玄鏡

玄鏡

桜語り -12分の4-



 桜の樹の下には死体が埋まっている・・・・・・・・

 ほろり、ほろり、ほろり、はらり

 無数の桜の花弁がその土の褥に降り注ぐ。「さ」は「早」。「くら」は「巫」。つまり神の御巫。春先早々に神の座す処。
 と、すれば。
 その根方に眠る死体は。
 神に捧げられた「御贖物」、つまりは贄。
 さて、それは美しいだろうか?
 ・・・・・・・・・・・・・・・・どうだろう?
 それでも昔から言いますなぁ、桜の花弁は人の血を吸ってより鮮やかな色合いに咲き誇るって。おかしなもので桜は「聖」と「邪」、むしろ「妖」を併せ持つようで。
 黒々とした節くれだった枝々に一葉も宿すことなく、所かまわず薄紅の薄暮にも似た花を宿す。鎮として凛。花霞に周囲の物音さえ呑まれ、花の帳に消えたいと願ったことはありませんか?
 そう思えば。
 腐って膨れ上がった腐乱死体は頂けない。ならば白骨死体はまだ許せるかもしれないですね。桜の根に抱かれて久遠の桜闇を漂う。
 その口元にはうっすらと笑みさえ帯びて。ほら恍惚と解け崩れて行くじゃあないですか・・・・・・ね。

 とはいえ。そんな妙なものを埋めたら桜が弱りますから。まあ、けったいなモノは埋めない方が来年の花を楽しむ為にもイイんじゃないかとは。思いますがね。


Vol.1

「いやですよ、気味の悪いことを言わないで下さい」
「おーや、心外ですね。これでも物書き志望だったんですから。ちょーっと耽美系をきどってみただけじゃないですか」
「・・・・・・・・それが耽美系なんでしたら俺の理解は間違ってみたいです。それにそれって梶井基次郎の有名な一節じゃあないですか」
「何がです?」
「・・・・・・・・・・・桜の樹の下には、死体が埋まっている」
「訊きますけどね、それ以降もしくはそれ以前の文章、ご存知なんですか?」
「うっ、それは・・・・・・・」
「大丈夫です。僕も知りませんから」

 全く、と高橋は嘆息した。それを面白そうに鳥飼と名乗った青年は眺めた。

「それにしても見事な桜じゃあないですか」
「全く・・・・・・・」

 鳥飼の促しに素直に高橋は相槌を打った。
 滝のように花枝が零れ落ちる満開の桜を二人は縁側から見ているのだ。染井吉野の白っぽいような花色よりも僅かに濃い薄紅。それを山桜だと教えてくれたのはこの家の家主。
 風もないのに時折、ちらりほらりと花弁が漂う。山桜は年振りた立派な枝振りで、二人が居る平屋の屋根を越さんばかりに咲き誇っている。
 平屋が桜を抱くのか、桜が平屋を抱いているのか。
 古びた竹垣が眼の高さまで平屋の敷地を覆っているので、この桜を堪能できるのはこの平屋の住人だけ。
 穏やかな日和で空は刷毛で描いたような雲が飛び交うばかり。あえかな花弁を受け止める庭土は深い碧に苔生し、その上に舞い落ちる花弁の落下音が聞き取れないのが不思議なくらいの静謐がその庭に満ちていた。

「最高の贅沢ですよ、これは」

 何だか普段の口調を改めた口振りで高橋が再び嘆息する。傍らの和服姿の鳥飼がそれを見て、笑みを薄い口の端に乗せた。高橋も例に洩れず和服姿ではあるが、しっくりと着こなす鳥飼とは対照的にどことなく浮いた印象が否めない。
 そうあえて言うなら。
 馬子にも衣装?借りてきた猫?どうも違う。そうだ、和服に着られている、という表現が一番正しい。そろそろ高橋の正座は限界を訴えていたし。

「どうぞ、お楽に」

 見透かされたように笑い含みに許可が出る。はぁ、と高橋は遠慮なく足を崩す。借り物の和服の上に高橋の髪からぽたりと雫が落ちた。
 そもそも。こんなところで場違いにも高橋が花見をしているわけがそれだ。


*


 年度末を何とか乗り切り、忙しくなる前の僅かな合い間。それを利用して高橋は郷里に戻った。高橋の大学時代の友人に柚木という男がいるが、その彼がこの季節、しきりと郷里の話をする。それに煽られた形だ。その柚木も高橋が背を押すように帰郷させた。
 で。帰ってみたはいいものの。何しに帰ったと言わんばかりの対応に。憮然とし。
―――実家に帰るのに理由はいらない
 と、渋る柚木を説得した言葉が我が身に返り、することもなしにぶらぶらと近所を散策していたのだ。イイ年をした独身男性のすることじゃない、と自己突っ込みを重ねながらも。まあ、こんな休日も悪くないと独りごちつつ。
 学生時代も足を向けなかった山の方まで足を伸ばし、すっかり春めいて今年も桜が早いよなぁ、と感慨にふけった、その瞬間。

 ざばっ

 何の前触れもなく、まともに。
 水をかぶった。
 何が起きたの?いま?
 瞬きを繰り返し、睫毛から水が滴る。春めいた陽気とはいえ。水浴びしたい陽気でもない。途端にくしゃみが込み上げた。それも無意味に堪えたそのタイミングを見計らうように。

「すいませんっ」
「はくっしょいっ!!」

 かかった声に思わず出るくしゃみ。


*


 怒るべきなんだろうな。たぶん。
 高橋は借り物の和服の裾を直す。ついでに言えばお風呂も借りました。着ていた服は現在洗濯中です。
 でも怒りは湧いてこなかった。
 何たって水をぶっ掛けたのは、こじんまりと可愛らしい老婆で地面に頭を擦り付けんばかりに謝るもんだから、こっちが申し訳ない気分になって。あまつさえ縁側に上がりこんで呑気に花見だ。

「今日はこの桜にお別れに来たんですよ」

 目の前に端然と座った高橋とそう年の変わらない青年、鳥飼がうれしそうに告げる。どうもここの家主の親類らしい。家主が街の親戚を頼ってこの家をでるらしいのだ。結構な年だし、独り暮らしより家族と暮らすほうがいいだろう、と高橋も思う。しかしこの家の桜が忘れられないと鳥飼を付き添いにここに来ているらしい。

「すいませんねぇ、ホントに」

 高橋の背後の座敷から唐突に声がかかる。すっと危なげない足取りで縁側に歩み出る老婆。腰こそ曲がっているが、凛とした気配に思わず高橋の背筋が伸びた。上品な仕立ての和服に足袋の白さが心地よいくらいで。その手の盆を鳥飼がにこやかに受け取る。自然と老婆は高橋と鳥飼の間の座布団に優雅に腰を下ろす。

「いいえ、なんかこちらこそご迷惑かけちゃって・・・・・・・」
「いやですよ、悪いのはこっちですからねぇ」
「あのおばあさんは・・・・・」
「あらいやだ、おばあさんだなんて、そりゃあ、あたしは婆さんですけど、あなたのお婆さんじゃないですよ。あたしはトキっていうんですよ」
「・・・・・・・・・・じゃぁ、おトキさん」

 どこか微笑ましい気分で高橋はしわくちゃの顔に向かってその名を言う。呼ばれた老女はその顔を小娘のように綻ばして笑う。

「若い子にそう呼ばれると照れるわねぇ。これでも若い頃はきれいだって言われたこともあったんですよ、それを思い出すわぁ」

 と、ころころ笑う。

「今でも充分におきれいです」

 普段だったら絶対に口にしない科白を高橋は口走っていた。かっと頬に朱が上る。これは雰囲気に呑まれたんだ。でも正直にそう思った。気負いのないその態度に、その自然体の端然とした姿に、人はこんなに凛と老いれるのかと開眼する思いだった。
 おトキさんは高橋のその言葉に更に嬉しそうに眼を細め、目元にほんのりと紅を乗せた。真っ白な頭髪とそれが本当にきれいだと思った。

「こんなお婆さんにお世辞を言っても何も出ませんよ」

 一頻り笑うと高橋に緑茶を勧めた。


Vol.2
*


   桜の木が人に思いをかけました
   それは儚い儚い思いでした

   桜は花を咲かせました
   それは淡い淡い花でした

   花霞の下で桜は思いを忍びました
   それは強い強い願いでした

   桜は花を散らせました
   それは薄い薄い花弁でした

   その場を離れれぬ木は思いを風に託しました
   風はその意を汲んで人に花弁を届けました

   人はどうだったでしょうか

   花時が終わってから人は
   一つの祠を桜の木の下に奉りました


*


「ま、そういう伝承があるんですよ。この桜には」
「はぁ」

 不得要領に答える高橋。その顔には困ったとでかでかと書いてあるも同然で。つとつとと語るおトキさんに困惑を隠せない。年寄りの話は長いですよと、鳥飼と名乗った青年は意味不明の微笑みを浮かべる。
 いわゆるアルカイック・スマイルというやつだ。特に意味のない東洋人の微笑みってやつだ。
 ふ、と伏せた頬に睫毛が濃い影を落とした。細い刻んだような鼻梁をかすめるように桜の薄紅の花弁がひらりと落ちた。
 丹前とした老婆と白皙の青年。そんな二人の間の空間を埋めるように花弁が流れて行く。容赦なく室内に舞い込むそれに、後の掃除を懸念したが。それより。
 きれいだ。
 ぼんやりとそう意識した途端、心拍数がどっと上がる。
 ちょちょちょ、ちょ、ちょっと待てっ!!俺は野郎と婆さん相手に何思ってんだかっ!!それを表面には表さないものの高橋はびきりと硬直した。

「きれいですねぇ」
「・・・・・・・はぁ」

 思わず素っ頓狂な声を上げる高橋。それをいぶかしげに眺める鳥飼。
 そう言えばっ!!とおトキさんはぽふんと両手を打ち合わせる。

「桜餅があったのよ。あの桜の葉を塩漬けにしたの。桜は葉が匂うからねぇ」
「じゃあ僕が取ってきますね」

 ふわりと鳥飼が笑ってその場を滑るような動作で離れた。
 一人分の空間が空いた縁側。先程まであれほど舞っていた花弁が一枚も飛んでこない。滴るような陽光が畳の上に静かに流れる。

*


   桜は願うより他に術を知りませんでした
   桜はただ一人の為に咲き続けました

   どうか桜の帳に神が降りるのであれば
   ・・・・・・・・・・その神よ
   我のこの切なき願いを叶えたまえ


*


「・・・・・・・・・・・さっきの続きですか?」
「そうですよ」

 おトキさんはまるで童女のように無邪気な笑顔を浮かべた。
 すい、とそのしなびた手を桜に伸ばす。

「ええ、ええ。小さな頃から本当に何度も聞いたお話ですよ」

 ふわりと体重を感じさせない所作で立ち上がり、縁石に降り立つ。

「何度も、何度も繰り返し思いを馳せたものよ。桜が思いをかけるような人ってどんな人だったでしょうって。背は高いかしら、低いかしら、太っていたかしら、痩せていたかしら、声は濁声だったのかしら、それとも詩吟でも呻らせたいようなよい声だったのかしら。どんな着物を着ていたのかしら、とかね」

 足袋に雪駄を引っかける。
 曲がった腰を庇う様子もなく、緩やかな歩みで桜の古木に近付く。一抱えはありそうな樹皮のひび割れた桜を愛おしそうに撫でさする。黒っぽい幹に深い緑の苔がしっとりと息づいていた。

「毎年、毎年、花時にはこの桜の樹の下でそんなことを思ったの。その人が笑うことを思い、涙を流すことを思い、やがては誰とも知らぬ娘を娶って子を成す日まで。もちろん桜と結ばれる結末も。そんなことを思い、春を迎えてきた。そしたらいつの間にか、私も桜もずいぶんとお婆さんになってしまったわ」

 昔は優雅だったことが伺えわれる指。きっと白魚のようなと形容されただろう。まろみを帯びた柔らかな輪郭。でも、その手は。
 ああいうの変形関節症っていうんだっけ。長年の過剰使用で関節がすり減り、ねじれ曲がってしまった指。かつては白かった手も労働の塵が染み込んだように老人班の浮いた甲。
 それは不思議なくらいその手の下の桜に似ていて。
 あれは、自分の守りたいモノをしゃかりきになって守ってきた優しい手だ。

「きっと、優しい人だったと思うの。いいえ、そうに違いないわ。そうでなきゃ、桜がそんなふうに思い続けるコトなんてできないもの」

 両手を桜の幹に置いたまま軽く小首を傾げる。
 垂れ下がった花房が小粋な簪のように見えた。

「それは一目惚れだったのよ。理由もいらないような。すとん、とそこにあるのが当たり前のそういう人だったのよ」

 なんか妙にリアルに聞こえる。これは旦那さんの話かな。


*


   あの人が桜を眺めるかと思えば
   それだけで
   桜は零れんばかりに咲きました

   その桜を人々は愛でました
   だけど桜の思いは儚くて

   人ならぬこの身どうしてこの思いが成就しましょうか
   月に願って人の姿を象ったところで
   それを維持することは叶わぬ願いでした

   やがて帳の奥に哀しげに彷徨う娘の姿があると
   噂が立ちました

   人々はそれは‘魔’だと
   その桜を厭うようになりました


*


「それでどうなったんですか?」

 ふいにかかった声におトキさんはぼんやりと高橋を見やった。高橋はすっかり話に引き込まれていた。桜の抱いていた感情が何やら胸を締め付けた。
 眺めても眺めてもその声は届かず、人ならぬ桜ではそれは恋にすらならない。
 一方的に相手を思い続ける淋しさ。
 それでも桜は幸せだったのだろう。その人が桜を見に来てくれる限りは。

「さあ?桜は悲しんだと思いますよ」

 その声はくぐもり、さっきまでの溌剌とした雰囲気は微塵も感じられなかった。そっとひび割れた樹皮に老いた頭を預ける。

Vol.3
*


   ・・・・・・・・・・桜よ、我は汝の願いを叶えようぞ

   桜の帳に宿る神は桜の思いを哀れに思いました
   その哀しみを見かねてそっと桜に話しかけます

   男をそなたに連れ添わす術があるぞ、と


*


「どう言ったと思います?」

 不意打ちを食らったのは今度は高橋だった。

「えっ?うーん、条件を付けたとか?」
「条件?まーあ、そうですね」

 おトキさんはすいと桜の樹の裏側に廻った。

「一夜だけ実体を与えるから、男を殺して、桜の根方に埋めれば、その神の力で男の魂を永遠に桜の樹の中に閉じこめてやるって言ったんですよ」

 ざっと背筋から血の気が引いた。いい気分で聞いていた昔話の思わぬオチ。と、いうか昔話は最後は怖い展開が多い。

「桜の下に宿る神がすべて善なるよきモノではないんですよ」

 だから桜はどこか空恐ろしい雰囲気を持つ。
 幽玄と夢幻の中に咲きこぼれる桜。

「で、どうしたんですか?桜は?」
「そりゃー、あなた昔話の終わりはめでたしめでたしではないんですよ。桜がそんな機会を逃すと思いますか?」

 思いますかって?そんなこと言われてもなぁ。
 ふわりと黒いものが視界の隅を掠めた。
 それは桜の幹からふんわりと僅かな風に遊んでいるのだ。
 ちょうど人の頭の高さくらいに。
 髪の毛だ。漆黒の夜の闇を含んだ。
 ぎょっとした。
 だって今あそこにいるのは白髪の腰の曲がった老婆で。
 その時、手が。想像した通りのすんなりとした美しい手がこぼれ落ちる花弁を掬い上げるように宙空に伸ばされた。

「どう、思いますか?」

 澄んだ哀しげな張りのある声。似て異なる、だが聞き覚えのある響き。

―――桜がそんなふうに思い続けるコトなんてできないもの

 思い続けるって、思い続けるって・・・・・・つまり。


「そんなこと・・・・・・・・・思いませんっ!!」

 叫んでいた。手が驚いたように引っ込められる。

「だって、だってそんな結末なら・・・・・・こんなふうに桜が・・・・・桜がきれいに咲くとは思えません・・・・・・・・・・・・それに桜はホントウにその人を思っていたんでしょう?ただ見ているだけでもイイと思うくらいには」

 あはは、一歩間違えればス○ーカー。しかも種族を超えてるから質悪いし。

「・・・・・・・・・・そうとは限らないでしょう?言葉を交わすこともできないんですよ?ただ見ているだけなんて・・・・・・・・・」
「鳴かぬ蛍が身を焦がすって言うでしょう?それにこの桜は毎年見事に咲いたんでしょう?付近の人たちがみんなそれを愛でたように」
「人々はこの桜を‘魔’が潜むと倦厭しましたよ」
「・・・・・・・・・じゃあ、どうしてこの桜を愛おしむようにこの庭は造られて居るんですか?ただこの桜を慈しみ、守るように・・・・・・・・・俺は樹のことはあまりよく知りませんけど、樹齢を重ねた桜ってのは大事にされないと毎年咲くことができないって聞きます。花だって毎年、小さくなるし色だってだんだん薄くなる。でもそれがっ!!」

「それは・・・・・・・・・・この花が・・・・・わたしの最後の桜花だから」

 はっとしたように口を噤む。
 桜の幹の向こうで気配が揺れた。
 高橋は裸足であることも忘れて庭に飛び出した。雪のように舞い散る桜の花弁を掻い潜って逃げようとしたおトキさんを捕まえる。

「・・・・・・・・・あなたはそんなことしないでしょう?」

 息を呑んだ。
 果てのないような澄んだ黒瞳。肩までですっきりと切り揃えられた濡れたように光る黒髪。こういう髪型を確か尼そぎというはずだ。真っ白い死に装束のような和服に半襟と帯はこの桜と同じ薄い紅。僅かに紅を含んだような唇。
 魅せられる。吸い込まれるような黒瞳。
 深遠の中にふわりと浮かび上がる桜の花。
 そう思えた。
 それでも。
 高橋が最初に見た老婆の面影を残す。

「そんなことするはずがないです」

 瞳が揺れ、その視線が高橋の掴んだ肘に落ちた。

「・・・・・人は温かいですね」

 その言葉に思わず手を離そうとした高橋ははっと思い直す。手を離したら、このまま桜の帳に消えてしまうだろう。それはダメだ。いや、それどころか放したくない。

「話の終わりを教えて下さい」
「・・・・・・・・・・・いいですよ」


*


   桜は人を呼び寄せました
   人は桜に呼び寄せられました

   そして桜の下に稀に訪なうモノもそれを見守りました

   桜は喜びに打ち震えました
   とうとうこの声が
   とうとうこの思いを
   伝えることができる

   だけどその時

   人を探す声が桜の下に届きました


*


「それからあなたはその人を返したんでしょう?」

 さらりとくせのない髪が流れ落ちて年齢を感じさせない顔を覆い隠した。

「・・・・・・・・・・・・・・わたしは」
「そんなこと・・・・・・・できないでしょう?だって俺にもわかるよ、あなたはそういうことができない。だって取り殺すっていうなら、もっとさっさとしてたでしょ?そうはしないで、ただその人の幸せを喜びとしたんでしょ?桜花を見て笑ってくれたらそれで嬉しかったんでしょう?そのために花を咲かせたんでしょう?

―――こんなにきれいに
―――こんなに儚く

 ・・・・・・・・・・・・・・・ただ一心に」
「・・・・・・・・・わたしはそんなに無欲じゃないわ」
「・・・・・・・・・・・そうじゃないですよ。それだったらこんなに手を・・・・・酷使した?違いますか?あなたはその人とその家族の為に咲き続けたんでしょう?」

 ふっとその若やいだ細い姿態が揺らいだ。水に移った影のようにその輪郭が滲む。

 桜、が。
 ほろり、と散った。

 ほろ、ほろ、ほろ、ほろり、ほろり、ほろり

 まるで涙のように。
 ないているのかと思った。
 でも泣いてはいなかった。

 ふいに腕を振り払う。
 追い掛けるように重心を崩した高橋からついと離れる。

 風が巻いた。

 その瞬間。頬に触れた冷たい感触。
 冷たいが柔らかい、まるで花弁のような。

 離れてゆく刹那、その顔は確かに。
 確かに薄い笑みを浮かべていた。
そして、次の瞬間、そこには桜の樹しか残っていなかった。



Vol.4

 ―――桜は散るの早いですよね

 ぼんやりとする高橋にふいに声がかかった。ひっそりと笑みさえ含んだ声だ。
 振り返ると目の前に和服姿の鳥飼が静かに佇んでいた。その顔に意味があるようなないような不可思議な笑み。

「・・・・・・・花無きを待って、虚しく枝を折る勿れ」
「・・・・・・・・・何ですか?それ?」

 つーか、唐突な人だ。あー、おトキさんのことどうやって説明しようかな。

「杜秋娘だったと思うんですけれど、うろ覚えです。こうですね、咲き誇る花枝があるわけなんです。それの余りの美しさに手を伸ばしてそれを折り取ろうとします。だけれども、その美しさの余り、枝を折ることを躊躇ってしまう。杜秋娘はそれを笑います。この世は一時の夢。それなのにそんな儚さを儚んでも仕方ないよって」
「それで、花が散ってから枝を折っても仕方ないって・・・・・・なんか人ってヘンですね・・・・・・・・・・・・・でも、その気持ちはわかるなぁ。咲き誇る枝を手折れない、その心は。つーか、あれですね。こんだけ引っ張っといて、杜秋娘じゃなかったら大恥ですよ」
「・・・・・・・・まあ、ナンですよ。花盗人は罪にならないってことで」
「・・・・・・・・・・・・・・・公園の桜でも、個人の桜でも勝手に折れば、立派な犯罪ですっ!!」
「あはははー、真面目ですね」
「何がっ?」
「花盗人ってそっち意外の意味でも使うでしょ?」
「へっ?」

―――やっぱりあなた真面目な人だ
 鳥飼は薄く笑い眼を細めた。

「見て下さい」

 促されるままに目の前の桜の樹を見上げる。

 あっ

 と、声にならない声が洩れた。
 桜が、ない。
 いや、正確には。桜の花弁が一枚残らず散っている。黒々とした寒々しい枝だけが残っている。
 ふと、気付けば。高橋の身体は無数の花弁の中に埋もれていて。

「ななななな、なんですかっ!!これはっ!!」
「あなた実は結構ニブイでしょ?」
「へっ?」

 呆れるその鼻先をすっと花弁が一枚舞い落ちた。
 ああ、と鳥飼が顔を上げる。その視線につられて高橋も目を上げる。

―――わずか、一枝だけ

 白い薄紅の花がたわわに・・・・・咲き誇っていた。 

「どうして・・・・・・・」

 鳥飼が白い繊手をすっとその枝に伸ばす。

「・・・・・・・おトキさんの最後の花です」
「えっ?」
「最後の最後にあなたの優しさにおトキさんはこの枝を残されたんでしょうね」
「おトキさんって、えーと、あの、その・・・・・・・・つまり」

 わたわたとする高橋が自己完結するまでを面白そうに見守る。驚く様子もなく笑みを絶やさない鳥飼に高橋の方が諦めた。

「・・・・・・・・・ねぇ、教えて下さいよ。あなたは一体ナンなんですか?」
「狂言回しですよ」
「えっ?」
「おや、本当にわかりませんか?」

 鳥飼と名乗った青年は人を喰った笑みを浮かべた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・僕は、桜の下に稀に訪なうモノです」

 緩く首を傾げ和服の裾から除く爪先で面白そうに地面に散った花弁をかき回した。

「おトキさんの命は尽きようとしてた。最後の最後にあの人にもう一度願いを訊いたんです。そしたらきれいに咲きたいって。だから僕はその願いを叶えたんです」
「・・・・・・・・・・・・代償は?」
「ホントに聞きたいですか?・・・・・・・・・・・・あなたの命ですよ。おトキさんにはもう花を咲かす力が残っていなかったですから。いや、まあ正直な話、誰でもよかったんです。結界に偶然、迷い込んでくる人であればね・・・・・・・・・・でもおトキさんは・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・代わりに・・・・・・・・・・・・・俺に花を託して・・・・・・・?」

 ええ、最後の灯火を燈すように、ね。
 どうされますか?

 問われた意味がわからなかった。桜の白い花弁の中に腰が抜けたように座り、呆けたように鳥飼の端麗な顔を見上げる。その様子に鳥飼は苦笑した。
 僅かに力を込めて、枝をしならせる。
 はらり、とまた花弁が落ちた。
 あっと思い当たる。

「花無きを待って、虚しく枝を折る勿れ・・・・・・・・・・・・」

 桜の樹が最後に残した思い。それを折り取れと、つまり、受け取れと。
 愛しい、だけどつれない男にではなく、高橋に。
 一気に鼓動が跳ね上がった。
 最後に残した花。あなたはそれをどんな思いで咲かせたんですか?

「俺、思うんですけど、その男はおトキさんのこと知ってたんじゃないでしょうか?知ってて黙っていた。だって、その花を受け取ることはおトキさんの命を奪うことでしょ?そう知っていれば受け取れませんよね。それに受け取りさえしなければ、毎年、この桜は男の為にだけ花を咲かすんです」

 ふっと視線をまた落とす。

「それってエゴですよね。人間の。でも男はおトキさんに死んで欲しくなかった。短い人の一生に付き添わせたくなかったんだと思いたいです。そうでなきゃここに残りませんよね、男も。こんなふうに桜を護るように家を残したりもしなかったと思うんです。ここで男が一生一人身だったりしたら、大した美談なんでしょうけど、まあ、その時代じゃそれも無理でしょうしね」

 さわり、と花弁を振り払うように立ち上がる。

「でも、俺は」

 ぺきり

「そこまで無欲になれませんね」

 手の中には折り取った満開の桜の花枝。
 桜は匂わない。
 その葉が匂う。
 だが、綻び始めの僅かな時期、桜の花は匂う。完全に咲きこぼれた花ではダメだ。堅く巻いた花弁が解れた、その瞬間、感に堪えかねるように桜は香る。
 そう言えば。花時、桜は花だけじゃなく幹も、桜の樹全体で紅に染まる、と聞いたことがある。桜から花色の染料を採れるのはその時期の、しかも樹皮からのみ採れるのだと。

 芳しく健やかな香り。
 花枝を胸に抱き込み、その香りで肺を満たした。

 ああ、どうか。
 春という季節がこんなに愛しい感情を連れて来るものとは思わなかった。
 高橋は蹲ったまましばらくそこから動けなかった。
 そして静かに涙する。長い長い時間の中で抱き続けたおトキさんの思い。それでもおトキさんは花を捧げ続けた。それが決して叶えられない思いであっても。あんなにきれいな桜花を。
 だから。
 あの瞬間を。
 あの感情を。
 何を忘れてもそれだけは忘れないだろうと思った。
 忘れらない。
 忘れたくない。
 抱きこんだ桜の花枝がとてつもなく愛しかった。


*

   人はどうだったでしょうか

   花時が終わってから人は
   一つの祠を桜の木の下に奉りました

<終>

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