| 砂時計 第三章 後編
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十一月に入ると、初霜のニュースとともに各地から紅葉の便りが届くようになった。このころになると、さすがに年明けからの受験を意識せざるを得ない状況 に なっていた。 「ねぇ、直樹くん。あさっての土曜日、学祭なんだけど、来ない?」 例によって休憩時間に、美紀はたばこをくわえながらいった。 「美紀さんの大学の?」 「そう」 「う~ん、でもな……」 僕は、先ほど母が持ってきてくれたコーヒーを口にしながらつぶやいた。 「でも、なによ。たまには息抜きしないと……」 「……っていうかさ、ああいうところ、僕、苦手なんだよな。高校の文化祭だって、いやだもん。僕……」 まわりの人が陽気に騒げば騒ぐほど、かえって僕は醒めていく気がした。なにをそんなにバカ騒ぎしているんだ、と嘲笑している僕自身がかえって虚しくなって くる。 「なによ。若いくせに……」 「だってさ……」 「じゃあ、直樹くんが来てくれたら脱け出すから。だったらいいでしょ?」 「えっ? あ、うん」 僕はしぶしぶという感じに答えた。 「そのあとデートしよう。ね、最近、直樹くんと遊びに行くのも遠慮していたけど……。たまには、気分転換も必要よ。ね、約束」 僕はうなずいて、また椅子に坐った。 二時間の勉強がおわると、母に断って美紀を駅まで送りに行った。母が戻ってから、勉強のあと僕の部屋で美紀と一緒に過ごすなどということは当然できなかっ た。また駅まで送るというのも不自然に気がしたが、「暗くて危ないから」と僕は妙な言い訳までして美紀とともに家を出ることを繰り返していた。実家から 戻った母は、何を思ったのか僕の行動にいちいち口をはさむこともなくなった。僕にとっては楽になったのだが、僕のことをどう思っているのだろうかだとか、 逆に母の心の内面を探ることが多くなっていた。 川原の土手沿いの道に出ると、途端に風が冷たくなった。凍てつく風が、僕たちを吹き抜けるという感じで、美紀とともに背を丸くして歩きはじめた。そろそろ 赤く色づきはじめた桜の葉が、風にあおられて舞い落ちてくる。 無言で風にむかって歩いていく美紀の腕をとって、僕はふいに抱きしめた。美紀の冷たい頬に僕の頬を押しつける。風にあたって体温を落とした肌に、感覚は な かなか戻らなかった。そのまま僕は、美紀にキスした。セーターのすそから手を入れて乳房をさがしたが、Tシャツが邪魔をして肌に触れることができなかっ た。苛立つようにTシャツまで捲り上げようとした僕の腕を、美紀がつかんだ。 「直樹くん、あさってデートするんでしょ?」 たしなめるような美紀の顔があった。 「だって……。最近、美紀さんのアパートにも行ってないもん」 僕は、ふくれた子供のような態度を見せた。 「しょうがないでしょ? 受験間近なんだから……。ほら、行くわよ。駅まで送って行ってくれるんでしょ?」 美紀は、素早く服装の乱れをなおすと、諭すように僕の手をとった。 土曜日、僕は美紀の大学に行った。大学のキャンパスには、各サークルで出している店が並んでいて、賑わいを見せていた。 僕は人込みをかき分けるようにして、美紀のテニスサークルで出しているというたこ焼きの店を探した。似たような店が並び、僕は心細くなりながら、それでも 必死に美紀の姿を探していた。 「あのう、美紀さん、呼んでもらえませんか」 僕はやっと美紀の姿を見つけると、たこ焼きを焼いていた男に声をかけた。 男は、ん? という感じに僕を見たが、額に汗を浮かべながら、たこ焼きをひっくり返している。日焼けしていて、いかにもスポーツマンタイプという感じだ。 「あのう……」 聞こえなかったのかなと思った僕は、遠慮がちにまた声をかけた。 「美紀ぃ!」 男は、手を休めず、くいっと後ろをふりかえって叫ぶように美紀を呼んだ。 「あ、直樹くん、来てくれたんだぁ」 美紀は、無邪気な笑みをこぼした。 だって、美紀さんが来いって誘ったんじゃないか……。僕は、そう心の中でぼやいていた。 普段の美紀も、年上のくせにと思うほど、無邪気な態度をとることがある。それがかえって僕をおだやかに構えさせていた。きょうの美紀には、なんだか棘を感 じた。 「誰だよ、美紀」 男が、僕を顎でさしていった。 「家庭教師している先の子。高校三年生」 「ふ~ん」 男はぶっきらぼうにいうと、すばやく焼きたてのたこ焼きをパックに詰めはじめた。ソースを塗りかつお節をまぶすと、肘で美紀を突つついた。 「もらっていいの?」 「私、この子を案内する約束しちゃったから、これでぬけるけど、いい?」 男が、二、三度軽くうなずき、ちらりと僕を見る鋭い視線を感じた。 僕たちは、しばらく活気に満ちたキャンパス内を歩いて、人込みから離れたベンチに腰を下ろした。 「食べないの? たこ焼ききらい? いつだっけ? 桜を見に行った時だったよね。たこ焼き買ってあげようかっていったらいいって……。かわいくないぞ」 春先の川原で、はじめて美紀にキスしたことを思い出していた。 僕は、無言のまま楊枝にさしてたこ焼きをほお張った。やけどしそうで、口に含んだままフーフーと息をする僕を、美紀は笑って見ていた。 「ね、これからどうする? 見ていく? それともどこかに行く?」 美紀の問いに答えず、僕はふたつ目のたこ焼きに今度は用心深く小さく食らいついた。 「なにふくれてるのよ」 「誰? さっきの人」 「さっきのって?」 わざとらしく聞き返す美紀に、僕は苛立っていた。 「たこ焼き、焼いていた人。あの人が、彼氏だった人?」 僕は、『彼氏だった』と過去形を強調した。 「うん、まあね」 美紀は平然と答えた。 「なんか僕のこと、見てた」 「彼がね、また、私とつきあいたいって」 えっ? という思いで、僕は言葉に窮した。美紀に目をやると、涼しげな様子で食べおわったたこ焼きの包みを片づけていた。 「それで、どうする? 見ていく?」 美紀は、また先ほどの問いかけを繰り返した。僕は、だまったまま首をふった。 「じゃあ、行こうか」 「どこに?」 「おもしろいところ」 美紀は、ふふっと笑って僕の手をとった。学祭の熱気から遠のくと、いつもの美紀と僕の関係に戻ったような気がした。 美紀の足は、次第に繁華街へとむかっていた。陽が翳りはじめ、あたりは夜の街へと姿をかえていた。 「どこ行くの?」 「だから、おもしろいところだってばぁ」 美紀は、またふふっと笑いながら僕を促がした。通りを曲がった途端、僕は、あっと息を飲んで立ちすくんだ。そこは色とりどりのネオンが輝く、ラブホテル街 だった。 「たまにはいいでしょ?」 僕は予想もしていなかった美紀の行動に、すっかり動揺していた。全く動じていない美紀の様子に、あのたこ焼きの男とよく来ていたのだろうかなどと、僕の想 像はたくましくなっていた。 「直樹くんが入りたいと思うところでいいわよ」 美紀は涼しげな顔で続けた。 「どこでもいいよ」 僕は興味ないという顔をつくってみせた。 「そう? どうしようかな……」 美紀は僕の腕に手をまわし、ゆっくりと歩き出した。まわりを見ると、大学生くらいのカップルや、OLとサラリーマン風の人、若い女を連れた年配のサラリー マン風の男など、それぞれがすっかりふたりの世界に入っている様子で歩いていた。 「あそこにする?」 美紀が指を差した時だった。 四十代のサラリーマン風の男と制服姿の女子高校生が、むかいから歩いて来た。女の子は、一瞬、僕の姿を食い入るように見たが、すっと目をそらし、男ととも にホテルに消えた。 「……くん、直樹くん? どうしたの?」 「えっ?」 「ここでいい?」 「あ、うん」 僕が見た女子高校生は、綾香だった。美紀に手をひかれるように、僕もホテルに入り込んだ。 たこ焼きの男、ラブホテルに僕を連れてきた美紀、ホテルに入り込んだ綾香。そして、はじめてラブホテルに入る僕。いろいろなことが一瞬のうちに起きて、僕 の感情は麻痺していた。だが受験勉強を名目に、しばらく美紀にほったらかされた僕の身体が、貪るように美紀を求めていた。 「どう? こういうところって……」 仰向けに寝転んでいた僕の額の髪を、美紀はかき上げた。 「すごい汗」 美紀の声が、遠くで響いている気分だった。 「あの男とも来たの? こういうところ」 僕は、暗がりの中、輝く星をぼんやりと見ていた。ピラミッドの脇にらくだが佇んでいた。星の色が、流れる光を伴って変わった。 「なんかさ、非現実の世界みたいだ」 答えのない美紀に、僕はそう続けた。 「……直樹くん。私の就職先って、東京なの」 えっ? と、僕は半ば身を起こした。 「彼も東京に行くっていうから……。だまってて、ごめんね」 「よりが戻ったんだ」 僕はぶっきらぼうにいうと、美紀に背をむけた。学祭であの男を見た時から、小さな覚悟ができていた。そのせいか僕の心は、思ったほど大きなショックは受け ていなかった。 「直樹くんのことも、いいなって好きだなって思ったのも事実よ。でも、直樹くんは来年から大学生。私は、社会人。直樹くんが社会人になるころは、私、二十七歳よ」 「そんな先のこと……」 「考えるものなの。私くらいになると……」 「でも、僕とこういうことしていても平気なんだ」 僕は嫌味っぽくいってやった。 「だから、きょうで最後にしたいの。こういうことするのは……」 唐突に宣言された決別の言葉だった。おもしろ半分な気持ちで僕を誘ったのかだとか、美紀にとって遊びに過ぎなかったのか、と僕の内面はいきり立っていた。 だが、そんな陳腐なセリフは女が口にするようなものだ、と思い直す僕がいた。 美紀のことが好きでたまらないのかといえば、決してそうではない。美紀の身体が欲しいから、感情が伴ってくるというのもちょっと違う。僕は、そんな思いを 振り払い、再び美紀の身体に身を重ねた。 ホテルから出ると、先ほどのやりとりが夢だったのではと思うほど、現実に戻されると倦怠感を覚えていた。無言のまま並んで歩く僕たちに、木枯らしが吹き抜 けていった。 「直樹くん、来週また行くからね。さぼってないで、ちゃんと勉強するのよ」 美紀は、家庭教師の顔に戻っていた。 5 美紀とラブホテルに行ったその夜、受験勉強などやる気にならなかった。久しぶりに机の引き出しから、さやかの写真を取り出して、僕はゴロンとベッドに横になった。三ヶ月ぶりに見るさやかは、妙に幼い気がした。 僕は、さやかと共有した中学三年という時を思い出していた。好きという気持ちすら告白できず、さやかと過ごす時間に、僕の心臓は収縮を繰り返していた。さやかとキスすることを、頭の中では幾度もシミュレーションしているのに、実際の僕はひどく臆病だった。 カタン、カタン、カタン。 さやかとはじめてキスをした、観覧車の音が響いた。と同時に、ラブホテルの非現実的な世界が甦った。さやかと美紀のような関係になれたのかと考えると、なぜか僕の想像はしぼんでしまった。僕にだけ、三年という時が過ぎ去ったことに今さらながら気づかされたのだった。 カタン、カタン、カタン。 中年の男とともに、ラブホテルに消えた綾香の姿が浮かんだ。春、僕と一緒に観覧車に乗った綾香は、今の綾香とは別人のようだった。 ほんの短い時間の流れの中で、人はこんなにも変わるものなのだ。綾香や美紀だけでなく、僕にしても……。 美紀にいわれたことが、今になって僕に重くのしかかっていた。現実から逃避しようとする僕を、美紀はふわりとした心で受け止めてくれていた気がする。美紀と接することで、精神のバランスを保っていた。それにしてもこの三ヶ月間は、なんだか無性に楽しかった。美紀と過ごした日々を思い出しながら、僕はそのまま、眠ってしまったらしい。 早朝に目が覚めると、美紀を失ったという大きな喪失感に襲われた。空虚な僕の心の中で、カタン、カタン、カタンという音だけが響いていた。僕は起き上がると、窓を開けた。霧の立ち込めた眠った街の空気が、僕の部屋に入り込んできた。枕元に転がっていた写真立てに気づき、棚に置いた。写真のさやかと目があった。さやかの笑顔は、靄がかかったように遠い日の記憶のようだった。 日曜日のその日。僕は、急に思い立って、午後から真波のマンションへと足を運んだ。浩一から渡された二万円のことがずっと気になっていたこともあったが、やはり勉強に手がつかないというのが本音だった。 いるかなと思いつつチャイムを押すと、真波は顔を出した。 「直樹……。どうしたの?」 僕の訪問が思いがけなかったようだ。 「ちょっといい?」 真波がドアを開けた時、僕は部屋の奥を覗くように見た。 「なによ」 僕の行動が気に障ったのか、真波は棘のある口調だった。 「あ、彼氏は?」 「ひとりよ」 真波の言葉に安心して上がり込んだ僕に、手早く紅茶を入れてくれた。 「真波ちゃん、これ……」 僕は、ジャンバーのポケットに入れてあった二万円を差し出した。 「なによ、このお金」 「浩一が、あ、あの川原での……。返してくれって、僕、夏休みの終わり頃から預かっていて……。遅くなっちゃったけど……」 「それでわざわざ来てくれたんだ」 お金を返さなくちゃというより、真波の顔を見たいという思いがあった。 「直樹、また何かあったの?」 真波は、僕の家のことを心配しているようだった。 「とにかく、これ」 僕は、真波の前に二万円を突き出した。 「もう、会うことないのよ。あの人には……」 えっ? と息を飲んで、僕は、腕をゆっくりひっこめた。 「どうして?」 「別れたの。ひと月くらい前にね」 夏休みにカレーを作りに来てくれた真波は、『いろいろある』から別れられないといっていた。 「何かあったの?」 今度は、僕が真波にたずねる番だった。 「なんかね、直樹のところ見ていたら、そんな気になったのよ」 ひとりごとのように、真波はつぶやいた。 「宏さんの家がどうのというより、なんだか面倒になってきちゃって……。このままあと一、二年つきあっていても、同じような日を過ごしていそうだし……」 「あの人のこと、もういいの?」 「いいっていうか、ひとりでいるより一緒にいられた方がいい。でも、どうしても宏さんじゃないと駄目ってわけじゃないし……。もう五年くらいのつきあいだしね。まあ、このへんが潮時かなって」 二ヶ月半という時は、真波も変えていた。 「もう会わないの?」 「男と女はね、別れたら他人になるの」 「他人?」 「別れたからって、つきあいはじめる前の最もいい状態になんか戻れないのよ」 真波の言葉に美紀のことを想うと、無性に寂しさを覚えた。 「僕、ふられちゃったんだ」 思わずつぶやいていた。 「誰よ? クラスメート?」 「家庭教師に来ている人」 「……直樹も、なかなかやるわねぇ」 僕の心をよそに、真波は感心した様子だった。 「まあ、わかんなくはないけどね。その人の気持ち。純粋な恋愛ができるのってね、中学や高校くらいの気がするんだ。好きという感情だけが優先しているか ら。大学四年くらいになれば、就職のこと、その先のこと、いろいろ考えることがあるのよ」 真波の言葉に、どこか迫力を感じていた。僕よりも十歳近く余分に生きている分、言葉に重みがあった。 「じゃあ、ふたりのこれからの人生のために、ぱあっと飲みに行こうか」 僕は思い出し笑いを浮かべた。いつだったか美紀も同じことをいった。 「僕、一応未成年だよ」 「十八歳未満おことわりは、卒業したんでしょ? あと女についても勉強できたでしょ?」 からかうような真波の口調に、えっ? と、僕は照れて身をひいた。 火曜日、家庭教師としての美紀がやって来た。別れたら他人になるという真波の言葉に、僕は身構えて美紀をむかえた。美紀は、僕の緊張した面持ちを悟ったの か、今までと変わらぬ様子で、テキストを開いた。 休憩時間には、棚にある灰皿を取りに行き、僕のベッドに腰をおろし一服した。 「写真、また出したんだ」 「えっ? ああ……」 僕は美紀と何を話してよいのか戸惑い、うつむいた。さやかの写真を弁解する言葉もでなかった。美紀は、そんな僕を見て、ふふふっと笑った。僕は、美紀の笑 い声に腹がたち、美紀をにらむように見た。 「なによ、その目……」 目をそらし、ぷいっと立ち上がり椅子に腰掛けた。 「また、しかめ面に戻っちゃったか……。私、直樹くんのこと、今でも好きなのよ。でもね、彼とやり直すって決めたから。身勝手かもしれないけれど、このま まふたりとつきあうってわけにもいかないでしょ?」 結局、美紀はあのたこ焼きの男を選んだのだ。短いながらも僕と親密だった時期だってあったのに、わるびれた様子もなかった。 「あの男とも、ああいうところ、行くの?」 僕は、背をむけたまま口を開いた。 「ラブホテル? たまにはね……」 美紀は、そういうと僕の傍らに来てテキストを指差した。再び、家庭教師の美紀に戻っていた。 「ここまで来たら、最後まで、直樹くんの面倒みるわ。受験失敗したら、半分くらい私に責任あるものね」 僕は、美紀との関係がちっとも以前と変わらない様子にほっとした。だが、一方でそんな美紀の態度に、かえってせつないものがこみ上げてきていた。 実際、美紀との関係は、時間がたつにつれて、やはり終わったものだと身をもって感じるようになった。にじみ出るように、そんな感情に支配されてきた。美紀 のことを察する僕の心は、古い蛍光燈のように反応が鈍かったのだ。 週に二度、家庭教師としてやってくる美紀は、二時間と決められた時間内は、以前と変わらぬ様子だった。他愛もない冗談や、僕が不機嫌そうな顔をしている と、かつてのように僕をからかったりした。だが、二時間という時間が過ぎると、僕が駅まで送るというのも拒んだし、戯れた僕の態度がいきすぎると、途端に 困った様子で僕を諌めたりした。 ゴムボールのようにはずんだ僕の心は、美紀に受け止めてもらえず、逆に跳ね返されて、いくあてもなく力尽きて無造作に転がっていた。僕は、再び悶々とした ものをかかえるようになっていた。 美紀に別れの宣言をされて、二週間がたった頃だ。家庭教師の美紀も、その後四回僕の家に足を運んだ。二時間の契約時間内だけは、美紀が以前のままの様子であるのは、それだけ美紀が大人であるからであり、受験を控えている僕に気を使う責任感のためだと、ようやく僕も気がつきはじめた。 カタン、カタン、カタン。 受験勉強の合間にも、軋むような空虚な音が僕を支配していた。僕は、直面した現実から逃れたいという思いで、綾香のケータイに電話した。 「もしもし……。もしもし?」 綾香の声に、僕はだまりこんだ。 「直樹くんでしょ?」 自宅からかけていたから、多分、ナンバー表示でわかったのだろう。 「直樹くん?」 再度、綾香が僕に問いかけた。 「……出てくれないと思った」 「あたし、そんな意地悪じゃないわよ」 甲高い笑い声がした。 「……会いたいんだけど……。駄目?」 なんだか僕は、妙に弱気になっていた。自分から突き放すようなことをしておいて、虫のいい話だ。 「いいよ」 綾香は、即答した。ほっとする反面、以前は感じなかった綾香の軽さを感じた。だが僕は、美紀によって出来た空洞を埋めるなにかが欲しくてたまらなかったの だ。 日曜日、綾香と待ち合わせの公園に行った。綾香の寮からほど近いその公園に訪れるのは、綾香とはじめてキスして以来だった。噴水の前のベンチに腰を下ろして、僕はぼんやりと飛沫の上がるのを見ていた。 「……直樹くん?」 さやかの声にそっくりな懐かしい声だった。僕は声の方を見た。綾香は、夏休みに親父さんとともに寮に押しかけた頃の姿で、僕の前に現れた。ホテル街で見かけた綾香。夏以来の時間は、綾香も変えていた。ガングロで金髪姿の綾香とまともに話をするのは、きょうがはじめてだ。 ミニスカートからすらりと脚が伸びていた。 「直樹くん、寒いよ。喫茶店、行こう」 綾香は、僕の腕をつかんだ。夏休み前のいざこざがなかったかのように振る舞う綾香に、僕は戸惑っていた。ブーツを履いて、右に左にと交互に伸びる脚を見な がら、僕は後について歩いていた。 喫茶店に入って、綾香の真向かいに坐ると、かえって落着かなくなった。 「今時の女子高校生になっちゃったな」 何か話さなくちゃと思った僕は、そう口を開いた。 「お姉ちゃんに似てるなんて、もう思わないでしょ?」 「思わない、全然」 僕のコメントに、綾香は肩をすくめて笑った。そんな様子を見ると、やはり綾香なんだと思う。だが、次の綾香の言葉に愕然とした。 「どうしたの? あたしとエッチしようと思ったから電話してきたの?」 僕の全く知らない綾香が、顔を見せた気分だった。 「いや、そういうつもりじゃなくて……」 ぽっかりと穴のあいたような僕の心が、綾香のことを思い浮かべたことは事実だ。 「じゃあ、何? またパパになんかいわれたの? それともお説教でもしにきたわけ?」 急に綾香は問い詰める口調になり、僕のその勢いに閉口した。 「どうして何もきかないのよ。あんなところで会ったのに……」 「援助交際、してるのか?」 綾香とホテルに消えた中年の男を思い出していた。援助交際といえば聞こえがいい。だが、援助交際という名の売春に過ぎない。 「そうよ。別にホテルに行かなくたって、食事だけだってお金くれるしさ……。エッチなんてたいしたことないもん。ベッドで寝ているだけで、お金もらえるなんて、あんな楽なバイトないもん。あたしの上でグテーとなったトドみたいなロリコン親父のアホ面みて、心の中じゃ笑ってるの」 僕の全く知らない綾香だった。 「そんなことしなくても、金には困らないだろう?」 「お金ならパパが送ってくるもの。これ以上、世間体のわるいことをされたら困るって。東京にも連れて帰れないからってね」 綾香は、甲高い声で笑った。隣のテーブルにいるサラリーマン風の男が、僕たちの方をじろりと見た。 「そうか……」 「そうかって、それだけ?」 「綾香ちゃんが、ここまで変わったのって、僕のせいかなって思ってさ……」 綾香は、ストローでオレンジジュースをかき混ぜていた。氷の音が、僕たちの間で響いている。 「僕さあ、変わったのは外見だけかなって思ってた。前の綾香ちゃんに、会いたかったんだ」 援助交際をしているという綾香に、僕は特に嫌悪感はもたなかった。というのは、美紀とともにホテルに行くような関係になっていたという事実や、さやかの面影を綾香に重ねていたことが根底にあったからかもしれない。一方で、平気で援助交際をしている綾香を、そうすることで自己表現することしか方法をもたない綾香を、かわいそうだとも思っていた。綾香は、僕にとって身近な女の子だったからだ。世間の女子高校生がどうのというのでなく、綾香が援助交際をしているという事実には、少なからずショックを受けていた。 「もううんざり。前のあたしになんか、戻りたくない」 綾香が息をついた時、綾香のケータイが鳴った。話っぷりから、相手は男のようだった。待ち合わせの時間を決めているようだった。 「どうして援交なんてするんだよ。金が欲しいわけじゃないだろ?」 「どうしてって? うんざりしたからじゃない。前のあたしに……。パパや ママも、直樹くんも、ことあるごとにお姉ちゃんと比べて……。死んだ人になんか、 永遠に勝てっこな い」 綾香の表情が翳りを見せた。 「おじさんだって、さやかとついつい比べて綾香ちゃんを傷つけたっていってたよ。僕にしても、綾香ちゃんにさやかを見ていたところもあったと思う。ただ、僕たちがつきあいはじめたのが少し早かったんだと思う。それに、こんなに簡単につきあっちゃ、いけなかったんだと思うんだ」 さやかと出会ってから、好きだと告白したり、キスしたり……。僕は、心臓の収縮を繰り返しながら、カメのようにスローテンポで歩いてきた。だが綾香や美紀 のことを考えると、このごろの僕は、むやみに突っ走り過ぎたという気もする。 「そんなことをいうために、わざわざ電話してきたわけ? あたしが何をしようが、もう直樹くんには関係ないでしょ? 彼女でもないんだしさぁ……」 綾香は、心を閉ざしたままだった。 「……美紀さん、前の彼氏のところに行っちゃったんだ」 僕は、綾香に会いたいと思った正直な気持ちを話した。だが、綾香はくすっと笑った。 「ふられちゃったんだ。年上の彼女に……。ホテルまで行っておいて……」 「だから、なんか寂しいっていうか、綾香ちゃんに会いたくなってさ」 僕の本音だった。 「バカにしないでよ。あたしのことふったの、直樹くんだよ。自分がふられてひとりになったからって、それであたしのところにくるわけ? あたしね、お姉ちゃんが骨髄移植して入院している頃から、二年以上も前から、直樹くんのこと好きだった。それなのに直樹くんは、あたしを通していつもお姉 ちゃんを見てた……」 美紀に出会ってからの僕は、写真のさやかに幼さを感じるほどの隔たりを覚えていた。だが、綾香と僕の時間は、いまだにさやかを介して滞ったままだった。 「あたし、もう行くよ。時間がないから……」 綾香は腕時計を見ると、立ち上がった。 |