青い島のひだまりで

まねき猫




 この作品は、1999年ころに書きました。
 どこかに応募もしましたが、ボツ…。「途中下車」の作品のように20枚程度のちょっと不思議な話を書いてみたいと思って書き上げました。

 倒産品処分市でみつけた“まねき猫”。よくもわるくも家主の望みを叶えてしまうという、不思議で、かつ、うさんくさい“まねき猫”を買った祥平に待って いた結末は…。


まねき猫


 陽がガラス戸からさしこむ程度に昇ったころ、いつもどおり津川祥平は木戸を開けた。祥平は、『がらくた館』の店主だった。父の趣味が高じてはじめた、骨 董品や古美術品を販売する店だ。
「祥ちゃん、お茶にしましょう」
 祥平の母は、還暦を過ぎたというのに、髪を染めているせいか洋服のせいか、誰からも年よりも若く見られていた。店には、ほとんど客の出入はない。開けて いないよりまし程度にしか、母は思っていないようだった。
 がらくた館の時は、おだやかに流れていく。
「もうすぐ父さんの一周忌だね」
 祥平は、茶柱がたっているのに気づくと、湯飲みにそっと口をつけた。
 祥平の父は、一年前、肺ガンで亡くなった。ちょうどその頃、祥平は、食品会社の開発部に席をおいていた。親の期待どおり、一流の大学をでて、名のしれた 会社に入った。母は、祥平のことを『期待をうらぎらない子』と口癖のようにいっていた。それが、突然、営業に転属と辞令がでた。祥平の会社も例にもれず、 表だってはいわないもののリストラをはじめていたのだ。祥平にとっては、親父の死は、幸運でもあった。母の期待をうらぎらず、父が亡くなったため故郷にも どるとあれば、この上ない親孝行な話となるからだ。
 最近、母が関心のあることは、祥平の縁談話だ。三十五歳にもなって独身、しかも『がらくた館』などという店で隠居生活に近いことをしている祥平だ。
「祥ちゃん、ほら、このお嬢さんはどう?」
祥平がだまったままでいると、母は、すかさず見合い写真を差し出した。
「母さんがいいと思う人ならいいよ」
祥平は、そういうと湯飲みの底に残っていたお茶を飲み干した。ざらりとした感触を舌に覚えた。
「ちょっと、駅前でやっている倒産品の処分市に行ってくる。いい掘り出し物があるかもしれないから」
祥平は、店を母にまかせ、玄関に下り立った。
車に乗り込み、山道を下って行く。
子供の頃から、自分はなんとなく運の悪い子だと思っていた。近所の仲間で野球をすれば、祥平が打つときに限って、ツーアウトで満塁。そんなとき決まって、 三振した。また、代表で選ぶくじ引きすると、なぜかその『白羽の矢』は、祥平に当たった。それでもいい結果を招けばいいが、大抵は、あがってしまい恥をか くことが多かった。
だが母は、それでも祥平のことを『期待をうらぎらない子』だという。ただ、人より時間をかけているから、やっと期待にこたえているだけだと祥平は思う。高 校受験に失敗したのが、挫折のはじまりだった。翌年、希望の高校には入ったものの、同級生は、ひとつ年下。なんだか仲間に入りにくく、その頃からひとりで いることが多くなっていた。大学もそうだ。母の望みどおり、一浪の末に合格した。


道は、急カーブにさしかかり、旅行客を乗せたバスとすれ違った。
幼い頃、父が話してくれた。その昔、津川家の先祖は、このあたりの豪族だった、と。遠い昔、罪人となった村人に、処刑の指揮をとっていたのが津川家だった という。先代からの言い伝えによると、かなり村の政には独裁的だったらしい。多少悪どいこともやってきたから、今の津川家の富があるのだ、とも。屋敷のす ぐ裏手の山には、津川家の毒牙にかかった人の骸が捨てられたという。
この話のせいか、幼き頃、誰もいない部屋で人の気配を感じたり、裏山に怪しい影を見たこともあった。そのため妙に信心深い子供で、常に数珠を携えるとか、 宗教の本を読むなどということも好んでいた。一方で、現在ろくな儲けにもならない『がらくた館』をやっていけるのは、その先祖の恩恵に授かっているから だ。
ただ、ツキのないことは、仏教の思想に基づく輪廻転生があるのだろうと、昔から思っていた。善因善果、悪因悪果というように、前世の行いが今の祥平を創り 出しているような気もする。そのせいか幼い頃から、まわりと同調できない違和感を、宿命のように感じていた。
「見合いか……」
突然、母の言葉を思い出し、祥平はつぶやいた。この一年、数回以上の見合いを繰り返している。まずは、母の目にかなった人が選ばれるのだが、祥平と会った ところで、先方から丁重なお断りがくる。いずれも、あまりにも家柄もよく立派な方すぎて……と、自分を卑下した社交辞令だ。
いくら祥平の家が旧家であろうとも、なんだかうさんくさい商売をはじめた男と、気位ばかりが高い母のいる家というだけで、母が思っているほど好条件ではな いはずだ。 だいぶ道が混んできた。山にはなかった信号機があらわれる。倒産品処分市会場は、もう目と鼻の先だ。



三年ほど前までは、たしか大手デパートがあったところだ。撤退してからは、いろいろなイベント会場として利用できるよう、市が管理している。
今朝の新聞広告の折り込みチラシには、倒産品三億円の大処分とかかげられていた。
自動ドアのむこうには、いきなり白熊の剥製が百万円という値札をつけ待ち構えている。ケヤキを使用した座卓だとか、豪華なダイニングセット、有田焼大皿に は元値三百五十万に、見切り処分の赤字の札がはられている。 祥平は、会場の中をゆっくりと歩き出した。 山下清、竹久夢二の絵は、価格相談となっている。そのとなりで油絵が、三千円~一万円という値札をつけて、所狭しと積み上げられていた。芸術の価値も、こ こまできたら、一束でいくらの価値しかない。
「よう、津川の祥平じゃないか」
父の知り合いの牧田さんだった。
「久しぶりに見るけど、あいかわらずのぼんぼんぶりだな」
牧田は、はっはっはっと太い笑い声をあげた。突き出した腹が、そのリズムにあわせてゆれる。
「ここ、ワシのしりあいがやっているんだ。気に入ったものがあれば、ワシが勉強させるからな。ちょっとどうだ? そこの喫茶店で」
祥平は、牧田に押されるように喫茶店にむかうことになった。喫茶店に入ると、牧田は祥平の希望もきかずに、「ホット、ふたつ」と注文した。そのへんの親父 がやりそうな、タオルで顔をふくという芸当もやってみせた。
「どうなんだ?」
「どうって? 店?」
祥平もタオルをとって、手をぬぐう。冷房のきいた室内では、妙な暖かさとしてなごむ。
「おまえの母ちゃんだよ。しきりに嫁さん探しをしてるらしいじゃないか」
「はあ……」
祥平は、気のない返事をした。
「まあ、おまえも大変だな。あの母ちゃんじゃあさ」
「はあ?」
今度のはあ? は、疑問符つきだ。
「だからよ、そんなおまえんところに来る嫁さんも、苦労するってことさ」
「まあ……」
いわれなくとも、祥平にもわかっていた。
「東京に、いい女いなかったのかよ。えっ? よりどりみどりだろ? 旧家の坊ちゃんで、エリートサラリーマンときたら」
「そんなことないですよ」
「またまたぁ」
牧田は身を乗りだして、祥平の頭を小突いた。牧田の巨体が、テーブルにあたって、コーヒーが大きく波打った。
学生時代に、ほのかな感情を抱いた女性もいたが、それでも深いつきあいになることはなかった。しっくりいかない違和感や、一緒にいると妙な気疲れを覚える ことの方が多かったからだ。相手もそう思うのか、いつのまにか祥平から離れて行った。
 また、社会人になると、母はアパートだけにとどまらず、東京に来たからと菓子折を持って会社まで顔を出した。ひところのマザコンブームは去ったけれど、 それでも祥平は陰で囁かれているのを知っていた。それでも母に、ひとこともいえなかったのは、母の繊細な神経と、元来の心臓の弱さを案じたからだった。
「そうはいっても、おまえのとこの母ちゃんは、津川には泣かされたからな。その分、おまえが母ちゃんにやさしくしても罰はあたらねぇ」
 牧田は、ふと思い出したようにいう。
「泣かされたって?」
「えっ? あっ……。いや、小さい頃だったから知らなかったかもしれない。ああ、いや、なんでもないんだ」
牧田はつい口をすべらしてしまったという感じで、半ば狼狽した様子だった。水滴のついたコップをとり、ぐいっと水を飲み干した。
「さあ、処分市をのぞいてくるか」
 牧田は、話を打ち切るように伝票をつかんで、レジへと歩き出した。 祥平は、牧田と共に再び会場に入った。
「なにか気に入ったものはあったのか?」
「うーん。竹久夢二の絵と、大時計なんかいいと思って……」
牧田は、すぐさま係の人に交渉しに行った。
祥平は、ひとりになった瞬間、無造作に置かれた『まねき猫』を手に取った。『まねき猫千円より』と大きく表示されている。山とあるなかで、それは薄汚れて いた。売り物として置いてある方が不自然なくらい、古ぼけた物だった。
「おい、祥平。三十八万に値切ったぞ!」
牧田が自慢気に巨体をゆすりながら、歩いてくる。そのうしろに、係の人がいる。
 百万円のところを本来ならその半額でと思っていたが、値切られたと係員はいう。
「牧田さんにあっちゃあ、かないませんよ」
そういわれて、牧田は豪快に笑った。
「あ、あのう、なにか?」
祥平の様子に気づいた係員が、訝しげにたずねてきた。
「あ、ああ、このまねき猫ですかぁ」 係員は、もみ手をしながら『さすがお目が高い』という態度を見せた。
「このまねき猫に限り、ごみ集収日に出した方がいいのではないかというくらい古ぼけていますけれど……」
係員は、ここで言葉をきった。いかにももったいぶった様子だった。このまねき猫には、十万円という値札がついている。
「この猫、陶器に見えて、実は大理石でできているとか?」
牧田が、冗談ながらに口をはさんだ。
「いえいえ、ごく普通の陶器ですよ。ただですね。ちょっといわくつきのまねき猫なんですよ。ここだけの話……」
係員は、いかにも重大な秘密を打ち明けるような口振りだった。
「このまねき猫は、明治、いいえ江戸時代から伝わるものなのです。家の主が望むことは、よくも悪くも招いてしまうのですよ」
「よくも悪くも?」
祥平は、眉をひそめて聞き返した。
「そうでございます。主が望むことは、よい結果を招こうが悪い結果を招こうが……です。だからこそ、この百年以上もの間、手放す人あり、この値でも買う人 あり……ですよ」
「では、これもお願いします」
「あ、どうも、ありがとうございます」
係員は、深々と頭を下げた。
「全く、金持ちのすることはわからん。たかがまねき猫だぜ。十万円も出すやつがあるか」
牧田がぶつぶついうのも気にとめず、祥平は購入手続きのため、店の奥へと入っていった。



 今年もまた温泉街の夏祭りがやってきた。石畳の坂道が続く温泉宿を、束の間、にぎわす祭りだ。がらくた館も、店先には観光客用の土産が並べられている。
民芸品や焼き物、夏場は風鈴もある。五百円前後の値段をつけてあるので、立ち寄っていく観光客も多い。そのついでに祥平の本業である骨董品や絵画に、興味 を示していく客もいる。
 祥平は、静かな温泉街とは違う町の様子を店先まで出て、肌で感じていた。
 チリリン。
 売り物の風鈴が、軽やかな音を奏でた。
 振り返ると、店の入口から丁度真っ正面に置いたまねき猫が視界に入った。
 よくも悪くも招きます……か。 まねき猫を買って、十日ほど。特に店の売上げが著しく伸びたとか、出入りの客が増えたということはない。
「祥ちゃん、お夕食いただきましょう」
奥から母の声がし、祥平は台所にむかった。
「母さんもいただこうかしら」
珍しく母が、祥平の晩酌につきあうという。祥平は、傍らにあったビール瓶をとってグラスに注いだ。
母は、ひと口、喉を潤す程度にグラスに口をつけた。そして、祭囃子の方に顔をむけた。色とりどりの浴衣を身にまとった、町の若い娘たちの歩いていく姿が、 ガラス戸越しに見え隠れした。母は再びグラスに口をつけ、こくこくと続けてふた口飲んだ。母と共有する時間は、いつだっておだやかだ。
「ああ、おいしい」
少女のような笑みを祥平にむけた。時間をおかず、母の白く透き通る肌に、赤みがさしてきた。
「母さん。この前、倒産品処分市に行ったとき、牧田さんに会ったんだけど……」
祥平は、牧田が口をすべらしたことが気になっていた。だが、母にききだすタイミングが、なかなかつかめなかった。
「ああ、その話?」
母は、赤らんだ頬に両手をあてるしぐさをした。
「父さんにはね、昔、女の人がいたのよ。母さんの他に……」
「それで?」
「それでって? いやあね、それだけの話よ」
母は、たいしたことではないという涼しげな顔をした。
「……さぁい。……ごめんくださぁい」
そのとき、店先から女の声がした。 客だと思い、祥平は慌てて立ち上がった。
黒光りした床にすべりそうになって身をもちなおした瞬間、祥平の視界に浴衣姿の女性が飛びこんできた。
「わるいが、あの絵を見せてくれんかね」
女性の傍らにいた老夫婦らしき、白髪の男がいった。
「うちの娘が気に入ったようでね」
竹久夢二の美人画だった。
祥平は、絵を差し出し、呆然として娘を見つめた。夢二の美人画のモデルになってもおかしくないくらい器量がよく、言葉の節々にも奥床しさが感じられた。
「祥ちゃん、お客さま?」
母が台所からやってきた。母の声ではっとした祥平は、我にかえった。
「ああ、母さん。絵を見たいという……。母さん? どうかした?」
母が、石のように固まっていた。
「あ、いえね。母さんの知っている方にそっくりで、驚いたの……」
今度は、母が我にかえったようにはっとして、その場をとりなした。
祥平は、その絵を儲けなしの三十八万で売ることにした。
その娘は、隣町の橋場という名の知れた旧家の娘だった。老夫婦の息子が、事業のあとを継ぎ、今はきままな隠居暮らしだそうだ。まだ嫁にいかぬ娘の聡美と、 温泉にやってきたらしい。
「津川さんがご存命のころは、仕事の関係で会ったことがありますよ」
老紳士にいわれると、母は浮き足立っていた。こんなところに息子の縁談が転がっていた、という感じのはしゃぎようだった。また橋場の老夫婦も、まんざらで ない様子だ。
一枚の絵が売れ、額の大きさにあった箱にいれ簡単な包装をし聡美に渡した。このわずかな時間に、ふたりを包む時間は、刻々と流れはじめていた。



 今までは、心のどこかに、このままがらくた館を営みながら、ひとりで生きていこうという思いがあった。だが、祥平は、聡美との出会いを運命的なものとし て感じた。三十半ばを過ぎた男が、運命の赤い糸などというには、あまりにも滑稽すぎた。
 聡美は、二十八歳という年よりはずっと若く見えた。聡美の親にしてみれば、三十近くになった娘がまだ嫁にいかずにいるということも、気がかりのようだっ た。また、祥平の母にとっても、橋場の娘であれば、申し分のないことだった。
親たちだけでなく祥平と聡美にとっても、夢二の絵によっての出会いに、夫婦になることへ自然と導かれた。
出会ってひと月半のころ、祥平は聡美をドライブに誘った。曲がりくねった山道をすすみ、ひらけた高台にやってきた。むかいには山並みが連なり、真下の山裾 には、温泉街が見下ろせる。
「聡美さん、僕と一緒になってくれませんか」
聡美は、祥平の言葉を待っていたかのように、「はい」と短く答えた。
「わたし、祥平さんといると、なんだか昔っから一緒にいるような……。全然違和感がないっていうか……」
聡美はこういうと、肩をすくめて笑った。
祥平自身も、そう感じていた。どう説明してもわかってくれない人がいる一方で、なにも語らなくても自分を理解してくれる。まさに聡美は、そんな女だった。
幼い頃感じていた違和感を、聡美は感じさせなかった。 それから半年ほどで、祥平たちは結婚式を挙げ、入籍をすませたのだった。
祥平は、義父の勧めで、義弟が社長を勤める電気機器製造の会社に勤めはじめた。妻となった聡美は、嫁姑のいざこざは杞憂だったと思うほど、母ともうまく やっていた。祥平が継いだがらくた館は、この一年で聡美が店番をする形に変わっていった。
いつものように、夕方七時をまわった頃のことだ。祥平は、なにげなく玄関からではなく、がらくた館の開け放たれた入口から入った。入った途端、骨董品の古 ぼけたにおいと、ひんやりとした空気に包まれた。 薄暗がりの中に、まねき猫がいた。
 左手で“おいでおいで”と招かれるような気分だった。
「あら、祥平さん?」
廊下を通りかかった聡美が、人の気配を感じてか、がらくた館に顔をだした。 よくも悪くも招きます……か。
「どうかしたの?」
「あ、いや……」
祥平は、言葉を濁したものの、聡美にまねき猫を買ったときの話をした。祥平は、おだやかな時間とやすらぎの空間が手に入ったことを、しみじみ感じていた。
「じゃあ、わたしたちはこのまねき猫によって、一緒になれたのかもね」
聡美の笑い声で、祥平は、はっとした。こういう日々を望んでいたのだろうか。
 悪くも招く?
 一抹の不安が、忍び寄ってきた。
「なにか楽しそうだわね」 母が奥から顔をだした。
「ええ、そうなんです。このまねき猫が、祥平さんとわたしを会わせてくれたって話」
「この汚いまねき猫が?」
母は、まさかという顔で、呆れたように祥平たちを見ていた。その夜、夕食のあとに、聡美から大切な話があるといわれた。赤ん坊ができたというのだ。祥平や 母はもちろん、橋場の家にとっても、喜ばしいニュースだった。妊娠の話で、心に宿った翳りは、遠くに消え入ったかのようだった。



聡美は出産のため、実家に帰省していた。母は、ひと月後にひかえた出産のため、生まれてくる赤ん坊の準備に忙しくしていた。
市販されている紙オムツより、昔っからの綿でつくったオムツがいいと言い張った。久しぶりに、母の針をもつ姿を見た。
聡美は、元気な男の赤ちゃんを出産した。
子供の名は、俊平と義父が名づけてくれた。義父の俊一のひと文字と、祥平のひと文字をとったという。ありがちな名づけ方だった。
祥平も人並みに父親となり、新たな人並みの幸せを味わった。母も、人並みのおばあちゃんになれたようだった。そうしてやることで、息子としての義務が果た せた安堵感があった。
「聡美さんは、ご両親に本当に愛されて育ったのねぇ。聡美さんのような嫁は、めったにいませんよ」
祥平にとっても、母がそういえば、この上もない幸せだった。
「わたし、橋場の両親に養女にしていただいてから、本当によくしてもらったんです」
「養女?」
母は、うわずったような声をあげた。
「ええ。あら、橋場の両親がお話しませんでした? 自分から話すっていってたのに」
「養女って?」
「わたし、施設にいたんです。十歳まで。母が、八歳のときに亡くなって二年間だけでしたけど……」
「本当のお父さまは?」
ただでさえ血色の悪い母の顔色が、ろうのように白くにごった。
「いません。わたしは、父がどんな人かしりません。本当の母は、妾でしたから。わたしを身ごもったと知った、奥さまって方が、気の強い方で、むりやり父と 母を別れさせたらしいのです。当然といえば、当然ですよね。だからわたしは、認知もされず、私生児として育ちました。そんなわたしを、今の両親はひきとっ てくれ、実の子のようにかわいがってくれました」
聡美は、オムツをかえると、俊平を抱き上げた。
「それで、お母さまのお名前は?」
母の指先が、小刻みにふるえている。
「母さん?」
祥平は、母の肩に手をかけた。
「あやめといいます」
「あ、あやめ……。……あっ、うっ」
「母さん? 母さん!」
母が突然、心臓をかきむしるように苦しみ出した。
母は、救急車で町立病院まで運ばれた。母の様態は、思わしくなかった。聡美は、俊平がいるので家にいてもらった。昼間の面会が許される間、祥平は母に付き 添った。母の手がこんなにも小さいことに、いまさらながらに気づいた。 義父も見舞いにやってきた。聡美が養女であることを黙っていたことを詫びた。
「そんなことが原因じゃないですよ。もともと母は、心臓が悪かったし……」
血筋や家柄に、たしかに母はこだわっていた。だが、養女だということが原因で発作を起こしたとは考えられなかった。
義父と入れ替わるように、聡美がやってきた。あやめの花をかかえている。
「庭の池のほとりに咲いていたの。わたしの産みの母が好きだった花」
聡美は、そういうと花瓶をもって病室から出て行った。聡美がいけてきたあやめは、誇り高い青紫色をしていた。
「ああ、聡美の本当の母さんの名前と同じ花か……」
祥平は、庭の池のほとりに咲くあやめを思い出した。いつだったか母は、そのあやめを眺めながら泣いていたっけ……。祥平は、遠い昔に思いをはせた。
あやめ……。まさか?
 酸素マスクをして眠っているように見えた母が、突然、苦しみはじめた。
「母さん!」
ナースコールをして、母を見守る。
「なに? 母さん?」
 母の口もとに耳を近づける。 医師が駆けつけてきた。
「しょ、祥ちゃ、ん」
母の断末魔の片言が聞こえた気がした。



母の死から、ふた月余りが過ぎた。
祥平の家の庭木にも、蝉がとまり、けたたましい鳴き声が響いていた。俊平は、ゴロンと自分で寝返りができるまで成長していた。
新盆見舞いに、牧田さんがやってきた。
あいかわらずの巨体で、夏の暑さにはからきし弱いらしい。大粒の汗を額に浮かべて、耳のあたり髪の生え際からは、ひと筋汗が流れ落ちている。
聡美は、牧田が飲み干した麦茶のおかわりに立ち、冷蔵庫で冷やしたタオルをもってきた。
「おい、祥平。いいかみさんをもらったな」
倒産品処分市で会ったときのように、牧田はタオルで顔をふいた。傍らで寝ていた俊平が、目を覚まし泣き出した。聡美は俊平を抱き、庭に出た。
「牧田さん、いつかの話だけど……」
「いつかの話?」
「父さんに女がいたという話だけど。あ、母さんに聞いたんだ」
「そうか。まあ、昔の話だからな。それに親父さんもおふくろさんも亡くなっちまったから……」
「その相手の人、どんな人かしってる?」
「一度、飲み屋でばったり会ったんだ。おまえの母ちゃんとは、また違った意味で美人だった」
「名前、知らない?」
「名前? 親父さんから相談うけたことがあったから、聞いたんだけどさ……。いやぁ、昔のことだからさ。なんていったかなぁ」
「あやめっていわなかった?」
「あやめ?
あやめ……。あやめ、そんな名だったかな。そうだ、あやめだ。そうそう、飲み屋で会ったとき、あやめの花のような青紫の粋な着物、着てたっけ。ああ、そう いやぁ、聡美さんとどこか似ているな。まあ、血筋だな。同じような女に惚れるってことはさ」
祥平は、もしかしてと覚悟はしていたものの、身体の血が逆流するような冷たさを覚えていた。目の前に、点滅する光を見た気がした。祥平は、頭をふり、深い ため息をついた。
「それがどうかしたのか?」
「ううん、なんでもない」
祥平は、平生を装った。
今のところ俊平は、特に障害をもっている様子はない。事実が世にでれば、俊平の存在は、誰もが神にそむくものと思うだろう。
「ところでどうだ、あの十万の代物は?」
「さあ、御利益があるんだかないんだか」
「無駄金はたいて」 よくも悪くも招きます……か。
 聡美と一緒になってからの日々を思った
「祥平さん。牧田さんにお昼も、一緒に召し上がっていただいたら?」
泣き止んだ俊平を連れて、聡美が縁側から入ってきた。
今さら聡美との生活を、捨てられるはずがなかった。聡美のことを愛しいと思うし、今になって腹違いの兄と妹だといわれても、感情はどうすることもできな い。 なにかの罰だろうか。
事実を知った母は、命とひきかえに秘密を守ろうとしたのかもしれない。思いのほか気に入っていた嫁が、実は憎き愛人の娘だったとは、母の細い心の琴線に は、耐え難い事実だっただろう。 皮肉な運命の歯車がもたらした真実。
幼い頃からの違和感を思い出す。学校や会社での、人とのすれ違い。やっと手に入れたおだやかな時と空間。このおだやかさは、血のせいだろうか。
祥平は、プロポーズの言葉を思い出していた。
『違和感がないから』と、プロポーズに応えてくれた聡美。
「祥平さん、おソーメンでいいかしら?」
台所で聡美の声がした。
牧田にあやされた俊平が、笑顔を見せた。自分ひとりの心のうちに秘めて、俊平のためにも、聡美と共に生きよう。
「手伝うよ」
祥平は、台所へと入って行った。
                                                           <完>



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