| 砂時計 第二章
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僕の中で、なにかが回っていた。物憂い音をたてながら、けだるそうに回っている。感覚的には、名古屋港の遊園地で乗った観覧車の音にも似ていた。 カタン、カタン、カタン。 その音は、僕の心の中に、妙に重苦しい蟠りを産み落としていた。生活廃水で汚れた川底に澱んだヘドロのように、僕の内部にたむろしていた。 梅雨入り宣言のニュースを聞いた翌日、僕のところに浩一から電話がかかってきた。僕は、そのまま家を出で、地下鉄に乗り込み栄にむかった。 「よっ! 直樹」 久屋大通り公園の噴水の前で、浩一に呼び止められた。髪を染め、耳にはピアスまで施している浩一。久しぶりに会う浩一は、今時のちょっと飛んでる若者風 で、僕自身が妙にやぼったい存在のように思えてきた。 挨拶がわりに差し出された煙草に、僕はいいと首をふった。浩一は、表情を変えずに煙草をくわえ、ひと息つくと、にやっと笑った。 「あいかわらずだな」 浩一の言葉に、僕は内心むっとしながらもだまっていた。 「ま、直樹らしくていいけどさ……」 僕らの友情を肯定するような、一方で受け取り方次第では僕は気づかって、少し距離をとった。会話が聞くともなしに耳に入ってきた。浩一の表情も、にこやか だ。ふと僕は、絵里香のことを思い出した。 「なんだよ」 電話をきると、浩一は僕の様子が気に障ったのか問い詰めるようにいった。 「絵里香から? じゃないよね」 浩一は、再びポケットから煙草を出しくわえた。 「ああ、今の? バイト先の子」 「絵里香とどうなってるの?」 ふた月ほど前、絵里香に話があるといわれたままになっていたことを、今になって思い出していた。 「別に……」 「ふたまたかけてるのか?」 浩一は、鼻先で笑った。 「直樹の方はどうなんだよ。えっ? 綾香ちゃん、こっちにいるんだろ? さやかちゃんのことだって、いい加減忘れないと、いつまでたっても男になれねーぜ」 中学の頃から、浩一とは住む世界が違っていた。浩一との距離が、またここにきて大きく離れた気分だった。少なくとも、さやかのことを忘れろと 簡単に口にし てしまう浩一が、僕には許せない気分だった。 「ま、そこが直樹のいいところだけどさ」 以前のように、浩一は、僕の心を察してかそうつけたした。 「オレ、停学くらっちまってさぁ……」 「停学? なにしたんだよ」 「なにってさ、バイト」 「バイトで? なんのバイトだよ」 表向きは、アルバイト禁止を謳っていても、実際は大目に見ているところが多い。 「バーテンの修行。オレの知り合いの先輩がさ、飲み屋で働いていて……。その店に、こともあろうに担任が来ちまったわけ」 「担任が?」 思わず吹き出しそうになった。飲み屋なんていくらでもあるのに、よりによってバイトしている日に、しかも担任がやってくるなんて、偶然を通り越して運命的 なものに近い。 「まったくついてねーや」 おおげさに肩を落とした見せた浩一だった。 「でもさ、停学って、こんなところでフラフラしてちゃいけないんだろ?」 「まあな」 先ほど感じた、浩一との隔たりがなくなっていた。 「絵里香、なんか悩んでいるみたいだったぞ」 僕は、あらためてこの話題に戻した。 「そうか……」 なにやら考え込んだ様子の浩一に目をやって、続けた。 「ほかに好きな子、できたのか?」 「まあな……。でも、別れたわけじゃないぜ。絵里香とだって、たまに会っているしさ。直樹の感覚で、オレを見るな。どうしようもないからさ、オレは……」 僕の感覚? 亡くなったさやかのことを、今でも想い続けている僕。思い出の中では、高校三年になったさやかが現在進行形の形で生きていた。 週に二度家庭教師としてやってくる美紀への、憧れみたいなもの。春先の川辺で、美紀にキスした瞬間のことを、ビデオテープのように幾度も再現していた。隙 あれば美紀につけ込もうと、テキストに目をやるふりをしながら、美紀を観察する僕がいた。 また、似ていてもコピーではないはずの綾香とのやりとりに、僕はさやかの面影を色濃く重ねているのも事実だった。 「直樹、家の方はどうなんだよ」 だまりこんでいると、浩一は唐突に話題を変えた。 「家? ああ、親父のことか……」 半年前、浩一に父のことを話したことを思い出した。 「もう家には、ほとんど帰ってこない」 「女のところか……」 「多分ね」 僕は、表情ひとつ変えなかったつもりだ。 「オレのおふくろが出て行った時はさ、むかついたぜ。まだ中学生、ガキだったもんな。でもさ、親父さんのことも、わかってやれよ。それなりの事情ってやつ があるんだよ。直樹も、もうガキじゃねーんだからさ」 妙に大人びた口調だった。 「親父はどうでもいいんだけど……。おふくろがさ、まいっちゃってる」 「直樹のおふくろさん、結構、理解あったもんな。オレのことだって、まわりの大人みたいに変な目で見たりしなかったしさ……」 中学の頃の荒れた浩一を思い出していた。当時、無茶やっていた浩一は、今ではなんだか僕よりも大人だった。 「でも、今は見る影もないよ。はけ口は、僕にしかないだろ? そのうちどこに誰と行くとかさ……。そのへんの母親以上に変にうるさくなっちゃってさ。たまらないよ、僕は……」 誰にも打ち明けたことがないことを、浩一にぼやいていた。 「ゲーセンにでも行って、スカッと気晴らししようぜ。比較的健全なストレス解消法」 浩一の言葉に、うなずいた。 ゲームセンターは、土曜日の午後とあって結構混んでいた。ここは平日の昼間であっても、無所属の若者やら、制服を来たままの高校生、場合によっては中学 生っぽい子の姿も見える。 以前、僕も一度だけ、平日のゲームセンターに浩一に連れられてきたことがある。学校をさぼったということに、小心者の僕は、妙におどおどしていた が、その うちこの空気になじむと、かえって大胆な気にさえなった。 千円札をコインに替え、僕はスロットマシーンの前に坐った。回転する絵柄をぼんやりと見ながら、無造作にボタンを押した。絵柄は、斑模様の帯状の残像と なって、僕の視覚を麻痺させた。 ゲームセンター内をふらつきながら、無意味な戯れをくり返しているところ、背後から浩一に声をかけられた。 「直樹、こいつら、オレの友達。ここでばったり会ったんだ」 顧みると、ふたりの男が立っていた。 どちらも、茶色というよりは金髪に近い色に染め、着古したように見せかけた穴のあいたジーンズ。ジャラジャラと音をたてるアクセサリーを身につけ、身体に ぴったりとはりつくようなTシャツを着ていた。普段なら嫌悪というよりは、僕の生活とは何の接点ももたないようなタイプの人たちだった。個性的な格好が、 ふたりそろっているからこそ、かえって個性を失わせていた。単に粋がっているだけの無能のやつら。僕の無表情な仮面の下に、そんな嘲笑が浮かんでいた。 僕は、彼らにむかって、会釈するように小さくうなずいた。 「浩一にしちゃあ、かなりまともなヤツを相手してるな」 浩一はにやりと笑うと、 「直樹、こいつたちとオレの家に来いや」 と、半ば命令口調で続けた。 栄から再び地下鉄に乗り込むと、吊革に凭れた浩一の友達というやつらに目をやった。ガムをかみながら、だらしなく吊革につかまっている。時折、乗降する女 子高校生や若いOL風の女性に視線を這わせ、奇声や笑い声を上げる。半年ぶりに会った浩一も、どちらかというと、彼らの色に染まっているのを感じていた。 物憂い音をたてながら、また僕の中でなにかが回り出した。 カタン、カタン、カタン。 名古屋港での観覧車。さやかの姿が綾香に重なり、僕の中で回りはじめた。なんだか無性に、綾香に会いたくなった。 「…樹、直樹」 浩一の声で、現実に引き戻された。 「金、いくらもってる?」 「金? さっき結構使っちゃったからな……。千円くらいしか残ってない」 「なんだ、直樹もかよー。オレたち四人あわせて、三千円ちょっとかよ」 「ちぇっ、してけやんの」 また彼らが、大声で笑った。 僕たちの前に腰をおろしていたサラリーマン風の男が、眉間に皺をよせて、衝立をつくるかのように新聞でその顔を覆った。同じくOL風の女は、パタンと音を たてて本を閉じ、目をつむった。そして女子高校生は、僕らのそんな様子にも気にせず化粧をしていた。 「直樹も、金、出せ。あとで、コンビニに寄ってなにか食いものでも仕入れていくからさ」 僕は、財布から残り一枚となった千円札を出した。空っぽになった財布は、僕の心に似ていた。 駅の地下道から出ると、もうすでにあたりが闇に包まれはじめていた。駅前の店先にネオンが輝きはじめ、街は夜の顔へと変わっていくところだった。 「あ~あ、腹へったぁ~」 浩一が叫ぶようにいうと、 「もう七時半だぜ」 ひとりが答えるようにいった。この時、僕は、このふたりの名前すら聞いていないことに気がついた。 「近くのコンビニでいいな?」 浩一が確認するようにいい、彼らは「ああ」と短く答えた。 僕は、浩一たちのいる世界との違和感を内に覚えつつ、少し遅れる形で後について行った。 「直樹、早く来いよ」 川原の土手に出ると、浩一は、僕の存在にはじめて気づいたように声をかけた。 春先の桜並木は、青葉の並木へと姿を変えていた。点在する街灯の灯かりの下に、川沿いに集まる羽虫が群れをなして飛び交う季節が訪れている。土手には、こ れまた点在するように、カップルの姿が目につく。 「浩一、ほら、あれ」 彼らのひとりが、肘で浩一の脇腹を突つく姿を見た。 「なんだよ」 もうひとりのやつが、浩一の肩に寄りかかった。 僕は、彼らとの疎外感を覚えながらも、彼らの視線の先を辿った。その先には、僕の父くらい、四十代半ばほどのサラリーマン風の男と、OL風の女が肩を寄せ 合うように土手に腰をおろしていた。いかにも普通のカップルには不釣り合いで、訳ありという感じだ。僕の脳裏を、父の姿が横切った。 「やっちまおうぜ。三千円しかないしさ」 「そうだな……」 浩一は、幾分、間をおいて僕に声をかけた。 「直樹、スカッとするぜ」 僕が躊躇している間に、浩一たちは駆け出した。間をおかず、女の悲鳴が川原に響いた。慌てて逃げ出すカップルや、興味本位で遠くから見つめるカップルの姿 を確認し、それから僕は、こわごわと近づいた。僕の中で、やつらとは無関係だという意識が働いていた。 男は、浩一たちに囲まれ姿を見ることは出来なかった。彼らの嘲笑う声の間に、男のうめき声がもれた。 「やめて~!」 再び女の叫び声で、僕はその姿をとらえた。 「やめろ、浩一!」 僕は、身体ごと浩一たちに突進していた。 「なんだよ、直樹……。いてーなぁ」 浩一が身構えた瞬間、彼らのひとりが男のポケットから財布をぬきとった。 「ちぇっ、しけてやんの」 札束だけをぬきとると、財布を男の胸に放り投げた。 「やめろ! あの女の人は僕のいとこだよ」 真波は、男の傍らで声を殺して泣き出していた。一瞬、時間がとまったかのように、空気が澱んだ。 「浩一、行こうぜ」 彼らのひとりが、全く動じた様子もなく、顎で浩一に示した。 「……あ、ああ」 浩一は乾いた声で答えながら、僕をチラリと見たが彼らとともに駆け出して行った。浩一たちの姿が闇に溶け込んだ頃、男はうめき声を上げて身を起こした。 「大丈夫?」 真波の言葉にうなずきながら、反対側を向き、唾を吐いた。遠くの灯かりの中で、唾に血がまじっていることに僕は気づいた。 「血? 口の中切ったの?」 真波のうわずったような声を聞き、僕は思わず「すみません」 と頭を下げた。 「待ってて……」 真波は、僕のことを無視するように、川辺に駆け下り、ハンカチをぬらすと戻ってきた。ハンカチを口元に当てると、男は再びうめき声をもらした。 「真波ちゃん、ごめん。僕……」 「直樹、あんたの友達? 知り合い?」 問い詰めるような口調で、僕に鋭い視線をむけた。 「ひとりは友達だけど、あとのふたりは、僕は知らない。きょう、ゲームセンターで会ったやつだから……」 真波は、大きなため息をついた。 「直樹のこと、見損なったわ。子供の頃からいい子で通してきて、中学で一時期不登校なんてやって、どうなるかって心配してたの。それでも直樹は立ち直っ て、また結構まともな道、歩き出した。感心してたのよ、私。それがなによ。あんな連中とつるんでさ……。私じゃなかったら、見て見ぬふりしてたんでしょ? どうせ直樹のことだから……。まだ手を出していた方がましよ」 真波の言葉に、胸が苦しくなってきた。粋がってばかりの無能だと嘲笑していたやつらの方が、ましだという真波の言葉は、僕の心を氷つかせた。 「真波……。よさないか、もう」 男が真波をたしなめるようにいい、せき込んだ。 「直樹、あんたたちのしたこと、犯罪だからね。訴えることだって……」 真波は、そこまで宣言するように言い放つと、ひと息ついた。束の間の時間をおき、真波は再び僕の存在を無視するように男に目をやった。 「立てる? 大丈夫?」 男は、うなずいて立ち上がろうとした。僕は慌てて、男の身に手をかけようとしたが、真波に諌められた。 男は、真波の肩に寄りかかるように歩きはじめた。真波は、僕をふりかえることはなかった。川音がようやく僕の耳に入ってきた。ひとり残された僕は、家路に 向かって重い脚を引きずるように歩き出した。 住宅街に入ると、やるせない想いがなんだか楽になった。先ほどの川辺での出来事が、夢のようにも思えてきた。塾帰りらしい学生三人とすれ違った頃には、僕 の心もいくらか落ち着きを取り戻してきていた。 「……直樹くん」 門のところで、懐かしい声に呼ばれた。 「来ちゃったんだ。だって、ずっと会ってくれないんだもん」 張り詰めた緊張感が崩れ去るような思いで、僕はその声の主を抱きしめていた。 「さやか……」 僕は、無意識に綾香をそう呼んだことに気づいていなかった。そして、その一瞬の間に覗かせた綾香の表情も見逃していた。 「直樹くん……。なんかあったの?」 さやかに問われている気分だった。このまま綾香にキスして、身体に触れていたいという、僕の中の理性とは別の力強い想いが込み上げていた。 「なんでもない。ちょっとこうしていたかっただけ……」 僕は、自分の言葉に思わず笑った。綾香にキスするのは、はばかれた。綾香に近づくにつれ、さやかとの思い出が、ひとつひとつ薄れていく気分だった。 「綾香ちゃん、門限、大丈夫なのか? 今、何時?」 僕は、急に思い出して、腕の中にいる綾香に聞いた。 「八時十分。でも、きょうは土曜日だから、九時まで」 「急がなくっちゃ。駅まで送る」 僕は、綾香の手を取り促がした。 「直樹くん、あたし、彼女だよね?」 「そうだよ」 僕は、ふと空を仰いだ。満天の星が輝きを放っていた。 「あした、晴れるね」 「そうだな……。あした、動物園でも行こうか」 「ほんと?」 綾香が僕の腕をとり、ぴょんとはねた。 「寂しい想いさせて、ごめんな」 僕は綾香の肩を抱き、さっきの土手までやってきた。確認するように視線を這わせたが、真波と男の姿は、どこにもなかった。 2 僕は、川原での一件があって以来、意識して土手沿いの道を通ることを避けていた。 真波は、父方のいとこで、僕より十ほど年上だったから、二十七、八歳のはずだった。いとこといっても、真波は家を出てマンションを借りていたし、僕自身も 父の実家に顔を出すことが、中学以来めっきり減っていた。偶然とはいえ、実際に真波と会うのは、二年ぶりくらいの気がする。 真波は、短大を卒業してから、薬品会社の事務仕事をしていると聞いていた。久しぶりに会った真波と一緒にいた男のことを、僕は数日間考えていた。 犯罪だといいながらも、手を出した浩一たちの方がまだましだといった真波。あんなやつらと嘲笑していた僕自身が、否定された気分だった。確かに、真波がい うように、見ず知らずのカップルだったら、僕はあの場で見て見ぬふりをしていただろう。 正義感ぶるのでもなく、仲間となって荷担するわけでもなく、冷ややかに見据える僕がいた。中学の頃の僕は、もう少し違った気がする。いじめにあった頃は、 それなりの感情があったし、再び学校に通うようになってからも、感情の起伏を繰り返していた。だが、この一、二年で、僕の心が氷ついたように、喜怒哀楽の 情に呼び覚まされることがなくなった。このところの僕が意識するのは、虚しさと倦怠感だけだった。 「直樹……」 突然、母が部屋へとやってきた。 「勝手に入ってくるなよ」 「ノックしたわよ。全然、気がつかないんだもん。電話よ、綾香ちゃんから……」 僕は、母の存在を無視するように、乱暴に隙間から廊下へ出て階段を駆け下りた。 「直樹くん、勉強してたの?」 「ん? ああ」 「なんかぁ、直樹くんに会いたくなっちゃって……。だって、寮にいてもつまんないんだもん。午後、暇?」 あらためてきょうが、日曜日であったことを僕は意識した。 「……午後は、駄目なんだ。ちょっと約束があって……」 日曜日なら真波もマンションにいるかもしれない、という思いが脳裏をよぎった。 「なんだ、つまんない」 「また時間つくるよ」 「またって、いつ?」 「次の日曜日とか……」 「やだ、そんな先。なんか近くにいるのに、遠距離恋愛してるみたいなんだもん」 僕は、電話口でため息をついた。さやかには、こんなことはいわれなかったし、もっと対等で気楽になんでも話せた気がする。 「お姉ちゃんなんかいいよね。東京にいたのに、電話だって手紙だって、たくさんもらってたし……。直樹くんだって、わざわざ東京まで会いにきてくれてたん だもんね」 さやかの話がでて、僕は息苦しくなった。 「ごめんな。……じゃあ、夕方になると思うけどさ、用がすんだら綾香ちゃんの寮の近くまで行くから。また電話する」 なんだか重苦しい気分だった。 電話を切った後、僕はリビングの棚の引き出しを開けて年賀状を探しはじめた。確か、真波からもきていた記憶があった。 「なにしてるの? 直樹……」 気がつくと、母が立っていた。 「真波ちゃんのところ、行ってくる」 「真波ちゃんって? どうして?」 ほとんどつきあいのないいとこの名が出たことに、母は訝しげに思ったようであった。 母の干渉がはじまらないうちにと、僕は、素早く廊下に出た。 「直樹!」 「あ、あと、夕飯いらないかもしれないから」 僕は、そうひとこと付け加えると、玄関から飛び出した。 真波に、なにか言い訳のひとつでもしなければ……。そんな思いに、僕はこの数日間支配されていた。 真波のマンションの手前の洋菓子屋で、ケーキを買って手土産にと考えた。先日の剣幕で、玄関先で追いやられそうな不安があったからだ。三階まで階段を上 り、チャイムを押す僕の右手の人差し指は、わずかに震えていた。声を出さずに、十まで数えた。 「……直樹?」 ドアを少し開け、確認するように真波は僕の名を呼んだ。 「……入って」 チェーンをはずし、ドアを開けた真波の姿を見て、僕は一瞬立ち尽くした。 「あ、今、シャワー浴びたところだから」 バスローブ姿の真波は、僕の様子を察してかひとこと説明した。白いバスローブに包まれてはいるものの、胸元の隙間や、髪から雫が滴る首筋に思 わず目がいき、僕は目のやり場に困っていた。 「彼もいるけど……」 「あ、じゃあ、僕……」 「いいから入りなさい」 おどおどしている僕に、真波は命令口調でいった。 僕が入ると、真波のベッドに腰を下ろしていた男が、妙に身構えた様子で軽く会釈した。真波と同じバスローブ姿で、ひと目で真波と深い関係の男だと疑う余地 はなかった。 男の右目のまわりに残るアザで、あの川原の男であることをあらためて認識した。 「あの、これケーキだけど……」 「気がきくじゃない。親のスネかじりの身分で……」 真波は、そういいながらキッチンに立った。ワンルームのマンションの一室で、三人が同じ空気を吸うことを思うと、妙に息苦しかった。 「宏さん、コーヒーでいいわよね」 真波が、身体を反るようにして男を見た。男が軽くうなずくのを確認した真波は、次に僕の方に目をやり続けた。 「直樹は? 牛乳入れる?」 僕は、思わず笑った。 「なによ」 「そんな子供じゃないよ」 淡々とした口調で、僕は返した。 「そうだったわね」 あらためて気づいたように、真波がくすっと笑いをもらした。部屋の中央に置かれた丸いテーブルの前で、僕は居ずまいを正した。 「この前は、本当にすみませんでした」 僕は、男の前で頭を下げた。 「いや、もういいんです。真波は、犯罪だなんて叫びましたが……。私だって、家庭のある身で真波と会っている。私くらいの年になれば、叩けば埃くらいでる んです。人のこと、責められる立場ではありません」 男がここまで一気に話した時、真波がコーヒーカップを運んできた。 「そうよ。私もね、思ったのよ。犯罪だって叫んだけど、よく考えたら私だって、そんなこと主張できる立場じゃないかなって」 僕は、訴えることだってできるといいつつ、いいよどんだ真波を思い出していた。 「だから、まあ災難だったな、くらいに思っておこうって。ね?」 真波は、同意を得るように男を見た。 僕たち三人は、丸いテーブルを囲んで、ケーキを食べはじめた。多分、これから互いの肌を確かめようとしている男と女の中に、僕は突然侵入したわけであっ て、真波たちの心の内を知ると、なんだか滑稽な気がした。 「おじさんやおばさんは、元気にしてる?」 唐突に、真波にたずねられた。 「私、最近、ほとんど実家にも帰ってないから……。随分、御無沙汰してるけど」 心の準備もないままに、僕の核をつかまれた気分で、言葉に窮してしまった。 「どうかしたの?」 怪訝そうに真波が僕をのぞきこむ。 「親父、ほとんど家に戻って来てないんだ」 僕は、内蔵を絞り出すような思いでやっと口にした。 「えっ? だって、単身赴任じゃないんでしょ?」 僕は、だまりこんでしまった。喉が乾いて、コーヒーをすすった。 「まさか……」 「女のところ」 僕は、短く答えると口を閉ざしてしまった。重い沈黙が、狭いマンションの一室にのしかかってきた。 「僕、帰る」 僕自身がいった言葉の重圧に耐えられなくなって、立ち上がった。 「ごめんね、直樹。あの時、直樹にひどいこといっちゃったもん。直樹は手を出さなかったのにね……」 宏という男に、父の姿がだぶったのは事実だった。 「いいんだ。ごめん、邪魔しちゃって。僕、帰るから」 「直樹、いい? あんたね、ヤケになって変なことするんじゃないわよ」 「そんなガキじゃないよ」 「って、思うけど。なんかあったら、相談にのるから」 急に大人びた口調になる真波に、僕は愛着のような感情を抱いた。そして、父と同じくらいの宏という男に対しても、なんだか憎みきれないようなぼやきを聞か された気分だった。階段を下りはじめ歩道に出る頃には、数日間抱えていた心の靄が晴れた爽快さすら感じていた。せっかく入れてくれたコーヒーもほとんど口 にせず立ってしまい、なんのためにわざわざ真波のマンションまで行ったのかわからなかった。 綾香の寮に電話を入れたのは、五時近くになっていた。 「待ちくたびれちゃったな」 僕を決して責めている様子でもない、綾香のおだやかな口調や言葉にむかえられた。 「どこ行きたい?」 「どこでもいいよ。直樹くんと一緒なら」 綾香は、そういうと僕の腕にまとわりついてきた。そんな様子を見るたびに、さやかとの違いを感じた。妹というだけあってか、甘ったれたしぐさを見せる。そ のたびに僕は、さやかには決してしなかった、兄貴っぽい態度をとってみせるのだった。 角のコンビニの前を通ると、高校生くらいの男子三人が、道の片隅に腰を下ろし、買ったばかりの弁当を広げていた。僕たちとすれ違うように、女子高校生がふ たり、甲高い笑い声をあげてコンビニに入って行った。 僕たちは、公園の噴水前のベンチに腰をおろした。一定の距離を保って置かれているベンチには、カップルや、浮浪者っぽい年配の男の人、それぞれが自分たち の世界に浸っているように、他には無関心の様子だった。 「で……、ちょっと聞いてる? 直樹くん?」 「えっ? あ、うん」 噴水が翳りを増した陽をうけて、わずかに鈍い輝きを放っていた。僕は、陽気に話を続ける綾香の声を、ぼんやりと聞いていたのだった。 「あのさ、お姉ちゃんといる時も、こうだったの?」 綾香は、突然僕に問いただした。 「なにが?」 「だって、いつもだまっててさ……。あたし、本当は直樹くんに電話する時だって、いつもドキドキしてるんだよ」 「ドキドキ?」 「そう。迷惑かな、とか思っちゃったりして……」 「迷惑? どうして? そんなことあるわけないだろ?」 そういいながら、腕時計に目をやった。七時近くになっていた。一時間半余りも、ベンチにいたことに気づいた。誰もすわっていないベンチが、いつのまにかと もされた街灯に浮かび上がっていた。 「飯、食いに行くか?」 ふいに現実に戻った僕がいた。僕が立ち上がろうとすると、綾香の手が僕を諌めた。 「直樹くん、あたしのこと、好き?」 蚊の鳴くような綾香の声に、僕は再び腰をおろした。 「なんだよ、急に。どうしたんだ?」 わざと兄貴ぶった口調で、綾香をのぞきこんだ。 「だって……」 「だって、なんだよ」 僕は、綾香の髪を指先で梳きながらたずねた。 「だって、不安なんだもん」 「どうしてさ……」 「お姉ちゃんより、あたしの方が好き?」 さやかの幻影が、僕の脳裏をよぎった。 「さやかよりっていうか、綾香ちゃんのことは好きだよ。あたりまえだろ?」 さやかに好きだといった、三年前の軽井沢での夏。その時の言葉の重みが、今はないことに僕は気づいていた。 「でも……」 涙声になっている綾香を、僕は抱きしめた。 「でも、なんだよ」 僕の中で、さやかの幻影が帯状になって渦を巻いていた。そのまま僕は、綾香にキスした。僕の右手が薄いTシャツの上から、一瞬綾香の胸に触れた。綾香は驚 いたように身をひき、僕は抗おうとする綾香を腕の中に押し込んでいた。 3 このところ三日、雨が降り続いていた。梅雨特有の湿気が、夏服の隙間から忍びこんできて、肌に不快感を覚えていた。梅雨明け宣言も間近だろうという 頃、高 校生活最後の文化祭の準備に、校内は活気だっていた。まわりが陽気に熱くなればなるほど、僕自身は、妙に醒めていった。 終了のチャイムとほぼ同時に、僕は鞄をかかえて教室を出た。単調な日々の中で、家庭教師である美紀が来る日だけが、僕の体内リズムをかえていた。 「……くん、直樹くん」 昇降口で、僕を呼ぶ声が耳に届き、僕がふりかえると絵里香が立っていた。 「きょう、ちょっとでいいから時間、つくれない?」 前に一度、相談があるといわれてから、三ヶ月余りたっていたことに気がついた。 「浩一のことか?」 迷わずそうたずねた。絵里香が、わずかにうなずくのを確認した僕は続けた。 「一時間くらいだったらいいけど」 僕たちは、駅近くのファーストフード店にむかった。喫茶店の方がいいかと考えたが、絵里香の言葉に従った。並んで歩きながらも、ほとんど口を開かない絵里 香から察すると、決していい相談ではないように思われた。 飲み物とポテトを注文し、僕はトレイを持って歩き出した。階段を上り、それでもおちついた二階の隅の席に陣取った。僕は、しばらく、ポテトを口にほうり込 みジュースを飲みして、絵里香の様子を伺った。話があるといったものの、ちっとも切り出さない絵里香に、半ば苛立ちを覚えはじめていた。 「なんだよ、話って」 あまりのぶっきらぼうで冷たい口調に、僕自身がはっとした。 「……したの」 絵里香のささやきに近い言葉に、僕は、えっ? と聞き返した。 「妊娠……」 今度は、僕の耳にも確かに響いた。 直接関係のないことなのに、僕の心が波立った。三年もつきあっている絵里香と浩一が、男と女の関係にあることは、当然のことかもしれない。だが、そういう 関係にあり、妊娠してしまったという事実が、僕の身近で起こったという衝撃に戸惑っていた。 戸惑いの中で、なぜかひと月ほど前の川原での出来事が鮮明に甦ってきていた。頭の中で、その映像が幾度も再生されるにつれて、僕の心はまた醒めていった。 「浩一は? 話したのか?」 絵里香は、小さく頭をふった。 「浩一にいうべきだろ、まず」 絵里香がわずかにうなずくのを見た。 「どうするんだ?」 絵里香に問いただしながらも、こんなところで泣き出されでもしたら困るという思いでいた。 「わからない」 「僕から浩一に話せとでもいうのか?」 「そうしてもらえたら……」 絵里香の的を得たらしく、彼女ははっきりとした口調になった。 「それは筋ちがいだろ? この件に、僕は無関係だし……」 川原での浩一の姿を思い出していた。 「浩ちゃんに会った? 最近……」 絵里香は、突然に話題をかえた。 「えっ? あ、うん。一ヶ月くらい前かな」 「で、どうだった?」 「変わったっていうか……。昔の浩一に戻って、そのまま大人になったっていうか」 「だから、いえない」 この一年ほどで、浩一はかなり変わった。中学の同級生だった僕たちは、卒業後、共に二年余りの時を過ごしたはずだ。それでも、この二年という時間の間に、 それぞれの進む方向があり、大きな隔たりが生じてしまった。 「だったらどうして、浩一とそんなことしたんだよ」 「だって、浩ちゃんのこと好きだもん」 「絵里香だったら、他にもっとふさわしい男がいるだろ? なにも浩一なんかじゃなくったってさ……」 だって、といったまま絵里香は鳴咽した。好きという言葉に代表される、みぞおちのあたりにキュンと響く気持ちは、なんだかやっかいだ。理屈ではわかってい ても、心ではどうしようもないことがある。 現に僕の中で、さやかは生き続けていた。 どうにもならないことだとわかりつつも、僕は、さやかの幻影にとらわれていた。 「絵里香から、一度、話してみろよ。どうしても駄目なら、僕からいってやる」 僕は、そう言い残すと席を立った。腕時計に目をやり、駆け出した。 玄関のドアを開けると、すでに美紀の靴があった。確認する間もなく、母がキッチンから出てきて、いつもの調子でまくし立てた。 「直樹、なにしてたの? 美紀さん、もう十五分も待っていただいているのに……」 僕は、母の身体を押しのけるように無言のまま部屋へと急いだ。 「こら、遅いぞ」 「すみません。ちょっと友達と……」 僕は言い訳をしながら、椅子に坐った。 「友達って、女の子? あー、図星でしょ?」 無邪気な美紀の様子に、僕は、にやっと笑った。 「あ、あの、写真の子の妹さんって子?」 僕は、笑いを浮かべたまま違うと頭をふった。 「ほら、笑うと結構かわいいんだから。いつもしかめっ面ばっかりで……」 春先、土手の桜並木でキスして以来、美紀との関係は、いざよう波のようだった。 「中学の同級生の女の子。彼女、妊娠しちゃったみたいで……」 「妊娠って、まさか直樹くんの?」 美紀が声を張り上げた。 「違うって……」 僕は、即座に否定した。 「なあ~んだ」 「なんだって、どういう意味?」 「驚きと失望」 美紀は、棚まで歩み寄り、灰皿を手にして戻ってきた。僕がいつも美紀用の灰皿を置く場所を、心得ているのだ。 「相手が直樹くんだったら、意外というか、なかなかやるなっていう驚き。実際違っていたんだから、やっぱりそんな程度のまともな男の子なんだっていう軽い 失望っていうの? で、どうするんだって?」 僕は、美紀を見ず、テキストを開きながら答えた。 「さあ? 僕には関係ないから」 頭上で、ふふっと笑う美紀の声がもれた。 「なに?」 「直樹くんらしいなって。ちょっとわるぶってみたいけど、実際はできなくて、結局は無関心ぶるところ」 僕は、美紀を顧みた。 「なによ、その目つき。笑っている時の直樹くんはかわいくて、結構タイプなんだけどな……」 美紀の意図することがわからず、僕は戸惑いはじめた。 「年下の彼氏もわるくないなって……」 「僕のこと誘惑してるの?」 美紀の甲高い笑い声が響いた。 「そんなにいうとさ、襲っちゃうよ。ここ一応、僕の縄張りなんだけどな」 突然、ドアがノックされ母がお盆を片手に入ってきた。僕は、慌てて椅子を回転させ机にむかった。冷めた現実が目の前に広がっていたが、妙に身体の火照りを 感じていた。 4 僕の母が、突然倒れて救急車で運ばれたのは、夏休み初日の夜だった。 キッチンで片づけ仕事をしていた母は、急に貧血に起こしたかのように倒れて、意識がなくなった。そこに居合わせた僕が、一一九番通報した。病院で待ってい る間に、父に連絡を入れ、母が病室に移される頃には父も駆けつけた。 医師によれば、心労によるもので一日入院するだけで特に大きな問題はないとのことだった。 心労という言葉に、僕と父は無言のまま顔を見あわせた。母を疎ましく思い、ほとんど口をきくこともなかった僕。母が倒れた時でさえ、驚きはしたものの、冷 静に対処できる自分に冷酷な恐ろしささえ感じていた。 「もうお父さんたちは、駄目だと思うんだ。もちろんお母さんには、非はない。お父さんがいけないんだが……」 母を見舞ったあと、父が久しぶりに僕とむきあった。 「だったら、早く決着つけてやれよ」 弁解などせずに素直に認める父に、かえって腹が立った。 明るくてなんでも話し合える家族。そう信じていた。だが、実は微妙にバランスを保っていただけなのかもしれない。かけ違えたワイシャツのボタンのように、 些細なことが引き金で、今という状況に陥ってしまったのかもしれない。 「直樹は、それでいいのか」 最後の決定権を僕に委ねるような、父のずるさを感じた。 「親父たちの問題だろ」 僕は、父にむかってはじめて親父という言葉を使った。 「親父か……」 父は、ため息まじりに苦笑した。 母は、翌日退院したが、そのまま祖母がむかえにきて、しばらく軽井沢の実家に戻ることになった。祖母は、ひとり残される僕の身を案じているようだったが、 「お金さえあればなんとかなるわ」 という母のひとことで、口を閉ざしてしまった。母は、焦点の定まらない様子で僕を見ながら、そのまま祖母とともに出て 行った。 高校三年の夏休み。こうして僕のひとり暮らしがはじまった。 家庭教師の美紀が来る日には、それなりに僕も気を使った。インスタントのコーヒーが出せるように、ポットやカップをあらかじめ部屋に運んでおくなど心遣い を忘れなかった。 いつものように一時間が過ぎた頃、美紀は、例によって僕にきいた。 「煙草、吸ってもいい?」 棚から灰皿を持ってきて、テーブルの上においた。部屋の空気が、美紀の香りに染められていく気分だった。僕は、無言のままインスタントコーヒーを入れはじ めた。 「お母さん、いないの?」 美紀は横をむき、息をはいた。煙が勢いよく白く太い直線を描いた。 ぼくは、こくりとうなずきながら、お湯を注いだ。 「また手芸教室?」 美紀は、煙草をもみ消した。煙草についたピンクの口紅が、僕の部屋の中で妙に浮いていた。 「親父に女がいてさ。心労で倒れて、今は実家で療養中」 家庭の恥をさらすようだったが、淡々とした口調で語っていた。 「なんかテレビドラマみたいね。視聴率そこそこの……」 美紀のコメントに、僕は苦笑した。 「だから主役の直樹くんは、仏頂面してるわけか」 「関係ないよ」 僕は、人の気もしらないで身勝手なことをいう美紀を、蔑むように見た。 「ほら、そういう目つき。もっと素直にならなくちゃ、駄目よ。悲しい時は、悲しい。つらい時は、つらい。だから、楽しい時だって、楽しくなくなっちゃうの よ」 僕は、不機嫌そうにだまりこんでいた。 「面倒な性格ね。直樹くんったら……」 美紀は、そういいつつ立ち上がった。僕は、コーヒーをひと口、含んだ。その瞬間、背後から美紀が背に凭れてきた。 「ねぇ、私とつきあわない?」 えっ? という問い返しを、僕はやっとした気がする。背には、乳房の柔らかさを感じていた。ゆっくりふりかえると、美紀は僕にキスした。春先の桜並木での記憶が、 一瞬に呼び覚まされた。 僕は、そのまま美紀を押し倒していた。 倦怠感とともに、ベッドから起き上がった時、写真のさやかと目があった気がした。 「どうしたの?」 美紀も半ば身体を起こした。僕の肌にふれた美紀の肌が、なめらかで妙に心地よかった。 「まだ忘れられないの?」 写真を見る僕に気づいたらしかった。 「そうじゃなくって……」 「なによ」 コーヒーをひと口、含んだ瞬間から今まで、さやかのことなど頭になかった。 僕は、リモコンを使ってエアコンの温度を下げた。窓の外がすっかり暗くなったのを確認した。 「ねぇ、いつも食事、どうしてるの?」 唐突に、現実に引き戻された。 「いろいろ。食べに行ったり、コンビニの方が多いかな」 「駄目よ。そんなことじゃあ。きょうは、ごちそうしてあげるから、着替えなさい」 美紀にまくし立てられ、僕は、ベッドから抜け出た。 浩一と絵里香がしていたことは、こんなことだったのか。あらためて知ってみると、知らないでいた時の引け目や願望が、たいしたことではなかったようにも思 えた。時給千三百円のバイト代を美紀に払って、僕は女を知ったのかと思うと、なんだか滑稽だった。 家から一歩出ると、昼間のアスファルトの照り返しで生暖かく澱んだ空気に押される気分でけだるかった。 「なに食べたい?」 美紀が僕の腕をつかんで歩き出した。 「なんでもいい」 「そういうのが一番困るのよ」 昔の優柔不断な僕は、こういうところでは健在だった。 「じゃあ、焼き肉。でもさ、僕、好き嫌いないんだよ。だから、なんでも大丈夫なんだけど……」 言い訳がましく僕は続けた。 僕たちが、土手沿いの道にむかって、五分ほど歩いた時だった。 「直樹くん?」 街灯の灯かりの中で、その姿を僕はとらえた。 「綾香ちゃん?」 素早く美紀は、僕から離れた。綾香は、小走りに僕たちの前に現れたが、僕と美紀を交互に見つめ、押し黙ってしまった。 「あ、この人は、僕の家庭教師の美紀さん」 僕は、弁解をはじめている自分に気づいた。 「写真の子?」 さやかと似ているからか、美紀はまさかという表情を見せた。 「……の妹」 僕は、つけ加えるようにいった。 「どうしたんだ?」 突然現れた綾香の顔を覗き込むようにたずねた。 「だって、直樹くん……。夏休みに入ってから、一度も電話くれないんだもん」 「ごめん。おふくろが倒れて入院したりとか、いろいろあってさ……」 夏休みに入って、すでに四日がたっていることに気づいた。 「だって……」 綾香の恨みがましいような視線を、僕は身体中に感じていた。 「直樹くん、焼き肉は、また次ね。きょうは、帰る」 この様子を悟ったのか、美紀は身を翻すように立ち去ろうとした。僕の術中から、美紀が逃れ去るような不安がよぎった。 「美紀さん!」 僕は、慌ててそう呼んだ。 「ちゃんときょうの復習しておくのよ」 一瞬、美紀の裸が脳裏をよぎった。 「受験まで、あと半年よ」 美紀は、暗がりに消えて行った。 僕は、現実に綾香とともに置き去りにされた。 「飯、食ったのか?」 綾香は、頭を振った。肩でカットされた髪が、左右にゆれる。 「じゃあ、食いに行くぞ」 僕は、綾香の肩に腕をまわし促がした。先ほどまで触れていた美紀の肌。なにごともなかったように、綾香に接する僕自身に、内心呆れていた。 「いい」 綾香の拗ねた顔が、街灯に浮かび上がる。 「どうして?」 「食べたくないもん」 「ほら、行くぞ」 綾香の言葉を無視するように、促がした。土手沿いの道までくると、綾香は、僕から逃れるよう川近くまで駆け下り、コンクリートの上に腰をおろした。 「どうした? こんなところにいると蚊にさされるぞ」 僕は、綾香の隣にすわった。 「直樹くんは、やっぱりお姉ちゃんのことが好きなんだよ」 「また、その話か……」 うんざりした口調で答えた。 「あたしがお姉ちゃんに似ているから、だから彼女にしてもいいか、くらいに思ってるんだよ」 「違うってば……」 「だって、お姉ちゃんにはもっとやさしかったもん」 綾香は、涙声になっていた。 「いい加減にしろよ。たしかにさやかと似ているよ。四月に、校門ところで僕を待っている綾香ちゃんを見た時は、ドキッとした。さやかにあまりに似てい て……。白血病で、いつ死ぬかもわからなかったのに、いつだって笑っていた……。さやかは綾香ちゃんみたいに、つまらないことでグズグズいったり泣いたり しなかった」 僕は遠い日のさやかを思い出していた。さやかと過ごした時間は、美紀といるようにおだやかで楽しかった。 「つまらないこと?」 「だって、そうじゃないか? 少なくとも中学三年のさやかは、今の綾香ちゃんより大人だった」 「そうやって、直樹くんは、いつもお姉ちゃんとあたしを比べてる。あたしに失望するから、電話だってかけたくなくなるんだ」 僕は、深いため息をついた。綾香と話していても、同じところを旋回しているようで、結論に至らない。 「正直にいうよ。僕は、綾香ちゃんに今みたいなこといわれると、負担なんだ。さやかのこともそうだ。たしかにさやかのことは好きだった。でも、さやかには 会うことだってできないんだぜ。それなのに、綾香ちゃんといると、亡くなっているはずのさやかが現実にいるんじゃないかって錯覚に陥る。そうさせているの は、綾香ちゃんだよ。それに、僕、今はちょっと気になる人がいる。さっき一緒にいた家庭教師の美紀さんだ。さやかのことは、もう関係ないんだよ」 僕は、写真のさやかと目があった瞬間を思い出していた。 綾香がだまったまま立ち上がった。綾香が立ち去る姿を見守りながら、追いかけようという気はもうない自分に気づいていた。 |