青い島のひだまりで

途中下車




この作品は、1999年に長野文学賞というところに応募して、1 次選考通過したものです。後日、ご縁があって、選考の審査をされた先生方にお会いする機会がありました。いろいろためになるお話、おもしろい文学のお話を 聞くことができました。
 ただ、roze-piは思いました。“もっと若い人が審査して!!”と。


これを読んでくださっているあなたは、毎日くりかえされる日々にうんざりしていませんか? 会社とは別の方向の電車に乗ろうと思ったことありませんか?  いつもとは違う駅で降りてみようとは思いませんか? これは、何気なく途中下車をしてしまったある男の物語です。

では、お楽しみください。


途中下車


   1
 いつもの朝と同じだった。
 六月三十日。まだ梅雨の明けきらない、どんよりとした空だ。絹のような雨が、天から糸をたれるように、昨晩から降り続いている。
「いってらっしゃい」
 エプロン姿で、妻の幸恵が見送ってくれる。
 橋本明彦、四十四歳。市役所の建築課課長の肩書きをもつ。妻と、ふたりの子供の四人家族。息子は、今年から東京の大学に通っている。今は、反抗期をむか えた中学三年の娘と、妻との三人暮らしだ。昨年、念願のマイホームも手に入れた。息子への仕送りと、家のローンで、生活は決して楽ではない。だが、それな りに僕が築きあげた、守っていこうという家庭だった。僕は、この生活に、なにも疑問も不満ももっていなかったはずだった。
 駅は、家から歩いて十分ほどのところにある。
 ズキン。頭の痛みに、顔をしかめた。僕は、昔っから、頭痛もちだった。雨のせいか、最近の仕事疲れのせいか、ここのところまた頭痛がある。
 電車も、毎朝のことながら、満員電車だ。最近の僕は、電車に乗ると吐き気を覚える。脈が乱れて息苦しくなる。このところの湿気と、化粧や香水の香り、男 子学生の汗くさいにおい。いろいろなにおいがまざりあって、今日は、一段とひどい。
 額には脂汗が浮かび、熱かった身体が今度は冷たくなってきた。僕は生唾をごくんと飲んだ。降りようかと、ふと思った。『どちらにしようか な・・・・・・』と、僕がいつものように、心の中でとなえたときだった。
「桜ヶ丘・・・・・・次は桜ヶ丘です」
 車内アナウンスが入り、まもなく電車は停車した。
 気がつくと僕は、桜ヶ丘駅のベンチにすわっていた。吐き気もおさまってきたようだ。桜ヶ丘は、僕が高校生のときまで住んでいたところだった。
『どちらにしようかな 天の神さまの いうとおり』
 僕は子供の頃から、決断に迷うと、無意識のうちに口ずさんでいた。ただ、これだけで、ふたつにひとつの選択をすると、先に指さした方には絶対にならなく なってしまう。だから、決まって僕は気まぐれな言葉を続けた。それは、『かにさん こんにちは』だったり、『すってんころりん だるまさん』だったり、思 いつきの言葉で、深い意味はなさなかった。
 七時五十分。
 次の電車でも、余裕で会社には間に合う時間だ。
『どちらにしようかな・・・・・・』
 僕のひとさし指は、改札口の外をさしていた。僕は改札口を出て、駅前の道を歩き出した。駅のむかいにあったはずのスーパーが、つぶれていた。駅前通りを はずれて、細い道に入った。少し歩くと、公園がある。昔、遊んだ公園のはずだ。
『喫茶 茶夢』
 ふと目の前に、そんな名前の喫茶店があった。茶夢という看板は、板で作られている。『あなたの夢かなえます』と、茶夢の横にそんな文字もある。
 煉瓦づくりで、ツタがからまっている建物。いかにも古めかしい感じだが、子供の頃からあったかとたずねられると、記憶にない。
 時計を見る。八時ちょうど。僕は、思いきって、その扉を開けた。


     2
 大正浪漫という言葉がぴったりの雰囲気だった。客は、店の奥に、若い女性がひとりいるだけだ。サンドイッチを頬張っている。
 僕は、入口の傘たてに傘を入れた。そして僕にしては珍しくカウンターにすわった。黒光りしたテーブルは、ところどころ傷があり、年代を感じさせられた。
「なんになさいますか?」
 髪はすでにまっ白で、老後のんびりと喫茶店を経営しているという感じだった。
「ブルーマウンテン」
  マスターは、ほうという感じに僕を見た。コーヒーだって、いつもは、専門店に行っても一番安いブレンドコーヒーしか頼んだことがない。ブルーマウンテンは 高いものだ、ということしか知らなかった。ただ、今日は、そんな高級なものを口にしてみたい気分だった。
「ブルーマウンテンは、ジャマイカ東部の標高が最も高いところの一帯をいうんです。そのあたりは、山がブルーに見えるそうです」
  僕がききもしないのに、マスターは説明をはじめた。豆をひく音に、言葉はそこでとぎれた。
  しばらくすると、香りが漂ってきた。
「どうぞ」
  出されたカップは、和食器という類に属する感じのものだった。
「萩焼きです。薄い紅色がまじった素朴な陶器ですが、いいものは、使い込むとヒビ割れのような模様がでます」
  いつもは、ミルクも砂糖も入れる僕だ。だが今日は、ブラックで飲んでみようという気分だった。
  ひと口、すする。
  ほどよい苦みとこくが、広がった。

    ※          ※            ※

  僕は、公園を通り抜け歩いていった。まっすぐ行くと、神社があるはずた。境内の脇には、百日紅の木があり、赤ん坊のようなすべすべの木肌を確かめたことが ある。
  いくつもの小さな葉が茂り、紅色の花がむらがるように咲いていた夏の日のことだった。
 僕たちは三人で、いつもつるんでいた。高校三年の夏の夕暮れ時のことだった。この木の根元で、僕らは、ひとつ年下の則子を犯した。実際、乱暴を働いたの は、忠男と勇二の友達ふたりで、僕ではなかった。僕は、見張りをしていたのだ。
  僕は、中学の頃から、則子が好きだった。学校一の美少女といわれる則子とは、幼なじみであった。それなのに僕にとっては、高嶺の花であった。則子のことを 好きだと彼らに話すのには、かなりプレッシャーだった。
  生意気なやつだから、からかってやろう。彼らからその計画をもちこまれたとき、僕は賛成も反対もできなかった。昔から顔見知りであった僕が、則子を呼び出 すことになった。夏とはいえ、もう暗くなりかかった神社に、ひょこひょこと則子がやってきたのも、僕の信用からだったと思う。
  僕は、暮れゆく深みを帯びた空に、彼女の悲鳴を聞いた。でも、助けなかった。僕の心の痛みとは別に、僕の性器が学生ズボンの下で固くこわばっているのを感 じていた。
  やれよという感じに、忠男の目が合図をした。僕は、首をふった。
  忠男とともに、逃げ去ってゆくときだった。則子の土にまみれて汚れた白いワンピースが、ひきさかれた無残な姿をさらけだしているのを見た。髪がぺったん と、頬にはりつき、微動だにしていなかった。


  僕は、その百日紅の木の前に来ていた。
「明ちゃん?」
  突然、懐かしい呼ばれ方をした。明ちゃんと、僕のことを呼ぶ人は限られている。
「則子ちゃん?」
  僕は、高校三年の夏以来、まともにその姿も見ることができなかった。だが、則子にまちがいなかった。二十年余りの歳月を刻み、そこには少女時代の面影を色 濃く残す則子がいた。
「お店に寄っていく?」
「店?」
  再会のあいさつもなく、突然、話はすすんでいた。
「スナック経営してるのよ」
「こんな朝っぱらから?」
「まさか。今朝は、ごみの日で、しかたなく起きてきたのよ。夜のうちに出すとうるさくって、最近はね」
 僕は、夢遊病者のように、夢見心地の気分で則子について行った。
 『スナック  よりみち』
  夜には、灯かりがつけられるだろう看板だ。昼間の明るさには、安っぽく見える。
「入って・・・・・・」
  僕はいわれるままに、則子に従った。
「水割りでいいかしら?」
「いや、僕は・・・・・・」
  会社に行かなくてはいけない。途中下車したままだった。そんな思いが、頭をもたげてきた。
「どうぞ」
  ふと見ると、もうグラスがおかれている。
「飲めないんだ、あまり」
「一杯くらいなら、大丈夫よ」
  そういいつつ、則子は、ぐびぐびと烏龍茶でも飲むように喉をならしている。
「ふう、おいしい。喉、かわいちゃったから」
  二杯目をつくりはじめていた。
「明ちゃんて、変わらないわね」
  ふふふっと、則子は笑って、カラリカラリと氷の音をたてた。
  僕は、グラスをとって、ふた口ほどいっきに飲んだ。かーっと胃がただれた感じがする。
「恨んでいるんだろ?」
「なんのこと?」
「なんのって、あの夏のことだよ」
「ああ」
  今、気がついたように、ふうっと酒臭い暖かな息をはいた。
「あんな昔の話? すりむいた程度の傷よ。今から思えば・・・・・・。だって、明ちゃんだって、アレでしょう?」
  アレ?
  明ちゃんだって、アレでしょ?ということは、僕にとっても、そんな女遊びのひとつにすぎないでしょ、ということだろうか。
  四十を過ぎたとは思えないほどの、きめ細かな肌だ。開いた胸元に気づいた僕は、どきっとして目をそらした。
「明ちゃん、私、好きだったのよ。あの頃、明ちゃんのこと」
「えっ?」
  ドキン。僕の心臓が、十八歳の頃に僕を引き戻していた。僕は目を見開いて、則子を見た。目元にあらわれた小じわは、かえって則子におちつかせた雰囲気を与 えている。
  僕は、いっきに水割りを飲んだ。
  かっかっと身体の内奥が、ほてりだした。
  僕は、妻の幸恵とは、二十五歳のときに見合い結婚をした。上司がもってきてくれた縁談だった。僕は、妻以外の女性は知らない。僕が幸恵と結ばれたのは、新 婚旅行の長崎でだった。妻も、男を知らない身体だった。だから、おそらく僕の未熟な扱い方も、気にならなかっただろう。
「明ちゃん?」
  僕は、節目がちにいった。
「あの頃、僕も則子ちゃんが好きだった」
「なあーんだ、そうだったの」
  けらけらと、則子は甲高い笑い声をあげた。
「私、あの日ね、明ちゃんに告白されるんだと思っていたのよ。ばーかね」
「悪かった」
  僕は、則子が新しくつくってくれた水割りを口にもっていった。
「もうなんとも思ってないっていってるでしょう? ねぇ、明ちゃん?」
「ん?」
 僕は、傍らで寄り添うように近づいた則子から、ちょっと離れた。
「いい加減、気づいてよ。私、明ちゃんのこと、誘惑してるんだけどな」
「誘惑?」
  そのときだった。すっと伸びてきた則子の指先が、僕の股間に触れた。その指先は、琴でもはじくかのような動きをした。僕の性器は、あの夏の日のように勃起 していた。指の動きにあわせ、窮屈な中でびくんっと息づいた。


  僕が果てたとき、タイミングを逸することなく、則子が後始末してくれた。そんなことすら、僕には新鮮だった。
  行為のあと、甘えるようにすりよってくるのも、幸恵には見られないことだった。
  それからしばらく、僕は眠ってしまったらしい。気がつくと、則子は隣におらず、店で、ヒステリックに叫ぶ則子の声がした。
  僕は、慌てて服を着て、階段をかけおりた。
「どうしたの?」
  店には、則子とグレーのスーツを着た男がいた。男は、僕に軽く会釈した。
「だから、無理だっていってるでしょ?」
「そうおっしゃられましてもね、うちでも困るんです。ご両親以外の確かな方に、もう一人。保証人になっていただかないと・・・・・・」
「どうしたの?」
  僕が再びたずねると、
「銀行の方・・・・・・」
  と、ぽつり則子は答えた。
  どうやら融資を受けるのに、保証人が必要らしいのだ。
「金に困っているのか」
「明ちゃんには、関係ないことよ」
  記憶の彼方に封印していた則子が、今の僕にとって他人ごととは思えなくなっていた。
「僕が保証人になろうか?」
  えっという驚いた顔が、ふたつあった。
「あの、失礼ですが・・・・・・」
「ああ、私の古いしりあい」
  借入の契約証書には、百万円という金額が算用数字で入っていた。
「あの、保証人といいますのは、ご存じかと思いますが・・・・・・。ここの店が万一のことがあれば、この方に代わってお支払いしていただくことになります が・・・・・・」
「わかっています。則子ちゃんが、支払いしていれば問題ないわけだろ?」
  続けて僕は、則子に問いかけた。
「こういう者です」
  僕は、ポケットから名刺を取り出した。
「市役所の建築課、課長・・・・・・さん? ということは、公務員さんですね。確かな方ですね」
  確かな方?
  僕が、二十年余り守り続けてきたものへの評価だ。
「たまたま、印鑑証明書と実印もあります」
  息子は親戚の家から通っていたが、夏休みからアパート住まいするといいだした。その保証人になるため用意していたものだった。僕は、息子に送るはずだった 印鑑証明を鞄からとりだした。僕が、サインした書類をうやうやしく銀行員は受け取ると、帰って行った。
「明ちゃん・・・・・・」
「いいんだって。則子ちゃんが、ちゃんとやっていれば問題ないんだから」
  僕は、先ほどと同じ言葉をくり返した。

    ※         ※            ※      

「いかがですか? お味は?」
  僕は、マスターの声ではっとした。
「どうかなさいましたか?」
  手にしていたカップを口にもっていく。舌がやけどするくらい熱かった。
「標高の高い寒冷な地。霧のたちこめた、湿度の高い一帯でとれた、いわば厳選された豆というわけです」
  マスターは、ブルーマウンテンの話を続けた。
  時計を見る。八時五分。
「どうしました?」
「あの、なんか、夢を見たような気がして・・・・・・」
「白昼夢ですかな? よい夢でしたか?」
  はっはっはとマスターは、太い声で笑った。その時、杖をついた老人が席をたったので、マスターはレジにむかった。
  八時十分。まだ間に合う。遅刻にはならない。僕は、ブルーマウンテンを味わう間もなく、席を立った。
  外は、梅雨とは思えないくらいのまぶしい太陽が輝いている。
「お客さま、傘をお忘れです」
「あれ? 雨?」
  僕は、空を見上げた。
「やんだようですね」
  うしろでマスターの声がする。
  いつの間に、青空が?
  ズキン。また、僕の頭が痛んだ。
  時計を見る。八時十五分。
「よし、まにあう」
  僕は、独り言をいって駆け出した。


     3
 駅前でタクシーを拾って、市役所にむかった。
 八時四十分。
「いやぁ、悪い、悪い。ぎりぎりになっちゃって・・・・・・」
 僕は、なんとなく視線を感じて、言い訳をしながら席に着いた。
「課長、どうしたんですか?」
 今年、入ったばかりの女性にいきなり声をかけられる。
「いやぁ、ちょっと遅れちゃってね。タクシーで来たんだよ。全く、面目ない」
「橋本、昨日、一体どこにいたんだよ」
 隣の課の岡村が、驚いた様子でいう。
「昨日?」
「仕事してから、飲んで帰ったろう? ボーナスの前祝いとかいって」
「それは、おとといの話だ」
「おととい?」
「今日は、七月一日だぞ」
「七月?」
「おいおい、しっかりしてくれよ。大変だったんだぞ、昨日は。奥さんに電話をしたら、いつもどおりに出勤したというだろ?事故にあったんじゃないかとか、 大騒ぎしたんだぞ。今朝まで見つからなかったら、警察に届けるって」
 時計を見た。八時五十五分。時計の日付は、『1』となっている。
 どういうことだ?
 ズキン。また頭痛がして、脈が速くなる。
 僕は、わけもわからないまま、とにかく家に電話してみた。
「あなた! どこに行ってたの!」
 僕だとわかると、幸恵は叫んだ。僕は、事情も飲み込めないまま、とりあえず今朝のことを説明した。
 僕が電話のむこうの幸恵にむかって必死で弁解していると、とんとんと肩をたたかれた。
 僕は、上司に呼ばれて、応接室に入った。
「電話している声で、事情はわかったがね。・・・・・・少し、疲れているんじゃないか? まる一日ほっつき歩いていて、記憶がないなんて。頭痛もひどいよ うだから、今日はこのまま病院に寄って帰ったらどうかね」
 訳もわからないまま、とにかく上司の命令で、昼で帰宅することにした。


 昼間の電車は、空いていた。
「桜ヶ丘・・・・・・次は桜ヶ丘です」
 車内アナウンスが響いた。
 僕は反射的に立ち上がり、再びこの駅で降りた。駅前通りを進み、細い道に通り公園に出た。『喫茶茶夢』の煉瓦づくりの建物が目に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
  そこには、二十代の青年がいた。
「マスターいます?」
「なにか?」
「あのう、あなたがマスター?」
「そうですけど」
「あ、いや。今朝、僕は、ここに寄ってコーヒーを飲んで行ったんだが・・・・・・。あの、年輩の白髪の人がここにいたはずなんだが・・・・・・」
「なんかの間違いじゃありませんか? ここ、オープンは、十一時なんです。今さっき開けたばかりです。夜は、お酒も飲めるパブとしても営業しているんで、 朝は遅いんですよ」
 そんなはずない。たしかに、この喫茶店には入った。今朝、はじめて入ったのだ。
 僕は、そのままふらふらと喫茶店を出て、向かうところは家しかなかった。
 二日ほど、頭痛がひどくて寝込んだ。妻は、僕が空白な一日について、あれこれと詮索しなかった。そして、市役所の同僚や上司も、そのことにふれなかっ た。おそらくそれは、僕が精神的にまいっているからでは、と気を使ってくれたらしかった。
 なんだかよくわからないまま、いつもの生活にもどっていった。喫茶店にいたはずの、ほんの短い時間に見た白昼夢。まさかと思い、桜ヶ丘の神社をおとずれ てもみた。だが、その周辺に、『よりみち』などというスナックはなかった。


     4
 盆休みも過ぎ、八月も下旬となったが、残暑の厳しい日が続いていたころだった。
「課長、お電話です。ええっと、T銀行さんから」
「T銀行?僕に?」
 僕は訝しげに、受話器をとった。なんの取引もないT銀行から、僕に名指しの電話などくるわけがない。
「橋本明彦さんでいらっしゃいますか? 私、T銀行の古瀬と申しますが、スナックよりみちさんの保証の件で、お話したいことがございます」
 アナウンサーのような流暢な話し方だった。
「あ、あの・・・・・・」
「一度、スナックでお会いしたことがございます。電話ではなんですから・・・・・・」
 空白の六月三十日。
 僕が、T銀行の融資窓口にむかうと、見覚えのある男が、僕に丁重に頭をさげた。
 応接室に通されると、そこには僕が保証人欄に自署した契約証書があった。
「これを、僕が書いたのはいつですか?」
「はぁ? はぁ、六月三十日の夕方でしたが・・・・・・」
 古瀬という銀行員は、僕からの突然の問いかけに訝しげに答えた。
「夕方?」
「店を開ける前におじゃましましたから、夕方五時頃でしたよ。とうとう、どうにもならないんですよ、あそこも」
「あのスナックは実在するんですね、則子も」
「はぁ? なにおっしゃってるんです?」
 呆れたような、見下したかのような視線を感じた。
 僕は、ひったくるようにして書類を見た。
 北山町。
 僕が探していたのは、神社の南側。百日紅の木があった方の、南山町だった。
「まさか、保証人になった記憶がないとか、おっしゃるんじゃないでしょうね」
 古瀬が心配な様子で、僕を見た。
「いえ、覚えています。百万円の借入の保証ですよね」
「百万? なにを・・・・・・。一千万の借入ですよ。カラオケ装置やら、店の内装工事やらの費用ですよ。ご説明しましたけれど」
 一千万円の保証人?
  契約証書の数字を、指先で追って数えた。
 ズキン。また頭の奥が痛んだ。
 僕は、ふらふらしながらT銀行を後にした。


 契約証書に書かれていた住所をたよりに、僕は『よりみち』を探した。
 その店は、たしかにあった。
 カラン、カラン、カラン。
 重いドアに反して、ドアにつけられた呼び鈴が軽やかな音をたてる。
「ちょっと、まだよ。オープンは!」
 よどんだ煙草くさい空気の中から、威勢のいい女の声がする。
「明ちゃん!」
  則子は、驚いたように駆け寄った。
  則子の身体から、甘い香りがした。
「来てくれると思ってた。・・・・・・ごめんなさい、迷惑かけちゃって」
  僕は、カウンター席にどさっと全体重をかけてすわった。
「僕たちが会ったのは、六月三十日の朝だよな」
「えっ? そうよ、私がごみを出しに行ったとき」
「僕は、翌朝までいたのかい?」
「えっ? なにいってるの。夕方、帰って行ったじゃない」
  夕方?・・・・・・。
『喫茶  茶夢』が、時間と空間を歪めたとしか考えられなかった。
『あなたの夢かなえます』
  看板の脇にあった言葉を思い出した。
  僕の夢?
『どちらにしようかな  天の神さまの  いうとおり』
  僕は、おそらく僕ばかりではないだろうが、こうやっていろいろなことを選択してきた。ひとつの決断で、人生は大きく変わるはずだ。
「明ちゃん、なんか飲む?」
「ん?うん、コーヒーある?」
  僕は、だるそうにたずねた。
「あるわよ、とっておきの。ブルーマウンテン」
  一瞬、豆をひく音が頭に響いた。
  ジャマイカ東部の標高の高い一帯のこと。たしかに僕は、『茶夢』に入ったんだ。
「明ちゃんのこと、好きよ」
  コーヒーカップを差し出しながら、則子はいう。こんな言葉、妻にだっていわれたことがない。僕は、則子の髪をくしゃっとつかんで引き寄せた。
 僕の生活。
  そう。あの銀行員も、僕の名刺を見て『確かな人』だと僕を評した。
  僕は、あの生活に不満はなかった。ただ、どこかに別のなにかがあるのでは、という気はしていた。自らその生活を崩壊する勇気はなく、家族のため家庭のため と、頭痛とともに日々を消化していたのだ。
  ほどよいこくと、苦みが口にひろがった。香りは、煙草くさかった一室を包み込んだ。
  ふう、と大きく息をついた。
「則子ちゃん、今日からここに住まわせてくれよ」
  ガラガラと音をたてて、僕の築き上げた生活が崩れた。僕は、瓦礫の上にいる今、ここにしか居場所はないと感じた。
  早かれ遅かれ、保証人の件は妻にばれる。空白の六月三十日、則子と一緒だったことも、いずれわかることだ。僕には、一千万円などという大金を用意する力な どない。仮にマイホームを処分しても、住宅のローンと相殺することになるだけだ。息子の大学の授業料や生活費も払えない。
「いいの? 私なんかで」
  僕は、答えるかわりに、則子に接吻した。則子のやわらかい舌づかいを、僕の身体が白昼夢などではなく、現実のものとして覚えていた。


  一ヶ月後。
  妻の幸恵からは、離婚届が『よりみち』に送られてきた。
  やはり妻は、聞く耳をもたなかった。市役所に勤めていて、まじめな人だといわれて結婚したのだといいきった。息子や娘は、僕に会おうとすらしてくれなかっ た。
  僕は、弁護士に相談し、自己破産の手続きをとることにした。則子は、ひとあし先にその手続きを進めている。僕たちは、身ひとつで見知らぬ街でやりなおそう と話している。
  夕方、則子とともに買い物に出た。
  桜ヶ丘の神社を突っきって、商店街へむかう。
  百日紅の花は、既に散っていた。つるつるの赤ん坊の肌のような木肌をさわりながら、則子がいう。
「やっと明ちゃんが、私のものになった」
  あのとき、途中下車さえしなければという思いが脳裏をかすめはする。一方で僕は、今まで途中下車をすることなしに、走り続けたきた電車のような人生を考え る。今の僕には、失うものがない。なんだか気分だけは楽で、頭痛もしなくなった。
「明ちゃん、今日は秋刀魚よ」
  百日紅の木のむかいにあるアパートからも、魚を焼くいいにおいがしている。
  吹く風が一段と冷たくなり、百日紅の小さな葉が、一枚、はらりと落ちてきた。




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