玄鏡

玄鏡

『 JipanGu 』


 何もこの看板を見るのは、始めてではない。
 私は少し傾いた看板を見てそう思った。
─そう、はじめてではない。
 くたびれた上着のポケットに片手を突っ込み、不揃いな文字をゆっくり読み上げた。

 JipanGu

この看板に従って街道を辿っても、不思議なことに決してあの看板の店(?)には行き着けないのだ。いつだったか友人と試したことだってある。本当はすでに潰れてしまっているのかもしれない。看板だけが残るってことも、たまにあるらしいから。
 でも、こうして畑の広がる街道筋で「JipanGu」の看板を見上げていると、そこに辿り着けそうな気がしてくるからわからない。
 ずり落ちかけた流行遅れの帽子を押さえ、見るともなしにそれを感慨深く眺めた。
 J・I・P・A・N・G・U か─!
 確かマルコ・ポーロ、って人が書いた『世界の記述』とか言う話に出てきた日本のことだったような・・・・どうでもいいんだが?日本の中国語読みがなまったとか何とか。
 胸の内でそんなようなことを考え、軽くかぶりを振る。
 そして私は一歩下がって、看板を見つめ直した。
 JipanGuの看板はかなり古ぼけていた。おまけに、所々赤茶け錆まで吹いていた。「JipanGu」という文字の下には、素っ気ないとも言える右向きの矢印があるだけだった。もとは白地に何色かのレタリングだったのだろうが、今は排気ガスですすけ、雨でグロテスクな筋が幾つも走り、何色か判別できない。ポールはがたがたで今にも倒れそうだ。
 私の背後にはアスファルトの路面、街道の両側に広がる畑、道路を縁取る歪んだガードレール、そして、看板。上手く説明できないのだが、これらはあるべくしてここにある─そんな感じがしてならなかった。
 誰かが意図したもの、というより・・・・むしろ、これは─
 いや、やめた。私は夢が見たいのだ。暑さが頭に来たらしい。思わず自嘲の笑み。
 にもかかわらず、どうしても看板が気になるんだよなあ。不思議だ。こんなにロマンチストだっけ、私は。
 高さは3m程。ひび割れた道路は、私の左右に見渡す限り真っ直ぐに続いている。それに直交して走る畑の畝は、まるで海原のようだ。ここは、ホントに日本か?!
 実際、凄く目立ってもよさそうな看板に私は何故か、全然気が付かなかった。看板の影に踏み込まなければ素通りしていたはずだ。
 背中を焦がす夏の終わりの陽が暑い。心のどこかで、歩き出さなければ汽車に遅れるとささやく声もあったろう。本当は、昔、看板を辿って店を探した事に思いを馳せていたのかも知れない。
 我に還れば、私は看板の矢印に従って歩き出していた。いや、看板を見つける前と同じ方向ではあったのだが、私はこんなだだっ広い畑のど真ん中に来るつもりはなかったのだ。
引き返すために振り向き、そして看板の影に踏み込んだ。
だが、私は引き返しはしなかった。我に還ってからも。
 それが何故だがわからない。諦めにも似た気持ちがあったのかもしれない。

*

 失恋してしまった。全く、突然に。
 3年間続いた。ずっと一緒にいるものだと思っていた。周りもそう騒いでいた。
 予想外の呼び出し。いつもの待ち合わせのテーブル。向かい合った相手が少し黙りがちだったのが唯一の相違点。
 何の前触れもなく、普段通りの口調でぽつんと言われた。
 言葉がよく聞き取れなかった。
 コーヒーカップ越しに相手の顔を窺った。グラスの水滴がきれいだと思った。
 もう一度、決定的な言葉だ。
 かろうじて、受け皿の上にカップを戻す。机の上で絡み合わせた両手が、不思議なくらい落ち着いていた。
 最初の一言で弾みがついたのだろう、相手は堰を切ったように話し出した。
 それが言い訳だと悟ったのは、どれくらいたってからのことだろうか?
 意味のない言葉の羅列。月並みだ。とぎれとぎれに言葉の断片が耳に届く。
 『終わり』だとか、『気持ちが噛み合わない』とか、そのたぐい。
 すでに意味をなさない。
 流れるような相手の言葉を遮るのは、静かな視線だけで充分だった。
「用が他にないなら、これで」
 椅子を後ろに引いて立ち上がった。なるべく相手の顔を見ないようにして。
 そのまま行こうかと思ったが、思い直して珈琲代をポケットから取り出しテーブルに置いた。
 まるで、別れ話を切り出したのはこちらのようだ。そのギャップに苦笑する。
 上手くいってなかったなんて、全く気が付かなかった。それがどうしても理解できない。
疑ってもみなかったのだ。それがいけなかったのかな。
 奇妙な喪失感。
 どうやって、下宿に戻ったのか覚えていない。
 三日三晩、一睡もできず、次の日、死んだように眠りこけた。
 電話で眠りを妨げられる。まさか!と思って飛びついてみれば、何のことはない、原稿の催促だった。
 呆然と原稿用紙に向かう。言葉は一言も出てこなかった。
 書けない。それが、何よりもショックだった。
 ここに居るべき理由はどこにもない。書くことが第二の天性だったとは言わない。が、似たようなものだった。

**

 空が抜けるように蒼い。正午をとっくに過ぎているのだろう。嘘みたいだ。背後の看板は立ち昇る陽炎の中に埋没してしまった。
 そして、ここにも一つ。
 T字路の唯一の道標。ずっと私はT字路の横棒を辿ってきたわけだ。今度は縦棒。畑の畝と平行に東南に向かう。高さは最初の看板と変わりはしない。ただ少し新しい感じかな。
 暑い。灼けつくような陽射し。
 流れ出る汗もすぐに乾きそうな。咽が渇いた。看板の影から動きたくない。かろうじてここだけが涼しい。だが、考えようによってはましな一面もある。
 今日は風が吹いている。それにごく最近に雨が降ったらしく、いくら足を引きずって歩いても土埃はたたない。この点は有り難い。多少蒸し暑いのは仕方ないにしても。
「どちらまで行かれるつもりですか?」
 誰かが私の真後ろで言った。私はかかとを中心に幾分か子供じみた仕草で振り返った。
 問い掛けた人物は、この残暑のきつい真昼時に、黒のぴっちりしたフロック・コートを着込み、眼に痛いほどの真っ白な手袋と大きめのシルクハットに鮮やかな色の蝶ネクタイ、褐色の革靴まで履きこなし、おまけにだんだら模様のステッキ(?)が右下腕部にぶら下がっていた。私はそれらを一目で見て取ると、おぼつかない笑みを浮かべた。
「それがわかればいいのですが」
 相手はかすかに飛び上がった。
「あなたには、あの看板は何と読めますか?」
「えっ・・・・?」
 私は真剣に慌てた。彼は訝しげにこちらを窺っている。
「えーと、あの、JipanGuと見えますが・・・・」
「失礼しました」
 私は音を立てて口を閉じた。益々訳がわからなくなる。彼は耳の上まで被さっていたシルクハットを持ち上げると滑らかに頭を下げた。つられて私も帽子をとった。
 耳!位置がおかしいって!
 なんで、頭頂部に近いんだ!?
 おまけに、彼の耳は反りあがっていて、耳たぶがなくて、柔らかそうな毛まで・・・・
 生えてるなんて!

***

 雨。雨が降っている。
 文句はないが、この前も雨だった。時折、憂鬱になること以外、私はいつも通りと言えよう。
 何だか、嘘のようだ。
 お互いの気持ちは分かり切っていたつもりなのに、今は自分の心さえもわからない。
 単純に本当に思っていたのか、それも幻想だったのか。昔をしきりに思い出す。

 優秀で素直な兄妹達に比べて、私はいつでも親の頭痛の種だった。頭は悪くなかったと自分では思っている。ただ、親が期待したような生き方を、兄妹が選び、親が望み導いた設定をしなかった。
 それだけ。
 私は若くて、私が困らせるたびに、親の怒るでもない溜息に・・・・
 両親の若さを吸い取って行くみたいで、それが嫌で強引に家を飛び出した。
 それなりに苦労らしきものはしたし、恋人と思えた人も見つけた。
 しばらくぶりに家に戻ってみれば、兄がたんたんと言う。
 ほんの2、3月程前に、事故で両親が死んだ、と。
 部屋はいつ私が帰ってもいいようにと、そのまま手を触れた形跡もなかった。
 妹からはひどく罵られた。彼女はどうやら遺産のことで勘ぐったらしい。
以来3年、私は実家に寄りついていない。あっけないくらい早く、私は両親の死を受け入れた。
 私は・・・・私は─

****

 誰かが私の顔の上に濡れた何かを乗せたらしい。邪魔だ。だが、何のために?
 私は眼の上の何かをむしり取った。しばし悩む。変哲もないハンカチだ。ついでに木陰の草の上に仰向けにひっくり返っていることも確認。
 どうやら倒れたらしい。ひどく暑かったし、日射病かなあ。
 おや、私はアスファルトの道路を歩いていたはず。畑の中の一本道。樹なんてあったかしら。介抱してくれたのは誰?そういえば誰かに会ったっけ。
「やあ、大丈夫ですか?」
 聞き覚えのあるような懐かしい声。柔らかい声だ。私はぱっと起き上がった。
 こ、今度は理性で持ちこたえたぞ。他人様の顔を見てひっくり返るなんて、一度で充分だ。ぬいぐるみに決まっている。
 普通、人間の顔をのあるべき位置に猫(それも人頭大!)の頭がついている。
 茶色い縞猫さん。
 この暑いのにたいした趣味だよなあ。お約束通りの反応をしてしまった。
 もうその手は喰わない。
「ええ、御陰様で─」
「暑いですしね」
 あんたのセリフじゃないよ、それ。彼(それとも、それか?)は手袋をした手で三角形の耳をちょっと整えた。手袋は人間用。仮装大会でもあるのかな。
 ハロウィンには早いよ、まだ。彼は私の視線に気が付いたらしい。
「気になりますか?やっぱ、不自然ですよね」
 ひょいと手袋を脱いで見せた。
「ね。指先は詰め物なんですよ」
 どう見たって、猫の手に見える。ぬいぐるみの手袋の上にも一つ手袋。手が蒸れるでしょうにねえ。物好きな。
 た、頼むから爪なんて、むかんといてくれ。三日月型の5cmはありそうな爪。御丁寧にひこひこさせて、気持ちよさそうにばりばり耳の下を掻く。
 私は無理やり自分に落ち着きを強いた。それで、あえてコメントは避ける。
 興味深い人物ではあるが、お近づきになりたいタイプではない。逃げるに限る。

 鴉がいる。電線に止まってこちらを見下ろしている。があ、とか鳴いて飛び立ってくれないだろうか。蒼穹に映える黒い翼。
 細かな水草でびっしり埋まった狭い用水路。水は流れているのだろうか。時折ぽしゃんと何かが水の中に飛び込んでゆく。それも私の足音を敏感に感じ取って。
 ひたひた。ばしゃん。とことこ。ぼしゃん。
 叫びたくなるくらい長閑だ。おまけに私の隣にはでっかい猫が二本足で歩いている。
 これは現実なんだろうか。うっかり横を見てそれを確かめようとすれば、あのでっかいアーモンド型の眼でぎろっと見つめ返し、羽毛のような柔らかい声で訊いてくるだろう。
「何か?」と。
 しくしくしく。彼は一体何なのだろう。そりゃ私だって彼を道連れにする気はなかった。

「それでどこまで行かれるのですか?」
「いや、まあ・・・・その」
「いえいえ、無理にとは言いません。皆さん御自分の道を歩かれるものです」
 私を介抱した木陰で彼はのたもうた。
「どうでしょう。旅は道連れ、世はなんたらといいますし、御一緒に」
「えっ?」
 彼は私の反応を(故意にか?)誤解した。肉球のある手を私の顔の前でぶんぶか振り回した。大きく開いた口(吻?)から二対の犬歯が、見えるぅ・・・・・
「御遠慮なさることはありませんよ。何急ぐものでもありませんし、道々楽しい話し相手がいれば私も有り難い」
 私に断れただろうか?否!!断ったら食いつかれると思ったよ。

*****

 気が合った。話が合った。相手の着ている服の柄から、道ばたに咲いている花の種類についてまで口喧嘩を繰り返した。
 本人たちがどうのこうのと言う前に周りの連中が放っておきはしなかった。皆で遊びに行けば二人で置き去りにされた。気を回しすぎるお節介な連中。二人で何はなくともその連中に対する文句で盛り上がる。話が合うのだから、二人でいれば楽しいし、少なくとも私はそのつもりだった。
 口喧嘩は山ほど。仲直りも山ほど。
 ケンカしてたことも忘れて話しかけてはお互いに笑い出す。まるで小学生のようなぬるま湯にも似た関係。1ヶ月顔を見なければ、その後2週間ずっと一緒にいた。
 いつの間にか街を歩けば、ふと眼に付くものがあいつに似合うんじゃないかとか思ったりしていた。
 それが今ではどうだろうか。隣にいる人を捜し続けている気分だ。正直なところ自分がこんなに寂しがりやだったとは思わなかった。
 私は偏屈だから、独りでも大丈夫、寂しさを感じない。孤独をむしろ好み、悩みなど何もないと。悩むまでもなく、選ぶべきことするべきことは一つしかないものだと、だから悩むだけのエネルギーを浪費するより実行した方が早いと考えていた。
 私は気が強い、独立している、自分の考えを持っている。何度となく周りの連中に揶揄されながらも言われてきた。
 それは違う。違ったのだ。
 やっと、自分でも気が付いた。
 私にはあいつがいたのだ。話を聞いてくれ、悩みを相談してくれるあいつが。そこに思い至らなかった自分が情けない。
 だが、私はあいつに何を与えてきたのだろうか?私は相手に何くれとなく話をしてきたが私は相手の話を聞いていたのだろうか。何もかもわからない。

「写真は嫌い」
 とあいつは言った。
「記念品とか記念撮影とかも、なんかわざとらしいしね」
「わかるなあ、それって」
 顔を見合わせて苦笑。意地を張ったのどっちだろう?だから、何もない。何も。いっそだから切りがいい。贈り物を交わしたりもしなかった。
 そのくせ時計を取り上げられた。まあ、どちらでも使えるようなデザインだったからいいのだが。成り行き上、時計を交換した形になった。
 それは私の手首を今も飾っている。今の今まで忘れていたのだ。
 同じ町に住んでいたわけじゃあない。少し離れていた。趣味の集まりでお互い知り合った。だから、声を聴けば嬉しかった。会えば嬉しかった。
「もしもし、今何してる?」
 無限の問い掛け。繰り返す日常会話。それに比例して廻りとの付き合いが希薄になってゆく私。それで平気だった。
 関心が薄い、執着がない。そういって、あいつは私をからかった。本当はもっと気取らない付き合いがしたい。その必要はなかったが。
「─あのね、あのさあ・・・・・」
 どうしても、その先は言葉にならなかった。私だけじゃなく相手も。会話が途切れ、その度に宙に浮く二つの思い。

******

「それで何処へ行くのです?」
 彼は慎重な手つきでシルクハットを頭上に被りなおした。耳が収まりが悪いのだろう。
 心外そうに彼は私に向き直りまじまじと見つめる。
 な、なんか悪いこと言ったかな。だが、彼は私を見ているのではなかった。私の背後の木を見ているらしかった。
「とりあえず南下ですね」
 振り返ると、JipanGuの看板があった。確かにさっきまで葉を青々と茂らせた樹だったはずなのだが・・・・・傾いだ看板を信用していいのだろうか?彼は看板を呆けたように見上げる私の横を猫らしく悠然と通り過ぎた。
 私の鼻先を茶色のステッキがかすめる。縞模様の柔らかいしなやかな毛皮に覆われうねっている。彼のフロック・コートの腰の辺りは燕尾服のように二つに分かれ、そこからそのステッキが彼の後を追って行くのだ。つまり、しっぽだ!!思わず口走る。
「あの、引っ張っていいですか?」
「何をです?」
 私は無言で指さす。彼はさすがにむっとしたように
「いやですねえ、そんな御趣味があるのですか?」
 どんな御趣味だ?!彼は大事そうにしっぽを抱え込む。その手の中で先端が彼の気分を表明するようにうねくる。やな、思い出でもあるのでしょうか、ねえ。
「ま、まさか冗談ですよ。冗談。やだなあ~」
 私は乾いた笑いを漏らす。彼はそうですかと口の中で言って私の隣りに歩調をそろえた。だが、私の手の届く範囲に彼のだんだら模様のしっぽは近寄ってこなかった。しばらく、用心深く。

 何もない。怖いくらいだ。行けどもゆけども畑、畑。畑。車だって通らない。何故なんだろう。私の隣の御仁も手に持った藁しべかなんかをふりふり鼻歌混じりにいい気なものだ。独り涼風に吹かれた粋人の乗りだ。私なんかうだるような暑さにすっかり根をあげているというのに。
 澄んだ蒼穹は果てしなく広がり、高い高い風が街道を走りすぎるのみ。照りつける陽光とそれを照り返す灼けたアスファルト路面。どこまでも一直線に続く。並行して走る狭い用水路。水草越しに光るねっとりとした水面。畑はいつしか蓮畑に変わっていた。
 どうりで水の匂いがするはずだ。
 どこか、懐かしい匂い・・・・決して、香しいとは言えないが、いつかいつだったか嗅いだことがある。あれは、─そう、あれは・・・
 私は今自分が何処で何をしているのかすらも忘れ果てた。
 灼けたアスファルトの匂い。きつい、きついタールの匂い。日向臭い・・・・
 熱く陽に灼けたアスファルトに降り注ぐ雨。降り始めのほんのしばらくの間の幻。
 いつもより雨の多かった夏。梅雨時。小さな両手一杯にネジバナを摘んだ。
 雨が降り出すまで遊び、いつでも陽に灼けたアスファルトの匂いを突っ切って、家まで走って帰った。あの時摘んで歩いた草の匂いまで、鮮やかに脳裏に蘇った。
 郷愁・・・・と、言うのだろうか、これは─? 
 すべての想い出が粉々に砕け散って、ただ目の前に積み重なってしまったかのようだった。軽く頭を振る。
 だから、どうだというのだ。あれは、すべて終わってしまったことなのだ。
 指先から、手首から伝わってくる金属の冷たさだけが現実だった。

*******

 二人で時々ドライブに行った。春に、夏に、秋に、冬に。山に、海に、街に。映画を見に行くよりしばしばと。いつしか廻りの冷やかしを苦にして町中に行くのを嫌がりだした。会うときもこっそり。定期的に取る連絡。
「私達、変な関係よね」
「いいんじゃあない、こういうのも」
「悪くはないけど」
「実は単なる相談係だったりして」
「う゛ーん、確かに」
 共通の友人の噂話。他愛もない喧嘩。そんなことが続く限りわざとらしいくらい触れあうの避けるようになった。
「ちゃんと話聞いてる?」
「そっちこそ?」
「ふん、気取り屋」
「意地っ張り」
「甘えたいんでしょ?すねっ子。妙に見た目老成してるくせに芯は弱いよね。聴いたわよ、推定年齢200才以上。幼少の頃は食料自力調達、長じてからは人力車が一番ハイカラな乗り物だったって。少しは文明に慣れたかしら?」
「大きなお世話だ。君に言われたくないね。側に何か生き物飼わなきゃ一人暮らしできなかったのはどっちだよ」
「情愛が深いって言ってよ。私にはあの瞳の訴えは無視できなかったわ」
「やっぱ、君の本当の思い人はあの子だね。虎縞くん」
「あらっ、いい友人だわ?」
「どっちが」
「こっちが」
 互いが互いを口実にしていた側面もある。断りたい約束、うるさ方の忠告。それらをかわすのに格好の。
「だめよ、彼と約束があるもの」
「悪いな、先約があってね」
 その度に実際に会っていたかどうかは怪しい。別段、それが問題になるわけでもないだろうが。

 会う度に話の種は尽きなかった。なのにいつからともなく、どちらからか沈黙を恐れるようになった。私達は友人から始まって、友人で終わる約束だった。
「二人で居るほうがいいね。あいつらもうるさくない」
「そうね、じゃあ本当に好きな人ができたら?」
「うーん、そうだなあ」(きみはどうしたいんだい・・・・・・)
「どうしようかしら」(わからない・・・・・)
『その時はお別れってこと』
 声だけが見事にそろった。それで笑い出す。

********

「カーニバルですよ」
 と、彼は私の足を留めた。へっと私は彼の帽子を見つめ、前方を見つめ、後方を振り返り、もう一度彼の顔を眺めた。何があろうはずもない。
 真っ直ぐのアスファルト二車線対面の道路とそれを縁取る白いガードレール。その左右に無限に広がる畑。一方が水を湛えた蓮畑でもう一方が乾いた畝に野菜がうなだれて茂っている。通る人影、自動車一台とていない。所々に点在する倉庫、あるいは人家もむっつりと夏の日差しに黙り込む。
 そう、降り注ぐ灼け付かんばかりの陽光。ものの影が歪み、色を失うほどの。
 ここは一体どこなんだろう。私はどこへたどり着くのだろう。一直線に続きながら果てのない道と、要所要所にありながら決してたどり着けない看板を追って。
「ほらほら、踏んづけます」
 私の右上腕をぐいと引く。あの、爪が食い込んでるんですけど・・・アクリル樹皮の作り物かしら、本当にほんとによくできてるよなあ・・・?
「あの何を?」
「見えませんか?」
 逆に彼は反問し、私の足下を指差した。何が見えるというのだろうか?
「あっ、蟻の行列ですか」
 彼は答えず耳を澄ますように小首を傾げた。なるほど、足下には乾いた土の上を黒い川のように蟻が一本の行列を作って歩いている。おかしい、おかしいとは思っていたがここまでやばい人とは思わなかったなあ、困ったなあ。
 だからといって逃げれない。腕を捕まれたままだし。何と言ってもどこへ逃げる。一番の問題だ。この人はこのままこの蟻の行列をやり過ごすつもりだろうか。
 暑いし、仕方もないし、はっきり言えばどうでもよかった。ので、蟻さんの行列の見物だ。隣の御仁は何やら嬉しそうだし。
「意外と真っ直ぐ歩かないものですねえ。ところで跨ぎこしちゃいけないものですか」
「そんな、びっくりさせてしまうでしょうが!」
 彼は論外という口調で私を諭した。蟻が驚くかいねえ。目の前の蟻はだいたい全部が荷物を持っていて、それでなかなか賑やかだ。自分の躯よりも大きい何やらひらひらしたものを担ぎせかせかと先導を切る蟻。その後から頻りに触覚を振り回しているものの何も持たずに偉そうに行く蟻。一塊り、二塊りとグループを作り延々とその後に続く。彼らはこの広いアスファルトの路面を横切るつもりだろうか。
「・・・・・・・・・・」
 と、その時、私の耳に楽隊の調べが届いた。そして、目の前の蟻がすっと薄い膜を被ったように姿を変えた。黒っぽい揃いの服を着た小さな小さな一団に、先頭が旗を振り、指揮者の率いる楽隊がその後に続き、その後から様々な扮装の芸人集団が賑やかに通過する。
 そんな・・・・
「どうしました?」
 どうしましたってそれ私が聴きたいよ。真剣に眩暈がする。
「暑くないんですか?」
「そうですねえ、ぽかぽか陽気ですし」
「どうかしてますよ!」
 彼は面食らったように眼をしばたいた。
「何がですか?」
「何がって・・・・・・・」
 私は何をやってるんだろう。自分より頭一個分背の高い猫の着ぐるみと鼻付き合わせて騒いだところで・・・・・・・彼の背後の畑の隅でたんぽぽが風に揺れている。私は大慌ててで私の背後を振り返った。
 陽炎の立ち上るアスファルトの路面。そこをごうっとトラックが走りすぎた。鼻を突く排気ガスの異臭、舞い上がる粉塵。伸びすぎた道端の草が長く折れ下がり、その穂先は夏の日差しに灼かれ黄色く乾いている。照り付ける日差しと照り返す陽光。虫の一匹、花の一輪も咲くでもない夏の終わりの道路端だ。道路脇の水路はよどみ、何やら訳の分からぬ水草やら藻が繁茂していてその匂いが届かぬのが有り難いくらいだ。
 私は向き直る。
 水を含み柔らかに青める若草がすんなりと芽吹き、その穂先は陽光に溶けんばかりに瑞々しい。目も綾な早春の名もなき草花がゆかしくその足下を飾る。彼のシルクハットをかすめて飛んだ白い影は紋白蝶だろうか?潤むような芳醇な風をはらんだ陽光が惜しみなく湿気を帯び黒々とした畑地に降り注ぐ。水草に閉ざされる前の水路が涼しげな水音を低く、だがしかし、聞き逃せないほどはっきりと私に届ける。
「そんなはずはないんだ。そう、確かに暑かったし、でもこんな」
 彼はぶつぶつと騒ぎ出した私を知らない顔で
「やあ、行ってしまいましたねえ」
 次いで私にむかってぐっとかがみ込み、おもむろに時計を取り出した。
「どうされます?私はもう行きますが、あなたはどうしたいのですか?」
 その時計は懐中時計だった。これ以上はないくらい私は混乱する。逆上と言ってもいい。
「道案内人は白兎と相場が決まっているのだが、猫ですか!」
 彼の顔面に血が昇った。(?と思うのだが、毛皮でよくわからんのだ、毛が逆立ったというべきだろうか?)
「猫ですと、いま猫とおっしゃいましたか?」
「?」
「あの四つ足で歩く輩ですか!」
「いえ、あの・・・・・」
 私にのしかからんばかりの勢いだ。かっと犬歯がむき出しになり、髭がぴんぴんに左右に広がる。
「私は二足歩行の直立猫族です」
 どう違うわけ?それが。
「もう行きます。不愉快です」
「えっ、ちょっとすいません。待って下さいよ」
 と、私は慌てて奇妙な連れを追いかけた。

********

 泣きながらあいつが電話してきたのはいつだっただろうか。春、それとも冬。まだ寒かったような記憶がある。
 会いたい、という。やっぱり会いたくない、とも言う。声を殺して泣くとも泣く。苦しげな電話の向こうのくぐもった声はまるで夢の中の会話のように意味を汲み取れない。
 手放しで泣いてくれる方が幾分か楽かも知れない。実際に涙は出ていないだろう。
 私は相手をなだめ、場所を聞き出し会いに行った。
「やあ」
 と私に笑いかける影。
「本当に来てくれるとは思わなかった」
 指に挟んだ煙草から紫煙がうっすらと立ち昇る。その声は平坦で何の感情も推し量れなかった。私はとまどいを隠す。
「何だ、来なくてよかったか?」
「いや、来てくれて嬉しい・・・・・・」
 闇に沈み、沈黙に眠る夜の公園。プラスチックの安物のベンチは私が腰を下ろすと抗議するようにかすかに軋んだ。
「どう、したの?」
「・・・・・・・・」
 言葉を濁す。その先を続けないかと待つ私。ああ、と言って私に相手は煙草を差し出した。煙草は買ったばかりらしく、幾らも減っていない。

 いま、思い出しても相手が何故、泣くような思いで私を呼びだしたのか、そのくせ私にその訳を話さなかったのかもわからない。話せなかったのか。話したくなかったのか。
 それとも・・・・・

「ごめん」
 声だけが涙にかすむ。その眼は乾いていた。私をしっかりと見据え、剥き出しになった魂の奥底まで私に見せつけた。その眼に答えることは私もまた同じものを相手に提供することを意味する。
「いや、そんなことは─」
「頼む、頼むから。今だけでもいいからここにいて。もう何を望んでいいかわからない。
だから・・・・」
 だから、側にいた。私でなくても良かったのか?私であって欲しかったのか?
 私は後者でありたかった。だが、私は相手に何を与えれたのだろうか?私に慰めと安逸とを望んだ相手に対して。
 腕にかけられた相手の指は冷たかった。吸い慣れていない煙草はただ悪戯に灰になって行くだけだった。

*********

「おや、ちょっとやっかいなことになりそうですね」
 私の失言に怒った急ぎ足を崩さずに彼はつぶやいた。
「何がですか?」
 暑さとそれから来る疲労で私の声は彼のそれに劣らず不機嫌だ。彼はぴたっと立ち止まり、足下を指差す。またしても、蟻の行列かと思えばそこに看板があった。
 傾いでいるのは今までとさほどの違いはない。相違点はそれが私の膝までしかないと言うこと。そして看板全体が矢印になっていて、それが複数であること。
 彼は再び懐から懐中時計を取り出した。
「困ったな、遅れそうですよ」
「お茶会にですかあ?」
 最初は東方見聞録、お次は不思議の国かい!!なんて、底の浅い企画だ。絶対、何かのイベントか、テレビだ。そうとしか考えられない!!!!
「いいえぇ。まさか?」
 彼は楽しげに目を細めた。かちっと蓋を閉める。
「ここは迷いやすいんですよ。あなたはどっちへ行くのです?」
「どっちって?」
 看板を見下ろす。文字がくすんで見えない。私は背後の彼を振り返る。
 陽光に目を閉じ、顔を仰向けた彼の頬に斑に木漏れ日が影を落とす。その彼の左右には一抱えもありそうな見事な幹をもった落葉樹林が広がっていた。思索を求めて歩き回る学人の風情だ。散り敷いた落ち葉は柔らかくその根方を埋め、透けるような陽光に溶けて行きそうな新芽がすんなりと伸びる。
 私は背後を振り向かなかった。振り向けばそこには乾いたアスファルトの路面があることがわかっていたからだ。
「私はもう行きますが、あなたはどうされるのですか?」
 彼はやんわりと私に告げた。私は答えない。答えれない。背後でよどんだ水の中で何が跳ねた。蓮畑だもの。
「どこへ、行くのです?」
「約束があるのですよ。これをある人に託されたのです」
 彼は手の中の懐中時計を私に見せた。銀色のごくシンプルな飾りのない文字盤もそっけない鎖も味気ない、安物だ。すぐにねじが緩んで遅れてしまうのだ。
「これを?」
「ええ、本来の持ち主に返してもらいたいと願われたのです」
「ここはどこですか?」
「街道ですよ」
「そうじゃなくて・・・・・」
 彼は静かに私を見返した。手の中で再び蓋を閉じる。
「もういらない、と?」
「さあ、どうでしょうねえ。人は過去なしでは生きられませんけど、過去を精算せずに引きずって生きることもできません」
「そうでしょうか?」
「私にはわかりませんよ」
 そうでしょうねえ、あなた虎猫だもの。
「思い出から逃げないで欲しい、と。過ごしてきた時間を嘘にしないで欲しいと言付かりましたよ」
「どちらへ行くのです?ここは迷いやすいと言ったでしょう?」
 彼は私を咎めるわけでもなくそう訊いた。わからないと答えかけて私はもう一度看板を見た。
「道案内を願えますか?」
「あなたはこれを受け取るのですか?」
 彼は私に昔、私のものであった懐中時計を差し出した。

**********

「疲れた」
「だって、思えば思うほどあんたは遠くなるもの」
「嘘ばっかり、何が親を見ていられなくて、よ。親の期待はずれの子だから家を出たって、笑わさないでよ。違う、そうじゃない。あなたは・・・・」
「問題を先送りにしてるだけよ。何も解決してない。いいかげん、気付いてよ」
「私はあなたの何なの、都合のいい言い訳用の存在?私を見てよ、私はここにいるのよ、私に触って御覧なさいよ?ただ、となりに黙って座ってても、どうしたの、の一言も言えないのは誰よ?」

 きつい尖った声が耳の奥に蘇る。

「時間を取り替えた?」
「そうね。そうなるかな。私の時計は私の時間を。あなたの時計はあなたの時間を刻んでいる」
「どこで読んだ話?」
「ばれたか。この間、読んだの。けっこういいじゃない?」
「まあね」
「それに、前から懐中時計が欲しかったの」
 冗談にしてごまかさないでくれ。
「まったく、退屈しないよ」
「何が?」
「怒らないで、ほら、君の虎猫が怯えてる」
「あなたのでもあるのよ」
「さあて、飼われているのどっちかな。猫は家に居着くと言うし、ね。ここになら、居ていいのだろうか、ここに居場所はあるのだろうか?こいつを見てるとそう思うなあ」
「?」
「だって、君はどっちに居て欲しいと思うだろうね」
「猫」
「即答してくれるなよ、寂しくなる」
 二人で笑い転げた。それでもどこかに苦々しさが残ってはしなかっただろうか?

***********

「ここまでのようですね」
 彼はそう言って、立ち止まった。なるほど、眼前にはあの看板がある。蒼い空を背景に浮かび上がって見えるのは、これまでの看板には当てはまらないことだ。矢印は右向き。
「私には左向きの矢印が見えます」
 彼は私の思考を読んだかのように唐突に言う。
「私は右向き」
 言葉少なに答える。ちょっと彼は困ったように毛の生えた耳を撫でていたが、私の様子を覗きながら問い掛けた。
「あなたには、あの看板は何と読めますか?」
「最初に会ったときにもそう言いましたね。JipanGuですよ。あなたには何と読めるのですか」
 私は当惑してそう応じた。彼はネクタイを直していたが、にっと笑った。
「黄金の理想郷ですね。私は‘夢’でした」
 陽射しは相変わらず強く、私の背中をじりじり焦がした。いつの間にか辺りからは、見慣れた延々と続く畑の畝は消え、牧草が、内から燃え上がるように風に翻っていた。
 私はただ牧草を見ていた。彼が何か言いたげで、いや、答えとでもいうものを待っているのを心の隅で感じてはいた。だが、私が彼に向き直ったのは、陽光に眼がくらみ、それ以上牧草を眺められなくなってからだった。
 彼の顔は看板とそしてシルクハットの影に隠れ、眼のくらんだ私にはその表情は謀り難かった。ゆっくりと視力が快復して行く。
「夢ですか・・・・この看板を見る人は、皆、似たようなものを追うのですね?」
「‘yes’とも‘no’とも答えられませんよ」
 さよならを言うわけでもなく、それだけで彼は唖然とした私を残して、看板の左側を抜けて歩いていった。私は風に背を押されるように、右側の小道に牧草の中に潜り込んだ。

 膝まで届く牧草の中をその中を縫う小道を私は彷徨った。
 上着はとうに脱ぎ、汗の流れ落ちる顔を帽子で扇いだ。暑さと疲労で、頭はぼやけ、時間感覚は消え失せ、ものを考えることすら困難だった。ここまで来てしまったのだから、その意地だけで私は歩いていた。
 唐突に小道は終わり、牧草の原は背後になった。私の悟性は半ばその事実を拒否したが、目の前には、陽炎の揺らめくアスファルトの道路が横たわっていた。
 そして、道路の向こうには‘JipanGu’があった。

 間違いない。建物の脇には、これまで見てきたのと同じ看板がある。やっと・・・・
 ただ、がむしゃらに道路を渡った。建物の敷地をぐるりと囲った木戸に手を─
 そして、ためらった。

 改めて見る建物は想像と似て異なるものだった。陽に照らされて、べこべこになったペンキが風に吹かれて剥がれかけ、乾いた音を微かに木霊させていた。敷地内では区分けされ手入れの行き届いた草花や樹木が青々と繁っていた。

 ─何か違う コンナハズデハ、ナカッタ

 そう感じたかどうかは、疑問なのだが、私はあっさり背を向けた。
 とかなんと言いながらも、もう一度だけ、建物を見上げていた。営業中と札のかかったガラス戸が歪んだ像を結んだ。
 苦笑を禁じ得ない。何を求めてここに来たのか。もう、いや、最初からわかっていなかったのだ。
 理解できたことは、成り行きのまま、ここに入ることだけは御免だ、という認識だけだった。
 訝しげに私を窺っている人影を無視して、今度こそ足早に歩き出した。


 この話は、一応これで終わりである。
 この後、「私」なる人物がどうなってゆくのか、私の関知する所ではない。

 Chipangu→Jipangu→Japan




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