玄鏡

玄鏡

流漂


             「流漂」


 ・・・・・・・・砂は流れ漂い、集まるも散るも風のままで、人は通っても足跡は残らずそのまま道に迷ってしまうものが多い。四方見渡す限り茫々として、目指す方を知る由もない。かくて往来するには、遺骸を集めて目印とするのである。水草は乏しく熱風は頻繁に起こる。風が吹き始めると人畜共に目が眩み迷い病気となり、時には歌声を聴いたりあるいは泣き叫ぶ声を聞き、聞き取れている間にどこに来たのかも判らなくなる。このようにしてしばしば命をなくしてしまうものがあるのも、つまり化物の仕業である。

         (「大唐西域記」大流砂より抜粋)


1.紀維之(き ゆいし)

 姓を紀。名を維之。その生地を掖県。
 数えで10の歳に父母は刑死し、累を恐れた親戚からも疎まれ路頭に迷った。それを哀れに思った父母の上役である李楊公に拾われ、そのまま李家に夫生として雇われた。夫生とは要するに下働きのことである。

 この時代、伶清(れいしん)国朝廷の威光は翳りを迎え、中央への諸国の朝貢という形が崩れ始めていた。武力による長年の強圧的支配は周辺諸国家の深い怨嗟と諍い以外の何をも産みはしなかったのだ。
 豊かさの分配は同時に釆(はん)民族の外への拡大を意味した。すなわち、諸国への拡大。

 攻め込んだのはどちらなのだろうか?

 国境は何度となく血で塗り替えられた。その中でも特に釆民族の北の国境と境を同じくする遊牧騎馬民族、夷族(いぞく)は何度となく国境をはるかに越えて攻め込み、伶清国と争いを繰り返した。

 夷荻(いてき)との争いに対抗するためには強固な地方領主が必要であった。かくて朝廷は益々疲弊した。国として血を流し、まとまりを失った分権は税収入の基盤を崩壊させた。
 何度となく討伐部隊が組織され、それを送りこむことに都の豪族は奔走した。地方を手に入れ、なおかつ朝廷での発言権が大きくなるからだ。

 腐敗は横行した。

 腐敗が横行すれば、それを是正しようとする動きもまた現れる。
 その要が李家の主、楊公(ようこう)であった。
 楊公は温情でもって知られた官吏であった。その公正さは彼の政敵が認めたと言えばその一助になるだろう。
 李家は代々朝廷の高官を務め、名家として名高い。
 とはいえ、現帝の代にあって、文字通り内憂外患の憂き目にたたされた。一つには、北伐(ほくばつ)軍璋出師(しょう すいし)を援助したこと。
 北伐とは現帝の宣旨を受けて組織された北辺の夷荻への討伐部隊のことであり、出師とはそれを預かる武将のことである。

 もう一つには妻のことである。
 この妻、峰氏(ほうし)は酷薄な女であった。恵まれた縁談であったが、峰氏の家柄よりも劣る李家に嫁ぐことが耐えがたかったのである。外見上は李家の主に遣え、内実は・・・・・例によって押して知るべし、であった。


 紀の父母は罪を得て、命を落とした。残された遺児を哀れみ、罪人の子である彼を自由民として夫生に雇ったのも楊公である。後日、紀は父母の咎は冤罪であると聴かされた。しかしその当時、それは紀の預かり知らぬ事柄で突然の騒乱の中、父母が連れ去られ、罪を得て刑死したと耳にしただけであった。呆然と日々を過ごす内に楊公が来られた。
 紀を引き取る時、楊公は彼を諭してこう言った。

「己の出自を恥じることはない」

 と。咎人の子であれば、もはや官吏への道は歩めない。ましてや、市井にあってさえ、素性が知れれば追われる身の上だ。

「父母の咎はそなたの罪ではない。誇りを持ちなさい。罪を得たとはいえ、そなたの父母は立派な人であった」

 そして、紀は李家に雇われた。楊公は暇があれば、何くれとなく紀に声をかけ、更に時間があれば読み書きの手ほどきもしてくれた。
 しかし、彼がいないときはその特別扱いに峰氏をはじめ、家中の人々はよい感情を持っていなかった。かくして彼は李家で冷たくあしらわれていた。
 紀はおとなしい少年であったので、楊公の言葉を忘れず、不満に思うことはあってもそれをあえて口に出すようなことは出来なかった。
 こうして、紀が李家になれた頃に珍しい客人があった。

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