| ゆびきりげんまん 2 |
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第三章 軽井沢
1 夏休みがやってきた。 ぼくは、さやかとの約束どおり、八月に入ってすぐの数日、軽井沢で過ごすことにした。祖父母の家に、五泊六日の予定で泊まるのだ。 軽井沢に着いて、むかえに来てくれた祖父母とともに家に寄った。その後、慌ただしく昼食をすませ、さやかの別荘へとむかった。 からまつ林に囲まれた別荘地帯は、一年前となんら変わったことはなかった。 ひんやりとした空気、こぼれおちる光。頬うつ風。むしろ、一年という時が流れ去ったという方が不思議なくらいだった。 さやかは、門のところで待っていた。ぼくの姿を見つけると、門の隙間から、するりと出てきた。 「元気にしてた?」 ぼくは、笑いながらこくんとうなずいた。手紙だって、週に一度は出しているし、電話でだって週に一度くらいの割合で話している。でも、やはり久しぶりと いう感覚だった。 ドッキン、ドッキン。 ぼくの心臓が、息苦しいくらい鼓動していた。さやかを目の前にすると、手紙や電話と違って、言葉がすんなりでてこなかった。 ぼくがだまったままでいると、さやかが続けた。 「直樹くん、行こう」 「どこへ?」 「散歩」 ぼくは、一年前の夏を思い出した。さやかにはじめて会ったここで、なにをしていたかと問われ、散歩と答えたことを。 からまつ林から軽井沢銀座にぬける道は、まさに散歩という言葉がぴったりだ。ひんやりとした空気を肌で感じ、木の香りがする空気を深く吸い込む。朝早く から、新幹線にゆられただるさが、すっと消えてしまった。 ぼくたちは、からまつ林をぬけて、軽井沢銀座の裏手にある聖パウロ教会の前にいた。板葺きの三角状の建物、カトリックの教会である。ちょうど、結婚式を 終えた新郎新婦が出てきたところだった。式に参列した人や観光客で、この一角だけちょっとした人混みをつくっていた。 「わぁ、すてき」 隣にいたさやかが、ひとりごとのようにいった。しばらくの間、純白の花嫁さんを見ていた。 「さやかだってさ、そのうち着れるよ」 ぼくは、そういいながら、顔のほてりを感じていた。さやかのウェディングドレス姿を想像し、次の瞬間には、白血病という三文字が重くのしかかってきた。 「直樹くん、行こう」 ぼくは、さやかに半ば強引に手をとられ歩き出した。 「もしもね、骨髄移植ができて助かっても、骨髄移植しちゃうとね、子供産めないのよ」 骨髄移植の副作用が、不妊なのだそうだ。さやかが簡単に説明してくれた。 「助かって、結婚できても、子供はできないのよ」 ひとりごとのように、続けた。 ぼくは、なんて答えてやったらいいのか、わからなかった。結婚や子供なんて話、ぼくにとっては、全く考えたことがないことだったから。 「子供、産めないと悲しい?」 「さあ」 さやかは首をかしげた。 「よくわかんない」 ぼくは、その言葉にほっとした。やっぱりさやかも、ぼくと同じ中学生なんだ、と。 「でも、まわりの人がみんなしていることができないって、仲間はずれみたいじゃない。だって、みんながミニスカートはいて、ルーズソックスはいているの に、自分だけ別の恰好したら、妙に浮いちゃうじゃない」 「アヒルには悪いけどさ、白鳥の中のアヒルよりは、いいと思うよ。浮いちゃうにしてもさ」 ぼくが、さやかの言葉をうけて冗談をいうと、さやかは声をあげて笑った。 ぼくたちの年代は、多数決が強い世界だと思う。みんなにいいといわれるものが、支持される。だから、みんなと同じことをする。その群れから、はぐれまい とする。異端者とならないために。そう思えば、群れを率いる独裁者の方がまだましかもしれない。とばっちりもあるだろうけれど、群れにいられるから。 軽井沢銀座に入ると、色とりどりのファッションに身をつつんだ若者の熱気であふれていた。一年前の夏と同じように、ぼくはさやかが入りたいという店を見 てまわった。前は、おみやげや小物、雑貨の店が中心だったのに、今年は、洋服の店を主にまわっていた。 「直樹くん、どっちが似合う? さっきの方がいい?」 ファッションショーのように、試着をくりかえすさやか。どっちでも同じだよ、と内心思いつつ、その言葉を飲み込む。 「今、着ている方かな……」 「やっぱり? わたしもそう思ったの」 にっこり笑うさやかを見て、ぼくは隠れてため息をついた。 いつだったか、名古屋の駅前の百貨店に、両親と共に行ったときのこと。父がいささかうんざりした様子であったのを、思い出した。 やっぱり女の子なんだと、さやかのことを思った瞬間だった。 2 翌日。 ぼくたちは、一年前の約束どおり、中軽井沢の塩沢湖レイクランドにやってきた。 人工の湖だが、豊かに水をたたえた湖では釣りやボートもある。緑の木々に囲まれ、芝生で弁当をひろげる家族連れや、テニスをしている大学生くらいのグ ループも見られる。 さやかは、きのう軽井沢銀座の店で買った、白いワンピースを着ていた。高原のイメージにぴったりで、ぼくは一瞬そんなさやかに見とれていた。 「なかなかいいでしょ?」 そんなぼくに気づいたのかさやかが、ぼくの前でくるっとまわってみせた。ふわっとすそがひるがえった。次の瞬間、にこっと笑うさやかの身体に、ワンピー スはもうなじんでいた。 ドキン。 またぼくの心臓が、とびあがった。 そんなぼくの様子を見て、さやかはくすっと笑った。 「なんだよ」 ぼくは、ぶっきらぼうな言葉を投げかけた。 「すぐ照れちゃうの。かわいいわよね、直樹くんって」 時としてぼくは、さやかが少し年上のお姉さんのような錯覚を覚える。 「からかうなよ」 ぼくは、ぷいっとさやかに背をむけ、芝生に腰をおろした。朝露が残っていたのか、ジーパンの上からでも、じとっとした湿り気を感じた。 「怒ったの?」 さやかの影が、ぼくの影に重なった。ぼくの髪をかきあげた風が、さやかの影をゆらした。ぼくの後ろで、風にいたずらされたワンピースのすそが広がるのを 感じた。 ぼくは、ポケットからハンカチをとりだし、芝生の上に敷いた。 「ありがとう、直樹くん」 さやかがすわると同時に、ぼくはごろんと寝ころんだ。湿った芝や土のにおいが、ぼくの鼻についた。照りつける太陽の光によって、漂っている。遠い昔を思 い出すような、懐かしいにおいだった。 青く澄んだ空。 逆さまになった景色に、浄月庵が映し出された。 浄月庵。一年前の夏、さやかと訪れたところだ。塩沢湖レイクランドのすぐ外にある。有島武郎と波多野秋子が、心中したという別荘だ。二人の遺体が発見さ れたときは、腐敗してうじがわいていた。 死ぬって、そういうことなの。 一年前のさやかは、そう淡々とぼくに語った。 「直樹くんって、このハンカチのこともそうだけど、気がきいてやさしいんだよね。それに、照れ屋のところも……。わたし、そんな直樹くんのこと、好きよ」 えっ? ぼくは、突然、現実にひきもどされた。 好き? ぼくのこと? ドッキン、ドッキン。 またぼくの心臓が独立した生き物になった。 「きいてる?」 さやかは、そういうと帽子をとって、ぼくの顔にふわりとかけた。 「……きいてた」 ぼくは、かすれた声でやっと答えた。 「直樹くん、行くよ」 突然の出来事に、ぼくがまだ夢うつつになっているのにもかかわらず、さやかは寝ころんでいるぼくの手をとった。 「どこに?」 「ここのバナナケーキが有名だって、話したでしょ?」 さやかの頭は、次のことへと切り替わっているらしかった。ぼくの動揺などおかまいなしに……。 ぼくは、さやかにうながされて、レイクランドの中にあるログハウス風の喫茶店に入った。 「さっきさ、昼飯、すんだばかりだろ?」 「入るところが違うのよ」 さやかは、バナナケーキとバラの紅茶をたのんだ。ぼくは、きどってコーヒーをたのんでみた。砂糖とミルクを入れたのに、それでも苦くて、もうひとさじ砂 糖をたした。 「よく食べるなぁ」 さやかの食欲を感心したようにいうと、 「食べる?」 と、フォークにさしたひとかけらを、ぼくの目の前にさしだした。 ぼくは、ドキンとして、きょろきょろとまわりを見てうつむいた。 「ほら、おいしいから」 さやかは、そんなぼくを見てまた笑っていた。ぼくは、ぱくっとエサに飛びつく池の鯉のように、フォークに食らいついた。口の中に、パウンドケーキ風の感 触と甘み、そしてとろけるようなバナナの味が一瞬ひろがった。あわてて飲み込んでしまったから、おいしいかどうかなんてよくわからなかった。 「ね、おいしいでしょ?」 ぼくは、こくんとうなずいた。 「ほら、このバラの紅茶もなかなかいけるんだから」 さやかが差し出したティーカップを、ぼくはそのままうけとり口にもっていった。バラの花の香りが漂い、それでも味は普通の紅茶と変わらなかった。 「ね、おいしいでしょ?」 再び同じ問いかけをされ、ぼくは同じようにこくんとうなずいた。 さやかは、ぼくが口を含んだフォークで残りのバナナケーキを食べ、ぼくが口をつけたティーカップで残りの紅茶を飲んでいた。 ぼくは、そんなさやかを見ながら、コーヒーカップを手にした。甘くて、そして苦くもある冷たくなったコーヒーを飲み干した。 3 さやかの別荘を訪れ、ふたりで勉強をする日もあった。やっぱりぼくたちは、受験生という気分から、完全には解放されなかったのだ。 「あ、そうだ。直樹くん、今日、誕生日でしょ? これ……」 さやかは、突然、手をやすめると箱をもってきた。マグカップだった。 「色違いで買ったのよ」 そういうと、ピンクのマグカップをもってきた。ぼくのは、ブルーのだった。自転車に乗った、シルクハットをかぶった西洋人らしい人の絵のカップだ。 「同じカップを使ってると、いつも近くにいるみたいじゃない」 そんなさやかの言葉に、ぼくは笑った。でも、そういわれるとそんな気がしてくる。 八月五日。今日は、ぼくの十五歳の誕生日だった。一年前の今日、ぼくの十四歳の誕生日に、さやかはひと足早くに東京に帰って行った<。 今年は、ぼくの方がひと足早くに、名古屋に帰る。それがあしただった。あさってから、塾の夏期特別講座があるからだ。 東京から、さやかのパパや妹の綾香ちゃんがやってきた。その日の夜は、ぼくはさやかの家族に、ホテルでの食事に招待されていた。 そのホテルは、からまつ林にうずもれるようなところにあった。別荘地のリゾートホテルという感じで、二階建ての横に広いホテルだ。都会の夜景が楽しめる 高層ホテルとは、またちょっと違う。 夕食の予約時間まで、まだ間があった。 「パパ、ちょっと庭にでてくる」 さやかは、そう父親に断ると、ぼくをうながした。 ホテルの庭というよりも、林そのものだった。こんもりとした木にうずもれる空間。昼間よりも、少し色濃くなった空。涼しいを通りこして、冷たくなった風。 野鳥のさえずりや、小川のせせらぎが耳に響いた。 「直樹くん、こっち」 ぼくたちは、坂をおりる感じに、一段低いところへと移った。川が流れていて、その先には小さな池があり、水鳥が泳いでいた。 「直樹くん、ミントの葉よ」 せせらぎの傍らに、ミントが生えていた。 『ホテルで使うために育てています。つみとらないでください』そんな表示もあった。さやかは、そんなことはおかまいなしに、手をのばしている。 「さやか、しかられるぞ」 「だいじょうぶよ、だれも見てないから」 といいながら、少しむしりとった。そして、一枚の葉をくわえて、ぼくの方を見た。 「すーっとする」 「あたりまえだろ、ミントだもん」 そういうぼくに、残った葉をさしだした。ぼくもさやかのまねをして、前歯でかんでみる。口の中が、ひやっとするかんじだった。葉をふきだすと、ぼくたち は歩き出した。さやかについて、水鳥のいる池にむかった。あたりは、水辺のせいか、少しぬかるんでいた。 「さやか、すべるから気をつけろよ」 ぼくがそういった矢先のことだった。ゆるやかな下りの細い坂で、さやかは足をとられてバランスを失った。反射的に、ぼくはさやかの腕をつかんだ。 気がついたときには、さやかはぼくの腕の中にいた。 ドキン。 ぼくの胸が痛いくらいに、息づいた。 ぼくの腕の中にすっぽりおさまるくらい、さやかは小柄だった。それはぼく自身の体格が、この一年で少したくましくなったからかもしれない。ぼくは、さや かをうしろから抱きしめていた。 夕刻を告げる、夏とはいえ冷たい風が、通りすぎた。さやかの髪が、ぼくの頬を甘い香りとともにくすぐった。 「……ぼくも、さやかのこと……好きだから……」 断片的に低くつぶやくぼくに、さやかがかすかにうなずいた。 「お姉ちゃーん」 突然の呼び声に、ぼくたちは慌ててはなれた。 「お姉ちゃーん」 再び声がして、綾香ちゃんの姿が見えた。 「パパが、もう行くよっていってるよ」 さやかは、ほっとしたような笑顔をぼくにむけた。 「行こう、直樹くん」 ぼくは、まだドキドキしていた。でも、そのドキドキは、ミントのようにさわやかだった。 ホテルの夕食は、フランス料理のフルコースだった。フルコースなんて、ぼくにははじめてのことだ。 「さやかの誕生日は、来月だったな」 ぼくの誕生日だと知ると、さやかのパパはふと思い出したようにいった。九月十六日がさやかの誕生日だった。 それから、さやかが生まれた頃の話だとかもしてくれた。さやかという名前の由来についても。 秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる さやかという名は、藤原敏行という人の詠んだ歌からとったそうだ。たしか国語の教科書に載っていたなと、ぼくは思い出した。 「でも、漢字の名前がよかったな」 「いいじゃん、ひらがなで。わたしなんか、画数が多くて、テストの時、いつもそんだなって思ってるもん」 綾香の言葉に、みんな笑った。 「二度目の誕生日になるな」 「そうね」 さやかのパパとママの会話に、ぼくは白血病になってからのことかと、気がついた。 ふと外に目をやると、さきほど散策した庭がライトアップされている。 「きれいでしょ?」 そんなぼくに気がついたように、さやかはたずねてきた。ぼくは、フォークとナイフを置き、しばらく景色に見入っていた。 「お姉ちゃん、直樹くんが働くようになったら、まずここでごちそうしてもらいなさいよ」 「なにいってるの、綾香。そんな先のこと」 「いいじゃない、約束だもん、ね、直樹くん」 綾香の言葉に、ぼくはうなずいた。 そんな先のこと……。 さやかにとっては、想像もつかないくらい、はるか時の彼方の話だろう。とにかく骨髄移植さえしなければ、助からない。その前に、骨髄液を提供してくれる ドナーが現れなくては、一歩も前へ進めない。それでも、刻々と時間だけが容赦なく過ぎていく。 「おじさん。例えば、ぼくや、ぼくの父や母の骨髄液の検査をしてもらったら、もしかしたらってこともあるよね」 ぼくの突然の言葉に、みんながだまりこんだ。 「ありがたい言葉だけどね、血縁者以外からだと、HLAの一致は難しいんだ。五百人から一万人に……ひどいときには数万にひとりの割合でしか一致しない。 一時期、わたしたちもね、必死になって親戚はもちろん、友人や知人にまであたった。だが、現実は甘いものではなかった」 さやかのパパは、そこで一度言葉をきった。ちょうどメインの肉料理が運ばれてきた。 「さめないうちに、食べよう」 さやかのパパの言葉で、みんないっせいにフォークとナイフを動かしはじめた。 「それにだね、直樹くん。これは、ドナーにとっても命がけのことなんだ。骨髄液の提供は、一般に全身麻酔で行われるんだ。それほど採取がむずかしいんだ。 その際に、場合によっては提供者が意識不明になるだとか、植物状態になる……という重大事故が起こる可能性を否定できないんだよ」 骨髄液を採取する際には、ドナーに数週間入院してもらうそうだ。ボランティアとはいえ、ドナーが社会人であれば、もちろん仕事への差し障りもある。その ドナーに対する休業補償も現状ではなにもないらしい。 さやかのパパは、わかりやすくぼくに話してくれた。 「多分、一番つらいのは娘のさやかだ。そして、わたしたち家族もつらい。それに直樹くんだって、さやかと出会ってから、こんなさやかのことを思うとつらい ことも増えただろう。でも、つらい悲しいと思っていたってなにも変わらない。だったら、今ある時間をもっと楽しく有意義に過ごした方がいいと思って ね……」 「そうよ、だからお姉ちゃん、ここで約束させちゃいなさいよ」 またここで、綾香が先ほどの話をもちだした。 「わかったよ、約束する。社会人になったら、ディナーをごちそうする」 ぼくは、苦笑しながらいった。 現実のつらさを踏み台に、一段高いところにいるさやかの家族の前で、感心、賞賛、呆れそんな感情が入りまじった複雑な気分だった。 いちごのシャーベットを口に運んでいると、冷房のせいか少し肌寒くなった。紅茶を飲み終わり、さやかとぼくは先に席をたち、再びライトアップされた庭に でた。 夏だというのに、外は半袖Tシャツ一枚だと、肌寒いくらいだった。 「ぼく、なにもしてあげられないね」 「いいのよ。手紙くれて、電話で話ができて……。それにディズニーランドにも行けたし、また軽井沢で会えたし……ね。わたし、直樹くんに会ってから楽しく なったもん。だから、それだけでいいの」 なんだか逆にぼくが、さやかによってなぐさめられ、いやされている感じだった。 「わたし、学校でも家でも、病人だからというのではなく、同じ人間として接してもらいたいの。だから、わたしもそれなりの生き方をしなくちゃって思うの」 「それなり?」 「つらいとか、悲しいとかいって泣いていたら、友達だって同情しかしてくれない。ううん、そのうち同情もしてくれなくなるかもしれないし……。だから、い いのよ。今までどおりの直樹くんで」 なんだか、ぼくの方が泣きたい気持ちになった。 「さやか……。ぼくの前ではさ、そんなにがんばるなよ。ぼく……、たよりないけどさ」 暗がりの中で、さやかの笑う声がした。 「ありがとう、直樹くん」 そういうと、さやかはつないでいた手をはなし、ぼくの腕にぎゅっとすがるように抱きついてきた。 「わたし、まだがんばれるから、大丈夫よ」 ぼくは、またさやかが少し年上のお姉さんのような感覚を覚えていた。 翌日。 軽井沢駅まで、さやかは見送りにきてくれた。一年前と逆だった。あのときは、ぼくが見送りに行ったのだった。 「約束のゆびきりは?」 今度は、ぼくからいってみた。 「今度は……いつ? 冬休み? でも、受験があるよね」 「一日や二日、大丈夫だよ」 「そうよね、じゃあ、冬休みね。ゆびきりげんまん」 ぼくは、さやかの折れそうなくらい細い小指を感じていた。ぼくの心臓は、前のように驚かなくなった。 それはぼくとさやかの距離が、少し縮まったからかもしれない。新幹線が走り出したとき、ぼくはそう思った。 第四章 ナイフ 1 秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる 夏休みが終わり二学期がはじまった。まだ真夏といってもいい過ぎではないくらいの、残暑が続いていた。ぼくはひとりでいるとき、なんとなくこの和歌を口 ずさむようになった。 アスファルトの照り返しに、寝不足の日は立ちくらみのような感覚を覚える。それでも、塾帰りの夜になると、すっと涼しい風が半袖Tシャツの袖口から入り 込み、ぼくの素肌にふれる。また、次の風がやってきて、街路樹の葉をさわさわとゆらす。 真夏のころは、クーラーのきいた冷えきった塾から一歩外にでると、ねばりけのある、なま暖かい空気に包まれる気分だった。ひと泳ぎして、プールからあ がった瞬間の、身体のだるさのような感覚があった。 それが、今では、この風に秋を感じていた。さやかのパパが話してくれた、あの和歌のせいかもしれない。 和歌、秋、さやかの誕生日、プレゼント。 受験勉強の合間に、そんな連想ゲームのように、漠然とさやかのことを考えていた。 「浩一、たのみがあるんだけどさ、今度の日曜日、買い物につきあってほしいんだ」 ぼくは、二学期がはじまって一週間がたったころ、浩一にいった。 「なに買うんだよ」 「さやか、もうすぐ誕生日なんだ」 「プレゼントか……」 浩一が、にやけた顔でぼくを見る。 「なんだよ」 「そういえばさ、おれ、まだきいてなかったよな。軽井沢でのこと」 思い出した途端に、息苦しくなった。 ふわっとなびいたワンピース。 バナナケーキのひとかけら。 すっと口にひろがった、ミント。 頬にふれた、さやかの髪。 小柄な身体。 「で、キスくらいしたんだろ?」 えっ? ぼくは、言葉にならない大きな息をはきだした。足もとにころがっていたコーヒーの空き缶をけった。 カタン、カラカラカラ。 歩道を転がって、最後の力をふりしぼるように、カタンと車道のすみに落ちた。 「てれるなって」 浩一は、ぼくの肩にかけ、ぼくの顔をのぞきこんだ。 「……なぁーんだ、まだか。直樹も、おくてっていうか、男としてだらしがないっていうか」 「浩一には、関係ないだろ」 ぼくは、むっとして歩き出した。 ぼくたちは、まだ中学生なんだから。 まだ? もう? 『まだ』と『もう』が、ぼくの頭の中でくるくるまわっていた。 酒やたばこは、二十歳になってから。浩一が、陰でたばこをすっているのを、ぼくはしっている。家や、外ではお酒も飲んでいるかもしれない。結婚は、男は十 八歳、女は十六歳にならないとできない。キスしていい年っていうのは、決まっているのだろうか? 「待てよ」 浩一が追いかけてきて、ぼくと並んで歩き出した。 「つきあってやるよ。プレゼント買うの」 学校帰りは、まだ真夏のような暑さだった。額からは、汗がすっと落ち、白のシャツはぴったりとぼくの肌にくっついていた。 「いっとくけどさ、キスするタイミングって、むずかしいんだぞ」 「タイミング?」 「男は、たいへんなんだからな」 ぼくは、そんな浩一を笑った。 あのホテルの庭。お姉ちゃーん、という綾香の声が、ぼくの脳裏で響いた。 「直樹はさ、勉強できて、いつも試験の結果発表に名前が載ってるけどさ、男と女についちゃあ、おれの方が成績いいもんな」 「そうだな」 ぼくは、すなおに認めた。 風が、ぼくの頬をなでていった。 汗をかいたぼくには、ミントのようにさわやかな風だった。 2 日曜日。 ぼくは、浩一や絵里香とともに、栄まででた。久屋大通り公園は、真夏のような熱気にあふれていた。セントラルパークは、ライヴステージと化し、九月に入っ たというのに、タンクトップの女性の姿が目についた。 さわさわと風音が心地よい、ケヤキ林の日陰に入り込んだ。 「まったく、優柔不断ねぇ。ね、浩ちゃん」 ぼくは、なかなかプレゼントを決められないでいたのだ。三人とも疲れてしまい、ショッピングは一時中断となった。 「まあ、そこが直樹のいいところだからさ。ぶつぶついうな」 絵里香は、ちょっとふくれっ面をした。 浩一には、妙にすなおな絵里香だ。 「絵里香がさ、あーでもないこーでもないっていうから、決まらなくなるんだぜ」 それも一理あった。 予算二千円でのプレゼント。ファッションウォッチは、安くてこわれる。ポーチは、中学生には実用的ではない。ぬいぐるみは、子供っぽい。そのうちバーゲ ンセールをしている部屋着やパジャマまで見たが、夏が終わる今買っても、来年まで着られないと絵里香が言い出したのだ。 「やっぱりぼく、最初に見たオルゴールにするよ」 「えーっ、あのお店、ずっとむこうよ。ひと駅くらい歩くんだから!」 「いやなら、ここから電車で帰れ!」 「わかったってば……」 絵里香は、しぶしぶ浩一の言葉に従った。 ふと、ぼくが浩一を見ると、手には紙袋があった。絵里香は、ちゃっかり自分の洋服を買い込んだのだ。どうやらそれを浩一が持ってあげているらしい。 男友達にはない、不思議な関係なんだと思う。ぼくたち中学生にとっても、異性の友達っていうのは……。 ぼくが買ったオルゴールは、陶器でできたうさぎが、くるくるまわるのだ。うさぎは、バイオリンをひく姿をしている。 『星に願いを』のオルゴールだ。 ぼくは、数学の問題集をやっていた。大きく伸びをしたときに、電話が鳴った。 ぼくの声に答えたのは、『星に願いを』のオルゴールだった。 「ありがとう、直樹くん」 「ちょっと早かったな」 ぼくは、十六日の誕生日につかないといけないと思い、早めに送ったのだった。 「かわいいし、すごーく気に入った」 浩一たちと買い物に行った話をした。 「そりゃあ、その女の子だって怒るわよ」 「ぼくだって、さやかの買い物には軽井沢でさんざんつきあわされたじゃないか」 「でも、わたし、あっちの店にふらふら、こっちの店にふらふらしないもん」 そういわれると、さやかは、欲しいものはぱっと決めて買っていた。ぼくがさやかといて楽なのは、さやかの気持ちがはっきりしているからなんだ。好きなも のは好き、いやなものはいや、はっきりいいきる。いっていることに行動が伴っている。 でも、そんな人ばかりじゃない。思っていないことを口にして、その言葉を信じたばかりに裏切られることだってある。ぼくが、いじめにあってわかったこと だ。人の心の裏なんてものを、考えるようになってしまったぼく。 ぼくは絵里香にいわれたとおり、優柔不断だ。 「そこが直樹くんのいいところよね」 照れ屋なところ。やさしいところ。さやかが好きだといってくれた、ぼく。優柔不断なぼくも、好きなんだろうか。 「ね、直樹くん、この曲みたいに、お星さまに願いごとしてかなうなら、なんていう?」 ぼくがだまったままでいたら、さやかは突然に話題をかえた。 「えっ? 願いごと?」 ぼくは、この問いかけに考え込んでしまった。 「わたしならねぇ、はやくOLになりたいってこと」 「えっ?」 さやかは、ぼくの答えを待たずして勝手に話を続けた。そして、思いがけないさやかの言葉に、ぼくは眉をひそめた。 「どうして?」 「わからないの?」 「うん」 ドナーが見つかりますように、だったら納得いく。ドナーが見つかって骨髄移植しなければ、OLにだってなれないはずだ。 「だって、OLになってお給料がもらえれば、毎週だって新幹線に乗って名古屋にいけるもん」 ぼくは、さやかの発想に笑ってしまった。 「なんで笑うの」 「毎週はたいへんだと思うよ。新幹線代、いくらだと思う? 往復すれば、二万くらいだよ」 「……ってことは、毎週だと八万?」 「そう」 「じゃあ、月に二回でいい」 ぼくは、その言葉にも笑った。 ドナーが見つかるよりも、大切なこと。口にはしないけれど、やっぱりドナーのことは一番の願いごとなんだろうと思う。でも、これを一番にしてしまった ら、他の願いごとがかなわなくなってしまう。骨髄移植ができなければ、OLにはなれないのだから。 それなりの生き方をしなくっちゃ。 さやかの言葉を、ぼくは思い出していた。 「それだけね、直樹くんに会いたいっていってるの! わかんないの!」 さやかの口調が強くなった。 「わかってるって」 電話のむこうのさやかは、答えなかった。 「なんだ、怒っちゃったのか?」 「だって……」 ぼくは、久屋大通り公園で、プクッとふくれっ面をした絵里香を思い出した。その絵里香の顔は、いつのまにかさやかに変わっていた。 「約束のゆびきり、しただろ?」 「うん」 電話のむこうで、オルゴールのねじを巻く音がした。そして、再び『星に願いを』が流れ出した。次第にゆっくり、けだるい音になっていった。曲の途中で、 ピンとはねる音がしたかと思ったらとまってしまった。 「また手紙書くね」 「うん、ぼくも」 電話をきってからも、ぼくには、いつまでも『星に願いを』のとまりそうでとまらないような、ゆっくりとしたオルゴールのメロディーが響いている気がして いた。 3 学校の前の銀杏並木。 風に緑の葉がゆれていたのに、いつのまにか黄色に色づき、そして一枚また一枚と落ちはじめた。そんな銀杏の枝が、空を貫くように裸になったころのこと だった。 学校では、志望校を決定する二学期最後のテストがあった。十二月に入り、ニュースでは雪のたよりを耳にするころだ。 いつものように、上位五十人の名前が廊下に張り出される。嫉妬や羨望、安堵や不安のいりまじった空気が、いつものことながらその前には滞っている。 「直樹、あいかわらず試験はできるよな」 ぼくは、ちょっとむっとしてふりかえった。 「なんだ、浩一か」 ぼくは、ほっとした。せかせか勉強して、試験結果がいいのはあたりまえ。かっこいいのは、適度に先生に目をつけられるくらい。それでいて、そこそこに成 績もいいやつ。ただただ成績がいいやつだけなら、浩一のように勉強はできなくても社会勉強ができるやつの方が、一目おかれる。 でも、ぼくは、そこそこに勉強してそこそこの成績がとれる平凡な生徒だ。ぼくは、八位という成績にほっとしていた。それでも、この成績のことをひやかさ れると、ひどくむっとする。ぼくの存在価値が、否定されたような感じがするから。 「ほら、おれ、あがったんだぜ」 「あたしが、家庭教師してあげたのよ」 浩一の隣で絵里香が笑う。浩一の結果がかかれた紙を見ると、ビリから数えた方がはやいけれど、それでもあがっている。 「すごいじゃんか」 ぼくがいうと、浩一はうれしそうに笑った。 「彰さ、今回、四十五位よ。あたしより、悪いの。びっくりしちゃった」 彰? ぼくは、もう一度はりだされた名前の一覧を見た。いつもは、学年で一、二位は彰だった。彰の姿は、廊下にはなかった。 昼休み。ぼくは、図書館に行った。試験も終わったから、本でも読もうかという気になった。昼休みの図書館は、思いのほか人がいた。ぼくが、ぐるっと本棚 を見てまわり、学習机近くの棚まできたとき、ふと彰の姿に目がいった。 「彰……。今回、調子悪かったみたいだな」 ぼくは、なにげなく声をかけた。 開いていた教科書を、パタンと彰は閉じた。 「どういう意味だよ。ばかにしてるのかよ」 彰は、ぼくのことをにらみつけた。 「そんなことないよ」 「うるさい!」 突然の彰の怒鳴り声に、もともと静かだった図書館は、さらに静まり返った。突き刺すような、まわりの視線をぼくは感じていた。 「わるかったよ、そういう意味でいったんじゃないんだけど」 「うるさい!」 また彰が怒鳴った。彰は、学生服のポケットから手をだした。彰の手には、ナイフが握られていた。 「きゃあ~!」 ぼくの近くにいた女の子が、それに気づいて悲鳴をあげた。静まり返っていた図書館は、蜂の巣をつついたかのような騒ぎになった。 「来るな!」 そう叫んだ彰は、窓を開け、ちょうど昇降口の真上にあたる空間に飛びだした。図書館は、北校舎と南校舎をつなぐ二階の渡り廊下に沿ったところにある。 きゃあ、とまた叫び声がした。今度は外からだ。ぼくも、とっさに彰がとびだした窓から外にでた。 彰は、昇降口の屋根のぎりぎりのところに立っていた。もちろん、ここは屋上ではないから、手すりや柵などない。 「彰!」 ぼくの叫び声に、彰はナイフを持ったままふりかえった。 「来るな、来たら刺す」 ぼくは、そのまま立ちつくした。 「どうしたんだよ」 「みんなぼくのこと、ばかにして。来るな、来たら飛び降りる!」 「飛び降りるんだったら、さっさと飛び降りろ!」 下から声がした。彰がまた外の方を向いたとき、ぼくはさっと彰の方に進んだ。 浩一だ。浩一たちのグループは、庭掃除だった。昼休みのおわるひと足前に、外に出ていたようだ。 「いっとくけどな、そんなところから飛び降りても死なねーぞ。たしか、今朝のニュースだっけな。火事で、二階から飛び降りた人が、足のうらを骨折したって いってたもんな」 彰が、一瞬、ひるんだ。ぼくは、そのすきに、彰の傍らまですばやく歩み寄った。 「来るな」 ぼくの目の前で、ナイフがぎらっと光った。 「あの犬みたいに、八つ裂きにしてやる」 犬? 何ヶ月か前の事件の記憶がよみがえった。 「ぼく、試験結果見て、ほっとしたんだ。うれしいんじゃなくって……。ぼく、結構がんばってるんだ」 ぼくは、とっさに自分のことを、ひとりごとのように話していた。 「ぼくだって……。ぼくだって、クラスの連中からばかにされながら、それでも勉強しているの……知ってるじゃないか」 「だったらいいじゃないか、またあしたからがんばれば」 「あんな結果……もっていったら……。お父さんやお母さんが……。塾の先生が……。生きていけないよ」 「甘ったれたこと、いうなよ!」 さやかの姿が脳裏をよぎった。 「病気で、生きられない子だっているんだ。……こんなことでやけおこすなよ」 彰は、泣いているみたいだった。そしてぼくも、さやかと彰の狭間で、こぼり落ちそうになった涙を、袖口でごしごしこすった。 その瞬間だった。 いつのまにか背後に来ていた先生が、彰を押さえつけたのは。その時、抗った彰のナイフが、ぼくの頬をかすめた。 「いたっ」 頬をおさえた右手に、血がついていた。 ぼくの傷は、たいしたことがなかったが、消毒され、薬のついた綿やガーゼとともにテープではりつけられた。 「直樹にしちゃあ、なかなか勇敢だったぞ」 浩一が、ぼくの額をクイッとついた。傷がガーゼにくっつくのか、ひっぱられる感じだった。 彰とのやりとりは、ぼくたち二人の秘密だった。たかが試験だけど、結構プレッシャーだ。でも、さやかのことを考えると、いじめられていた時のぼくのよう に、または今回の彰のように、そんなことで死ぬの生きるのといっている自分たちが、あまりにも情けない存在のような気がしたのだ。 彰はそれから、二日ほど学校を休んだ。その後、なにもなかったかのように学校に来て、いつもどおりぽつんとひとり休み時間も教科書を広げていた。たま に、ぼくは彰の視線を感じるようになった。そして、朝だとか帰りに、ほんのちょっとあいさつ程度の会話をするようになった。 ある雨の日。彰が、かばんを頭にのせたまま走り出したのを、ぼくは見ていた。そして、あの犬のお墓の前で、彰はふと足をとめた。 「かさ、ないのか?」 その日が、彰とまともに話した最初の日だった。いつものように、浩一と絵里香がきて、彰といるぼくを訝しげに見た。 「たまにはさ、二人で帰れよ。ぼく、いつもじゃまみたいだし……」 ぼくは、絵里香のかさに、ふたりで入っていく浩一たちを見送った。 「入れてってやるよ、家まで」 ぼくは、はじめてさやかの話をした。そして、彰が転校してくる前、半年間の不登校の話も……。 言葉のすばらしさみたいなものを感じていた。いじめられている時は、なにもわかってもらえず、言葉は暴力だとも思った。あの時のぼくの言葉は、ふわりふわ りと空中を漂う、魂のようだった。誰にもうけとめてもらえず、あてもなくさまよい続ける魂。そして、ぼくは抜け殻でしかなかった。でも今は、ぼくの言葉の ひとつひとつを、彰が受け止めてくれる。ぼくは、そんな手応えを感じていた。それは、彰にとっても、同じだったのかもしれない。 浩一は、ぼくにとっていい友達だ。でも、浩一には、わかってもらえないこともある。ぼくのことを、はめをはずせない、臆病な優等生だと思っている。その点 で、ぼくは彰と似ている。 「痛かったか? ほっぺたの傷」 家に着いたとき、彰がぼくにたずねた。 「あ、これ? でも、治ったから」 ぼくは、傷をこすりながら答えた。頬の傷は、かさぶたがとれかけていた。 |