青い島のひだまりで

セピア色の記憶 第四章 軽井沢

セピア色の記憶 第四章
軽井沢


 夏休みは、最悪の状態からはじまった。修と終業式以来、会うこともなく、七月が終わろうとしていた。
 淡い期待をしていたものの、修はベランダからガラス窓をノックすることもなかった。ベランダに立ち、部屋からもれる灯かりで修の存在を確認する。修が顔 を出すかもしれないという思いも、ことごとく裏切られている。こんなに近い距離が、修を最も遠い存在にさせていた。 ドアをノックする音がした。
「だれ?」
パパかママにちがいないのだが、それでも部屋に入りこまれるのはわずらわしい。パパは、当然のことのように部屋に入りベッドに腰をおろした。
「受験勉強はどうかな?」
無言のままでいる玲奈を気にする様子もなく、パパはノートをのぞきこんだ。
「そんなふきげんそうな顔するな」 背をむけたままの玲奈の頭を、軽くポンポンとたたいた。
「玲奈、この夏なんだがね、来月に入って二泊くらいで軽井沢に行かないか?」
「軽井沢?」 軽井沢? 次の瞬間、玲奈は祐一のことを思い出した。
「二泊くらいなら、受験への影響はないと思ってね。どうかな?」
毎年、夏には家族旅行に行っている。玲奈が小学生のころは、北海道や沖縄まででかけた。中学になってからは、部活もあり、一泊二日程度の旅行になってい た。それに、学年が上がるごとに、パパたちとともにでかけるのが、妙に重苦しい気がしてきていた。
「修くんのパパがね、会社の別荘を安く借りられるそうなんだよ。ホテルじゃないから、食事は自分たちで作るか外食になるし、すべてセルフサービスなんだけ ど……」
「修の? 修たちも一緒に行くの?」 修というひとことに、玲奈の心は大きく反応した。
「あたりまえだろ。修くんのパパからの誘いなんだから。修くんにしても、玲奈にしても、いい気分転換になるだろうからって」
子供のころは、よく一緒にでかけていた。パパは修のパパと気があって、休みの日には、釣りに行くことがある。そしてママたちも、ショッピングに行ったり、 お菓子作りをしたりと仲良しなのだ。だから自然と家族ぐるみのつきあいも多く、小学生のころは、旅行やキャンプなどにもでかけていた。
「修も行くの?」
玲奈は、再び確認するように聞いた。
「もちろんそうだろう?」
修が行くのなら、行きたい。修と仲直りするきっかけをもちたいという気持ちと、一方でまたぶつかってしまうのではという不安とが入り混じった気分だった。
 軽井沢へ行くのは、八月の五、六、七日と決まった。その日まで、玲奈は修に会うこともなく、出発当日をむかえたのだった。
修のパパが運転する車のあとに、玲奈のパパが運転する車がついていく。
「玲奈、修くんのパパの車じゃなくってよかったのか?」
パパがバックミラーで、玲奈をのぞきこんだ。
「どうして?」
「子供のころは大騒ぎだったわよね。修くんも玲奈も、一緒の車に乗るって。行きは修くんのうちの車、帰りはうちの車……なんて乗せたりしてね」 答えたのは、ママだった。
「玲奈、あのころパパたちは、こう話していたんだよ。修くんと玲奈が結婚したら、あの二軒の家を壊して、大きな三世帯住宅を建てる。例えば、一階がパパと ママ。二階が修くんのパパとママ。三階が修くんと玲奈。そんな感じにね」
「あのね、パパ。わたしにだって、修にだって、選ぶ権利ってものがあるの。それに、わたしは、まだ十五歳」
「権利ねぇ……」
ふふふ、とママが笑う。続けてパパのにやりとした目元が、ミラーに映る。
「なによ」
「子供だと思っていた玲奈や修くんが、こんなに大きくなったんですから、わたしたちも年をとりますね、パパ」
ママは、玲奈の問いには答えなかった。
「玲奈、女は十六歳で結婚できるんだぞ」 十六歳、結婚。また、祐一のことが脳裏をかすめる。
「あら、あなた。修くんは、玲奈と誕生日が同じなんですから、十八歳にならないと駄目よ。いくら玲奈がよくっても」
「おお、そうだな」
パパたちの会話にあきれ、ふうっと玲奈は大きなため息をついた。車は、木々の緑がまぶしい山間を走り、さわやかな景色が玲奈の目にとびこんできた。
車は、軽井沢駅前を通り過ぎ、旧軽のからまつ林の中へ入っていった。
「なんかリゾートって気分ね」
ママは、すっかり優雅な気分にひたっている。
からまつ林の間に、整備された細い道が網目のようになっている。道より奥まったところに別荘が、木々の間から顔をのぞかせている。しばらくして、車は、道 からはずれ、ある建物の前で止まった。
「すごーい」 車から降りて、玲奈は、気にかけていた修の存在よりも先に建物に目がいった
。 「バブルの時期に、役員クラスの連中が使うようにと買ったらしいんだが……。今じゃ、維持費がかかって、だったら社員に格安でも利用してもらった方が、多 少でも元がとれるのではと考えたらしいんだ」 上品で奥ゆかしい洋館だった。
「なんか中世ヨーロッパのお城みたい」
「なんだよ、行ったこともないくせに」
気がつくと、修がとなりにいた。
「おっす」
「久しぶりね」
終業式以来の修に、玲奈はどきりとした。あれこれと気をもんでいた、出発前の修への思いは、杞憂に終わったのだった。
ひんやりとした風が、玲奈のほおを打った。



はっと気づくと、そこは鏡の前であった。すっと、ブラシが髪をすべりおりた。
チチチチチッ。
野鳥の声に、目をむけると、まぶしいくらいの木もれ日が降り注いでいた。
真琴の世界?
玲奈は、髪をととのえると立ち上がった。その瞬間、コトリといすが床で音をたてた。セピア色にくすんだ空間に、玲奈はひとりいた。
「祐一さん?」 いつも傍らにいるはずの祐一を探し、ベランダへと出た。
祐一は、真琴の部屋にいなかった。部屋の片隅には、真琴をモデルの絵が描きかけのまま置かれていた。モデルになった日から、どのくらいたったのだろう。絵 は、玲奈がのぞきこんだ日よりも、描きすすめられていた。
ピッポ、ピッポ、ピッポ。 三時を告げる鳩時計。
「そうだ、お茶に行ったのかも」
いつの日だったか、祐一と三時のお茶に行こうとした瞬間、夢からひきもどされたことを思い出した。祐一がいなければ、少しこの世界を探検できるチャンス だ。玲奈は、木彫りのようなデザインの施されたドアを押した。ひんやりしたよどんだ空気にふれた。廊下をほんの何歩か歩くと、黒光りした木の手すりがつい てい る階段があった。階段には、中央に赤いじゅうたんが敷かれている。つきあたりの窓は、色鮮やかな幾色ものステンドグラスで、デザインされていた。 部屋の外に出るのは、祐一と泉にでた日以来だった。今日は玲奈ひとりなので、注意深くまわりを観察していく。
ふかふかのじゅうたんの踏みごたえを足の裏で感じつつ、一階に降りた。左手は、玄関。右手に扉。この部屋に入ってみようと、玲奈がドアに手をかけたとき、 中からヒステリックに口論する声がした。
「祐一さん、困りますよ」
祐一の答える声は聞こえない。
「はぁ、ではありませんよ。そりゃあ、あなたのように、まわりに女の方もたくさんいる環境で、大学生でそれなりの家柄の坊ちゃんなら、女の方だって寄って くるのはわかりますよ。それにね、うちの真琴は、まだ十五歳で、祐一さんのお相手は充分にできないのもわかっております。ですけどね、あなたには真琴の許 婚としての自覚がたりないのではと、わたくしは申し上げているのです。あの子だって、子供とはいっても、傷つきやすい難しい年頃です。祐一さんとつきあっ ている、お腹に子供がいるなんて電話、真琴がとったら、どうするんですか?」
長々と、祐一に説教しているのは、真琴の母親らしかった。
女の方、電話……。子供?
玲奈は、血の気がひき、すうっと冷たくこわばっていくのを感じていた。玲奈も確かに聞いた、絵ばっかり描いている祐一を相手にしてくれる女性などいないと いう言葉。おだやかでやさしさに満ちている、玲奈の知っている祐一。 その瞬間、扉が開いて、祐一が玲奈の前に立った。
「真琴……」
玲奈の目が、祐一の姿をとらえたとき、反射的に身体が階段をかけ上がろうとする、強い力を玲奈は感じた。
「真琴!」
祐一に腕をつかまれ、玲奈は顧みた。
「はなして」 ぱたんと大きくまばたきをした玲奈の目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「祐一さんなんて、大きらい!」 祐一につかまれた腕を大きく振り切った。そして、再び玲奈を捕まえようとした祐一の指先が、左手の甲をかすった。
左手にやけどに似た痛みを感じた瞬間、玲奈は深い谷底に落ちていく感覚を覚えた。



ここは、どこ?
玲奈は、ベッドから起き上がり、きょろきょろと様子をうかがった。見なれない部屋が、軽井沢の別荘だったことを思い出した。
別荘の中に入り、四部屋あるベッドルームのうちの一室。玲奈のパパとママ。修のパパとママ。そして、修と玲奈は、ツインルームをひとりで使うことになった のだった。荷物の整理をしていて、ベッドに寝転んでいて、うたた寝をしてしまったらしい。
玲奈は、壁にかけられた時計を見た。時計は、わずかばかり時を刻んだだけだった。三時をまわったばかりだ。
「玲奈……、玲奈」
「なに?」
ママの声にドアを開ける。
「修くんと一緒に軽井沢銀座まで行って、買い物してきてちょうだい」
 「買い物? だって、来る途中スーパーに寄って、バーベキューのお肉や野菜、飲み物だって買ってきたじゃない」
「違うのよ、パンとジャム。テレビにもでていたパン屋さんとジャム屋さんがあるのよ」
「パンにジャム?」
玲奈はまゆをひそめながらいった。 そんなもの、どこで買っても同じなのに……と、さめた目で見る玲奈がいた。
「修くんに、地図渡してあるから。歩いても二十分、迷っても三十分あれば着くから。もやし受験生には、絶好の森林浴よ。六時までにもどってくればいいか ら、少し散歩もかねて遊んできなさいよ」
 ママのうしろには、修が立っていた。
「修、あんた、道、わかってんの?」
「知ってるわけねーだろ、はじめて来たんだから。でも、おやじがいってたよ。この道、まっすぐ行けばいいって」
高いからまつの木にさえぎられて、ひんやりした空気の中をふたりは歩いていた。時折、決して広いとはいいがたい別荘地の道路を、車がスピードも落とさず走 り抜けていく。
「あぶねーな……。ったくよ」
修は、ひとりごとをいうと、さっと玲奈と場所を変わった。玲奈は、自ずと修よりも内側を歩くことになった。
「へぇ、なかなかレディーファーストの精神してるじゃない」
「玲奈がとろいから、変わってやったんだよ」
修とふたりで歩くなんて、久しぶりだ。中学生になって、一度もなかった気がする。小学生のころは、一緒に遊ぶという感覚だった。だから、多分男の子として 意識してからはじめてのことになるだろう。
あらためて修を見る。背が伸びて、少しと上目使いに見る感じ。二年生のころは、同じくらいだった。一年生のころは、玲奈の方が高かったはずだ。
「玲奈、ちょっとこっち行ってみようぜ」
「どうしてよ」
「探検だよ。六時までに帰ればいいんだろう? まだ時間、たっぷりあるしさ。こっちの舗装された道は、車が通るから危ないしよ……。行ってみようぜ。とに かく、あっち……」
と、修は進むべき方向に指をさし、
「……に進めば、軽井沢銀座には出るわけだ。それにさ、俺たちの別荘は、さっき通ってきたリゾートホテルが目印だろ」
と、続けた。
 「でも、修のパパがいってたでしょ。別荘地は、奥に入ると道が複雑だって」
「大丈夫だよ。……玲奈は、変なところ神経質なんだよな。行こうぜ」
修は、玲奈の左手首をつかんだ。祐一の手を振り切った感触が、よみがえってきた。玲奈が修に従って歩き出したとき、修は、はっと気づいたように手を放し た。
舗装していた道からはずれると、土の感触が靴を通していても心地よい。車が入り込めない道で、それでも、時折サイクリングしている人が玲奈たちの横を通り 過ぎる。
門が南金錠で閉ざされている別荘や、手入れのされぬまま姿をとどめている別荘がある。表札らしきものがかかげられた建物や、番地らしき数字のプレートが傾 いたままになっているところ。玲奈たちは、その間を縫うように歩いていた。それでも、夏で避暑に来ているらしい別荘と、人の気配を全く感じられないままの 別荘など、いろいろだった。
そんなまわりの様子にも慣れてくると、かたわらにいる修と、口を閉ざしたままであることに気がついた。修は、この沈黙を特に意識することはないらしい様子 だ。
「修、この前は、ごめんね」
「この前?」
突然、現実に戻されたかのように修はききかえした。
「……プールで」
「あ、そのことか……」
あらためて思い出したらしかったが、修は、言葉を続けなかった。
また沈黙が続いた。意識してしまうと、この沈黙は重苦しいものでしかなかった。すがすがしい空気も、木々のざわめきも、この静寂も、かえって重苦しさとし て増すようだった。確かに、昔のままの修と玲奈ではない。その違和感を玲奈は確信した。それは、ふたりがが大人になりつつある頃から、起こりはじめた違和 感だった。
「オレも……わるかったよ」
次に沈黙を破ったのは、修だった。
修とは、もう昔のようになれない。昔と変わらぬことを錯覚できるのは、互いをからかうような、ささいな会話がはずむ時でしかない。
また再び、思い沈黙の時が訪れた。玲奈は、修もこの沈黙を意識していることを、身体中で感じていた。
ミーン、ミーン、ミーン、ミーン、ミーン。
突然、からまつ林のどこからか、セミの声が響いた。高い木々に閉ざされた地に、かっと照りつける真夏の太陽の光が差し込んだかのようなセミの声だった。
「修!」
鋭い玲奈の声に、一歩先を歩いていた修が立ち止まりふり返った。
「修、来て」
玲奈は、修の手をつかみ、ぐいぐいと引っ張るようにして歩き出した。
「どうしたんだよ」
「わたし、ここ、来たことあるの」
「だって、おまえ、軽井沢はじめてなんだろ?」
「でも、知ってるの、ここ」
玲奈は、身体中で感じていた。木々が風にそよぐ音、素朴な自然の香り、木々の間から降り注ぐ夏の光、冷たい空気。
「修、来て。……ここを行くと泉があるから」
なにかに憑かれたように歩く玲奈に、修は無言のまま従った。小道をぬけると、泉があった。
「修、来て。……こっちにいくと、レンガ造りの洋館があるから。ツタが、二階のベランダにまで巻きついているの」
玲奈のいうとおりの一角がそこにあった。
「どうして? どうして、ここにあるの?……軽井沢だから?」
玲奈はつぶやきながら、玄関のドアに手をかけた。その洋館は、鍵がかけられていた。
「玲奈!」
修の声で、はっと我にかえった。
「修……こわい……」
青白い顔で、玲奈は、修を見た。
「どうしたんだよ、一体」
「寒い……修」
修は、腰にまいていた長袖のシャツを玲奈の背にかけた。次の瞬間、玲奈は、がくんと力なく修の胸に倒れこんだ。
「大丈夫だよ、俺がいるから」
トク、トク、トク。
しばらくして玲奈は、リズミカルな鼓動に、はっとした。
「修……」
「具合、わるいのか? 玲奈」
「ううん」
トク、トク、トク。
「修の心臓の音……」
「はぁ?」
「心臓の音が聞こえる、修の」
「あたりまえだろ、生きてるんだから」
照れかくしのせいか、修がおどけた様子でいう。
トックン、トックン、トックン。
それに答えるような玲奈の鼓動。
「玲奈の心臓だって、動いている」
玲奈の頬に赤みが戻り、冷たくこわばった身体が暖かみを発してきた。
「大丈夫か?」
うなずくとそっと修から離れ、玲奈は確認するように洋館の左手にまわった。その二階の窓は、ステンドグラスになっていた。
「玲奈、ここ、使われてないようだな。長い間……」
修は一階の窓から、中をのぞきこんでいた。
「ほら、見てみろよ。ここ居間か応接間みたいだけど、ソファーもボロボロ。部屋中ほこりで真っ白だし……」
修の言葉で、玲奈も背伸びをしてのぞきこんだ。
「デジャヴュウっていうんだよ、そういうの。既視感っていうやつ。前世の記憶っていう説もあるけれど、断片的な記憶がつながって、見たこと、行ったこと、 したことがあるという錯覚を引き起こすんだって。前、テレビでやってたぞ」
「違うの、修。ここに、来てるの。だって、ここに着く前にいったでしょ? 泉があって、ツタのからまるレンガ造りの洋館があるって」
「そういわれると……そうだよな。でもさ、玲奈、軽井沢なんてはじめてなんだろ? 玲奈んちのおじさんもそういってたよな。いつ、来たんだよ。だって、見ただろう? ここもう何年もの間、使われていない感じだろ?」
「修、わたしのこと、信じてくれる? バカにしたり、笑ったりしない?」
「しない。約束するよ」
「だったら、今夜、話す。パパたちが寝たら、わたしの部屋に来て」
玲奈の言葉に、修のほおは赤らんだ。
「修のスケベ! そういうこといってるんじゃないんだってば! ただ、ちょっとややこしい話だから、おちついて話したいのよ」
「わかったよ」
「あっ、修、急いで行かなくっちゃ」
「どこへだよ」
「軽井沢銀座に決まってるでしょ? パンとジャム」
急に現実に引き戻されたかのような玲奈に、修は拍子抜けしたかの様子だった。
「ああ、そっか」 玲奈たちは、脇道から表通りに出て、軽井沢銀座へと向かった。



「真琴、まだ怒っているのか」
背後から祐一の声がした。ペンを走らせていた手の動きがとまった。同時に玲奈はここが真琴の世界であることを悟った。
祐一に、つきあっている女性がいるらしいこと。その女性から、真琴の家に電話があったらしいこと。
あの階段で……。真琴である玲奈の腕をつかんだ祐一。真琴は、この状況を、知っているのであろうか。今は?
あれから、どのくらい時間がたっているのだろうか。
玲奈は、窓に目をやる。もう、すでに真っ暗である。机の電気スタンドだけの明るさでは、鳩時計の時刻は見えなかった。 あの日の夜? それとも別の日? 真琴の運命は、玲奈にゆだねられている。玲奈は、自分が選択する行動によって、真琴の運命を変える可能性があることに気がついていた。あくまで真琴と玲奈 は、別の感情をもつ人間である。必ずしも玲奈の行動が、真琴の意にかなっているとは限らない。 インクの文字がにじんだ。 涙? 真琴の涙……。 顧みようとしない玲奈に、祐一が静かに歩み寄る気配がした。無意識のうちに、パタンとそのノートの厚い表紙を閉じた。
日記……。真琴は日記を記していたのだ。これを読めば、真琴の気持ちはわかる。玲奈がそう悟ったとき、祐一の手が玲奈の肩にふれた。
「おばさまから、聞いたんだろ?」
はじめて感じる祐一と真琴の、重い沈黙の時であった。その沈黙は、玲奈が最近感じていた修との沈黙とは、また違ったものであった。
「悲しませて、わるかった」
修とのささいな感情の行き違いの毎日。そんな玲奈に比べて、祐一に暖かくつつみこまれ、愛され、おだやかなぬくもりの中に真琴はいるものと思っていた。疑 いもしなかった日々が、突然大きな波に飲まれた感じであろう。
「たしかに、この別荘まで、彼女は電話をしてきたらしい。彼女は、大学の仲間で、よく遊びにもでかけていたんだ。僕は、彼女とつきあっているつもりなどな かった。彼女は、僕に限らず、他の男とも気軽につきあうような人なんだ。だから……」
「わたしも、今の祐一さんと同じくらいの年になったら、軽い気持ちで男の人とつきあったりできるようになるっていうの?」
「そうはいってないさ。ただ、そういう彼女や僕の気持ちもわかるようにはなるかもしれない、といってるのさ」
「その女の人、そんないい加減じゃないんでしょ? だって、祐一さんのこと、好きだから電話してきたんでしょ?」
「違うよ。彼女は少し変だ。そりゃあ、食事にだって何度か誘ったし、でかけもしたさ。だけど僕のところならともかく、真琴の、しかもこの別荘にまで電話を してくるなんて異常だ。してもいない妊娠をした、と騒ぎたてて」
「ストーカーなの?」
少しレナの身体がおちついてきた。
「ストーカー?」
 おうむ返しに祐一が聞いた。
「うん」
「なに? ストーカーって?」
祐一は、なんのことだかわからないという顔をした。
「なにって、今、多いんでしょ? 好きだと思いこんだ人のこと、ずっとつけまわして……。待ち伏せしたり、しつこく電話したりする……」
「そういうのをストーカーっていうのか。今時の中学生にはやっている言葉か?」
「もう、祐一さん、何いってるの? テレビのニュースにだって、出てくるでしょ?」
「そうなのか? ま、いいか。真琴にやっと笑顔が戻ったから」
真琴の涙は乾いていることを、玲奈は知った。
「でも、祐一さんが、その人に誤解させるような行動をしたわけでしょ? それとも、その人のことが好きなの?」
「いや……その……」
祐一は、しどろもどろになりながら、頭をかいた。
「どう答えても、真琴にはいい結果にならないだろ? 誤解させるような行動、つまり遊びだったといっても、僕という男をいいかげんなやつだと思うだろう し……。また、本気で好きだったといったらいった で……」
「……悲しかった。祐一さんは、絵を描いてくれる時のように、わたしのことだけを見ていてくれると思っていたのに……。悔しかった。大学生の女の人の話を 聞いて……。わたし、祐一さんのこと、好きなのに。毎日、祐一さんのことばかり考えているのに。それなのに、祐一さんは、わたしのことを妹のようにしかみ てくれないもの。恋人だっていったのに。大切にするっていったのに。……うそつきなんだから」
ほとばしる真琴の感情に、玲奈は素直な一途さを感じていた。 ふうと祐一が、大きなため息をついた。
「また泣かしちゃったな……。一週間ぶりに、面会が許されたというのに」
腰掛けたまま背をむけている玲奈を、祐一はそのまま背後から椅子ごと抱きしめた。
「一週間?」
「夏休みがね、終わってしまったらどうしようかと思っていたよ。真琴にきらわれたまま、東京に戻らないといけないんじゃないかと、ね」 修にはなく、祐一にはあるおだやかさは、それだけ祐一が年をかさね、女の人への接し方にも慣れているからだろう。
「絵ばかり描いている大学生、女の人になんか相手にされない……。そういってたのに」
「僕が?」
「そういったでしょ?」
「そうでしたか?」
「そうやってとぼけるんだから」 祐一は、苦笑いを浮かべていた。
「ただね、今回のことで、気がついたんだ。僕が思っている以上に、真琴は大人なんだということ。僕自身が十五歳の時は、もっと幼かった気もするんだけ ど……。十五歳は、決して子供ではないんだ、とね」
真琴には、玲奈とは別のせつなさがあったのだ。玲奈にとって絵里の存在。修のあいまいな態度。そして、その狭間で揺れている玲奈自身。だが、真琴にとって は、年上の大人の女性。信じきっていた祐一の、真琴の知らない顔。人を好きになる気持ちは変わらないから、玲奈にも真琴の気持ちはわかる。それは、真琴の 身体を通して、切々と玲奈に響いてくるのかもしれない。
「真琴、久しぶりに泉に行かないか?」 玲奈がうなずいたとき、いつものように深い底に沈むような感覚に陥った。


 5
 コン、コン。
 玲奈が目覚めると、ほぼ同時にドアがノックされた。
「なんだぁ、寝ちゃってたのかよ」 修が入ってきた。
「起きてたんだけど……」 そういいながら、玲奈は起き上がりベッドに腰かけた。
「おやじたちさ、なんか盛り上がっちゃって、やっと寝たんだぜ」 玲奈が時計に目をやると、午前二時だった。
修は、玲奈の向かいになるように、ツインルームとなっている、もう片方のベッドに腰を降ろした。
「で、昼間のことなんだけどさ……。玲奈、目、覚めたか? あ、オレ、コーヒー入れてやろうか?」
玲奈のボーッとした様子を察して、修は、インスタントコーヒーを入れはじめた。
「修、意外とまめなのね」
「知らなかっただろう?」
「うん、全然」
「ミルクとさとうは?」
「入れて」 コーヒーの香りが、ふんわり漂ってきた。
渡された紙コップから、玲奈の手に修のぬくもりが伝わった感じだった。
「修、ブラックで飲むの?」
「まあね」
「大人っ!」
「勉強している時にさ、眠気覚ましにな」
「勉強ね、どんな勉強だか、あやしいけど」
「うるせなー」 修と、こんなにいろいろ話すのなんて、すごく久しぶりだ。修とぎくしゃくしてきたのって、いつからだったんだろう。 絵里だけのせいではない。修は、ベランダから玲奈の部屋に出入りしなくなったのは、中学生になってから。修が口のわるいやつだと思うようになったのは、二 年生くらいからだった。このところは、顔を見ればけんかになっていた感じだった。
「玲奈、昼間のこと、聞いてもいいかな」
「あ、うん」
玲奈は、修にうながされ、話しはじめた。
「多分……はじまりは、わたしたちの誕生日に流れ星を見たでしょ? その日からだと思うの……」
玲奈は、順を追って話し出した。同じ夢を見て、しかも夢の続きというか、夢の中で時が経過していること。真琴のこと、祐一のこと。そして、夢にでてくる 泉、別荘らしい洋館は、軽井沢であること。 修は、玲奈の話が終わるまで、だまったまま聞いていた。
「信じられる? 夢の世界が現実にあったなんて」
「でも、間違いないんだろ? あそこに」 玲奈は、大きくうなずいた。
「不思議だよな。夢で見たのと同じものが現実にあった、ということは可能性がないこともないと思うんだ。仮に、偶然にしてもだね。だけどさ、普通、夢なん て続きが見られるもんじゃないぜ。テレビの連続ドラマじゃあるまいし……」
「そうなのよ」
「玲奈の話聞いてると、本当に真琴いう女の子いて、真琴が主人公のドラマをやってたっていうか……。そんな感じだぜ」
「あの別荘があったということは、祐一さんや真琴も本当にいる人なんじゃないかって思ったの」
「でも、玲奈だって見ただろ? あの別荘は、荒れ果てていた。使われていたとしても、もう何年も前っていう感じだったろう?」
「実際にいた人だとして、どうして、わたしがその夢を見るわけ?
とても、リアルなのよ。真琴の感情とか。紅茶を飲んでも味がするし、泉の水は冷たいし、絵の具のにおい……」
祐一のぬくもり、抱きしめられた時の安心感……。
「そういえば、オレが見たホラービデオ。えっと、なんていうのだっけ?……なんかさ、殺人鬼に夢の中で襲われるんだけど、目が覚めると実際に怪我してるん だ。そのうち、夢のはずが、現実にその殺人鬼が現れるっていう……」
「修! やめてよ、わたしがそういう話、きらいって知っているくせに!」
「あ、ごめん。カミナリもホラーも幽霊も、苦手だったな。玲奈は」
 しばらく、沈黙におちいった。 ふと、キャンプの時のことを思い出した玲奈だった。
「でも、悪夢じゃないんだろ?」
「うん」
「じゃあ、今のところは問題はないわけだ」
「ひとつあるの」
「なに?」
「わたしの行動が、真琴の運命に影響を与えるかもしれないから」
「どういうこと?」
「わたしが夢を見ているときは、真琴の意識はないの。だから、真琴の思いとは別の行動をわたしがとった場合……」
「それは、仕方がないだろ?」
「そうかな」
夢なんだからさ。どうでもいいじゃないか、といわない修をうれしく思った。しょせん、夢でしかない。だが、普通の夢とは違う。たまたま修が、脇道に入った から、あの泉や洋館のところに行った。実在したものとわかったから、真琴のことが以前にも増して気になりだしたのだ。
「なんかあったらさ、またオレにいえよ」
「うん……。わたしね、修にこんな話したら、バカにされるかと思っていたの」
「玲奈のいったとおりのものがあったんだから、信じるさ。さて、玲奈、そろそろ寝ようぜ。もう三時だよ」
「おやすみ、修」
「おう」 修は、自分の部屋へと戻った。 二日目。夜中まで騒いでいたパパたちは、朝寝坊。もちろん、さらに遅くまで起きていた玲奈と修も朝寝坊。
朝食というにはあまりに遅い時間には、玲奈たちが軽井沢銀座にまで行って買ってきた、パンやジャムがテーブルにそろった。ママは、テレビでやっていたお店 のパンやジャムを口にすることができ、ごきげんだった。玲奈よりも無邪気なママのそんな一面に、思わず笑いながらパンを手にした。
軽く食事をすませと、パパの車で鬼押出し、白糸の滝めぐりのドライブに出かけた。
 そんな軽井沢の時間は、瞬くうちに過ぎていった。





roze-piのひみつの部屋 トップへ


© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: