| 十四歳の休暇 2 |
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第三章
1 「学校に行かない宣言」をして二週間ほどたった。もう七月も半ばを過ぎて、梅雨も明け、夏が訪れたということらしい。ぼくの体のあざも消えて いた。そして 学校へ行かなければならにという圧迫感もなくなって、ぼくの心はこわれたまま梅雨明けした。 「ずっと家にいても退屈でしょう。どうせ学校だってもうすぐ夏休みなんだから、しばらくお母さんの実家でも行って遊んできたら」 母のこのひとことで、ぼくはこの終わりのない休暇をとりあえず、母の実家である軽井沢で過ごすことにした。夏の軽井沢なんて避暑に行くみたいでちょっと かっこいいな、なんてぼくは思うようにもなっていた。 駅の改札口には、祖父母が迎えに来ていた。小学校のころは、夏休みには必ず母と一緒に軽井沢に来ていた。中学生になってからは、クラブ活動だとか勉強が あるといって、ぼくが祖父母にあうのは二年ぶりであった。 「まあ直ちゃん、大きくなって」 祖母が目を細めて、ぼくを見つめた。こんな改札口の人がいるところで、あまり大きな声を出されたら、ぼくは恥ずかしくてたまらない。ろくに答えず祖父の 後を追った。 「お母さんも一緒に来ればよかったのにね」 祖母の声が聞こえた。母は、あえてぼくをひとりで行かせた気がする。ひとりで切符を買って、電車に乗って、駅弁を食べる。ぼくは、ひとりでいながらこわ れた心とぽつりぽつり語り、退屈せずに軽井沢までやって来た。祖父母は何もいわないが、多分、母がこうなった事情は話してあるのだと思う。 さすがに避暑地といわれるだけあって、さわやかな暑さだった。これから夏本番だからなのかもしれないけれど、頬うつ風はちょっと冷たいくらいだった。祖 父母は二人だけで生活している。そんな祖父母たちにとっては、ぼくがしばらくここにいることは、大歓迎だったのかもしれない。 はじめの一週間くらいは、ほとんど出かけなかった。毎年来ていたといっても、小学生だったからいつも誰かと一緒で、ぼくはここの地理に詳しいわけではな い。午前中、半日くらいは、とりあえずは教科書や参考書を開いた、ぼくが学校に行かなくなってから、一ヶ月近くになる。勉強だっておくれてしまう。でも母 に言わせれば、「今、一年や二年おくれても浪人しなければ、大学生になるころには追いつくから」ということらしい。そうのんきに笑っていられると、ぼくも そんなものかなと思う。それに「こんな超氷河期なんていわれる時代、直樹が大学でたからって就職できるかわからないしね」などともいっている。そうはいわ れても、半日くらいは勉強するふりくらいしなければ、ぼくはわがままなぐうたら人間でしかない。 「直ちゃん、勉強もいいけど、たまには遊びにいっておいでよ。わざわざお金をかけて、遠くから遊びに来ている人もいるくらいなのに。軽井沢銀座までいけ ば、お店もあるし、人も大勢いるから。ほら、おじいさんが駅で観光用の地図もらってきたから、直ちゃんにって」 ぼくは、ふと出かけてみようかなという気になった。 「自転車、借りていい? あっ、でもやっぱり歩いて行ってみようかな。ここからならそんなに遠くないでしょ?」 「直ちゃん、でも別荘地の方には行かない方がいいよ。ちょっとくらいなら直ちゃんでも大丈夫だと思うけれど、道が複雑だからね。あまり奥に入ってしまう と、迷って帰れなくなるから」 「うん、大丈夫だよ」 ぼくは久しぶりに、なんだかわくわくしてきた。どうしてもっと早くに出かけようと思わなかったのかな。 「直ちゃん、帽子、帽子」 帽子をかぶるほど、暑くない、でも祖母がせっかく玄関まで持ってきてくれたのだからと、ぼくは帽子をかぶって家を出た。 2 太陽の光はまぶしかった。とてもさわやかだった。ああ、もう夏が来ていたんだ、ぼくはあらためて気がついた。少し早足で歩いたせいか暑い。帽子をとっ た。汗ばんだ額に、快い風があたる。ぼくは、わざと人通り多い道をさけて、からまつ林の中に入った。高い木に遮られているせいか、太陽の光がわずかに差し 込むだけだ。日陰で、閑散としている。避暑地だの別荘だのというだけあって、それなりに快適に過ごせるんだろうな。ぼくは、アスファルトの照り返しの暑さ を思い出した。ぼんやりとして歩くのには、ちょうといい道だ。たまに通る車に、はっとしながらぼくは歩いて行った。手入れのゆきとどいている別荘から、朽 ち果てたようなものまである。でも、人影はなくひっそりとしていた。別荘といっても、そう何ヶ月もいられるものではないだろう。仕事のあいまの週末に、ふ らっと訪れるものかな、なんて思いながら歩いていた。 ぼくは、ふとある一軒の建物に目をやった。庭にひとりの少女がいた。ぼくが、からまつ林の別荘ではじめて見かけた人だった。年はぼくと同じくらいか、 ひょっとするともう少し上かもしれない。夏休みで来ているのかな、と思ってなんとなく見ていた。少しすると、その少女はぼくに気づいたらしく門のところま でやってきた。ぼくがあわてて立ち去ろうとしたところ、 「ねぇ、待って」 と、後ろから声がした。 「何してたの?」 ぼくは困った。別に何もしていない。ただ歩いていたら、そこに人がいて、ちょっと立ち止まっていただけ。 「さ、散歩」 ぼくは、どもりながら答えた。ひところで今のぼくの状況を説明するのに、いい言葉が思いあたらなかった。 「散歩?」 少女は笑い出した。そんなにおかしいかな。第一、初対面で何もしらない相手なのに失礼だと思う。 「そんなにおかしい?」 ぼくがたずねると、 「だって、散歩するなんてこと、おじいさんかおばあさんが使う言葉だと思っていたから」 という。そういわれてみれば、そうだ。ぼくくらいの中学生が散歩というのは、少し変かもしれない。ぼくもそう思ったら、急におかしくなって一緒に笑っ た。そして、同じ年頃の子と話すのも久しぶりだった。 ぼくは軽井沢でひとりの女の子と友達になった。夏休みで東京から来ているそうだ。ぼくと同じ中学二年で、さやかという名前だ。ぼくたちは今度の日曜日に 雲場池に行く約束をした。日曜日、ぼくたちにとっては毎日が日曜日なのに、ぼくたちの約束はカレンダーでいうところの日曜日だ。日曜日まではあと二日あ る。その夜ぼくは、わくわくしてなかなか眠れなかった。 日曜日の朝がやってきた。ぼくが用意をしているころに、電話のベルが鳴った。 「直ちゃん、辻井さんって方から」 祖母がぼくを呼んだ。ぼくが電話口に出ると。さやかではなく、さやかのお母さんからだった。 「直樹さん? あの子、とても楽しみにしていたのに。きょう、また具合が悪くなって。ごめんなさいね」 「またって、さやか、どこか悪いの?」 「たいしたことないから。よくなったら、さやかから電話しますって。またぜひ遊びに来てくださいね」 ぼくは、またひまな日曜日を過ごすことになった。きょうこそは、特別な日曜日だったはずなのになあ。よほどさやかの別荘まで行ってこようかと思ったけ ど、やめた。またって、さやかはどこか具合がわるいのだろうか。 さやかから電話が来たのは、水曜日になってからだった。 3 雲場池は、さやかの別荘からそう遠くないところにある。 「この前の散歩の続きね」 さやかは散歩という言葉を強調していった。 「よせよ、からかうなよ」 ぼくは、ちょっとむっとして答えた。 「いいじゃない、散歩なんて。今は子供だってストレスのたまる時代なんだから。それに来年は受験でしょ? 散歩なんてできないかもしれないよ。英単語覚え ながらの散歩なんてないしね」 「来年か……」 ぼくは、ひとりごとのようにつぶやいた。来年の今頃は、どうしているんだろう。ぼくの長い休暇は終わっているのだろうか。ぼくは、ふとさやかに目をやっ た。先ほどの笑顔が消えて、どこか遠いところを見つめていた。 「さやかってさぁ、どこか悪いの?」 「どうして?」 「この前、お母さんが、また具合が悪くなったって言ったから」 「もう、お母さんたら、余計なこというんだから」 そういうと、ぼくを見つめて笑った。 「本当はね、だまっていようと思っていたの。直樹くんだって、夏が終われば帰ってしまうんだし、夏の間だけ秘密にしておこうってね。せっかく友達になれた から。わたしね、白血病なの」 「白血病?」 一瞬、ぼくの表情がこわばった。 「そんなに、おおげさに驚かないでよ」 さやかは、にっこり笑ってぼくを見た。どうしてそんなに明るい顔でいられるんだよ。白血病といったら、死ととなりあわせの病気だろ? どうしてなんだ よ。ぼくは、心の中でつぶやいた。 「なんか直樹くんが、白血病の告知をされたような顔ね」 さやかは、ぼくを見てまた笑った。 「どうしてそんなに元気でいられるんだよ、だって、いつ死ぬかわからないんだろ?……あっ、ごめん」 ぼくは、そういって慌ててあやまった。 「でもこれがわたしの現実だから。逃げたってかくれたって、なにも変わらないでしょ。これが現実なんだなって受け入れることにしたの」 「さやかって強いんだね」 ぼくは、そういうとだまってしまった。いろいろなことが一度によみがえってきた。ぼくは、弱虫なのかもしれない。ぼくは、現実から逃げているのかもしれ ない。 「どうしたの?」 ぼくは、はっと我にかえった。ぼくは、ひと呼吸おいて、 「今度はぼくの秘密、話すよ」 といった。 「別に話したくない秘密、わざわざ話さなくてもいいの。なにもわたしの話を聞いたからって」 「聞いてほしいんだよ、さやかに。今まで誰にも話さなかった。話せなかったんだ。ぼくさ、学校、行ってないんだ。不登校なんだ」 今度はさやかが驚いた。大きく目を見開いて、ぼくを見ていた。 「そんなに驚くなよ。不登校歴一ヶ月ってとこかな」 ぼくは、わざとおどけて見せた。そして話し出した。ぼくだ、どこからどう話せばいいのかわからななかった。ぼくは、はじめて心のきれつを、ひとつひとつ 語った。話は先に進みすぎたり、もどったり、うまく話せなかったけれど、さやかはだまったまま聞いていた。ぼくが話し終わった時、目の前には 雲場池が広がっていた。 雲場池には、たくさんの人がいた。やっぱり観光地なんだなと思う。 「けっこう人が来ているんだね」 ぼくがいうと、さやかはその問いには答えず、 「つらかったでしょう、直樹くん」 といった。 「いじめられたくらいで、死んでやろうなんて思ったぼくは、弱虫だよ。さやかの方、もっともっとつらいのに」 「わたしの場合は、避けられないどうしようもないことだもの。でも、直樹くんの場合は、周りの環境が変われば、直樹くん自身も変われるはずでしょ? で も、わたしたちって不思議な関係だと思わない? 白血病に不登校……」 さやかは、そういって笑った。たしかに、ぼくたちはおもしろいとりあわせだ。 「ここまで来たんだから、軽井沢銀座まで寄っていかない? この前のおわびに、ソフトクリームでもごちそうするから」 軽井沢銀座に入ると、人でごった返していた。ソフトクリームを口にしながら歩いていると、コンビニ事件なんてたいしたことではなかったんだな、と思っ た。さやかが見たいという店を、後についてふらふらとしていた。 その日から、ぼくは毎日のようにさやかの別荘を訪れた。ぼくのこわれた心に、少しずつうるおいが戻ってきた。 4 ぼくが軽井沢に来て、二週間になった。さやかに会ってからのたった二週間で、よく笑うようになった。話すようになった。もともとぼくは、不登校をする前 からも、無口ではなかったが、決してよく話す方でもなかった。さやかといると楽しかった。さやかにつられて、よく笑い、話すようになった。ここにいると、 泥だらけになって帰ったこと、日に日にぼくの心がこわれていくのを感じていたこと、すべてが夢のような気がしてきた。そして、さやかが白血病で苦しんでい るということも。 「さやかってさ、楽天家でいいよな」 「それじゃあ、わたしが何も考えていない、何も悩んでいないみたいじゃない」 そういって、またさやかは笑った。さやかとはずっと前からの友達のような気がしていた。 この夏、ぼくたちはよく散歩をした。さやかの体の調子がいい時に、からまつ林をゆっくり気のむくままに散策した。野鳥のさえずりや、川のせせらぎに耳を 傾けた。ポケットに朝食の残りのパンをしのばせて、雲場池に立ち寄った。水鳥たちは、激しい羽音とともに、岸辺へとやってきた。中でもぼくは、体が小さく て動きの鈍い鳥にむかってパンくずを投げた。それでも、そいつはなかなかパンにありつけなくて、もたもたしていた。 「もう、何やってるんだよ」 ぼくがつぶやくと、さやかが笑った。 「なんだかかわいそうでさ、あいつ」 ぼくは、パンを少しちぎってさやかに渡した。さやかが投げても同じだった。 「ほら、どうしてもあいつ、とれないだろ?」 「ほんとね」 さやかは、また笑った。 「生存競争っていうのかもね、こういうの。やっぱり要領がよくて、ちょっとずるいくらいじゃないと、生きていけないのかも」 「さやか、今の出ぼく思い出したんだけど、ぼくの家にさ、前、ツバメがやって来たんだ。親鳥がひなにエサをもってくるだろう? 見ているとさ、親鳥はちゃ んと順番にエサをあげているんだよ。でも、ずるいひながいてさ、自分はエサもらったのに、今度はとなりのひなをふんずけるようにして場所を変わっちゃうん だ。そうすると、親鳥はそれに気づかないで、自分では次のひなにエサをあげているつもりなんだろうけど、本当は同じひなが何度も食べているんだ。一羽だけ が、まるまる太っているんだよ。親鳥だってさ、変だなって思わないのかなぁ」 といった。 ぼくがあまりにも、真剣な顔で話したせいか、さやかは妙にこの話はうけたらしい。ぼくも、さやかにつれられて笑ってしまった。 「それにさ、ひながやっと飛ぶ練習をするくらいにまでなったとき、ツバメの巣をネコが襲ったんだ。つが半分以上こわれて、ひなは飛べないのに驚いて、飛べ ないのにそれでも飛んだんだよ。でもやっぱり飛べないから、ぼくの家のまわりに散らばってしまって、うずくまっていたんだ。ぼくは、二羽くらいはつかまえ て巣に戻したけど、電線にとまったまま動けなくなっちゃったひなとかいてさ、親鳥は心配そうに、行ったり来たりして、ひなに付きっきりだったんだ。それ以 来、ぼくの家にはツバメは来なくなった」 ぼくは、電線にとまったまま動けなくなったツバメがいた、日が暮れてそして雨まで降ってきた日のことを思い出していた。親鳥がずっとひなについていて、 二羽とも雨にぬれたまま夜がふけていった。ぼくは、なんとかしてあげたかったが、ぼくが近づけばまたツバメを驚かせてしまう。ぼくは、何度も窓から見た が、ツバメは朝まで動かずにそこにいた。動けなかったのだろう。親鳥は、翌日もひなのまわりを、パタパタ羽ばたいて「こうやって飛ぶんだよ」と教えている ようだった。でも、親鳥だっていきなり実技じゃなくて、ひとつひとつ飛び方を教えてあげたかったんじゃないかな。それから、ツバメたちがどうなったのかわ からない。ぼくが記憶しているのは、そこまでだ。その翌年、ツバメは来るには来た。でも、こわれた巣をみて思い出したのか、巣をなおそうともしなかった。 それからは、もう二度とツバメは来なくなった。 「直樹くんのお母さんだって、そうじゃないの? きっと。ツバメのお母さんと同じように、直樹くんのこと、見守っているんだよ」 ぼくは、さやかの声ではっとした。母は、ぼくをしからなかった。学校に行けとはいわなかった。一年や二年おくれても、浪人しなかったら追いつくと笑って いった。母が学校に行きなさいとぼくを追い立てたら、ぼくの居場所はどこにもなかった。学校にも行けない、家にもいられない。ぼくが泥だらけになって帰っ てきたあの日、母に根掘り葉掘り問いつめられたら、ぼくはそれこそ追いつめられてしまった。 「あっ、さやか見た? ほら、あいつ、パンとれたよ」 「ほんと、あっ、またとれた」 いつもエサをもらいそこねては、鳥だっておなかはすく。どうやったら食べられるか、小さな頭で少しは考えるだろう。でも、ぼくはどうするか、まだそんな 先のことまで考えられなかった。 5 ぼくたちは、その日少し遠出をした。中軽井沢の駅から、さらに南に行ったところにある絵本の森美術館を訪れた。塩沢湖レイクランドの一角にペイネ美術館 があり、その通り沿いの反対側の小高い丘には、軽井沢高原文庫があり、そのさらに置くに軽井沢絵本の森美術館がある。夏の一日を費やすには、結構いいとこ ろかもしれない。 絵本の森美術館は、名のとおり世界の絵本が展示してあり、また絵本や絵葉書なども販売している。ぼくは、軽井沢銀座のときと同じで、さやかの後ろを追う ようにしていたが、小さかったころ読んでもらった絵本を見かけると、なんだかとても懐かしく思われた。美術館全体が童話の森のようで、建物がいくつかに分 かれていて、ひとつひとつがかわいらしくできている。ぼくたちは、椅子に腰かけてちょっと休んだ。さやかは、さきほど買った絵葉書をとりだして、一枚一枚 ていねいに見ていた。 「帰ったら、直樹くんに出すからね。……あした、東京に帰るの」 「あした?」 ぼくは、驚いて声を上げた。さやかとはじめて会ってから、二週間。たった二週間のはずなのに、ぼくはずっと前からさやかと一緒にいたような気がしてい た。ぼくは、ほとんど毎日さやかのところに出かけていって、勉強したり話したり、またこうやって夏の軽井沢を散策した。ぼくたちの夏は終わらないような気 がしていた。ずっとずっと、こんな時間がゆっくりと流れていくような気がしていた。 「どうして、もっと早くいってくれなかったんだよ」 ぼくは、ちょっとふくれていった。 「いえなかったの。楽しかったから。いつまでもこうしていたかったから」 「でもさ、まだ夏休みだろ? もう少しいればいいのに」 「また、病院にもどるの」 さやかは立ち上がって、ぼくを見て笑った。 「ここまで来たんだから、ついでに軽井沢高原文庫にも寄っていこうよ」 さやかはぼくの手をとると、歩き出した。 「ここも来たかったんだ」 さやかは、ひとりごとのようにいうと階段を駆け上がるようにして展示場へむかった。またぼくは、さやかの後ろについていく形になった。ここでは軽井沢ゆ かりの文学資料が展示してある。絵本の森美術館や、レイクランドは、大勢の人たちがいたのに、ここにはぼくたちの他に、もうひと組のお客さんがいるだけ だ。さやかは、ひとつひとつ丹念に見入っていた。そして、ぼくをうながすように裏庭に出た。うっそうとした林の中、ここは一段高くなっており、観光客を木 々の間から見おろせる。移築された堀辰雄の別荘がある。そして、ここを出て道をはさんだ向かいには、有島武郎が情死したという別荘「浄月庵(じょうげつあ ん)」も移築されている。 「これかぁ、浄月庵」 さやかが、ひとりごとのようにつぶやいた。 「じょうげつあん?」 「そう、浄月庵。有島武郎の別荘。ここで、波多野秋子と心中、情死したの」 「しんじゅう? じょうし?」 「愛しあう男と女が一緒に死ぬこと」 ぼくたちは、スリッパにはきかえて中に入った。朽ち果てつつも、なんとか昔の姿をとどめているようだった。建物全体のつくりが、現代的で、当時の建物と してはかなり進んだものだったのだろう。部屋に備えつけの棚とか、階段の下の空間を利用したもの物置き場など。 「二人が発見されたのは、一ヶ月くらいしてからなの。遺体は腐敗していて、うじがわいていたって」 ぼくがだまったままでいると、さやかは続けてこういった。 「死ぬって、そういうことなの。くさって、うじがわいて、何もなくなっちゃうことなの」 さやかは、窓から青い空を仰ぐようにしていった。自分自身にいい聞かせていったのか、あるいはぼくに対していったのか、ぼくにはよくわからなかった。 「直樹ツバメが、飛べるようになるまで、わたし、生きているから」 今こうしていることが、生きていることなんだ。こうやって青い空を見て、考えて、語って、そして息をして、心臓がドクッドクッと動いている。 「ぼくだって、さやかツバメが元気に飛べるようになるまで、生きているよ」 「でも、さやかツバメは、かしこくてずるいから、直樹ツバメをふんずけてエサをたくさんもらって、早く飛べるようになるかもね」 ぼくたちは、またあのツバメの話を思い出して笑った。 塩沢湖レイクランドは、夕方近いのにまだかなりの人がいた。 「さやか、来年の夏はさ、ここで遊ぼうよ」 「来年? だって、受験生でしょ?」 「たまには息ぬきしなくちゃね」 「だったら約束のゆびきり」 さやかは、右手をさしだして笑った。なんだよ、小学生みたいに、とぼくは照れて思った。さやかの指は、ほっそりしていた。ぼくは、ちょっぴり恥ずかし かった。 まだ八月も半ばで、これからが残暑が厳しいのかもしれない。でも、ぼくの夏は終わった。ゆびきりしたときに、ぼくの夏は終わったのだ。 翌日、ぼくは駅までさやかを送りに行った。ぼくたちは、ほとんどしゃべらなかった。改札口まで来ると、さやかは、 「これ、出すからね」 と、絵本の森美術館で買った葉書をもったまま手を振った。 「ゆびきりげんまん」 もうひとこといって、笑った。ぼくも、こくりとうなずいて笑った。そして、さやかはもう一度大きく手を振って、ぼくの前から消えていった。 ぼくはこの日、十四歳の誕生日を迎えた。 第四章 1 ぼくが家に戻ったのは、さやかが帰ってからかなりたってからだった。軽井沢の夏はもうとっくに終わっていて、秋が駆け足でやってくる。冬服へと衣替えに なる、十月に入ってからだった。ぼくは、学校に行こうとはまだ思わなかった。さやかがいなくなって、夏が終わった軽井沢は、ぼくにとっては寂しすぎた。家 に戻って、また単調な生活が続いた。ぼくは、同じような日々をくりかえしながら、ぼんやりといろいろ考えていた。そんな退屈な生活の中で、ぼくが楽しみに していたのは、さやかからの手紙だった。さやかは、約束したとおり、まず絵葉書を送ってきた。ぼくが、家に戻ってからはこちらに手紙をよこす。 ぼくは、どうして学校に行けなくなったのだろうか、などと考える余裕もできた。ぼくは、封印していた記憶をひとつひとつといていった。和広はどうしてい るのだろうか。まだ学校へは行ってないのだろうか。和広は、ぼくのことを許してくれないのだろうか。同じクラスから二人も不登校児を出して、山岸先生は 困っているだろうな。浩一は、どうしているのだろうか。まだぼくのことを、怒っているのだろうか、こんなことを思うようになった。 ぼくは、ふっと思い出して、さやかに話したツバメの巣を見に行った。半分以上こわれた、あのときのままであった。一度恐い目にあってこりた から、ここは 危険だと思ってもう二度と来ないんだな。毎年毎年春になると、必ずやってきていたのに。たった一瞬の出来事で、もう来なくなった。ぼくが学校に戻ったら、 どうなるのだろうか。もし、ツバメがまた帰ってきても、ネコはきっと本能でまたツバメを襲うかもしれない。でも、学校にいるのはネコじゃない。人が同じこ とを、同じあやまちを繰り返すだろうか。 ツバメの巣が狙われたのは、巣のちょうど真下に車が停めてあって、ネコは車を踏み台に、巣に飛びついたのだった。せっかく安全なところに巣を作ったの に、とんでもないところに踏み台があったものだ。危ないとわかっていながら、巣の修理などしないだろう。 ぼくの心は、砕け散ったぼくの心は、カケラのひとつひとつがていねいに集められて、大きな塊になっている。さやかに出会って、ぼくの心の破片は、パズル でもやっているかのように、少しずつ組み立てられた。ツバメは、巣を直しに来なかったが、ぼくはひとつずつゆっくりと組み立てていこうと思う。 2 街はひと足先に、クリスマスムードを漂わせていた。かざりつけだとか、音楽だとか、そしてもう雪も舞う時期になっていた。ぼくは、いささかこの日々にう んざりしていた。軽井沢の夏が終わって、家に戻ってきてもう三ヶ月近くになる。クリスマスが終われば、新しい年がやってくる。ぼくの休暇は半年くらい続い ている。休暇はたまにあるから楽しいのであって、毎日が日曜日だとなんとも味気ないものなのだ。今さら学校に行っても、とぼくは思う。学校に行かなかった ら、じゃあぼくは何をするのか。ぼくがこんなことをしていて許されるのは、まだ中学生だからだ。学校へ行くのが、とりあえずぼくの仕事であり、その仕事が あるから不登校という立派な理由もある。ぼくが高校に行く年齢になったら、それでも不登校といわれるのであろうか。今はいい。でも、いつまでもこんなこと をしていたら、ぼくはわがままな甘ったれの、ぐうたら人間でしかない。 ぼくは、ふらっと家を出て、コンビニに寄った。雑誌をぱらぱら見て、缶コーヒーを買って出た。コーヒーは熱くて持てないくらいだったので、ポケットに入 れた。一歩出たところで、ぼくはばったり浩一に会った。 「直樹……」 ぼくたちは、半年ぶりに会った。 「浩一、これ」 ぼくは、ポケットに入れた缶コーヒーをポンと浩一に向かって投げた。 「ぼくのおごり。あのときのコーラのお返し」 ぼくは、そういって笑った。思えばあのコンビニ事件から、拍車がかかっていったのだ。 「直樹、おまえ、背が伸びたな」 「あっ、ほんとだ」 半年前は、浩一は見上げるくらい背が高かった。今、こうして並んでいると、そんなに差がない。半年の休暇で、ぼくはかなり背が伸びたようだ。 「浩一、こんな時間に……。また、授業に出なかったのか」 ぼくが時間を思い出したようにいうと 、 「失礼なやつだな、きょうは土曜日だぞ」 と、浩一がいった。 「直樹、おれ、おまえに返すものがあったんだ」 そいうって、かばんの中からごそごそと取り出した。 「あっ、かさ」 「ずっと持っていたんだ。直樹が着たら返そうと思って。直樹、ごめんな」 泥だらけで帰ったあの日以来、忘れていたかさが戻ってきた。 「ぼくの方こそ。浩一の気持ちも考えず、生意気なこといって」 「でも、本当のことなんだよな。直樹にいわれたこと。おやじたちが離婚してさ、おれ、ちょっとやけになっていたんだよ。おれ、直樹が学校に来なくなってか らさ、気づいたんだ。おれのこと、一番心配してくれた友達って、直樹だったんだなって。おれのせいで、和広は転校するし、直樹は来なくなるし……」 「和広、転校したのか? ぼく、和広にあやまれなかったな……」 「おれ、ここで直樹に会わなかったらさ、二人も友達なくすところだったよ」 「あっ、ぼくさ、学校に行かなくなって、浩一のおかげでひとり友達ができたんだよ」 「えっ? いつ? だれ?」 「ひ・み・つ」 ぼくは、わざとおどけていった。きっと、さやかも見ていれば笑うだろうと思った。 「なんだよ、教えろよ」 ぼくたちは、以前のような友達に戻っていた。これは、半年という長い時間があったからかもしれない。ぼくも、和広も、そして浩一も、みんなそれなりに苦 しんだのだろう。 「直樹、学校来いよ。前みたいにさ、いじめるやつがいたら、おれが守ってやるからさ」 「男が男を守るっていうの、なんか変だよな」 ぼくは、笑った。ぼくは、さやかといたときだけでなく、いつのまにか自然に笑えるようになっていた。 「直樹、学校へ行く木になったら、家まで迎えにいってやるからな」 ぼくは、笑いながらうなずいた。 3 新しい年がはじまった。のどかな正月を迎えていた。単身赴任していた父も、しばらく家でゆっくりできたようだ。 「直樹、あした、お父さんと『どんど焼き』に行かないか?」 と、父がぼくにいった。 「えーっ、やだよ。寒いのに、あれ、朝早いんだよ。お父さん知っているの? それにさ、小学生しかいかないよ」 そうはいったものの、翌朝、母に起こされて、結局ぼくは父と二人で行くことになった。 ぼくは、久しぶりに早起きをした。時計を見ると、五時半をまわったばかりで、外はまだ暗かった。昨日降った雪がうっすらと積もり、あたりは銀世界のよう だった。広場に着くと、大勢の人がいた。町内の役員のおじさんらしき人が火をつけた。パッと明るくなって、きれいだった。火のおかげで、少しは明るくなっ たけれど、寒さが身にしみた。やっぱり朝の方が冷え込みは厳しいんだな、とあらためてぼくは思った。どんど焼きの火で、まわりはだんだん明るくなってきた けれど、空には星が瞬いている。 「今年はよく燃えるなぁ」 「いつもは、燃えなくて火がつくようにと松をかきまぜたのに」 話し声が聞こえた。 「毎年このころからお餅が焼けたけれど、今年は竹もたおれない」 「かさだけ燃えてあとは…」 一臂ではこんな声も聞こえた。竹のてっぺんにつけたかさは、メラメラと燃えている。けれど竹そのものに火がつかないから、お餅を焼く状態にはならないらし い。しばらくすると、火の勢いが増した。竹に火がつくと、パンッと音がする。ぼくは、顔が熱くなって後ろをむいた。 「直樹、お父さんなぁ、四月からは多分打ちから通えるようになるよ」 「本当に?」 父は二年余り単身赴任生活をしていた。またパンッと大きな音がして、ぼくは驚いて向きを変えた。続いて、またパンッと音がした。その瞬間、ぼくはいっ た。 「ぼく、学校に行くよ」 父は、一瞬驚いたようにぼくを見た。そして笑って、何度もうなずいた。 「直樹、餅、持って来いよ。お母さん、七草粥つくって待っているから」 母があらかじめアルミホイルに包んでくれた餅を出した。それを網の上にのせた。市販の網に、さらに鉄パイプをつけてある。毎年のことで、餅が黒こげに なったり、熱くてとりだせなかったりしたことから、母が考え出した「どんど焼き用もち焼き網」である。ぼくは、顔が熱いのを我慢して、グッと押し込んだ。 「ぼくの仕事は、学校に行くことだから」 ぼくは、ひとりごとのようにいった。しばらくして、もういいかなぁと思って取り出してさわってみると、まだ固い。もう少したって取り出したところ、今度 はアルミホイルを破ってお餅が顔を出している。取り出すとき、鉄パイプに手が当たってしまった。 家に戻る途中、手は少しヒリヒリしていた。でも、ちょっとあたっただけだったので、どうにもならないと思っていた。母に冷やすようにいわれたけれど、い いといってそのままにしておいた。 今年の七草粥も、お餅が入って役者がすべてそろった。そして、毎年のことながら、「せり、なずな…」と七草の復習をする。七草粥を口に運びながら、ち らっと手を見たら、小さな水ぶくれになっていた。ぼくが、「学校に行く宣言」をした、小さな記念だった。 どんど焼きの翌日からは、三学期がはじまった。ぼくは、半年ぶりに制服を着た。ズボン丈もちょうどいい。母がぼくの背丈にあわせて、いつのまにか直して おいてくれたらしい。父は、残り三ヶ月ほどの単身赴任生活のため、昨夜からまたいない。母と二人だけの朝食だった。母はぼくが学生服を着てきたのにもかか わらず、驚きもしなった。多分、父がぼくの宣言を母に伝えたのだろう。いつもの朝のように、何こともなかったかのように、母は笑顔でいた。ぼくが靴をはい ていると、 「いってらっしゃい」 と、台所で声がする。今日くらい、玄関まで来てそういってくれてもよさそうなのに、洗い物をしながらいう母。母にとっても半年ぶりに口にする言葉だ。 「お母さん」 ぼくは、母を呼んだ。 「なあに」 台所からまた声がする。本当は、ぼくは「ありがとう」といいたかった。半年間、ぼくのことを、そっとしておいてくれて、暖かく見守ってくれてありがと う、と。父の単身赴任中で、一番つらくて心細かったのは、ひょっとすると母だったかもしれない。 「お母さん、今日のおやつさ、ホットケーキにして」 ぼくは、照れくさくていえなかった。たった五文字の短い言葉なのに。 学校で浩一に会ったら、まずなんていおうか。教室に入ることを思うと、転校生のような気分になった。そして春休みになったら、さやかのお見舞いに行こう と思う。 『直樹ツバメは、電線から飛び立ったよ、さやかツバメもがんばれよ』と。 あの夏の日のように、青い空が広がっている。青い空を仰ぎ見たり、歩いたり、息をしたり、太陽の明るさを背中で感じたり、今こうしていることが生きてい るということなんだ。「ゆびきりげんまん」ぼくは、心の中でつぶやいた。その言葉は、「ゆびきりげんまん」と心の中でこだました。 ぼくの長い休暇は終わった。 |