競馬予想を中心としたブログ

卒業論文:徳川四天王



年表や図は措いといて、とりあえず文だけ


徳川四天王に関する一考察‐軍事面と吏僚的性格の検討を中心に‐


はじめに
 徳川四天王とは家康の天下取りを支えた、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、この四人のことである。しかし同じ四天王とはいっても、四人にはそれぞれ特徴がある。例えば、年齢だけ見ても、酒井忠次は大永7年(1527)生まれで、本多忠勝、榊原康政より二十一歳、井伊直政より二十七歳も年上である。この論文では徳川四天王の四人がどのように徳川家康を支えたかを知るため、徳川四天王の軍事的活躍、吏僚的性格を分析し、四人の役割、特徴を考察した。


1.徳川四天王の生涯
徳川家康、徳川四天王略年表を参考。(P5年表を参照)


2.合戦回数
酒井、本多、榊原は生涯で50以上の合戦に参加した。中でも本多忠勝は「生涯に57度の合戦に出て、一度も怪我をした事がない」と伝えられた猛将であった。井伊直政が生涯に参加した合戦は16である。直政が一軍の将に昇格したのは武田遺臣を附属された天正10年(1582)、二十一歳の時だが、それ以前の大きな戦功と言えるのは高天神城攻めぐらいで忠勝、康政が昇格するまでの戦歴と比べると見劣りする。戦功におとる直政が忠勝と同年齢で軍団長になれたのは北条氏との和議、武田遺臣懐柔での活躍が大きかったといえる。


3.徳川四天王の首級
『寛政譜』、『藩翰譜』で確認できる首級に関する記述を見ると、本多忠勝がその数8と四天王の中で圧倒的である。全長40センチを超える、蜻蛉切りという槍を使っていた忠勝、個人の武勇としてはやはり徳川四天王の中で一番だろうか。四天王それぞれ首級の記述はあるが、「忠勝、手に首級」のように個人で取ったような記述があるのは本多忠勝、榊原康政だけである。忠勝以外の記述の数は榊原2、酒井3、井伊2である。


4.徳川四天王の進言
 徳川四天王が家康に戦時に進言した数を調べると、酒井忠次7回、本多忠勝2回、榊原康政1回、井伊直政0回であった。酒井忠次が別格の存在であった事を表している要素といえる。忠次が兵を引くべきと進言して、家康が聞き入れず進軍したことは2度あるが、いずれも徳川軍が退却する結果となっている。共に武田勝頼との合戦である。


5.書状からみる徳川四天王の活躍時期
『徳川家康文書の研究』は徳川家康の名を以て出された書状と、それに関する書状が年代順に掲載された書籍である。『新修徳川家康文書の研究』には『徳川家康文書の研究』と重なる書簡もあるが、『徳川家康文書の研究』の発表後に発見された書状が中心に掲載されている。したがって『徳川家康文書の研究』、『新修徳川家康文書の研究』には関連文書として徳川四天王がやり取りした書状も数多く掲載されている。
 ここからは『徳川家康文書の研究』、『新修徳川家康文書の研究』の分析を通して、徳川四天王の吏僚的性格を考察していきたい。まず、年ごとの登場回数を使った考察を行いたい。(図1参照)ここでの登場回数には本人がやり取りした書状だけでなく、家康が出した書状に四天王の名が登場した場合も数に加えている。
 まずは酒井忠次。四天王の中で一番年長者であり、三河統一期に活躍した忠次、最初に書状に名前がみえるのは弘治2年(1556)で、永禄(1561~1570)では数多く名前が出てくる。弘治2年(1556)は初陣の年でもあり、このとき忠次は30歳であった。永禄4年(1561)には4通の三河在住豪族に対する所領安堵状に、名が登場する。
 井伊直政が最初に名を見せるのは、天正10年(1582)、武田遺臣への所領安堵状である。直政はこの取次ぎを家康家臣の中で最も多く行った武将で、現在56通確認されている。『徳川家康文書の研究』、『新修徳川家康文書の研究』で確認できる武田遺臣への書状を集計すると1位井伊直政44通、2位本多正信30通となった。この活躍が井伊直政躍進の要因の一つとなったのである。
 関ヶ原の戦いでは本多忠勝とともに、西軍武将の取り込みをおこなった。直政は慶長5年(1600)に40通の書状に登場するが、このうち39通が関ヶ原の戦いに関係するものである。この39通の内訳は戦前13、戦後23である。戦後処理においても直政は大きな役割を果たした。卓越した外交手腕を持っていた直政だが、書状での登場回数から考えると、武田遺臣の取り込み、関ヶ原の戦いでの西軍取り込み、戦後処理が最も大きな功績だといえる。その数は同じ徳川四天王の本多忠勝、榊原康政と比べても圧倒的である。天正10年(1582)を境として、前半を酒井忠次、後半を井伊直政が徳川家の吏僚的役割の中心を担っていたといえるのではないだろうか。
 徳川四天王で書状に一番名が出てこないのが、本多忠勝である。慶長5年(1600)、忠勝は井伊直政と西軍武将の取り込みを行う。忠勝の書状登場回数の総数は22であるが、忠勝はこの年、15の書状に登場する。内訳は戦前8、戦後7である。戦前の工作だけでなく、戦後処理にも関わっていた。忠勝の外交的役割は慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに集約されているといえる。
 最後に榊原康政について見ていきたい。天正10年(1582)、井伊直政に及ばないが、康政は武田遺臣への所領安堵状を3通送っている。関ヶ原の戦いでも西軍武将の取り込み、戦後処理に関わっていた。戦前5通、戦後3通の書状に登場している。康政が初めて書状に登場するのは永禄11年(1568)、内容は康政が取り次ぐはずだったが、先に行ってしまったので本多重次が取り次ぐことになったというものある。本多重次は三河三奉行の一人であり、康政の重臣としての地位が窺える。康政の書状への登場期間は36年と徳川四天王の中で一番長い。康政以外をみると、酒井30年、本多25年、井伊19年である。榊原康政の吏僚的活躍は徳川四天王の中で一番長いといえる。


6.書状からみる徳川四天王の吏僚的性格
 徳川四天王の名前は、家康が出した書状に多く登場する。その中には四天王の吏僚的性格が窺える記述が多数ある。例えば「委細申入可候」がそうであり、詳細は四天王にも聞くようにという意味である。「委細申入可候」、「猶可申入候」、「委曲之旨申候」のように、四天王の吏僚的性格に関わる記述を『徳川家康文書の研究』、『新修徳川家康文書の研究』に掲載されている書状から集計した。結果は酒井13、榊原11、井伊21、本多5となった。この中には家康が徳川四天王に送った書状は入っていない。
 本多忠勝の5回は全て1600年、関ヶ原の戦いに関するものである。対して、他の三人はそれぞれ異なる時代に、記述がある。全てが1600年であること、数自体も一番少ないことから、本多忠勝は酒井、井伊、榊原と比べ吏僚的性格が見えないといえる。
 徳川四天王の中で、最も吏僚的性格を持っているのは井伊直政だといえるだろう。書状の登場回数102回も圧倒的に多い。そして、家康が出す書状に書かれる「委細申入可候」、「猶可申入候」、「委曲之旨申候」の記述も21と一番多い。
 次に挙げられるのは酒井忠次だろう。書状の登場回数は榊原康政と同数、「委細申入可候」、「猶可申入候」、「委曲之旨申候」の数も酒井13、榊原11と大差はない。ただ、酒井の書状への登場期間は榊原よりも6年少ない。本多、榊原、井伊は関ヶ原の戦いで多くの書状を出した。しかし酒井忠次にはそのような機会がなかった。これらのことに加えて、酒井忠次が上杉氏、北条氏と交渉を担当していた点、酒井の東三河旗頭という地位を考えると、榊原より酒井の方が吏僚的性格を持っているといえる。


7.おわりに
 最後に四人の特徴を述べたい。本多忠勝は関ヶ原の戦いでの活躍を除けば武辺一辺倒。井伊直政は吏僚的性格が強い。酒井忠次は軍事、外交、内政バランスよく活躍している。同じ四天王ではあるが、忠次の活躍時期は他の三人とは違う。忠次は家康の草創期を支えた。榊原康政は武功派の側面が強いが、吏僚的性格もあわせ持っていた武将であることが分かった。ただ、軍事面では本多忠勝、吏僚的な面では井伊直政の陰に隠れてしまっている。


主要参考文献
・堀田正敦/等編『寛政重修諸家譜第二 新訂』(続群書類従完成会1964)
・堀田正敦/等編『寛政重修諸家譜第十一 新訂』(続群書類従完成会1965)
・堀田正敦/等編『寛政重修諸家譜第十二 新訂』(続群書類従完成会1965)
・黒板勝美編輯『新訂増補国史大系 第38巻 徳川実紀 第一編』(吉川弘文館1998)
・黒板勝美編輯『新訂増補国史大系 第38巻 徳川実紀 第二編』(吉川弘文館1998)
・黒板勝美編輯『新訂増補国史大系 第38巻 徳川実紀 第七編』(吉川弘文館1998)
・新井白石/著『新編藩翰譜 第1巻』(新人物往来社1977)
・中村孝也著『徳川家康文書の研究』(日本学術振興会1958)
・徳川義宣著『新修徳川家康文書の研究』(吉川弘文館1983)





© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: