青い島のひだまりで

砂時計 第一章



 この作品は、1998年~1999年ころに、「十四歳の休暇」「ゆびきりげんまん」の続編として、高 校三年生になった直樹のことを書きました。この時代背景も読み返してみると、現在といささか違います。女子高校生はルーズソックスをはき、ガングロ、援助 交際、親父狩りなどという言葉も一時のニュース事件で騒がれました。そろそろケータイも社会に浸透しはじめている時代でした。
 書き上げた後、さてどこに応募しよう。文藝賞か、新潮の長編新人賞か…。文藝賞にしてはいささか重すぎ、新潮にしては逆に軽すぎるような気がしました。 結局、文藝賞に応募したものの、ボツ。その後、眠っていましたが、このままにしてはもったいないと思い、ここに掲載することにしました。
なお、「砂時計」のみでも、ストーリーは単独で完結しています。

 さやかの死を乗り越えた直樹は、高校三年になっています。優柔不断でそれでも前向きに一生懸命生きていた直樹にも、屈折した混沌とした感情が渦を巻きは じめます。物事に対して冷ややかに見つめる直樹。熱くなれない自分。さやかへの想いを心に秘めたまま、それでもひかれつつある四歳年上の家庭教師の美紀。 さらに、さやかの妹、綾香との再会。
 中学の時、あんなに暖かだった家庭も、崩壊の危機。
 直樹をとりまく中学からのメンバーもさらにそれぞれの道を歩み、一歩一歩大人へと成長していきます。

第二章
第三章 前編
第三章 後編
第四章
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砂時計  第一章


 陽が翳りはじめて、うすら暖かい春の日差しの衰えを感じた。開け放たれたむかいの窓から忍び込んできた風とともに、一枚の桜の花びらが僕のノートに舞い 降りた。風は、レースのカーテンを舞上げ、僕を通りぬけると美紀の身体にぶつかった。
「直樹くん、窓、しめていい?」
 僕が身を乗り出そうとした瞬間、零コンマ数秒の違いで、美紀が背伸びをするように、窓に手をかけた。ふわりと甘い香りが漂った。真っ白な薄手のセーター に包まれた美紀の腕が、僕の髪をかすった。僕は、美紀の胸の膨らみにちらりと目をやった。
 美紀は、名古屋にある明華大学の四年。法学部在籍。高校二年の終わりから、僕の家庭教師として、週に二度、家を訪れている。
「桜?」
 美紀の声が響いた瞬間、僕の手首と美紀の手首が交差し、触れるくらいに近づいた。僕が息苦しさを覚えて身構えたとき、美紀は、英語のノートに舞い降りた 花びらを指先でつまみあげた。
「もう満開よね。散りはじめてるもん」
 美紀は、手のひらに乗せた花びらに、ふうっと息を吹きかけた。花びらは、宙を縫うように旋回すると、再びノートの上に舞い降りた。
「直樹くん、勉強終わったら、桜、見に行こうか?」
 僕は、ペンをもったまま振り返った。
「ね、いいでしょ?」
 答えに迷っているところ、ドアがノックされ母が入ってきた。
「いつもお世話になります。ちょっと、お休みでもしたら?」
「わあー、ホットケーキ!」
 美紀は、歓声をあげた。僕より四つ年上の美紀。子供じみた一面に、ニヤリとした時だった。
「なによ」
「えっ?」
「なに、ニヤニヤしてんのよ」
 僕の肩におかれた美紀の手に力が入る。母はテーブルにホットケーキとレモンティーを置いた。
「美紀さん、冷めないうちに召し上がってね。ほら、直樹も食べちゃいなさい」
 美紀は、母の言葉が終わらないうちに坐り、すでにフォークでホットケーキのひとかけらを刺している。
「いいよ、僕は……」
ぷいっと背を向けるように、僕は英語のテキストに目をやった。
「男の子なんてね、本当につまらないわ。いつだってムスッとしているし……。それでも中学まではかわいかったのにねぇ」
僕は背に、母の視線を痛いほど感じていた。
「どこも同じですよ。私、もうひとり高校二年の男の子の家庭教師をしているんですけど、そこのお母さんも同じこと、おっしゃっていましたから……」
 僕は、中学二年の時、半年ほど不登校だった。母にもそれなりに心配や迷惑をかけたが、それでも母は、僕を学校に追い立てることなくそっとして おいてくれ た。母のつくるホットケーキも大好物だったのに、いつの頃からか母に煩わしさを感じるようになってきた。
「ひとりっ子だから……。もうひとり、女の子でも産んでおけばよかった、なんて思っているのよ」
母は、美紀と話すのを結構楽しみにしているみたいだ。一方美紀も、愛想よく受け答えするから、母のお気に入りだった。
「勉強のじゃまだから、出て行ってよ」
僕は、背を向けたままぶっきらぼうにいった。
「はい、はい。わかりました」
ため息とともに立ち上がる気配がする。
「そうそう、直樹。綾香ちゃんから、さっき電話があったの。勉強終わったら、かけ直すっていっておいたから……」
母は、美紀に軽い挨拶をすると部屋から出て行った。
「直樹くん、今の態度はないぞ!」
母が出て行くと、美紀が僕の隣に歩み寄ってきた。ホットケーキをさしたフォークを持ち、口をもごもごさせながら、だ。
僕は、きゅっと下唇を噛んで、斜めに視線をそらせた。
「こら、生意気盛りの反抗期! まあ、高校三年の反抗期じゃ、奥手だけどね」
美紀は、僕の頭を指先でくいっと押した。僕は、無言のまま視線を美紀に移した。
「なによ、その目」
僕は、美紀の視線に耐えられなくなり、またすっと目をそらせた。
「ねぇ、一服していい?」
母がお茶を出した後、美紀は決まってこういう。僕は、美紀専用に用意した灰皿を棚から取り差し出した。
美紀は、煙草に火をつけると、そのままくわえて、いつものように僕のベッドに腰を下ろした。身体にフィットしたジーパン姿で、息をつくと脚を組みかえた。 僕の部屋に、美紀の煙草の匂いがしみた。
「ねぇ、綾香ちゃんって彼女?」
 僕は勉強を続けるのを諦めて、床に腰を下ろし胡座をかいた。
「食べたら? おなか、すいちゃうわよ。夜桜見に行くのに……」
美紀の一方的な押し付けは、約束に変わっていた。僕は、美紀に言われるままにホットケーキを口にした。バターの風味も薄れ、続けて飲んだレモンティーは温 くなっていた。
「あの写真の子?」
美紀は、大きな息をつくと立ち上がった。煙草の煙が灯りを透かし、宙に浮いて漂っていた。
美紀が手にしてきたのは、軽井沢で撮ったさやかの写真だった。さやかの時間は、十五歳のまま止まっていた。
「違うの? 誰? 私、なんだか気になっていたのよ」
美紀は、煙草をもみ消すと僕を見た。美紀の指先に施された透明度のあるピンクのマニキュアが、かえって健康そうに見せていた。
「話したくなかったら、別にいいけど……」
美紀が珍しく、控えめな言い方をした。
「綾香ちゃんは、この写真の子の妹。この子は、さやか」
「で、その、さやかって子は何なの? 彼女?」
「うん。死んじゃったけどさ……」
思いかげない答えだったのか、美紀はだまりこんだ。
「どうして?」 先に沈黙を破ったのは、美紀だった。
「白血病……」
「白血病?」
 美紀は、僕の言葉を繰り返した。
「いつのこと?」
「亡くなったのは、二年くらい前かな」
 僕の脳裏には、さやかの姿が鮮明に甦ってきていた。
 さやかとの出会いを語るには、中学二年の夏まで遡らなければならない。不登校だった僕は、夏休みがはじまると母の実家がある軽井沢に行っていた。僕がか らまつ林を散策しているときに、ある別荘から顔を出したのがさやかだった。
 さやかは、慢性骨髄性白血病という病魔に侵されていた。それにもかかわらず、さやかは天真爛漫で前向きな力強さがあった。荒んでいた僕の心は、さやかに よって癒された。さやかの姿が、今でもくっきりと僕の心に影を落としていた。
 骨髄移植が決まった時、それこそ明るい未来が開けた気分だった。骨髄液を提供するドナーが見つかる確率は、五百人から一万人にひとり。場合によっては、 数万人にひとりというものだった。そんな幸運に恵まれたのだから、骨髄移植さえできれば、助かるものと信じていた。ところが、術後の経過が思わしくなく、 肝機能障害があらわれた。僕が最後にさやかを見舞ったときには、顔はむくみ、皮膚の色は黄色になっていた。ひとすじ頬を伝った涙さえも、白い枕カバーを黄 色に染めるほど黄疸は進んでいた。 その数日後。夏服へと変わった六月一日。さやかが亡くなったという知らせが、僕のもとへ届いたのだった。
 「人の心って、数学と違うのよね」
ティーカップを置く音とともに、美紀の声で僕は顧みた。
「わりきれないものってあるのよ。数式どおりの計算しても、答えがでなかったり……」
紅茶を含んで、口の中でざらついていたホットケーキのかけらを流し込んだ。
「美紀さんにも、あるの? そういうこと?」
「あるわよ。微妙なお年頃だもん。子供の直樹くんには、わかんないこととか……。いろいろあるのよ。大人には……」
空になったティーカップを弄びながらいう。続いて、親指の腹で、カップについた口紅を拭った。
「大人ね……」
 思わず笑って、美紀を見た。
四歳年上の美紀。僕が小学六年のとき、高校一年。高校三年の僕と、大学四年の今。僕は、その差を具体的に考えていた。
「なによ」
「なんでもない……」
「あ~あ、なんか勉強、いやになっちゃったわね。ちょっと早いけど、夜桜、見に行かない?」
「時給千三百円じゃなかったっけ? あと二十分、残ってるよ」
僕は、わざと壁の時計に目をやった。
「じゃあ、八時までやるわよ」
美紀は、傍らに落ちていたテキストを持って勢いよく立ち上がった。僕の飲みかけの紅茶が、わずかに波立った。
 「いいよ。お母さんさ、今夜は手芸教室とかで、もう出かけている時間だから」
美紀の様子を笑いながら、制した。
「いいこと? 直樹くんがやめるっていったんだからね!」
「はい、はい。わかりました」
次の瞬間、どちらともなく笑い出した。なんとなく、美紀と小さな秘密を共有した気分でもあった。
「ほら、直樹くん。夜になると肌寒いから、なんかもう一枚、着ていかなくっちゃ」
美紀に促がされて、僕はベッドの上に放ってあったジージャンを手にした。
外は、思ったより冷えていた。僕は、美紀と並んで歩くのが気恥ずかしく、少し離れ半歩遅れて歩いていた。
街灯に照らされた住宅街を過ぎ、川原の土手までやってきた。桜には、提灯の灯かりがともされ、暗闇の中でも薄紅色が鮮やかに浮かび上がっていた。 川に沿った土手には、桜の並木が続いており、花見で大騒ぎしている人たちや、ベンチに腰をおろしているカップルたちで賑わっていた。
「直樹くん、行こう」
美紀は、僕のジージャンの袖口をつかみ、それから僕の手を握った。冷たい手だった。
「あったかぁ~い」
美紀が無邪気な声を出した。
僕は、さやかのことをふと思い出していた。さやかと出会ってからの二年近く。いつもさやかに促がされて、行動していた。美紀と同じように、さやかは僕の手 をとっては『行こう』と声をかけてくれた。

桜の花びらが幾重にも重なり、その隙間から不透明な闇が顔を覗かせていた。
美紀の手が離れ、僕の腕にぎゅっと抱きついてきた。右半身にふいに襲われた重みに、僕はバランスを失いかけた。
「こうしているとさ、カップルだと思われるよね?」
「……だろうね」
うつむき加減に歩く美紀を見た。いつもは机に向かっていて、背後から美紀を感じることが多かった。美紀は、僕よりも十数センチ低く小柄だったことに、今、 はじめて気づかされた。僕は、美紀のゆっくりとした歩調にあわせながら、白い項を覗き込んでいた。 美紀が、突然立ち止まった。
「食べる?」
「えっ?」
一歩前に進みかけていた僕は、また一瞬、バランスを崩した。美紀が指差したのは、たこ焼きの屋台だった。
「おごってあげるわよ」
 「いい、いらない」
屋台の前は、人だかりができていた。花見ついでにと、結構はやっているようだ。
 「なによ、かわいくないヤツ!」
唐突に美紀が叫んで、足早に歩き出した。桜見物の人をふりきって、一段低い川原の近くに駆け下りて行こうとした。取り残されそうになった僕は、慌てて美紀 を追い、腕をつかんだ。
「……どうしたの?」
美紀の身体が、小刻みに震えていた。突然のことに、僕は戸惑いを覚えた。一瞬の間をおき、僕は美紀を後ろから抱きしめていた。僕の脳裏を身体を、先ほどか らチラチラと横切っていた欲望がおだやかになっていた。
美紀の呼吸が落ち着いたころ、腕の力をゆるめると、美紀はゆっくりと僕の方をむいた。美紀の頬に、闇の中で光る涙の跡があった。僕は手の甲でそれ拭って、 再び美紀を抱きしめた。
「……ごめんね。直樹くん……」
突然、泣き出したことを謝ったのか、美紀の瞳からはまた涙があふれた。僕は、だまったまま美紀を抱きしめていた。遠くで酔っ払いの声が響いているのを意識 した頃、美紀は泣きやんだらしかった。僕の腕の中で、わずかに美紀が動くのを感じた。
白いセーターの上に羽織った、薄手のコート。洋服を通して、僕は美紀の肌を感じた瞬間、僕を見上げる美紀の視線を感じた。僕が屈んで顔を近づけると、逆に 美紀がおびえたように腕の中で身を引こうとする。逃れようとする美紀を、僕は腕で強く抱え込み、美紀の唇にふれた。
僕の腕の中で、美紀は怪我をした小鳥のようにおとなしくなっていた。
「私、ふられちゃったんだ……」
美紀のつぶやきに、僕の心が波立った。美紀は、ひと呼吸おくと僕の胸を押して、僕から離れた。
「大学に入った年から、三年間つきあってきたんだけど……。どうも最近、変だと思ってたら、同じサークルのふたつ年下の子とつきあってるんだって」
 美紀がふられたという事実を、どこかでほっとしている僕がいた。
「ねぇ、なんかいってよ」
少し離れた並木の灯かりが、それでも美紀の姿を闇の中で映し出していた。
「私にキスまでしたくせに……。かわいくないヤツ」
ふくれっ面をした美紀が、闇の中で浮かび上がった。
「じゃあ、なぐさめてやろうか?」
「どうやってよ」
美紀は、表情を変えずに僕に刺すような視線を注いだ。僕が、両手で美紀の肩をつかんで、再び抱きしめようとした瞬間、美紀は身を翻した。
 「なぐさめ会ということで、飲みに行こうか?」
「えー、飲みに?」
なんだかはぐらかされた気分だった。
「そう」
美紀は、答えながらポケットから煙草を出した。ライターの火が、一瞬、僕たちの現実を照らし出した。ふうと息をはく美紀は、いつもの彼女に戻っていた。
 「いっとくけど、僕、未成年だよ」
「わかってるって。十八歳未満お断りにも、ひっかかっちゃうもんね。……たしか、八月でしょ? 誕生日」
「よく覚えてたね」 いつだったか家庭教師に来たばかりのころ、話したことがあった。
「お母さんに電話しなくていいの?」
「いいよ」
急に子供扱いされたような気になって、ぶっきらぼうに答えた。
「よし、じゃあ行こうか」
美紀は、僕の手をとった。
「もちろん、美紀さんのおごりだよね?」
僕は、美紀の手を握りかえした。
キッチンにあった、僕ひとり分の夕食。父とともに三人で、最後に食卓を囲んだのは、いつ頃だったのだろう。
さやかのことも、ちらりと脳裏を横切った。続いて綾香に電話を入れなくては、という思いも……。
僕は、桜並木をふりかえった。提灯の灯かりに照らされ闇に浮かんだ桜が、風に吹かれ舞いはじめた。桜吹雪は、僕の中まで渦を巻くように、かき乱していっ た。



 四月半ばの学校は、なんだか新鮮だった。真新しい制服に身を包んだ一年生。その初々しさを、微笑ましい思いで僕は見ていた。土曜日の学校は、奇妙な解放 感 がある。中途半端に半日拘束されて、あとは日曜日にむかって気持ちもおだやかに広がる。
「直樹、午後、予定ある?」
帰ろうとしていたところ、彰が声をかけてきた。
「ないけど、どうして?」
来週の火曜日に美紀が来るまでに、少しでも勉強を進めたいという思いがあった。勉強をすることで、疑問点を見つけ、美紀に質問し、少しでもいいところを見 せつけたかったのだ。
「絵里香がさあ、なんか相談あるみたいだぜ」
彰は、くいっと顎で教室のドアを示した。僕と目があった絵里香は、胸のあたりで小さく手をふった。
「浩一のことか?」
「さあな……」
彰は、首をかしげながら答える。彰も絵里香も浩一も、共に僕の中学の同級生だ。僕は彰とともに絵里香に歩み寄り、三人並んで歩き出した。 僕は、ふと三年前のことを思い出していた。喜怒哀楽という感情が、いつのまにかどこかに影を潜めてしまったようだ。三年という歳月は、僕をひどく無口にさ せた。小さなことで喜んだり悲しんだりすることなく、心の中は妙に醒めていて、虚しさが支配するようになっていた。 母がいうように、中学生頃までの僕は、『よいこ』で通っていた。なんでもよく話したし、少なくとも明るい家庭という感じだった。『よいこ』の仮面の奥に は、『無表情』もしくは『のっぺらぼう』の僕がいた。
「……くん、直樹くん?」
絵里香の声にはっとして顔をあげた。
「最近、浩ちゃんに会った?」
「……会ってない。前に会ったのは、冬休みくらいだよ」
やはり相談とは浩一のことか、と思いつつ昇降口で靴をはきかえた。それっきりだまりこんでしまった絵里香を、ちらっと見たが、僕もなにも言わず階段を下り はじめた。
「どこ、行く?」
校門の手前で、彰が気をきかしたのか沈黙を破った。
「そうだな……」
そういって、二、三歩歩いた時だった。
「直樹くん!」
ふいに、僕を呼ぶかろやかな声がした。声の主に、僕の心臓は飛び上がった。
「……さやかちゃん? のわけ、ないわよね」
僕の驚きを口にしたのは、絵里香だった。絵里香も、二年半ほど前に一度だけさやかに会っている。さやかが再び僕たちの前に現れたと思ってしまうほど、似て いた。
「……妹の綾香ちゃんだ」
僕自身に言い聞かせるように低く呟いた。
「来ちゃったんだ……」
綾香は首をちょこんとかしげて続ける。
「だってぇ、全然、電話くれないんだもーん。今度、時間つくるっていっておきながら……」
ぷいっとふくれた綾香に、僕は思わず微笑んだ。
「綾香ちゃんって、名古屋にいるの? だって、その制服、向陽学園のでしょ?」
「そう。直樹くんがいるからね、来ちゃったの……」
初対面の絵里香にも、動じることなく綾香は答える。
「直樹くん、私の方は今度でいいから」
気をきかせたのか絵里香は、彰を促がし、軽く手をふると立ち去って行った。


 取り残された僕は、綾香と歩き出した。校門からしばらくは、他の学校の生徒である綾香が妙に浮き上がっていて、まわりの視線を感じていた。人目をはばか らない綾香の無邪気な態度に、僕はひどく無口になりながらも、さやかと過ごした三年前の時間に引き戻されていた。
駅前のファーストフード店に入ると、やっとまわりの高校生たちの雰囲気に、違和感なく溶け込んでいる気になった。
「大人っぽくなったな」
綾香は、はにかむような笑みを見せた。あらためて見ると、やはりさやかによく似ている。
フライドポテトを口にした綾香に、まともに話し掛けた第一声だった。昨年の夏、軽井沢で会って以来だから、半年以上たっていた。名古屋の高校を受験すると 聞いた時、まさか本気でいっているなんて思ってもみなかった。第一、大学ならともかく、わざわざ東京から名古屋の高校に入ることなどない。
「綾香ちゃんの学校、こんなに早く、終わったのか?」
「まさかぁ、さぼりだってば」
僕は、幾分呆れながらも、コツンと軽く頭を叩いた。綾香は、えへっと肩をすくめて笑うことで僕に応えた。
「だってぇ、きいてよ。寮だって、ひどいんだから!」
綾香は、はじまったばかりの寮生活の不満を並べはじめた。向陽学園は、仏教関係の学校だから、寮生活にもお仏参があるらしい。朝は、六時半のラジオ体操の 音楽とともに起床。その十五分後には、寮監先生の点呼兼挨拶まわりがある。続いて、普段は寮生に開放されている大広間で、お仏参がはじまるらしい。
 「で、さあ。数珠よ、呆れちゃったぁ。お線香の匂いが、プーンとしてきて、歌も歌っちゃうわけよ。なんかもう、出家した気分」
僕は、綾香の話の勢いに押されながら、それでも笑って聞いていた。時代錯誤のような世界だけど、女子寮なんてそんなものかもしれない。
「門限がね、七時よ。信じられる? 塾行く人は、別の許可証で出かけられるんだけど……。こんな高校生活ある?」
「まあ、しょうがないだろう。大切なお嬢さんを預かっているって感じだからさ。それにしても、お父さん、よく許してくれたな」
綾香の両親に会ったのは、二年ほど前だった。白血病の娘をかかえながらも、おだやかで暖かく、そして強い絆で結ばれている。まさに絵に描いたような家族 だった。
「いいのよ。あんな家」
綾香は、露骨にいやそうな顔をして、ため息をついた。
「どうしてさ。いいお父さんとお母さんじゃないか……。あんまり、心配かけるなよ」
僕は、わざと年上の兄貴ぶった言い方をした。
「わたしの居場所なんか、ないもん」
輝きを失った綾香の瞳だった。さやかとは全く違う顔をもった綾香に、僕は言葉に窮してしまった。
「ね、直樹くん。そんなことよりさ、名古屋港、連れてって」
 綾香の翳った表情は、一瞬のうちに消え失せた。
「名古屋港?」
突然、さやかとの思い出の場所をあげられたことに驚いていた。
「お姉ちゃんと行ったんでしょ?」 中学三年の冬休み。さやかが一度だけ名古屋に来て、浩一や絵里香と共に行ったのが名古屋港だった。 「さやかに聞いたの?」
綾香は首を振ってから、続けていった。
「お姉ちゃんの日記があったの」
「日記?」 綾香は、こくんとうなずいたまま、それ以上なにもいわなかった。
日記が見つかったのは、いつだったのだろう。今は、その日記はどうなっているのだろう。さやかの一部が、まだ僕と同じ時を生きているような気がした。
 「いいでしょ?」
 僕の問い返しに綾香は答えず、僕を促がした。
「それでね、観覧車に乗るの」
僕は、コーラを一気に飲み干した。ズズズッと音とともに、氷のかけらの隙間からも最後の液体を吸い上げた。薄くなった埃っぽい水が、最後に喉元を通り過ぎ た。確認するように紙コップを振ると、からっぽになった証の氷の音が響いた。
「読んだのか?」
綾香は、こくんとうなずいた。
さやかとの思い出。共有していた小さな秘密みたいなものだった。
名古屋港にある遊園地。そこで、さやかとはじめてキスをした。僕は、そんな世界を、綾香に垣間見られた気分だった。それが腹立たしい嫌な気分かといわれる と、決してそうではなかった。僕にとって、さやかと過ごした時間は、鮮明である一方で、蜃気楼のようになりはじめていることを自覚した。
 「それでね、お願いもあるんだ」
綾香は僕の心中を察することが全くないような様子で、身を乗り出した。
「なに?」
「あたし、もうすぐ誕生日なんだ。四月二十三日。シックスティーン、ね」
「プレゼントか?」
「そう」 誕生日に便乗する綾香の現金さを、思わず笑った。
「オルゴールか?」
さやかの十五歳の誕生日に贈ったオルゴールは、僕の手元にある。さやかが亡くなった時、さやかの希望だといって、綾香から返されたのだった。
 「ううん、もう決めてあるんだ」
「あまり高いのは、買ってやれないぞ」
「大丈夫、オルゴールより安いから。それに、きょうのデートだって、あたしが誘ったんだから、あたしのおごり。あたしがいえば、パパはいくらだって、お 金、送ってくるもん」
最後にあった頃の、綾香の親父さんを思い出していた。さやかを亡くし、ひとり娘となった綾香にはかなり甘そうだ。
 「直樹くん、早く行こうよ」
綾香にせかされて、残りのハンバーガーを口にほうりこんだ。
駅前の輸入雑貨の店に、綾香は入って行った。僕もそのあとに続いて、店に入った。軽井沢で買い物につきあった時のさやかのことを思い出し、綾香の姿に重ね ていた。
「直樹くん、これ」
綾香は、棚にあった砂時計を手にしていた。赤茶けた木製の囲いの中、中ほどが狭められたガラス管を黄色い砂が落ちている。ガラスからの陽をすかして、砂は さらに輝きを増した。
今時、砂時計なんて珍しい気がした。
「歯磨きにでも使うの?」
「もう、直樹くんったらぁ。ムードがないんだから……」
綾香は、僕の背中をポンと叩いた。
「なんか、いいじゃない。時間が見えるみたいで……」
綾香の発想に、僕も思わず笑いをもらした。さやかがいたら、同じようなことをいうかもしれない。きょうの僕は、綾香と時間を共有しながらも、さやかとの思 い出のつまみ食いをしていた。 店員に頼んで、ラッピングをしてもらい、外で待っている綾香に渡した。
「わぁ~、ありがとう。直樹くん」
綾香は飴玉ひとつもらっても大喜びする、小さな子供のような様子を見せた。たかが五百円玉ひとつで買えるものに、無邪気な笑みを見せられると、かえって僕 の心がなごむようだった。


僕たちは、地下鉄に乗り込み、名古屋港にむかった。僕にとっても二年ぶりの名古屋港だ。あの時は、海からの凍てつく風に追い立てられるように、観覧車へと 逃げ込んだのだった。
春とはいえ、海風はまだ冷たかった。風は、綾香の制服のミニスカートをまくしあげた。短い悲鳴とともに、裾を押え込む綾香を、僕は失笑した。 「なによ、直樹くんったら」
「そんな短いのはいてるからだよ。一年生のくせにそんな格好していたら、先生に目をつけられるだろう」
「もうつけられてるわよ。寮監先生に、『辻井さん膝上五センチ!』ってね。続けてこういうの。『先生があなたくらいの時は、膝なんか出しませんでしたけど ね』って」
 声色をかえてまで説明する綾香に、また僕は吹き出しそうになった。
「綾香ちゃんも、今時の女子高生だな」
「なによ、そのおじさんくさい言い方。いい? 八月に直樹くんが十八歳になるまでは、あたしとひとつ違いよ」
妙に綾香のことを子供扱いしていたが、家庭教師の美紀よりも、綾香の方が年が近いことに、ふと気づいた。
「でも、その格好からすればそう思われるよ。そのうちさ、髪を染めて、化粧もするんだろ」
「だってぇ、ミニの方がかわいいし、ミニにはルーズソックスがあうでしょ?
そのへんの女子高生と一緒にしないで。みんながするからじゃなくって、あたしなりの哲学をもってしているんだから」
「わかった、わかった」
僕は綾香をなだめるようにいい、観覧車にむかって綾香と共に歩き出した。
「それに、もうひとつ理由があるの。なんだかわかる?」
綾香が僕を見上げるようにいった。綾香は、さやかよりも背が低いな、と思った瞬間だった。
 「ゆーわくするため」
「えっ?」 僕は、なんのことだかわからず聞き返した。
「だから、直樹くんを誘惑するためだって」
「こら、いい加減にしろ」
僕は、綾香の髪をくしゃっとつかんだ。
この時、綾香が小さいのではなく、僕の背が昔に比べてかなり伸びたことを、あらためて気づかされたのだった。
ガラス張りの観覧車の中は、少し汗ばむくらいの暖かさだった。綾香のむかいに腰をおろし、僕はわざと視線を海の方にむけた。観覧車は、カタンカタンと鈍い 音とともに、上りはじめた。名古屋港が視界に広がり、幾隻もの貨物船が行き来しているのが見えた。さやかと乗った時と、なにも変わっていなかった。僕は、 霞がかった海の果てを見ていた。
「直樹くん……」
さやかの声に、はっとした。だが、目の前にいるのは綾香だった。
「なに考えてたの? お姉ちゃんのこと?」
僕は、綾香と目をあわせず、今度はコンクリートの街並みに目をやった。
「直樹くん、彼女、いるの?」
脳裏を美紀の姿が横切った。夜桜を見に行った時、美紀にキスした僕の衝動が甦った。続いて、二年前のさやかの姿が浮かび、美紀の幻像を打ち消した。 僕は、あらためて綾香に目をやった。さやかの姿が、現実の綾香となった。
「まだ、お姉ちゃんが彼女?」
カタンカタンカタン。
軋んだような音をたてながら、てっぺんまでやってきた。綾香は、すばやく向きをかえ、僕の隣に腰掛けた。 鈍い音をたてながら、観覧車は下りはじめた。
 「あたし、直樹くんのこと、好きだよ」
僕は、心臓の鼓動を苦しいほど感じていた。さやかに似た綾香を、さやかだと思い込んだまま抱きしめてしまいそうな衝動を必死におさえていた。
 「あたしじゃ、駄目? 直樹くん?」
綾香が僕をのぞきこむようにいう。さやかと美紀と綾香が、僕の中で旋回していた。心の迷いをよそに、手を伸ばせば綾香に触れられる中途半端な空間を、僕の 身体がむずがゆさを覚えていた。 名古屋港が次第に視界から狭まり、海岸沿いの公園を行き交う人の姿が見えてきた。
「直樹くん、あたしのこと、彼女にして」
ドアが開けられた。
「わかった」
 立ち上がり外に出ようとした時、僕は低くつぶやいた。


 桜の季節が終わると、いっせいに衣替えをはじめたかのように若葉が顔を出す。色鮮やかに陽を透かして風になびく頃には、もう夏が訪れたかと思うほどだっ た。
僕は、そんな時の流れに身をまかせるように、日々を消化していた。週に二度訪れる美紀を心待ちにしながらも、綾香と過ごす時を気分転換とし、大学受験をは じめとする人生の様々な岐路や現実から目をそむけていた。
土曜日。綾香と約束した時間には、まだかなり間があったので、僕は一度帰宅した。 ドアを開けると、父が中腰になって靴ベラを使っているところだった。父は、僕の姿を確認すると、一瞬、身構えるように固まった。
「あなた!」
母の悲鳴に近い叫び声とともに、僕たち家族三人が久しぶりに対面した。四十半ばほどの母は、この一年でかなり老け込んだ気がする。母の化粧けのなく青白い 顔や、刻み込まれた細かい皺、しばらく美容院に行ってないだろう、ぱさついた髪。暗く生気を失った瞳に、母ではなく女の執念みたいなものを僕は感じてい た。 父は、母のひとことで玄関先に腰をおろした。だが、すぐに気を取り直したように、ボストンバッグに右手をかけた。
「いい加減にしてください。いつになったら、昔のようなあなたに戻ってくれるのですか」
母の口調から、とうてい元には戻れないような夫婦の深い溝を感じた。母は、父に自分の想いをぶつけながらも、その語らい口調は、他人にむけて話しているよ うな淡々としたものだった。
父には、女の人がいた。その女とのつきあいは、もう三年にもなると知った時だった。おだやかで明るい家庭と信じて疑わなかったものが、その過去の思い出と と もに僕の中で崩れ去った。 父は、沈黙を守ったまま、意を決したようにボストンバッグを持って立ち上がった。
「あなた!」
母の言葉を振り切り、父は一歩踏み込んだ。僕と目があうと、すっと視線をそらして、父はそのまま出て行ってしまった。ドアの外には、僕たち家族の心をか えって踏みにじるかのような、夏を思わせる澄みきった空が広がっていた。
「直樹……。お母さん、もう疲れちゃった。こんな生活……」
母は束ねた髪から、ほつれた髪をかき上げる仕草をした。
「じゃあ、さっさと別れちまえよ。あんな親父なんかとさ」 僕は靴をぬぎながら、そう答えた。
「直樹!」
母の言葉をふりきるように、僕は二階の部屋へと上がって行った。母は、僕のあとを追いかけ部屋まで入ってきた。
「用もないのに、やたらと入るなよ」
僕は、母を部屋の外に押しやろうとした。
「直樹しか、頼る人、いないんだから……」
僕が中学の頃、不登校をしていた際、母は毅然と、かつのんびりと構えていた。行きたくなければ、行かなくていい。一年や二年、遅れたってどうってことな い。そんな母の姿は、もうどこにもなかった。
「僕、出かけるんだってば……」
母を哀れに思った僕は、敢えておだやかな口調を意識した。
「どこに?」
「ちょっと……」
「誰と?」 僕はうんざりして、ため息をついた。
「綾香ちゃんとだよ」
「また? 直樹、あなたね、綾香ちゃんとはどういうおつきあいしてるの?」
さやかが生きていた頃。僕とさやかとの淡い感情のやりとりを、母は、微笑ましい想いで見守ってくれていた気がする。最近の母は、そのへんにいる母親と全く 同じレベルになってしまった。
「僕はもう高校生だよ。いい加減にしてくれよ」
「直樹! 綾香ちゃんのご両親のことだって、考えてもご覧なさい。ひとり娘をわざわざ名古屋の高校に行かせて、ただでさえ心配なのに……」
 僕は、母を無理矢理部屋の外に押し出すと鍵をかけた。ドアを叩く音を無視して、着替えをはじめた。手早く、ジーパンとデニムのシャツに着替 え、意を決して ドアを開けた。
「直樹!」
「出かけてくる。お金、台所の財布からもらってくよ」
一方的にいうと、僕は階段を駆け下りた。




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