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どこかに手紙がしまってあったと思うのだけど見つからない。次にくる手紙をあてにして捨ててしまったのだったかもしれない。しかし、来るはずの手紙は、二度と来なかった。ミラノからニースに向かう列車が、途中で立ち往生した。1992年の秋にヨーロッパを旅したときである。列車は一時間たっても動かない。アナウンスもない。イライラして車内を見まわすと、同じ車両に日本人らしき人たちがいる。「どうしたんでしょうね」と集まって話すことになった。ぼく以外の四人は、20代後半の美男美女カップルと、ひとり旅のやはり20代とおぼしき男二人だった。そのカップルの醸し出す雰囲気に羨望をおぼえた。ごく自然にお互いを気づかい、兄妹のように仲がいい。男性は高橋克典を優男にしたような感じで、男から見てもいい男だった。悔しいが、この勝負は負けだ。でも、いかにも頼りなく会話力のない男たち二人とちがって、このカップルはふつうの日本人にないものを持っている。この人たちがどんな人たちか、いろいろ話して詳しく知りたいものだ。そう思ったぼくは、男二人はほとんど無視して、もっぱらこのカップルと話した。そうしてわかったのは、恋人同士に見えた二人は実は兄妹であり、兄はパリにいる友だちのところに遊びに来ていて、妹はカナダでワーキングホリデーをしているが、兄とパリで落ち合い、一緒にヨーロッパを旅行しているということだった。パリから始まってパリで終わるぼくの旅とほとんど同じコースだったので、話が弾んだ。アドレスを交換して別れ、次の目的地であるマルセイユに向かった。港にあるレストランでブイヤベースを食べ損ねて駅へ戻る途中、この兄妹と偶然にも再会した。するとそのときである。黒人の大男が追いかけてきて、何かを大声でわめいた。怖かったが、ブイヤベースを食べ損ねてアタマに来ていたので、思わず怒鳴り返した。「黙れ、うるさい。おれは知らない。知らないがここにいた男ならそっちへ行った」黒人はぼくが指さした方向へ走り去っていった。その時である。彼女の瞳の中にキラキラっと光が走ったのをぼくは見逃さなかった。この「キラキラっ」は、旅をしていると時々遭遇することがあるのだが、日本語に訳すとこうだ。「まあ、何て頼もしい。外見はひ弱そうで優しい感じなのに肝がすわっているのね。男らしくて素敵だわ」港町マルセイユは治安がよくない。「時々ああいうのがいるから気をつけて」と、何事もなかったかのように落ち着き払って言い、ブイヤベースを食べに行く彼らと別れた。そんなことがあったせいだけではないだろうが、あのとき、彼女はぼくにかすかであれ恋をしたはずだ。帰国してしばらくして彼女から手紙が来た。すぐ返事を出したが、次の手紙には「近々引っ越をして住所が変わるので、落ち着いたら連絡します」とあった。しかしとうとう手紙は来なかった。彼女のように美しく気立てのよい女性なら文句なくOKだったのに、実るはずだった恋は芽も出さずに消えてしまったのだった。たった15年前のこととはいえ、隔世の感がある。あのころ、ヨーロッパではすでに携帯電話がかなり普及していた。パソコン通信も始まっていた。もしあのとき、インターネットがあってメールができたなら、海を隔てた恋も実らずとも花くらいは咲かせたかもしれない。遠距離恋愛はたいていダメになったものだが、今は通信手段がたくさんあるしコストも最小で済むようになり、遠距離恋愛の流産率はかなり下がったと思う。彼女の名前は、最近まで覚えていたが、いざブログに書こうとしたらどうしても思い出せない。アキラさんとか、男性にもよくある名前だったような気がする。かなうことなら、マルセイユでブイヤベースでも食べながら、この15年間のことを彼女と語り合ってみたいが、どんな敏腕な探偵でも、たったこれだけの情報で彼女を捜し出すことは不可能だろう。
December 31, 2007
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時々、どこで人生の歯車が狂ってしまったのかと考え込むことがある。今から思えば、すべては順調だった。彼女が転校してしまうまでは。黒澤葉子さん(本名)は、小6の二学期に転入した学校の同級生だった。当時は、炭坑の閉山が相次いでいた時期。札幌でもっとも地価の安かったこの土地には、炭坑離職者たちが大量に流入した。二学期に45人だったクラスメートは卒業のときには55人になっていたが、その間にそれとは別に5人も10人も、転入しては転出していった。図書室まで教室にしても収容しきれない数の子どもであふれかえったこの学校のアナーキーな雰囲気はいっぺんで気に入ったが、そうした中で、麻生という、東京の高級住宅地を連想させる地名を持つ地域に比較的早く住みついた親を持つグループの中に彼女はいた。歯科医の娘で色白の美少女の杉山二美さん(本名)、小学生にしてはグラマラスな肢体でセクシーだった中塚英子さん(本名)にも惹かれたが、杉山さんは物静かすぎて何を考えているのかわからなかったし、中塚英子さんはチビだったぼくから見ると2~3歳年上に見えて近寄りがたかった。しかし利発で活発でお転婆な黒澤葉子さんとは、妙に気が合った。彼女といると楽しかったし、いつも追いかけ回したり、追いかけられたりして遊んでいた記憶がある。転入したクラスで、すぐにぼくは人気者になった。当時、小学校高学年で流行っていたのは、スカートめくりである。たいてい、男の子は自分の好きな女の子のスカートをめくる。しかし、そうするとスカートをめくられる子とそうでない子が出てしまう。自由と平和と平等を愛し、同情心に富むぼくは、スカートをめくられない子もまんべんなくめくってあげたところ、男子にも女子にも「あいつはいいやつだ」ということになり、一躍人気者になったのだった。しかし黒澤葉子さんのスカートはめくったことがなかった。なぜなら、彼女はいつもズボンをはいていたからだ。で、彼女の近くにいる女の子のスカートをめくる。すると、彼女がぼくを追いかけまわし、不意をついてビンタを張る、そんな毎日が楽しかった。卒業のときのサイン帳にはこうある・・・いつだったかあなたのたん生会に行った時はとても楽しいでした。そしてあなたをおいまわしたこともとても楽しいでした。でも、あと少し、ほんの少しでおわかれ。いつまでもお元気で。大きくなったらまたあうこともあるでしょう。サヨウナラ、葉子。彼女は高校教師だった父親の転勤のために函館に引っ越してしまい、同じ中学に進学することはなかった。まだ小学生だったから、強烈に異性を意識することはなかった。ただ一緒にいると、なぜかわからないがものすごく楽しい、そんな感じで、それは彼女も同じだったのではと思う。もし彼女が引っ越さず、同じ中学に行っていたら、傍目で見ても微笑ましい仲のよいカップルになり、人もうらやむ公認の恋人同士になっていたのは間違いない。そうならなかった運命を恨んでいるのではない。が、彼女もぼくと同じように思っているのではないか、ひょっとすると40年近くたった今でも、と思うのである。身を滅ぼすような大恋愛もしたし、我を忘れるほど好きになった女性もいた。しかし、彼女ほど「気が合う」女性とはその後も出会わなかったような気がする。彼女が彼女のよさを失わずにおとなになることができたなら(その確率は高いと思うのだが)容姿はともかく、竹下景子みたいなキャラクターの女性になっていると思う。彼女が引っ越さなければ、中学・高校とぼくたちは健全な愛を育み、10代の早い時期にセックスをするようになり、セックスに対する偏った関心を持たずにすくすくのびのびと育ち、円満な人格者となり、まともな就職をしてふつうの家庭を持っていたにちがいない。彼女との思い出で忘れられないのは、炊事遠足や友だちの家でやったサンドイッチ・パーティで作ってくれた料理がすばらしくおいしかったことだ。炊事遠足で彼女が作ったバーベキューのソースのおいしさは今でもおぼえているが、うわさをききつけた引率の先生たちが行列を作ったくらいだった。往復ビンタを得意技とするお転婆な彼女だったが、家庭科的なことはどれも抜きん出て優れていたように思う。かといって、家庭の主婦に収まるようなタイプではないから、その後どんな人生を歩んだのかを知りたいと強く思ってしまう。「麻生グループ」とはその後も付き合いがある。不思議なことに、その中の誰も彼女の消息を知らない。映画「スタンド・バイ・ミー」は、たしか「人は誰も、12歳の時の友だちを超える友だちを終生、持つことはない」という言葉で終わる。12歳の時の「恋人」は、おかっぱで、いつもズボンをはいていて、そして料理上手だった。おかっぱで、パンツルックの似合う、料理上手な女性フェチになってしまったのは、黒澤葉子さん、あなたのせいだ。
December 30, 2007
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4泊5日で東京へ行ってきた。 12月9日は日比谷公会堂へ。指揮者の井上道義によるショスタコーヴィチ交響曲ツィクルスの最終日。交響曲第8番と15番。 このホールは約30年ぶり。30年前は2階席で日本フィルを聴いたが、今回は新日本フィル。このオーケストラもオーケストラ単独で聴くのは約30年ぶり。30年前とは比較にならないほど成長したが、日本の他のオーケストラ、特に地方オーケストラのこの30年間の成長・変化に比べるとかなり見劣りがする。 新日本フィルに限らず、東京のオーケストラを聴いていつも思うのは、東京人の長所と短所の両方が表れているということ。 東京人は人あたりが柔らかい。亜熱帯地方の人間にありがちな傾向かもしれない。器用でアタマの回転が速く、都会人にしては意外と親切で気が利くと感じる。 しかし、目の前に起きることを手際よく処理していく能力には長けていても、物事を大きくとらえる能力、物事の本質をおおざっぱであれわしづかみにする能力には乏しいように見える。物事に対してもいつも半身の構えで、集中し没入すべきときにも、ポール・ニザン風に言えば「蓄音機を見抜く知性」というか理性が邪魔するようにも見える。もっと言えば、あえて火中の栗を拾う侠気や自発性がない。もろもろの結果、人間に深みがない。深みのない人間たちから深みのある音楽が生まれようはずもない。 日比谷公会堂という響きのデッドなホールでは、こうしたオーケストラの欠点があらわになる。器用でうまいのに、肝心なところでミスをしたりキメが甘かったりする。ミスは事故だから仕方がないにしても、では次の「見せ場」で取り戻してやろう、という気概を欠く。東京都交響楽団ほどではないが、官僚的なのだ。 井上道義の指揮というか解釈が、遅めのテンポで大きく音楽をとらえるスケール感のあるものだっただけに、よけいに欠点が目立ってしまった。 それにしても、短期間にショスタコーヴィチの交響曲をすべて上演するという大プロジェクトの、最終回だけでも立ち会えたのは幸運。日比谷公会堂の再評価にもつながるこの企画は「偉業」と呼んでいいものだったと思う。東京滞在の最終日はミッドタウンのサントリー美術館で「鳥獣戯画展」をかけ足で。平日にも関わらずの大混雑で、東京で美術館を訪れるなら夜間に限るのかもしれない。このサントリー美術館で待ち合わせた人がいたが、その人は間違ってサントリーホールに行ったので会えずじまいだった。 細かくやりとりし、お互い時間のスキマを見つけて会おうとしたのに最後のツメが甘い。このように、東京人には自分の住んでいるところのこともよく知らず、住んでいないところのことはほとんど知らないケースが散見される。 この話題はいつか「折々のバカ」にでも書くことにしたいが、東京人の「県民性」について思うところの多い「旅」だった。
December 14, 2007
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