなことには耳も貸しません。…そして全部の本を出して、その本を荒縄で縛って、担ぐのは主人でした。…そのまま連れて行かれて…その後の様子は全く分かりませんでした。」と。
80歳はとうに過ぎているという千鶴枝夫人は、凛として静かに当時のことを話してくださったが、私たちには余りにも衝撃的なことばかりで、まるで凍り付いたように誰もが押し黙って聞いていた。俳句を作っていただけなのに、なんという時代だ!。戦時下でマインドコントロールされた婦人運動家たちも、贅沢品撲滅運動とやらを真剣に行っていたという。何もかも狂っていた時代ではなかったのか。現在も先の見えない不安の時代ではあるけれど、私はこの映画の主人公「野上佳代」役の吉永小百合と、俳人・石橋辰之助の奥様の立ち振る舞いとが重なって、熱い思いが何度も込み上げてくるのをどうすることもできなかった。どのくらいの人々がこの「特高」の為に理不尽な苦しみを味わったことだろうか。もう二度とこのようなことがあってはならない!「母べぇ」を見終わって出口に並んだが平日のせいもあってか、若者は一人も居なかった。
映画館を出て繁華街を通り、ゲームセンターでたむろしている若者達を見て「もし、この母べぇを観ても彼らに理解が出来るだろうか?」、「特高」という言葉が耳について離れないまま、ふと、そんなことを思った。
戦争が廊下の奥に立ってゐた 渡辺白泉
