松尾大生の独り言
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
全1件 (1件中 1-1件目)
1
「人はいずれは骨になる。骨になるまでに、本人がなすべきことは、全てなし、いつ死んでもいいと満足した状態で骨になるなら、いい。大概は、そうではないい」と、手伝いのAに私は言った。3日前、父の兄、つまり叔父がガンのためになくなった。一昨日、告別式に行ってきた。その前の仮通夜からの帰り道、親父と手伝いのAと三歳の弟とで、MKタクシーで、親父を送りがてら一度、帰宅した。「このへんは、雪がふると馬車の車輪も馬も足を雪にとられて大変だったんだ」と札幌駅の東側付近で87歳の親父がタクシーのドライバーに助手席から話しかけていた。札幌市の中心部を普通に馬車が走っていた時代から生きてきたのだな、この人は、と私は再確認していた。仮通夜の日も告別式も、火葬場に向かうバスの中から外を見ると、空が低く垂れこめた大雪で、地吹雪のようにいたるところに雪がからみついていた。吹雪を透かして見える通行人たちは、襟を立てたり、マフラーを巻き直したり、背を吹雪にむけうつむいたり市ながら、耐えていた。葬式嫌いの私は今回も仮通夜だけに参加して、まあ、貧しいながら小さいの花でも送って済ますつもりであった。それが、「スタンドの花を送れ。告別式にも、なるべく出てくれ」と親父に言われて、最後まで、行った。今回は、「まつお社労士事務所」の名義で花を出さなかった。私は6つの法人の外部役員だから、そのなかでも一番テレビコマーシャルなどでも有名な全国展開している会社の役員名義で花を贈った。「花より団子」変人である私は冠婚葬祭の類いを全く重視していないんだが、今回は自分の為の見栄ではなく、従兄弟である施主の見栄えために花を贈った。いつも思う。火葬場にいく。割と良い弁当がでる。しばらくぶりで会う親戚や初めて会う遠縁の人などと談話する。会話が弾んで、いまこの瞬間にも骨になっている故人の現実を忘れかけた頃に、骨拾いの儀への呼び出しがかかる。叔父は北海中学卒で体格の良い人であった。立派な骨だった。私たちは、いずれは自分が死ぬんだと、しっている。日常に忙殺されていたり、スポーツ観戦や買い物などに興じているうちに、様々な錯覚や嘘で自分を塗り固めて毎日をなんとか凌いでいる面は、あるのではないか。挙げ句、自分という実在までをも、属性で計ったり、他者との関係性で形成している側面はあるのではないか? 少なくとも私はそうやっていきている。骨は骨だ。まだ熱い骨が眼前にやってくる。箸を渡される。骨が身内のものであればあるほど、あの、まざまざとしたrealityは胸に迫るものがある。錯覚や虚構の中で騙しだまし生きてる自分を騙しきれなくなってしまう。叔父の骨を拾った。その夜、夢をみた。場面は自分が八年間通った北海学園の裏口付近。夢の中でなぜか自分は親父と待ち合わせをしている。私は三歳の弟の手を引いて親父を迎えにいく。親父は我々が来たのを確認すると、二言三言はなしてから、どこかに行ってしまった。私は親父を弟と一緒にこちらがわに招き寄せ、一緒にかえりたかった。父は去っていった。変人の戯言だと思ってほしいのだが、私は親父が私達のやっているアンチエイジングをやれば、例えばあと五年で骨になるところの五年を十年でも二十年にでもできることを事実として、わかっている。元気なままで。しかし、親父は普通にいきて時が来たら、骨になるのを、良しとしているのだ、いや、私は親父をこなまま黄泉の世界に送るのが口惜しい、と、夢から覚めて自分の力の無さを責めていた。「使命と感じるところを実現する。やり残しのないことを、わかる。そうして骨になるなら、わかる。しかし、俺も含めて、ほとんどの人は、宿題をのこしたまま、骨になっちまう」と、わたしはさっき、再び手伝いのAにいった。四十歳になるのに二十代半ばにしか見えないAは、「そうなんだよねえ」と、頷いていた。外は今日もさむかった。しかし、雪は止み、空気に透明感はあった。見方によったら、生きる舞台はまるで戦場のようだ。しかし、戦場にあっても、骨になるまでは美しい旋律を奏でるような自己でありたい、と考える。
2017.11.22