玄鏡

玄鏡

石仏 isibotoke



 思ったより暑くない。意外と木陰が涼しいじゃないか。

 しーわ。しーわ。しーわ。

 風もある。樹の間を縫うような緩斜面の遊歩道。足をかけやすいように磨いた丸太を埋め込んだ山道。山道の階段。

 しーわ。しーわ。しーわ。しーわ。じーわ。

 訂正。やっぱり暑い。午後の4時を過ぎているとはいえ、盆前の真夏日。暑くないはずがない。現に前をゆっくり登って行く、Wの灰色のTシャツにぽつぽつと汗が浮き上がって行く。

 しーわ。しーわ。しーわ。じーわ。じーわ。

 一面の蝉の声。張り出した枝に触ったのだろうか、大きな油蝉がかしましく目の前を飛び去る。麓から200m。駐車場からは30m弱。何とか言う麓の公園からは徒歩30分、とガイドブックにはあった。

 しーわ。しーわ。じーわ。じーわ。じわ。

 夏のむせ返るような、滴るような、溢れてゆく緑。その広がりを文字通り無限へ、夢幻へと変成させて行く蝉の声。
 そして、前を登って行くW。
 私は手提げ鞄のひもを肩にかけ直す。

 しーわ。しーわ。しーわ。じーわ。じーわ。じしししぃ。じー。

 おや、麓からの遊歩道と合流だ。Wがちらりと私を見る。道は山なりに上へ向かう。風雨にさらされたガイドの立て看板。
 くすっ。漢字のふりがなをマジックペンで訂正してある。その看板越しに下の様子が見える。

「いい眺めだね」
「そうね。けっこう暑いし」
「きっと、明日は筋肉痛だよ」

 おどけたようにWが結ぶ。私はただうなずく。

 しーわ。しーわ。しーわ。

 しまなみ街道。因島。白滝山。島でも一番標高が高い山。その頂上に五百羅漢の国定公園があるという。
 私とWは別にこの国定公園に来たかったわけではない。目的は単にしまなみ街道。私はドライブだと思っていた。
 島ごとに橋があり、その橋のデザインがいちいち違う。橋から橋へと島を渡り、自転車あるいは、歩いて渡ることが出来る。それも観光客向けのパンフレットで確認済みだ。この季節、この時期そんな物好きはいまいと勝手に決めつけていたのだが、それは間違っていた。
 数はそんなに多くないが、暑そうに渡る人達がいた。
 私とWにそんな趣味はない。ただ、橋を渡るごとに料金が必要だった。それで

「なんか、もったいなくない?」
「瀬戸内の海岸を眺めてのドライブだね。目標は全島を車で1週だ」

 という会話に繋がるのは自然の成り行きだと思う。実際、蒼穹は晴れ渡り、海は穏やかに海岸にうち寄せる。ガイドブックの地図では大まかであるが、島内1週の海岸道路がある。
 瀬戸内の海はなんて、なんて穏やかなんだろう。淡い緑と蒼の混ざり合った波がわずかに海岸に打ち寄せる。点在する島は、ほとんど砂浜がなくて、切り立った崖からこぼれ落ちそうに樹が自生している。
 日本海岸側でよく表現される、凄まじい大波とは全く無縁だ。
 たっぱん、たっぱんと眠気を誘うような優しい波がわずかな砂浜を洗っている。鏡のように滑らかな海面、これは言い過ぎだ。しかし、それに近いものがある。朝と夕方の凪の時は文字通りそうなるのかも。だから、有名な瀬戸の日暮れはきっと壮観だろうな。
 そして、惜しみなく降り注ぐ陽光。私とWは四国側からしまなみ街道にアプローチをかけたのだが、その道中ずっと‘逃げ水’をみていた。
 ただ、来島海峡だけは違う。だくだくと流れている。鳴門海峡で見られるような渦は海底地形上現れようもないが、河のように流れているという点では同じだ。
 ここも、難所だったという。戦国時代、村上水軍の本拠地があったぐらいだものなあ。

 しーわ。しーわ。しーわ。

 表参道100m。裏参道100m。そんな道標が遊歩道の先にはあった。

「どっちがいい?」

「行きは表参道、帰りは裏参道ってことかな」

 日焼けした小手をかざしてWは先を見透かす。どっちでもいいんだけど、と口の中でもぐもぐ言う。

「じゃ、わかりやすく表参道にしよ。どっちも100mだし」

 しーわ。しーわ。しーわ。しーわ。

 平らに稜線をなぞるように作られた遊歩道の先は、今度は石段。駐車場からの丸太の階段ともまた違う。粗い組成の温かい黄味を帯びた石段。さっきよりも傾斜が急になっているためか、さびた鉄の手すりが崖側についている。

「背中に張り付くTシャツが気持ち悪いなあ。Tは汗かかないの?」
「まさか。黒だからわかりにくいだけ。だくだく流れてるよ。そりゃ、よく涼しい顔をしてるって言われるけど」

 景色が見通せるってことは木陰がないって事。私は石段に踏み込み、ほっとする。背の高さの2倍ぐらいの位置に梢がある。日陰は気持ちいい。下から風も吹き上げてくる。

 しーわ。しーわ。しーわ。じーわ。じーわ。

「ああ、もう蝉の声をこんなに聞くのはいつ以来かな・・・・」

 いささか息を弾ませながら私は言う。

「僕はけっこう毎日聞いてる。そりゃうるさいよぉ」
「御子様のけたたましい叫び声とどっちがましかな」
「・・・・さあ、どっちでも」

 しばらく、無言で登る。石段はきっちり作っているのではなく、高いとこやら、低いとこやら、石の大きさがなかなか不揃いだった。だから、登るのに少々骨が折れた。
 道幅は二人が並んで辛うじて歩けるくらいで、だから自然にWが先になり、私がその後からえっちらおっちらと登っていく形になった。
 汗に黒ずむシャツの下で背中の筋肉が躍動する。筋肉痛になりそうだという言葉とは裏腹に足取りは至って軽い。むしろ、普段立ち仕事をしている私の方がきつい。

「足踏み外さないでよ」

 思わず声が出た。

「お互い携帯はもってるけど、電波は入らないみたいだし、転んで足でも折ったら、私、君を麓まで引きずってけないよ」
「そうなったら、運転できるの?」

 免許は持っていても私がペーパードライバーで、しかも頑として運転を拒んでいるのを承知の上での言葉だ。

「うっ、そりは・・・」
「大丈夫だって。ほら、もうすぐだ」

 しーわ。しーわ。しーわ。じーわ。じーわ。じーわ。

 言葉違わず、角を曲がると目の前に狭い古びた山門があった。


 大島。伯方島。大三島。生口島。因島。向島。この順番に今治から尾道に抜ける。
 大島は半周。伯方島は3/1周、しかも道を間違えて引き返した。大三島はパス。生口島の辺りでWが機嫌悪くなってきたので、パーキングエリアでたこ天丼を賞味。
 問題はガイドブックと首っ引きで観光名所を探しているのだが、島1周はおろか、寺の1個にも辿り着けないこと。
 時刻は3時をとうに回ってしまった。問題は、今からでは大概の料金を取るような名所は4時ないし5時には閉園という事実。しまなみ街道も奥が深いなどとほざいたとこで、どっこも行ってない事だけは確か。

「どこにも行ってないってのは、ちょっと・・・・」
「いいじゃない、ドライブ、ドライブ」
「・・・・・・」

 私としてはたこ天丼食べながら睨まれても、迫力ないと思うけど。

「じゃあさ、因島の白滝山は?確か見学自由の入園無料って書いてあったと思うけど」
「んー」
「別にいいけど。運転するのは私じゃないしー」


 で、結局、ここにいる。登ってくる途中の駐車場は3つ。一番奥の駐車場に止めた。手前の駐車場に車は2台あったが、人影はない。
 石段の途中で竹箒が2本ほど立てかけてあったから、管理人は居るみたいだ。一応、国立公園だし。
 島の北部。標高227m。島内最高峰、山頂からは因島大橋、向島、三原方面が一望できる。400年以上前に村上水軍の武将村上吉充が建立したと伝わる観音堂・・・そう、正面の山門をくぐってすぐの所にある。小さな社という程度。その隣りに社務所(?)みたいな建物がある。 

 山門を潜って左側に観音堂。右側に五〇〇羅漢があった。
 はっきり言おう。
 狭い。仮にも国定公園だ。五〇〇体羅漢像があるんだ。もっと広いところを想像していた。

 しーわ。しーわ。じーわ。じーわ。じわ。

 だが、狭い。
 そして、誰もいない。
 私とW以外。

 しーわ。しわわ。じーわ。じーわ。じわ。じじしししぃ。

 だから?どうということはない。

 しーわ。しーわ。しーわ。



 それは何という会話で始まったのだっけ。確か、

「困ったな、そろそろ会話が尽きたかな?」
「黙ってるのは嫌い?」
「そんなことはないけど、こないだ黙ってたら、『眠ってるやろ』って怒ったのは君のほうだったけど」

 一通り近況報告と聞きたいこと、言いたいことをしゃべり倒した後の会話だ。

「そう言えば」

 とWが切り出す。道中は長い。天気もいい。全くドライブ日和だ。

「この間、飲みに行った帰りにね、ほら、Kの内定祝いで4人で行ったろ?」
「うん、HとWとH・Tと私だね」
「そうそう、で途中、Y先輩が電話をKにかけてきただろ浴衣のことで─」

 HはWと同じく大学時代の同期で、私とHはかなり仲がいい。私を含めた5人の同性の同期、その中でもおそらく一番だ。そして、HはY先輩と付き合っていて、先頃別れたらしい。
 それで、Hがすっかりナーバスになってしまったというのだ。

「それで─」

 WをWの実家まで送り届ける30分強の時間ずっとぐちりどうしだったという。それに比べればましだということだろうか?

「でさ、こないだ映画見に行った時もね─」

 えっ

「そんな調子で、昔のこととかいろいろ訊いてくるんだ」

 ああ、そうか。そうなんだ。



「うーん、いい眺め」

 思わず声が出た。観音堂とおぼしき社の前の展望台から身を乗り出して私は言う。島内最高峰というのは嘘じゃないみたいだ。標高227mだっけ。って、山なんてホンと数えるくらいしかないけど。河もないみたいだし、夏場の水不足ってのもありそうな話だ。
 桟敷のように屋根だけ。板敷きの上に筵。サンダルを脱ぎとばして上がれば、すり減った木材が素足に熱い。遮るもののない午後の光は惜しみなく降り注ぐ。
 そして、永遠の中に木霊してゆく蝉の声。

 しーわ。しーわ。しーわ。しーわ。じーわ。じーわ。じしぃ。じー。

 背後に気配を感じて振り返ってみれば、そこにWがいた。

「ねっ、きれいでしょ」

 自慢するように言ってしまう。まるでこの景色が私の手柄でもあるかのように。私の癖。

「ほんと」

 何となく上の空だ。そのまま、隣の手すりにもたれる。私は気詰まりを感じる。

「あそこで、何を見てたの?」
「ん?」
「そこのさ、賽銭箱の隣り」

 あ、あれねとWは軽く笑った。ノート、があったよね。

「思い出帳」
「思い出帳?」

 私はくすりと笑う。そのまま、露台をおりノートを手に取り、ぱらぱらとめくった。Wはやはり、ついてきて賽銭箱の隣に腰掛け、たばこを吸うか吸うまいか、迷っている風情だ。
 思い出帳は内容的にどうということのない内容だった。
 観光にきてます。私はどこそこの○○という店で働いてます。気が付いたら声をかけて下さい。風貌は・・・・とかそういうたぐいだった。
 ただ、一つだけ、気になる記述があった。
 この島を出て、久しぶりに帰ってきた。特に用はなかったけど、白滝山に登った。ここはまるで時間が止まっている。ここへ来て、初めて島に帰った、そう思えた。
 時間が止まっている?そうかもしれない。
 私にとっては、WとHとH・TとFとS・TとM・TとY・Tと私の8人が3年近くの時を共有したあの場所こそが時間が止まっている。そう感じる。
 そして、そこで過ごした時間が(たとえ裏で何があったとしても)私にとって唯一価値を持ったのだ。私はそれ以上に最良のものを見出せなかった。
 それ以外の場所で私が過ごした時間は私にとり、必ずしもプラスにはなり得なかった。
 私はHの、彼女の事を友達だと思っている。大事な仲の良い、気のいい友達。それはWも同じ。それは、前述の7人、すべてに当てはまる。
 これは、何だ?これは何なのだ一体?
 この感情は?
 私はWを誘い、しまなみ街道に来た。訂正、連れてきて貰った。このパターンは初めてじゃない。期間の間隔は空いているが何回か同じように遊びに出ている。
 そして、その口から別の女の子と遊んでいると言われた。そして、それは私の友人。彼の友人でもある。
 だから?深く考えるべき事ではない。



 石仏は文字通り、無数にあった。配置図を示した立て看板の下に注意書き。
「触らないでください。危険。」と。
 正面の3体の石仏はそれなりに仏像の体裁を保っていた。が、その背後の石仏はそうではなかった。石板に浅く浮き彫りにされている石仏が狭い通路の両脇に並んでいた。光背と、いうのだろうか?仏像とかでよく背中に背負ってるあれだ。ちょっと違うような気がする。あれは、もう少し丸いような、円形の、あるいは流線型だったりする。これは違う。四角いもの。だからかな。彼等、五〇〇羅漢は今しも扉を潜ろうとしているようにも見える。
 花崗岩だろうか?玄武岩だろうか?頂上をなだらかに整備し、細長い霊場が形成されていた。そのぐるりを樹が、その内側に石板の石仏が並び2筋の通路があった。両脇を石仏で挟まれた通路は狭く、人一人が歩くのがやっとの幅だった。
 そして羅漢は確かに触れば倒れてきそうだった。ドミノのように将棋倒しに。
 そう羅漢像だが、大きさは膝の高さくらいで、雨に流されたのか、もともと薄い彫りのせいなのかはわからないが、とてもまろやかな顔をしていた。
 善通寺の五〇〇羅漢とはかなり違う。あれはもっと、リアルで立体的だった。
 しかし、ここは清浄だ。余りにも、静かだ。
 僅かに身長より高い樹木が視界を遮り、しかしながら頂上であるため、とても明るい。頭上は広々と開けている。
 五〇〇羅漢は何らかの祈願である場合が多いと聴く。ならば、この羅漢像たちは何を祈願して、刻まれたのだろうか?
 穏やかな穏やかな顔だ。


********

 彼女はいつも通り、特に笑うでもなく、怒るでもなく、無表情に俺を見返した。初めて、出会った頃はこの表情にびびったものだが、これはTにとって、ごく普通の反応なのだと最近わかってきた。

「やっぱ、暑いね」

 そりゃ夏だし。でも、そう思っても俺は口には出さなかった。積み重なるように整えられた羅漢像は、一体一体違うのだろうか?それすらもわかりにくい。
 狭い通路の先。山の突端に展望台らしき建物があった。その隣りに鐘楼があり、鐘が吊してあった。それだけ、妙に新しい。
 Tはそんなものに注意を払わず、コンクリートの基礎からひょいと下を見下ろした。

「うわっ、いい眺め・・・・・・」

 全く、それはその通りだった。さっきの露台とはまた違った趣だ。そこだけ、斜面が剥き出しになっていて、切り落としたような崖の縁に僅かに梢が届いている。で、展望台の基礎があるため、更に一段高くなっているのだ。だから、妙に視界が開ける。

「飛び降りてみたいかも」

 ぼそりと彼女はつぶやいた。俺は思わず、ひやりとする。それは余り、冗談には聞こえなかった。
 Tはそんな俺の困惑に気が付かないのか、ひょいと鐘楼の突き棒(?)に手をかけた。

「こういうのって、思いっきり叩いてみたいよね」

 悪戯っぽく笑う。こういう時だけ笑う。とても、嬉しそうに。

「遠慮なくどーぞ。僕、見てるから」
「いやあよ、しない」

 そういいながらも、視線は離さない。

「これだけ、新しいよね」

 おや、気付いてた。碑があった。それによく見れば、展望台の下、コンクリートの土台には古い鐘が臥せてあった。

「ひびが入ってる」
「昔はこれで、時報にしてたみたいね」

 今はどうかなと、ぼんやり思う。管理人はいないけど、建物はある。管理人は毎日ここに来るのだろうか?それとも週末だけだろうか?掃除は行き届いている。観光客などそうは来ないだろうけど、夏草はそれなりに茂る。それがない。

「けっこう高いんだ」

 ひつこくTは基礎から身を乗り出す。確かに高い。緩やかな傾斜地に市松模様の畑地が広がる。向かい側にもここより低いが山があって、宅地(多分)として造成中だ。その谷間を一筋の河のように幹線道路が横たわっている。そこを走る車はミニカーのようだ。更に視界を広げれば、銀色の瀬戸内海に隣り合う島々が点在する。
 ここは確かに隔絶されている。
 俺は長い黒髪が、それだけ別の生き物のようにうねるTの背中を眺める。

「展望台にのぼろっか」

 俺は彼女をそのままにこの基礎の反対側にある階段に駆け寄った。


 展望台の上は狭かった。4畳半くらい?そんな感じだ。古い朽ちたプラスチックのベンチが1台。よくある、金属の丸い周辺図が1台。これは観光客が自分の名前を彫り込んだり、意味もなく引っ掻いたりして傷だらけで、おまけにところどころ腐食して肝心の案内が読みとれない。だから、ここから見える島々が何という名前なのか判らない。
 島から島は白い橋が架かり、何となくあのもろい繊細な構造物を渡ってきたのが信じられない。そんな距離だ。
 展望台は胸の高さにこれまた、さびた手すりでぐるりを囲んでいた。いつの間に登ってきたTが躊躇なくそれにもたれる。
 遠くをそのまま眺める。
 俺もその隣りに並び、Tの視線を追った。海を覗き込んだようだった。何となくそう思った。
 鴉が2,3羽、滞空するように眼下を飛んでいた。あんな、飛び方をするのは鳶とかもっと大形の鳥だけかと思っていた。

「なんかね、あの鴉。飛んでるっていうより泳いでるみたい」
「そう、そんな感じ」

 上手いことを言う。

「空気の層が違うよね。山頂から同じ位の高さに白いもやみたいに見えるよね」

 眩しい陽光は流石に8月の初めの週に相応しく、4時を過ぎても衰えない。

「ホンと、ここって時間の流れ方が違うよね。五〇〇羅漢はまるで……」

 まるで、どうだというのか。Tはその先の言葉を呑み込んだ。

「降りよっか」
「そーだね」
「大丈夫?疲れてない?」
「うーん、それ程は」
「元気だね。君ずっと運転しどうしだったのに」
「誰かさんは絶対運転しないっていうしー」
「・・・・・・・・」

**********


 ねえ、知ってる?
 人って生き物はもの凄く、もろいの。体構造上、急所ってものがあって具合によっちゃあ、針1本でも人はその機能を停止させる。
 つまり、死。一面でしぶとく生き延びる割に、以外にもろい。
 そして、法律とか刑罰とか倫理観とか理性とか、そう言ったものは時として何の妨げにもならないのよ。
 昔から不思議だった。何故、人は人を許せないのか。小さな虫1つを殺すことを心底から恐れるような人が、何故遥かに大きな同族を殺すことが出来るのか。
 そして、また女という存在は、何故同性をより憎むのだろうか。例えば相手の男が不実だった場合。二股かけられた場合。浮気された場合。
 不思議だった。
 そして、もう一つ。私の鞄の中には、当然のようにソーイングセットがあって、もちろん、針だって入ってる。
 そして、針1本で人を殺してしまえる急所だって私は知ってる。
 でも、ねえ。果たして、そんなことで人は死んでくれるんだろうか?こればっかりは自分で試すわけにはいかないし。ましてや、動物実験してみるほど、まだきてないつもりだ。
 そして、犯罪。これは割に合わない。私はたかが、痴情のもつれくらいで人生を棒にふりたくない。
 確実性のないこと。これは嫌いだ。
 どうせなら、すっぱりと殺してしまいたい。半殺しとか半身不随になられては困る。
 完全犯罪。というより、立件が難しいのは、行き当たりばったりの通り魔的犯行だという。それも1回だけの。
 これは、どういう感情だろうか?
 嫉妬?憎しみ?怒り?判らないな。はっきりしない。私は何を望むのかな。
 これは一体どういう事かな。世間一般ではよくあること。
 そして、正直なとこもっと分が悪く、身勝手な話なんだ。
 だって、私は何も約束してないし、約束も貰ってないもの。Wと。



****************


「ああ、ここは涼しいね」

すっきりした横顔を陽光に浮かび上がらせながら、そんなこと気に留めずにTが言う。すとん、とコンクリートの基礎の上に腰を下ろす。例えば、ここでこのTの背中を軽く突いたら、どうなるだろうか? 
俺は何を考えているのだろう?
ためらいながら、俺はTのすぐ隣に腰を下ろす。Tが意外そうに僅かに首をめぐらす。

「日陰がね、ここは陽が当たるから…」

なぜか言い訳をしていた。ああ、といいながら、Tが柱のほうに体を滑らす。


******************

考え過ぎの自分に苛々しながら、涼しい日陰をWに譲る。ども、とかいいながらちょっと片手で拝むような真似をして、Wは更に座り直した。そのまま、ポケットから煙草でも出すかと思ったが彼は別段そんなそぶりも見せずに、ぼんやりと崖を見下ろした。
私とWはいつもこうだ。何となく、何となくだ。
Wと始めて出かけたのは、私が彼に失恋の相談をした後だったか、先だったか。Wにはそういう話がしやすい。それで・・・・かな。


回想は闇の中に帰って行く。ここは、こんなにも光に溢れているのに。

「別れたの」

静かに言ってみた。

「電話でね、そりゃあ、ひどい喧嘩をした。お互い罵り合って・・・その後、連絡とってない」
「でも、でもね、夢を見るの、今でも」
「わかるよ、それ・・・」

その一言で私は錯覚に陥る。
優柔不断と優しさは区別がつかないよ。それは君の咎ではないが。でも、いま私が欲しいのは私だけのもの。私だけが好きでいていい、安心できるもの。
あの人はそれを私に与えてはくれなかった。君なら与えてくれるかと思った。君もやっぱり、私のものにはなってくれないんだね。
まるで、子供・・・・のような想念だ。
何を思って、五〇〇羅漢は彫り込まれたのか?人というのは何を思えばここまで出来るものなのか。こんな、瀬戸内の小島に、人がわざわざ来るとも思えぬ山の天辺にこんなものを作ったのか。
私は知らない。知りようがない。その一念は理解できるかもしれない。製作者は祈念する事によって自分の望みを一途に叶えたかったはずだ。
ならば、私はここで何を望む?何を望めばいい?
この夏の暑い日暮れの中で。


「ここって、思ったより・・何ていうか、切り立ってないね。多分、飛び降りても途中でひっかるね」
「そうかな」
「そーだよ。思いっきり踏み切らなきゃ、木にひっかかるね」

即死は出来ないだろう。そして、ここにはそれ程、人が入ってくるようにも見えないから、発見されず徐々に苦痛にのたうちながら、死んで行くだろう。遺体の発見も遅れる。ぐずぐずに腐って二目と見られぬモノに変わり果てるだろう。
いや、ひょっとしたら見つけてもらえないかも。
だったら・・・・どうせ、もう

―――私は片手を軽く伸ばし(そう、思ったよりも近かった)、Wの前髪に触る。

「それにしても、伸びたね。切らないの」

ちょっと、Wはびっくりしたように身を引きかけたが、すぐに犬のようにその手の下で大人しくなった。自分でも前髪に軽く触る。

「そうかな・・・・」
「そーだよ・・・・」

私は手を戻さず、Wに身体ごと向き直る。意を決して彼の顔に直接触れる。これで奴が振り払うならチャンスはない。

「君はそれで・・・・なぜ、私とここに来たの?」

Wの顔は当然のように温かく、少し湿っていて、おそらく汗と埃でべたついていた。私の手だって似たようなものだろう。その手をWが捕らえた。
私は答えが欲しいんじゃない。ぱっと手を振り解く。
鞄の中を探っていた左手を引き出し、両手でWの首筋に抱き付く、そしてささやく。自分の心臓の轟きで耳が痛かった。

「待て、私に恥を掻かせる気か。このまま、しばらく居てくれない・・・・?」

ためらうように硬直させた肩の力をWは抜いて、しぶしぶ私の身体に手を回す。私は自然、Wに擦り寄る。首筋で交差させた手を組み替え、汗で滑る左手から右手にあるものを持ち替える。
皮膚から急所までは何cmかな。首の口径自体が15cmくらいかな。なら3cmくらいで充分だろう。指先で愛撫するように探る。
指先で針を構える。
呆気なく、潜った。
Wは僅かに震え、私を突き飛ばす。いや、恐らくそうしようとしたのだろう。だが、彼の腕はその力を残していなかった。私は腕をはずす。ずるずるとWは私の腕の中にくず折れた。

「W・・・・?」

私は目頭を閉ざす。

しーわ。しーわ。しーわ。しーわ。

蝉の声が帰ってきた。

しーわ。しーわ。しーわ。しーわ。じししぃ。じわ。


**************


俺は何を期待していたのかな。彼女が俺に期待しているのは、隣に座っているだけの友人だと知っていたはずなのに。昔から、それはわかっていた。
彼女の心はここにはない。
それでも、ちょっとは妬いてくれるかと期待してた。
面倒だな。とても。
だとしたら、俺はどうすればいいのだろう。このままの関係。それも、いいかもしれない、とは思った。
いずれ、俺は選択を迫られるのだろうか。だが、いちいちこういうのを考え続ける事は出来ない。ましてや、選ぶ事など出来ない。だが、微妙だ。
だめなんだろうか。俺が誘った訳じゃない。どっちの場合も相手が誘ってくるのだ。それにどちらにも手を出した訳じゃない。俺が後ろめたく思ういわれはない。
今が楽しければいいじゃないか。
そして、どっちの場合も俺に何かをはっきり求めてくる事はない。4年間の友人付き合いは重いさ。
Tは俺になぜ、電話をかけてきたのだろう。


いつも思い出せる彼女は、不機嫌そうに瞳をそらす。そのくせ、闇の中の記憶のTは情にもろく壊れそうな姿を残す。
3月のまだ寒い闇の中で彼女は独りで座っていた。吸い付けない煙草はわずかに先端のみが灰になり、それを苛々と灰皿の中に磨り潰す。そんなことを闇の中で繰り返していた。
その姿は普段の気丈な姿からは想像もつかないくらい孤独で弱々しく、そして強かった。
俺はその隣に座る。彼女は僅かに俺を見、黙って灰皿を二人の中間に置いた。
俺は思い出していた。
彼女の友人が自殺した事を。それを今でも彼女自身納得できていなかったことを。
この時期、おかしなふるまいをするかもしれない自分をほっといて欲しい、そう望んだ彼女を。
そして、彼女の付き合っていた相手がその自殺した友人に想いを寄せていたこと、それゆえ、Tは・・・・不必要に悩んだ。
闇を共有した時間は短くもあり、長かった。触れる事もなく、言葉を交わす事もなく、闇の中でただ、煙草をふかした。
じゃあ、と腰を浮かせば、ああ、とTは薄く笑った。泣きそうになったのは、こっちだ。

「忘れそうなの」

忘れたくないと俺には響いた。

「声とか、顔とか。意外に忘れないのはちょっとした仕種かも・・・」

知ってたの、と続ける。

「あいつがあの子のこと、思ってたこと。でもさ、意地になっちゃっててさ。そのうち、あの子、ああなって・・・ひどいよね、卑怯だよ。タイミング最悪」

瞳をそらす。泣くとか取り乱すとか、してもいいんだよ。そう言いたい、それを許さぬTの冷然たる態度。いつもの飲み会。酔っているのに理性の勝った言葉。
酔ったときしか、本心を言わない、言えない彼女。闇を見詰め、過去に囚われ、前に進むことを拒否するかのように停滞した時間。
返せる言葉がない。だから、

「わかるよ、それって」

と逃げた俺。ありがと、と言葉を濁すT。
ふとした弾みに思い出す。だか、その傍らに俺のいる余地はない。
余地などない。



Tは動かない。疲れているのだろう。そうだ、いくら助手席に座り通しとはいえ、ここまで6時間はかかってる。

「そろそろ、降りようか?」
「うん」

幾分ぎこちなく、Tは立ち上がった。逆光に縁取られて、その端正な顔が益々近寄り難いものに感じた。俺も立ち上がる。
俺の前で無防備に、うん、と伸びをする。重心が前に傾く。
すごく、簡単な事じゃないか。俺はずっと彼女の背後に無意識に回ろう回ろうとしていたじゃないか。手を差し伸ばせばいい。
つまり、深淵に。

どんっ

本当にそんな音がした。僅かに悲鳴と温かく柔らかい手応えを残して、Tは前のめった。
すさまじい悲鳴がその喉から出る。空をつかむ手。
俺は冷静に一歩下がる。勢いが付きすぎてる。
程なく彼女は落ちた。
木をなぎ倒す音はしなかった。やがて(長いような短いような)唐突に悲鳴が途切れる。

「なんだ、この崖、やっぱオーバーバンクだったんじゃないか・・・・」

**************


ぴしゃりと私は居もしない蚊をたたいた。

「やだ、そろそろ蚊が出てきたみたい」
「うーん、もう行こうか」
「そーだね、暗くなると大変だし」

立ち上がると何故か慌てた様子でWも立ち上がる。そそくさとその場を離れる。
無防備な背中を見ていると・・・・


*************


Tは深淵の縁に立っている。俺は・・・・


*************


だけど、五〇〇羅漢は、石仏達はまるで眠っているようで・・・


*************


だが、石仏達は眠っているようで…

*************

ここはどんな想念も許さないくらい穏やかすぎる。高い空に高い風が吹きぬけて行く。

しーわ。しーわ。しーわ。しーわ。じーわ。じわ。

私は一瞬、眼を閉じ、

「裏参道ってどっちかな」

**************

結局、裏参道はわからず、俺とTはもと来た道を下った。日陰に止めておいた車はさほど陽に焼けておらず、ほっとした。

「なんか、さあ、折角来たのに、ホント、どこも行ってないよね」

俺はちょっと考える。

「そうかな、けっこう五〇〇羅漢は正解だったと思うけど」
「うん、割とよかったよね」

**************

そして、やっぱり、この後もどうもならず、今はもう私はWと会っていない。
だから、Hとどうにかなったかも知らない。
ひとつだけ、言えるのは彼女がWに交際を申し込み、彼がそれを保留にしていること。
それは、このドライブから1月もたたない出来事だったってこと。

五〇〇羅漢は今でも、眠っているだろう。製作者の祈りは何だったんだろう。
セミの声だけが果てしなく木霊し続けている。


<終>


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