| この作品も、1999年ころに書きました。
北海道を舞台というのがテーマだったような記憶があります。これも、ボツ…。 主人公は中学一年生の女の子ですが、応募したジャンルは小説で、児童文学ではありません。大人になりかけている世代。その同世代の人たちや、大人にも 読めるような話が書きたいと思うことがありますが、なかなかぴったりの公募のジャンルがありません。 北海道は、3度、行きました。青春18切符を使って20日近く滞在したこともあります。富良野は、「北の国から」の舞台になった所であり、どうしても行 きたいと思い、2度訪れました。作中に、瑠奈が祥と自転車で富良野をまわるシーンがありますが、わたし自身がそのコースをたどりました。起伏のある広い台 地で、道に迷い(というか、あまりに果てしなく続くのでこの道でいいのか不安になりました)、畑仕事をしていた人を大声で呼び、道の確認をしました。「い いところですね」というと「広いだけでね」といわれました。夏のいい時期にほんの何日か旅行で滞在するのと、実際に住むのとでは、想像に及ばないくらいの 違いがあるのだろうと思います。それでも、北の大地に対するあこがれは、今なお、わたしの心に強くあります。 最近でこそ、ニュースになり明るみに出る“虐待”。 成長しようとする子供の芽を摘み取ってしまうような行為です。芽を摘み取られた子供は、何かをしようとがんばろうとすると萎縮してしまう。 虐待は繰り返されるとも聞きます。永遠に終わりのない食物連鎖のようで悲しいです。お互い歩み寄ろうという気持ちがあっても、歩み寄れない隔たり…。 親からの虐待を認識しはじめた瑠奈が、夏休みに訪れた富良野のいとこが経営するペンション。そこであらためて自分と向かい、客として訪れた祥と過ごす時間 で、一歩大人にな るひと夏を描きました。 |
|---|
| 虹色の丘
|
プロローグ
それは、一枚のはがきからはじまった。 『富良野で、ペンションをはじめました。ぜひ、遊びにきてください』 白い壁のかわいい洋館。 和也お兄ちゃんからの、写真入りのはがきだった。 1 瑠奈はいつものように『ただいま』もいわずに、玄関のドアを開けた。もうすぐ七月だというのに、梅雨の明けきらないくもり空で、今にも雨がふりだしそ うだった。 うす暗い玄関と、しめった空気、ひんやりした部屋。『おかえり』とむかえてくれる人もなく、そして明かりのついていない家に、帰ってくるのも慣れてい た。 着がえのため、部屋へ行く。玄関の電気、廊下の電気、瑠奈の部屋の電気。歩きながら、かたっぱしから電気をつけていく。 やっと板についてきた制服をぬぎ、ハンガーにかける。 机のひきだしから、そっと一枚の写真をとり出した。瑠奈が小さいころの写真。多分、三歳くらいだ。父と、父に抱かれている瑠奈と、寄り添うようにしてい る母の三人の写真。 瑠奈は、中学一年生。小学校の教師をしている父と、二人暮らしである。母は、瑠奈が五歳のとき、他に好きな男の人ができて、出て行ったときいている。 写真の中のほっそりとしていて、少女のような母。母のことは、ほとんど覚えていない。でも、母は甘い香りがした。母がつかっていた枕には、しばらく母の 香りが残っていた。 ひきだしに写真をしまうと、瑠奈は、台所へとむかう。母がいなくなって、小学校三年までは、たまに祖母が、母のかわりとして来てくれた。だが、祖母が亡 くなると、家事は幼い瑠奈の仕事となった。もちろん、はじめはスーパーでできあいのものを買ってきて、テーブルに並べる程度だった。だが、家事も、最近は 慣れてきた。 今日のメニューはカレー。 手際よく、たまねぎ、にんじんを刻み、じゃがいもの皮をむく。 ふと、手を休めた。くもり空からパラパラと落ちだしたらしい。雨音に、瑠奈は慌てて庭に飛びだした。昨夜、洗濯をして、干したままだったことに気づいた のだ。 瑠奈が、この生活に違和感のようなものをもったのは、ここ最近のことだった。この生活を、盲目のままに受け入れざるを得ないこと。ぬけだすにしても、無 力な子供であることを自覚していた。 友だちは、家族ででかけた、なんていう話を月曜日の朝にしている。瑠奈には、そんな話題はない。そんな友だちの輪に入れないような、疎外感を感じるよう になった。 小学校の教師をしている父は、日曜日も部屋で、仕事らしきものをしている。とこかへ連れていってとせがむこともなく、むしろ父となんか行きたくないとい う思いがある。父と行っても、話すことなんかない。 いつから、こうなったのだろう。 それは、人に対して、お父さんではなく、父といわなければならないと知った、そんな頃からだったかもしれない。 小学校のとき、作文で『家族』について書かされた。でも、なにも書くことがなく、まっ白の原稿用紙を見つめていた記憶がある。 洗濯物を取り込んでくると、カレーのなべが、ふきこぼれそうになっていた。慌てて火を弱めた。 しばらくして、煮えたころあいをみて、火をとめ、カレーのルーを入れる。ほどよいカレーの匂いがたちこめた頃、雨は勢いを増してきた。テレビの七時の時 報が、雨でもみ消された。 そろそろ父が帰宅する。瑠奈は、家中つけっぱなしにした電気を消しはじめた。玄関と、瑠奈のいる居間と台所だけを残して、あたりは暗がりに沈んだ。 「お父さん、おかえりなさい」 カチャッというドアの開ける音とともに、瑠奈は玄関に飛びだした。 父から、『ただいま』という言葉をきいたことなどない。ふむという感じに父はうなずき、靴をぬぎあがった。台所をのぞきこみ、深くうなずいて、いつもの ようにまず自分の部屋に入った。 今日なにもなければ、一週間は、なにごともなかったことになる。 「瑠奈、どうだい、学校は」 風呂からあがって、髪をタオルでふきながら父がいう。 「別に」 ご飯をもった皿に、カレーをかけながら答える。 「別になんていい方は、お父さんきらいだな。お父さんの受け持ちの子供たちにも、そういう受け答えはよくないと、いつもいっている」 父は、小学校三年生を担任をしている。届いた年賀状などをみると、それなりの教師なのだとも思う。でも、瑠奈は、教師である父の顔はしらない。瑠奈に とって、父は、教師である前に父親でしかなかった。 「だって、特に話すことなんて、ないもの」 「瑠奈、その目はなんだ」 しまったと思った瞬間、父の手が瑠奈の頬を打った。瑠奈は、下くちびるをぎゅっとかんで、父を見返した。 「あいつと同じ目だ」 そういうと、瑠奈の腕をつかみ、引きずるようにして居間に連れていった。 「お父さん、やめて!」 痛いと思う前に、血の味がした。ぶたれた頬に、じんじんと響く感じの痛みがわきあがってきた。 「あいつと同じで、涙ひとつ見せない。おまえなんか、生まれてこなければよかったんだ。おまえなんか、おれの子か、わかったもんじゃない」 「お父さん!」 瑠奈は、まっくらな廊下をひきずられていった。大人のしかも男の力に、かなうわけがない。瑠奈は、うら口のドアから、庭につきおとされた。ふわっと身体 が浮いた一瞬につづいて、雨でぬかるんだ地面にころがりおちた。バタンとドアが閉められ、続いてかちゃっと鍵のかかる音がした。 どしゃぶりの雨で、瑠奈は、またたくうちにずぶぬれになった。頬を伝う雨に、涙がまじっていた。 どうして? 私がいけないの? 瑠奈は、心の中のといかけを、ぬかるんだ大地にぶつけた。雨をしのぐために軒下へうつった。 いつの日だったか、瑠奈がもっと幼いころ、つきおとされた庭の土ですりむき、もうこの家には帰るまいと思った。空には星がまたたいていて、夜の公園でブ ランコに乗った。それでも、帰るところはこの家しかない。そんなことは、幼いころからわかりきっていた。 初夏とはいえ、梅雨の明けきらない時期のどしゃ ぶり。すっかり冷えた身体をかかえこむようにして、大地の冷たさまで感じる。身体も心も凍りつくような中で、たったひとつの熱いものは、父の前では絶対に 見せない涙であった。 泣くだけ泣いて納得がいく。ドアなど、開けてくれる父ではない。なによりも、父しかいないのだから、他に開けてくれる人などいない。一階の自分の部屋の 窓の鍵は、いつも開けてある。いつものことで、ここから入りこむのは、父だって知っていることだ。 父は、五十歳。瑠奈は、父が三十七歳のときにできた子だ。母は、父と十五も年が違っていたらしい。まだ二十歳を過ぎたばかりの頃に父と出会って、瑠奈を 二十二歳で産んだ。でも、瑠奈には、母の記憶がほとんどない。瑠奈の知る母は、父や亡くなった祖母が語る母でしかなかった。祖母は、さんざん母のことをの のしっていた。父が若い女にだまされたとか、父と結婚する前から男がいたとか、瑠奈もその男の子供かもしれないとか、ろくなことはいわなかった。 窓から部屋に入りこむと、ぬれた洋服をぬぎすてる。時計は、十時をさしていた。父になぐられた頬は、はれていて痛みがある。 瑠奈は、また引き出しから写真をとりだした。お母さん、と呼んだ記憶はない。瑠奈は、母親似だ。くりくりっとした目や、細い茶色がかった髪。お母さんと 呼ぶには、まだ若すぎる写真の中の母。 風呂は、父の気配が感じられなくなった、夜中近くに入った。湯をかけると、ひじがしみた。見ると、すりむいたあとがあった。顔を洗うと、熱い湯でじーん と口元がしみる。 身体が暖まると、心がおちつくせいか、急におなかがすいてきた。夕食を食べていなかったことを思い出した瑠奈は、台所にむかった。夕方、湯気をあげて、 ぐつぐつと音をたてていたカレーのなべは、すっかり冷えていた。ふたを開けると、うっすらと膜がかかっている。瑠奈は、そのなべをまた火にかけた。 翌朝、頬はまだ少しはれていたが、特にめだちはしなかった。ただ、刺激の強い物を口にすると、昨夜のできごとを語るかのように、傷にしみた。 小学生の頃、原稿用紙に家族を記せなかった理由。『わたしは、お父さんになぐられます』とは、子供心にも書いてはいけないと瑠奈は思っていた。児童では なく、生徒と呼ばれるようになった今。まだ子供で、それでも何パーセントかは、大人になりつつある自分。虐待という言葉を知ったのも、そんな大人になりつ つある頃だった。 授業が終わると、駆けるようにして帰ってきた。きのうの今日だから、やることはきちんとしておかないといけない。玄関から廊下が整然と片づいているこ と、それに台所やお風呂。父の気に入ったようになっていないといけない。つまらない言葉のやりとりで、殴られることになりかねないからだ。 郵便受けを開けたとき、一枚のはがきが入っていた。それは、いとこの和也お兄ちゃんからだった。父の兄、瑠奈にとっては、おじさんの子供。だから、いと こだ。いとこといっても、おじさんは父より早くに結婚したから、和也お兄ちゃんは、瑠奈よりずっと年上。もう結婚もしている。東京の家を出て、今は北海道 に住んでいる。 「ペンション、はじめたんだ」 瑠奈は、思わずひとりごとをいった。 はがきには、青い空と、広い大地とともに、白い壁の洋風づくりのペンションが写っていた。 2 七月二十日。 羽田空港まで、父が送ってくれた。瑠奈は、たまに父に、父親らしさを感じる。やはり自分は、父の子なのだと思ったりする。 瑠奈の富良野行きは、思いのほか簡単に、父が認めてくれた。ほかの家庭のように、旅行に連れていかない、うしろめたさからだろうか。あるいは、一日中、 日に日に母に似てくる娘と、顔をあわせているのが苦痛だったからかもしれない。 搭乗手続きをすませ、機内に入る。父の姿は、もう視界にはない。それを自覚したとたん、また別の不安が頭をもたげてきた。はじめての飛行機。はじめての ひとり旅。旭川空港には、和也お兄ちゃんがむかえにきているはずなのに、ひとりになって急に心配になった。 でも、誰ひとりとして瑠奈を知る者がいないということでは、ほっとしていた。知らない人に声をかけられると、戸惑ってしまう。 自分でも、この三ヶ月で、おとなしい女の子になったと思っている。小学生の頃と違い、学校では、仲よしグループができはじめていた。なんだか、その輪に 入りそこねた気分。あの子たちのように、瑠奈は笑えなかった。はしゃいで、大騒ぎしている中にいると、逆に寂しい気分になってしまう。 機内は、あわただしく席につく人や、荷物をあげる人、そしてスチュワーデスが忙しそうに行き来していた。 シートベルトをして少したつと、飛行機はゆっくりと動き出した。遊園地のジェットコースターにでも乗る気分だった。手に、うっすらと汗がにじんでいる。 ふわっとエレベーターに乗ったときのような感覚にとらわれたとき、飛行機は、飛びたっていた。 なんだ全然ゆれないんだ。 飛行機は雲の中に入った。小さな窓に、額をつけるようにして、外を見る。今朝でてきたときは、くもり空だった。だが、飛行機で飛びたつと、白い雲が大地 となり、青い空が広がっていた。太陽が、その大地を照りつけている。 ふう。瑠奈は、大きなため息をついた。 旭川空港までは、一時間半ほど。なんとなくぼんやりと、いろいろなことを考えていたら、あっという間だった。 小さな窓からは、広い大地が見えてきた。パッチワークをしたかのように、色づいている大地。そして、小さなお家。 もう、北海道?瑠奈が、そう思った頃から、飛行機は、だんだんと地上に降りてきた。そして、ふわっとした感覚が身体に伝わって、着陸した。 旭川空港は、こじんまりとした空港だった。飛行機から降りて、きょろきょろとする間もなく、 「瑠奈」 と声をかけられた。 「和也お兄ちゃん」 「大きくなったな、瑠奈」 「よく来たわね、ひとりで」 そういったのは、和也お兄ちゃんの奥さん、麻美さんだった。 東京にいたのに、その一時間半後いるのが北海道だといわれても、しっくりこない。 「あんまり涼しくないだろ?」 たしかに、涼しすぎるというほどではない。半そでTシャツで、十分だ。 「旭川は、夏は三十度まで上がるし、冬は、マイナス三十度まで下がるのよ」 「そんなに?」 瑠奈は、雪でまっ白になった大地を思い描いた。飛行機で飛びたったばかりの、まっ白な雲と青い空が、雪景色にかさなった。 和也お兄ちゃんの運転する車で、富良野にむかう。飛行機の窓から見下ろした大地を、車が縫うようにして走る。緑のじゅうたんを敷きつめたかのようなビー ト、じゃがいも畑の白い花、波打つ小麦畑の輝き。巨大な麦ロールがデーンと、畑のまんなかに横たわっている。 車の窓からのながめで、北海道に来たんだという感覚がわきあがってきた。瑠奈が、そんな大自然の彩りに、夢中になっているうちに、車はペンションに着い た。 はがきと同じ、白い壁の洋館だった。 「わぁ、すてき」 中に入って、瑠奈は声をあげた。 つくりは、アンティークな感じだった。玄関のマットは、麻美さんの手作りのパッチワークらしい。壁には、富良野のラベンダー畑を描いた油絵がかかってい る。 「お部屋も見てもいい?」 「三時にならないと、お客さんこないから、いいわよ」 麻美さんの言葉で、瑠奈は、ドアのノブに手をかけた。部屋のつくりは、どの部屋もだいたい同じで、色はブルーもしくはピンク系統に統一されていた。枕、 ベッドカバーも、麻美さんの手作りのようだった。 出窓には、鉢に移されたラベンダーがあり、鮮やかなむらさき色に、咲きほこっていた。 窓を押し開けると、少し冷たい空気が入りこんだ。瑠奈は、大きく息をすった。身体中に、富良野の新鮮な空気がみなぎってきた。富良野にきたんだと、青い 空と、広い大地をながめて瑠奈は思った。 和也お兄ちゃんと二人でやっているペンション『さんぽみち』。宿泊者は、十名までと決めているらしい。すべてのことを二人でやるというのは、かなり大変な ようだ。 こじんまりとしたレストランのテーブルには、部屋と同じ色の無地のテーブルクロスがかけられている。そして、それぞれの色にあう、ピンクとブルーのチェッ クのランチマットも用意されている。 ペンションに着くや否や、二人は忙しそうに働き出した。おふろの掃除にとりかかっている、和也お兄ちゃん。麻美さんは、厨房に入って、夕食の準備をはじめ た。 瑠奈は、ふと来てよかったのかなと思った。じゃまじゃなかったかな、と。 「麻美さん、なんかお手伝いすることある?」 瑠奈は、厨房に入った。 「そうね・・・・・・」 麻美さんは、ちょっと考えるようにして手を休めた。 手伝うなんてこと、ないもかもしれない。かえって困らせちゃったかな。 「あ、庭の畑にね、トマトときゅうりがなっているから・・・・・・。そうね、トマト二個に、きゅうりも二本でいいか・・・・・・。おいしそうだと思うの、 とってきて」 裏口から、外へ出た。 十勝岳の山並みが見え、青い空に、すっと絵筆を走らせたような雲がたなびいている。 畑というよりも、家庭菜園を少し広くした程度のものである。青々としたきゅうりに、手をふれた。先端の黄色の花が、うす茶色になってひからびていた。左手 でつつみこむようにして、右手ではさみをつかう。きゅうりの小さなぶつぶつした突起が、手にふれて少し痛いほどだった。 次に、赤く熟れたトマトを手にする。産毛のようなものにおおわれ、太陽の光を浴びて輝いている。 厨房にもどると、麻美さんは、メインディッシュのチキンソテーの下準備をしていた。 「安い料金で泊まってもらって、おしゃれな食事を用意するのって、なかなかたいへんなのよ」 瑠奈は、サラダづくりを手伝った。きゅうりとトマトを洗う。 「冷たい」 「あ、水ね、夏でもけっこう冷たいのよ」 この水の冷たさも、北海道らしさなのかもしれない。 トントントンと、リズミカルな音がひびいた。 「似てきたな、真理さんに」 そういったのは、和也お兄ちゃんだった。瑠奈は、その懐かしいようで、ききなれない名前に、ふと手をとめた。 「お母さん、のこと?」 上目使いに、和也お兄ちゃんを見た。お母さんというのにも、呼んだことがないのだから、少し抵抗がある。 「オレにとっちゃあ、本当はおばさんになるんだけどさ・・・・・・。オレと六つくらいしか年、違わなかったしな。髪をたばねて台所に立つ姿なんか、そっく りさ」 台所に立つ姿。 瑠奈は、もの心ついてはじめて、あの写真の女の人に、家庭を感じた。父や祖母からきく母からは、想像できないものだった。 「その目なんかも、そっくりだ」 瑠奈は、身体がピクンとなるのがわかった。 目、あいつと同じ目をしている。父のいつもの言葉が、よみがえってきた。 「真理さんは、寂しい目をしていた」 続けて和也お兄ちゃんは、そういった。 3 瑠奈は、ペンションさんぽみちが、自分の居場所のように感じられた。 ここにきて、十日ほどがたつ。夏休みに入るとすぐに来たのに、もう八月だ。 夏の北海道というだけあって、毎日、部屋は満室状態である。和也お兄ちゃんたちは、てんてこまい。それでも、オープンしたばかりペンションだから、安い料 金で満足してもらえるものをと、がんばっているみたいだ。食後に出すケーキ作りや、朝食の手作りパンを焼く手伝いなど、瑠奈もそれなりに活躍していた。 八月に入ったある日、家族連れの宿泊客がいた。両親と、瑠奈と同じくらいの年の男の子、それによちよち歩きの幼児の四人だった。地元、北海道、函館からの お客さんで、三泊四日の予約であった。ここを起点に、富良野、美瑛、旭川、層雲峡をまわるらしい。 「すみませんね、こんな子供連れで、うるさくて」 比較的、若い宿泊者が多かったせいか、その父親は申し訳なさそうにいった。 瑠奈は、テーブルにスープを運びながら、その家族の様子をうかがった。男の子は、妹らしい子供のめんどうをよく見ている。 「あら、えらいわね。お手伝いしているの? あの? ここの?」 この家族の母親が、和也と麻美を見ながら、たずねた。 「わたし、和也お兄ちゃんのいとこなんです」 「あら、そうなの」 納得がいったように、うなずいた。 「うちの祥と同じくらいかしら」 祥といわれた男の子が、ニコッと笑って瑠奈を見た。 「中学一年です」 「ぼくも中一だよ」 妹の食べこぼしを拾いながら、その少年は答えた。 「祥くん、このおじょうさんに案内していただいたら?この子、あさっては、ひとりで自転車で富良野をまわるんだって、きかないの。迷うことなどないと思う けど、心配でね」 瑠奈は、戸惑って、なにもいえなかった。 「お母さん、困っているじゃないか」 そんな様子を察して、祥が口を出した。 「瑠奈ちゃん、いいじゃない。一緒にいってくれば。私も和也も忙しくて、せっかく北海道に来たのに、まだどこにも連れていってあげてないし・・・・・・。 瑠奈ちゃん、このペンションに手伝いにきたようだもの、これじゃあ。あ、自転車、乗れるわよね」 料理を運んできた麻美が、こう話をまとめてしまった。 翌日、祥の家族は、車で層雲峡まででかけていった。祥の母親が、瑠奈のことをさそってくれたけれど、行かなかった。せっかくの家族旅行だもん。じゃま者に はなりたくなかった。それに、両親や妹とともに旅行している、祥へのねたみもあったかもしれない。 二日間で、祥といろいろな話をした。祥の住む函館のこと、冬の北海道のこと。そして、瑠奈の住む東京のこと、学校のこと。 二人のサイクリングの話に、心配そうに耳を傾ける祥のお母さん。もちろん、瑠奈も祥も、中学一年。たしかに見知らぬ地で、行動させるのは、親として心配 なのだろう。子供といえば子供だし、子供でないといえば子供ではない。でも決して大人でもない。いつのころからか、瑠奈は、子供の中に、少しさめた大人の 自分がいることに気がついていた。それは、ちょうど胸が少しずつふくらみはじめ、ちょっとでもあたると痛みを覚えるようになったころからかもしれない。 祥とサイクリングに行く日。朝から、みごとに晴れ渡っていた。 「瑠奈、絶好のサイクリング日和だな」 和也お兄ちゃんが、瑠奈の髪をくしゃっとつかみ、 「おい、祥くん、瑠奈のことたのんだぞ。一応、レディなんだからな」 と、続けていった。 「うん、わかってるって」 「お弁当も用意したからね」 今度は麻美さんが口をだした。 「どうも、すみません」 祥の母親が、恐縮した様子で頭をさげる。 次々と宿泊客が、レストランに入り、あわただしい朝食がはじまる。豆からひいたコーヒーの香りが、漂っていた。 目的地は、八幡丘。 きのうのうちから、祥と地図を見て、計画をたてた。 「丘に木が一本たってるんだ」 と、祥はいう。 写真で見たらしい。 「この子は、そんな写真や絵が好きなんですよ」 祥のお母さんは、やさしい眼差しで、いつも祥を見ている。口調もおだやかで、ほっとできる。そんな姿を見ていると、わたしのお母さんはどうして寂しい目を していたのだろう、と瑠奈は思った。 「北海道といっても函館は、ここの大自然の風景とは違うし・・・・・・。祥くんのあこがれよね、この大自然は」 母親にいわれて、祥は照れたように笑う。 「八幡丘まで行くのか? けっこう遠いぞ」 和也お兄ちゃんが、瑠奈たちの地図をのぞきこんだ。 「あ、祥くん、この道・・・・・・」 そして、地図に指差しながらいった。 「この道は、地図上では、近道だけどね、砂利道なんだよ。それに行きだとのぼり坂だ。自転車だとかなりきついぜ。少し遠いけれど、麓郷まわりで行った方が いいと思うよ。ま、かなりハードだけど、暗くなる前にはもどってこられるだろ」 そんな具合に、瑠奈と祥のサイクリング計画は、綿密にたてられたのだった。 朝食をすませ、九時に出発。祥は、車につんできた自分の自転車。瑠奈は、ペンションでレンタルしている赤い自転車。和也お兄ちゃんに、高さの調節をしても らう。この夏のはじめにオープンしたばかりのペンションだから、自転車も真新しい。 富良野駅近くまででて、国道を南に進む。麓郷の入口まででも、ここからだと十キロはある。麓郷まわりでいくと、八幡丘までは、二十五キロくらいある。帰り は、たとえ砂利道でも、そこを下ってきた方がいいだろう。 麓郷の入口までは、道がよかった。車も通っているが、幅の広い歩道があり、様子をみながら歩道を走ったりしていた。祥は、たまに後ろをふりかえり、瑠奈の 姿を確かめた。 麓郷入口までたどりつくのに、一時間半近くかかってしまった。思ったより、ハードなサイクリングになりそうだ。 国道を曲がり、麓郷へとむかう道に入った。道は、なだらかな上り坂となり、ゆるやかなカーブが続いた。時おり、観光バスが瑠奈たちを勢いよく追い越してい く。 道の両側は、オオハンゴンソウでいっぱいだ。背の高い黄色の花。短い北海道の夏を生ききっている感じで、雑草のようなたくましさだ。 ゆるやかな上りの、舗装された道だ。山の中に向かって走っているという感じだ。長いカーブの続く道をぬけると、まっすぐな道と広い大地が目の前にひらけ た。 「ラベンダー園で、ちょっと休憩しよう」 祥の言葉で、瑠奈も自転車をとめた。 「まだまだ先だね」 「うん」 祥は、地図をとりだした。 Tシャツの袖のすきまから、すっと冷たい風が素肌にふれた。 「瑠奈ちゃんって、結構がんばり屋さんだね」 祥が、買ってきたラベンダーソフトクリームを瑠奈にさしだしながらいった。その名のとおり、ラベンダー色、うすむらさき色だった。 「女の子ってね、もっと弱音をはくものだって思ってた」 ひと口、ソフトクリームをなめ、祥がまたいった。 あいつと同じで、涙ひとつみせない。そういった父の言葉を思い出した。弱音をはかないのではない。いつのまにか歯をくいしばってでもがんばる自分がいた。 「どうしたの? 瑠奈ちゃんは、たまに寂しそうな目をするんだね」 寂しい目か。また、いわれてしまった。 母と同じ目。母は、なにが寂しかったのだろう。 「祥くんが、同級生だったらよかった」 次の瞬間、瑠奈は赤くなった。 「どうして?」 「だって、祥くんみたいに、話せる男の子なんていないもん」 小学校高学年くらいから、男の子と女の子というグループの違いを感じるようになった。対立するようで、それでもどこかで妙に仲よくなったりす る。 学校では、友だちともあまり話さないおとなしい瑠奈だった。そんな自分の言葉に、はっとしてしまった。 「でも、同級生じゃないから、話せるのかもしれないね」 祥の言葉に、そうかもしれないと思いつつ、ソフトクリームを口にした。ラベンダーの味が、というか、香りが口の中に広がった。 汗をかいたせいか、身体が冷えてきた。瑠奈は、長そでのシャツをはおった。 「そろそろ行かなくっちゃね」 「もうすぐお昼だもんね」 おべんとうは、八幡丘で食べる予定だった。 八幡丘の案内標識にしたがって、十字路を曲がって走っていく。 今度は、しばらくくだり坂が続き、まわりの景色を見ながら走る余裕がてきた。 じゃがいも畑、たまねぎ畑が続いている。目にしみるような、たまねぎのにおいが強烈だった。このような畑が、果てもなく続いている。 畑がくっきりと青い空をふちどっていた。 「北海道って感じだよね」 「祥くんだって、その北海道に住んでいるんでしょ?」 「なに? きこえない!」 瑠奈の声は、急なくだり坂になって、風きる音にかき消された。 次は、急なのぼり坂だった。瑠奈たちは、自転車を押してのぼって行った。脚が、重くだるくなり、呼吸が乱れた。全身で呼吸をしていた。 「あそこ!」 祥が、自転車をとめ、指さした。 緑のじゅうたんをしきつめたかのような丘に、木がぽつんと一本たっていた。その丘のむこうは、青い空だった。雲が風に流され、丘に沈んでいった。 汗でぴったりと前髪が張りついた額に、八幡丘からの風があたった。 時計はすでに二時をまわっていた。二人は、道のわきに、自転車をとめた。 「でも、あそこまでずいぶんあるよね」 瑠奈は、ぽつんと立つ木を見た。二百、あるいは三百メートルくらいあるかもしれない。 おい茂った背の高い草木をかきわけて、二人は丘にむかった。茂みをぬけると、思ったより急な丘だった。 「祥くん、待って」 駆け上がっていく祥を、瑠奈は呼びとめた。 「ほら」 祥は、右手をさしだし、そして瑠奈の左手をつかんだ。 あたたかな手だった。男の子と手をつないだことなんて、六年生のキャンプでのダンス以来のことだった。どっくんどっくんと、心臓が鳴っている。祥にひかれ て、足早に丘をのぼった。 やっと木までたどりついた。かなり高いところから、見下ろしている感じだ。 「はらへったぁ~」 突然、祥がそういうと、緑のじゅうたんにころがった。そんな様子に、瑠奈は笑いながら、お弁当を出す。 麻美が焼いたパンの、サンドイッチ。鳥のからあげ、チーズ、トマト、とうもろこし。そして、熱々の紅茶。 「瑠奈ちゃんって、ひとりで富良野にきていて、寂しくないの?」 食べおわって、ごろんと二人は大地に横になった。耳の奥が痛くなるような、静寂さだった。リズミカルに打つ鼓動や、息づかいが響くようだった。 シロツメクサの花が咲いている。ひやっとした、みずみずしい感触を腕に覚えた。クローバーを一本むしりとると、瑠奈はいった。 「家にいるより、いいもん」 クローバーを、親指と人さし指でつまみ、くるくるっとまわした。 「どうして?」 「祥くんには、わからないよ。あんなにやさしいお父さんやお母さんがいてさ」 「本当の親じゃないんだ」 祥の言葉に、瑠奈は、驚いて起き上がった。 自転車で走り続けたせいか、全身が重くだるかった。 「小学校四年のときに、養子になったんだ。それまで、施設にしたんだよ。亜衣、あ、ぼくの妹のことだけどさ、亜衣がもっと早くに生まれていたら、きっとお 父さんたちは、ぼくを養子にしようなんて、思わなかったと思うんだ」 「でも、いいお父さんたちじゃない」 「うん、とってもね。だから、ぼくも、いい子でいようと思うんだ」 めんどうみのいい、明るくて元気な男の子だと思っていた祥。瑠奈は、はじめて祥の心の内をのぞいた気がした。 空に浮かぶ大きな雲が、太陽の光をさえぎり、日陰をつくった。大地の色が、深みを帯びた。 「日陰って、雲がつくるものなんだね」 建ち並ぶ家や、高層ビルがつくった日陰しか、瑠奈はしらなかった。 「瑠奈ちゃんはさ、お父さんやお母さんに抱きしめてもらったこと、あるだろ?もちろん、ぼくには親がいなかったから、そんなこと一度もないんだ。それに、 親ができたって今はそんな子供じゃないしさ」 祥は、空を見たまま、そういった。 「わたしもないの」 「だって、本当の親なんだろ?」 「お母さんは、小さい頃に出ていったし、お父さんは・・・・・・」 言葉が、つかえた。 わたしのことが、きらい。わたしのことを、憎んでいる。生まれてこなければよかったと思っている。いつも、ふきげん。そして、わたしに暴力をふるう。 わたしのなにがいけないの?お母さんに似てるから? 頭の中で、いろいろなことが、ぐるぐるまわっていた。 「ぼくたち、似てるね」 瑠奈たちは、丘のてっぺんまでのぼった。 「あ、トンボ」 瑠奈が指さした。 「ペンションの近くで、ぼく、蝶をみたよ」 祥の笑顔に光が反射して、まぶしかった。 北の大地の夏は、季節がまざっていた。道ばたには、タンポポやコスモスが咲いていた。そして、先ほど通り過ぎた家の庭には、むらさき色のあじさいが咲い ていた。 丘のてっぺんまでいくと、富良野が一望できる。二人の自転車が、小さく見えた。遠くに広がるラベンダーをはじめとする、色とりどりの花のじゅうたんのよう な畑。青い空、白い雲、緑の草木。八幡丘は、虹色に彩られていた。 4 それは、突然やってきた。 祥とサイクリングに行った、翌朝のことである。 朝、トイレにいったとき、下着を汚していたものは、赤黒い血液だった。特に下腹部が痛むわけでもなく、気分が悪いわけではない。小学校五、六年生くらい から、初潮をむかえている友だちはいた。いつかは、そのときがくるとは、わかっていた。 心臓が、どくっどくっと強く鼓動している。 麻美は、厨房で朝食の準備に追われている。とても声をかけられる状況ではないことは、瑠奈にはわかっていた。 厨房に入ると、 「瑠奈、今、忙しいからあとにしてくれ」 和也お兄ちゃんが、強い口調でいった。 「麻美さん・・・・・・」 スープの味見をしていた麻美さんが、おだやかな笑顔でふりかえった。 「・・・・・・なっちゃったみたい」 瑠奈のこのひとことで、すべてを察した感じだった。 「すぐ行くから、お部屋で待っていて」 と、続けてそういった。 瑠奈が部屋に入って、まもなく麻美さんはやっていた。 「気分、悪くない?」 瑠奈は、こくりとうなずいた。 「大丈夫よ、心配しなくても。ちょっとめんどうだけどね、これから」 麻美は、明るくそういった。 女として生まれれば、誰もが必ず通る道なのだ。いつの日からか胸の痛みを感じはじめ、そしてむかえた初潮で、階段をまた一段上ったという感じだった。 母のいない瑠奈にとって、このときのことに少なからず不安があった。血液が、脚を伝って、流れ落ちてきたらどうしよう、と。学校で、家で、あるいは街 で、突然その思いに襲われることがあった。 だが、現実は、瑠奈の心配していたことほど、おおげさなことはおこらなかった。 いつもの朝のように、連泊以外の宿泊客は、あわただしく朝食をすませ、チェックアウトしていく。 祥たちの家族もそうだった。祥は、きのうと同じで、めんどうみのいいお兄ちゃんだった。そんな祥の家族の食事風景を、手伝いをしながら、遠目に瑠奈は見て いた。 ほとんど話をする間もなく、祥は、車に乗りこんだ。 きのう八幡丘では、あんなにおしゃべりしたのに、どうしてだろう。今日は、瑠奈も祥も、よそよそしい気がした。瑠奈は、この小さな出会いに、大きな別れ を感じていた。 「手紙書くよ」 祥の言葉に、瑠奈はうなずいた。そして、小さく手をふった。 祥は、八幡丘で見たまぶしい笑顔で、窓から身体をのりだすように手をふってくれた。 車は、なだらかな坂をおりていく。富良野は、今日も青い空が広がっていた。 瑠奈は、ペンションの一室を使わせてもらっている。瑠奈が、出窓の窓ガラスを押し開け、星をみていると、ドアがノックされた。 「はい、ホットミルク」 和也お兄ちゃんだった。 夏にしては冷たい風が、レースのカーテンをゆらした。夏でも、富良野の夜は、冷たいオレンジジュースよりホットミルクの方がふさわしい。 「夜になると、少し肌寒いだろう。夏なんて、あっという間におわりさ」 瑠奈は、カップを手にした。両手でつつみこむようにすると、じーんと手にひびく熱さが伝わる。 「来年の春さ、赤ん坊が生まれるんだ」 「そうなんだ。いいな、和也お兄ちゃんがお父さんだなんて」 「どうして?」 「だって、楽しそうだもん。それにやさしいしさ」 「オレさ、東京から出てきたの、おやじのせいなんだ。子供のときから、なにかっていうと、すぐなぐるんだ。絶対、あんな家、出ていってやるって思ってたん だ、オレ」 わたしと同じ・・・・・・。 瑠奈は、心の中で叫んでいた。 「だからさ、赤ん坊にはそういう思いはさせたくないって思うんだ」 そういうと、和也お兄ちゃんは、大きく伸びをして、窓から空を仰いだ。 「でもさ、瑠奈。去年、じいちゃん、死んだだろう?おやじ、棺桶に入れられたじいちゃん見て、こういったんだ。さんざんオレのことなぐりやがって、オレが 一度もなぐりかえさないうちに、どうして死んじまうんだって。やっとわかったのにって、大声で泣いてた」 瑠奈は、おじさんのそばで、声を殺して泣く父がいたことを思い出した。 「うまくいえないけどさ、必ずしも、おやじは、オレのことを憎んでいたわけじゃないんだって、わかってきたんだ。一種の病気、なのかもしれないな。だか ら、本当のことをいうとさ、オレ、自分の子なんかつくるつもりなかったんだ。この血を、血のつながりを絶たなければならない、そう思ってたんだ」 瑠奈は、無意識のうちに右腕の傷あとをさすっていた。父にけがをさせられ、五針もぬった傷あとだった。その瞬間、瑠奈の頭の中に、母親の顔が浮かんだ。 「わたしのお母さんのこと、覚えてる?」 「真理さんは、きれいでやさしい人だったよ」 父や祖母のいう母とは、全然違う。 「でも、わたしをおいて、男の人のところに行っちゃったんでしょ?」 「真理さんのこと、恨んでいるの?」 母を恨んではいない。 恨むとすれば、ひとりで出て行ったこと。自分で産んだ子供を、そのままに置き去りにしたこと。 「真理さんは、かなり悩んでいたよ。おじさんに、殴られるって。結婚前は、そんな人ではなかった、と」 和也お兄ちゃんは、知っていたのだ。 父に殴られるから、母は、寂しそうな目をしていたのだ。 「こんな状況なら、他に好きな人だって、できちゃうだろ? 瑠奈のお父さんは、決して瑠奈のこと憎んでいるわけじゃないんだ。じいちゃんが、おやじたちを なぐって育てたから、そんな接し方しかできないんだ」 最近、中学生がナイフで同級生を刺したなんていう事件が多い。発作的にしてしまう状況を『きれる』というのだそうだ。それと同じなのかもしれない。 「でも・・・・・・」 人前で、涙など見せたこと、もう何年もなかった気がする。どんなことがあっても、耐えていた。誰もたよる人がいなかった。誰かに話せることではなかっ た。 「まだ中学生になったばかりだもんな」 そういうと、和也お兄ちゃんは、瑠奈の髪をなでて、そっと抱きしめてくれた。 まだ中学生、まだ子供と大人はいう。 それでも瑠奈自身にとっては、もう中学生であり、決して子供ではなかった。二十七歳の和也お兄ちゃんと、今年十三歳になったばかりの瑠奈。和也の半分しか 生きていないのに、和也のように思えるようになる日は、まだずっと先のことだろう。 「でも、わたし、お父さんのこと、好きなの」 しゃっくりをあげながら、とぎれとぎれにいった。 すごく好きなのに、同じくらい憎んでいる。憎んでいるだけだったら、こんなにはつらくない。ほかの友だちのように、家でいろいろな話をしたり、一緒にでか けたいと思う。でも、実際は話すことはないし、暴力をふるう父を思うと、近づけなくなってしまう。 5 夏休みがおわりに近づいてきた。 富良野にきて、一ヶ月以上になる。 「さっき、瑠奈ちゃんが出かけているときにあしたむかえに来るって、お父さんから電話があったわよ」 夕食の手伝いをしようと厨房に入ったところ、麻美にいわれた。 わかってはいたけれど、とうとう帰る日がきたかと瑠奈は思った。 父は、予定どおり翌日にやってきた。 父にとっても、はじめての北海道。瑠奈と同じように、広い大地に心をうばわれたかのように、感心しながら助手席できょろきょろしていた。 後部座席で、麻美さんと共にすわっていた瑠奈は、ミラーを通して和也の視線を感じていた。それに、わざと気づかないふりをして、沈みこむようにこしかけ、 青い空を見ていた。 その日も、いつもと同じくらいの宿泊客がいたので、和也お兄ちゃんたちは忙しそうだった。 父は、麻美さんの料理を口に運びながら、隣にすわった宿泊客と話に盛り上がっていた。外にいると、父は、瑠奈の見たことのないようなおだやかさにあふれて いる。 瑠奈は、ふと窓の外へ目をやる。あたりはまっくらで、瑠奈の身体が闇の中に浮き上がる。ふと、ナイフとフォークをもった手を休めた。寂しい目をしてい る、といった和也お兄ちゃんの言葉を思い出す。 父のきらいなこの目。母と似ているこの目。 やはり父とは、ほぼ一ヶ月ぶりに会ったというのに、話すことなどなかった。 富良野では、祥に出会った。サイクリングのこと、父も心うばわれただろう大自然のこと、きゅうりやトマトをもいできたこと、そしてはじめての生理。それな のに、話すことはなにもなかった。 父は、『ふらのワイン』が気に入ったらしく、そうとう飲んで、酔っぱらっていた。瑠奈は、食事がすむと、父に気づかれないようにそっとぬけだした。 部屋にもどって、窓を開けた。八月下旬の富良野の空気は、冷たかった。和也お兄ちゃんが、二十七年かかって解決してきたこと。その半分しか生きていない 瑠奈に、解決できるはずがない。 瑠奈は、母のことを思った。今、母は、どんな目をしているのだろう。笑いの絶えない、おだやかな顔をしていてほしいと思った。 一ヶ月以上、貸切状態にしてきたこのツインルーム。この部屋にいるのが自然で、ここからの眺めも、生活の一部になっていた。 あしたの午後の飛行機で、東京に帰る。荷造りも終わっていて、瑠奈は、名残惜しい気持ちで、部屋をぐるっと見渡した。出窓に置いてあった、鉢植えのラベ ンダーも、なくなっていた。ラベンダー畑の一面のむらさき色も、いつもまにか薄れ、うす茶色になり、気がつくと枯れて色あせていた。 もう、富良野の夏が終わったのだ。 父が、部屋に来たのは、かなり遅くになってからだった。 なんとなく寝つかれずにいた瑠奈は、あわてて寝たふりをした。父は、瑠奈の布団の乱れをなおすと、ベッドに入り、すぐ眠ったようだった。 いびきを聞きながら、父と同じ部屋で寝るのは、何年ぶりだろうかと瑠奈は考えた。 旭川空港まで、和也お兄ちゃんが車で送ってくれた。お礼をいいながら、口数が多い父に比べて、瑠奈はだまったままだった。 「来年の夏も、また来てね。今度は、赤ちゃんのお世話も、瑠奈ちゃんにお願いしなくっちゃ」 瑠奈は、ふと麻美のおなかに目をやった。まだ妊娠しているとは思えないほど、スリムである。ひとつの生命が、たしかに息づいているのだ。 「瑠奈、なんか困ったことあったら、オレに電話してこいよ」 和也お兄ちゃんは、瑠奈の強い味方だ。原稿用紙に語れなかったことを、和也お兄ちゃんは、わかっていてくれる。 飛行機が離陸すると、たちまちに北海道が遠のく気がした。一時間半後には、東京にいる。機内で父は、雑誌を見ていて、瑠奈と話すことなどなかった。 もうすぐ着くだろうかと、瑠奈は、時計を見た。北海道とはうってかわり、羽田空港上空、雷をともなう夕立のため、着陸がなかなかできないらしい。その事 情をしらせるアナウンスが入り、飛行機は、何度も大きな旋回をくりかえした。そのたびに窓からは、房総半島が見えかくれし、だんだんと現実に引き戻されて いる気がした。数回の旋回をくりかえした次の瞬間、飛行機は、さっと雲をくぐり着陸した。 飛行場は、夕立に洗われ、みずみずしい輝きに満ちていた。そして、蒸し暑かった。まだ、東京は夏だった。 雲間から、太陽が顔をだし、遠くの空に虹がでていた。 「お父さん、虹!」 瑠奈は、思わず指さした。 「虹を見たのは、何年ぶりかな」 父が、ぽつりひとりごとのようにいった。うっすらと空ににじむ色に、瑠奈は、富良野の大地の彩りと、祥のまぶしすぎる笑顔を思い出していた。 今度、虹を見るときは、いつだろう。そして、どうしているだろう。 エピローグ 東京も、秋の気配が色濃くなってきていた。 定期便のように、祥から便りが届く。 『瑠奈ちゃん、元気にしてますか? 函館は、雪が降りました。 たぶん、瑠奈ちゃんと行った八幡丘も、もう雪でまっ白になっていると思います。冬の富良野にも行ってみたいね』 それは、雪の函館、元町の教会の絵はがきだった。 (完)
|

![]()
