仕事のこと 0
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【2017年12月21日(木)】 来年の年賀状用の寺社等の門の写真を撮影した後(こちら)、哲学の道沿いの「光雲寺」に向かいました。午後ここで、シニア講座のフィールドワークがあり、そのお手伝いをするためです。12月14日に「菊と葵~後水尾天皇と東福門院」と題した講義があり、それに関連してのフィールドワークです。 このプログラムを担当している人に加え、私含め数人がお手伝させていただきました。全体で70名程度の受講者数でした。光雲寺に集まった受講生の方々 最初、本堂でご住職から、光雲寺の由緒と本堂内の寺宝について説明いただき、その後3班に分かれて、客殿、方丈、本堂前庭をご案内し、最後に顕子内親王の陵墓を見学いただくという流れでした。 私の担当は、客殿、方丈、前庭見学の後に、皆さんがもう一度本堂を見学に来られるので、その監視と質問への対応という役割でした。やはり、多くの方が最後もう一度本堂に戻られ、寺宝を近くでご覧になり、質問も多く受けました。12月7日にエリアグループの研修で座学も受け、ここも見学させていただいていますし(こちら)、追加の資料も色々いただいていて事前勉強もしましので、一部は資料を見ながらですが、お答えすることができました。唯一困ったのは、「資料に仏殿は『桁行六間、梁間七間』て書いてありますが、どのことですか?」という質問。梁間は見えない部分もあって分かりませんが、確かに桁行は柱の数からは六間ありません。「何故でしょう。分かりません。」とお答えせざるを得ませんでした。 お天気もよく、風もなく、それほど寒くもなく、通常非公開で特別公開もほとんどないお寺でご住職からお話を聞くことができて、多数の寺宝をご覧いただけて、参加者の皆様の満足度は高かったのではないかと思います。 我がエリアグループは後期の4月に、「徳川幕府と京都の寺社・公家・朝廷」というテーマで講義・フィールドワークをすることになっています。 今年の有給でのガイドのお仕事は12月17日の修学旅行(こちら)で最終だったのですが、今日のお手伝いで無給も含めお仕事がすべて終わりました(ひょっとすると今日の分、多少お手当が出るかもしれませんが)。 後片づけをして、ご住職にご挨拶を申し上げて、反省会兼懇親会(こちら)に向かいました。 (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/12/21
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【2017年12月12日(火)】 今日は午後からガイド会の地区組月例会でした。 午後からなので午前中、年賀状に載せる寺社などの門の写真を撮って回る心づもりでいましたが、風邪が完治していなので自重しました。 会議では私にとって新しいことは特にありませんでした。2月に修学旅行が少数ありますが、私には割り振られませんでした。1月、2月は修学旅行担当はなしです。 急に寒くなって風邪が流行っているようで、欠席の方もいらっしゃいました。急病で入院されたり、仕事中に倒れられたり、骨折されたりという方もいらっしゃると聞いています。気を付けなければなりません。 来年1月6日から始まる「京の冬の旅」は今年は、下記の15ヶ所+平安神宮尚美館で16ヶ所。我がガイド会も担当します。去年より今回のほうが勤務日数が多くなりそうです。より忙しくなるので、より体調を崩しやすいですが、全体で忙しいわけですから、休みたい時にピンチヒッターを見つけにくいということでもあります。そういう点からも体調管理がより重要になります。 風邪が完治していませんが、会議後の有志飲み会に参加しました(こちら)。残る仕事は17日の修学旅行だけで、それまでに治るだろうから今回はいいでしょうが、「冬の旅」が始まれば自重しなければなりません。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/12/12
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【2017年11月27日(月)】 今日は、我がガイド協会が案内を担当している2つの特別公開寺院を見学するのと、来年の年賀状に使う寺社の門の写真を撮影するために、京都に出かけました。 特別公開のうちの1つは、「秋の特別公開」(京都市観光協会主催)の浄住寺、もう一つは東寺塔頭観智院です。年賀状の写真撮影も含め、次のルートで廻りました。浄住寺(見学)→広隆寺山門(写真撮影)→二条城東大手門(写真撮影)→東寺塔頭観智院(見学)→東寺南大門(写真撮影)本当は、門の写真撮影のため、東福寺、清水寺、八坂神社、知恩院も廻りたかったのですが、全く時間が足りませんでした。 門の写真撮影は、後刻投稿することとし(こちら)、ここでは浄住寺・観智院の見学について投稿します。 浄住寺は初めての特別公開です。このお寺の前を通ったことはありますが、境内に入るのは初めてです。西山の苔寺の南にあり、私が住む桂坂から東海自然歩道で下りたところにあるので、交通費節約のためにも徒歩で向かいました。 私の自宅から東に向かい、東海自然歩道の下り口から竹藪の中の道を下ります。 嵐山の「竹林の道」にも負けないような竹林が続きます。 山を下りたところを山沿いに北のほうに進むと浄住寺があります。浄住寺本堂。案内がありました。木根観音像パンフレットから方丈案内がありました。方丈は、仙台藩主・伊達綱村の早逝の子(扇千代丸)の居館が寄進されたものです。この幼子を何かのときに助けるための抜け穴が床の間の掛け軸の後ろに隠されていました。雲龍図パンフレットから方丈庭園 開山・鐡牛禅師の遺偈亀甲竹四方竹の説明(切り口が菱形の竹) 浄住寺の少し北にある地蔵院。以前二度参拝したことがあります。今日は中に入らず、紅葉を門の外から撮影させていただきました。「竹の寺」として有名なお寺ですが、紅葉も素晴らしいです。地蔵院 苔寺参道のバス停から、京都バスで太秦広隆寺へ。その後、やはり京都バスで四条大宮へ向かい、北に歩いて姉小路大宮の「更科」さんで修学旅行昼食処の下見を兼ねて昼食をとりました。以前、二条城近くの昼食処の下見で外観だけを確認したことはありますが、中に入るのは初めてです。→こちら 昼食後、二条城の東大手門で写真を撮り、市バスを乗り継いで東寺へ。東寺塔頭の観智院へ。観智院 改修工事が終わっての特別拝観です。我がガイド会のメンバーの案内を聴きました。 観智院は東寺一山の勧学院で、所蔵する密教聖教の量と質では我が国最高といわれます。中世、後宇多法皇が徳治3年(1308)に東寺に帰依され、西院(御影堂)にこもって真言教学の研鑽につとめられ東寺興隆を発願されました。この頃、東寺は西院の弘法大師像を中心に、新しい出発をしており、頼宝、杲宝、亮禅という真言界でも傑出した学僧が輩出しました。中でも杲宝は随一といわれ、晩年、観智院を創建して東寺教学の基礎を築きました。江戸時代の宗教政策の中で、徳川家康は黒印状をもって観智院を真言一宗の勧学院と定めましたが、それはひとえにこの寺の伝統とその厖大な聖教経典の価値が、広く認められたためです。 客殿は慶長10年(1605)に再建されたもので、桃山時代書院造りの一典型で、国宝に指定されています。また宮本武蔵筆の「鷲の図」が残されています。客殿(国宝)パンフレットから鷲の図 宮本武蔵筆パンフレットから長者の庭(涅槃禄の庭) 以前「五大の庭」があったところを今回改修したそうです。 御本尊は五大虚空蔵菩薩で重要文化財に指定されています。唐の都長安の青龍寺金堂の本尊であったもので、847年入唐僧恵運が請来したものです。その面貌、姿態のすらりとした特徴は宋時代彫刻にみられる傾向で、これらの像の造られた晩唐期の彫刻様式を偲ばせるものがあります。五大虚空蔵菩薩パンフレットから 愛染明王(江戸時代) 縁むずび、開運、子宝の本尊として多くの信仰を集めます。パンフレットから書院 浜田泰介画伯の「四季図」パンフレットから茶室「楓泉観」パンフレットからパンフレットから茶室「楓泉観」からの眺め中庭 南大門をカメラに収めたところで、暗くなってきました。東福寺、清水寺、八坂神社、知恩院の門撮影は後日設定することにして、帰途に就きました。 (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/11/27
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【2017年11月14日(火)】 今日は昼間M社子会社製造事業部門のOB会に出席後(こちら)、京都に向かい、月イチのガイド会エリア会議に出席しました。開始まで時間があるので、重いですがPCを持っていって、近くのマクドで16日の嵐山ガイドの「紙芝居」を作成しました。 今日の私のトピックスは、1~3月の固定点と「京の冬の旅」の勤務場所が決まったことです。 固定点は「梅小路公園」、冬の旅は「伏見稲荷大社お茶屋」となりました。客員研究員の研究は伏見稲荷大社を対象にしているので、より伏見稲荷のことを知ることができたり、神社の方と話できる機会もあったりするのではないかとの期待があります。「梅小路公園」は土日祝の勤務で、観光ガイドというよりは、質問への対応が主体のようです。いずれも今後事前説明会があります。「京の冬の旅」パンフレットから 終了後、いつも有志で簡単な懇親会がありますが、今回も参加しました。→こちら (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/11/14
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【2017年11月13日(金)】 嵐山同行ガイドの下見(こちら)の後、京都市中央図書館に寄って客員研究員研究のため文献を閲読し(こちら)、午後2時半から京都YWCAでの某講座企画委員会に出席しました。 全体テーマが決まり、私が講師を担当する部分についても議論がありました。種々図書を読んだ内容に基づいて作成した「叩き台」に基づいて討議していただきました。 テーマは私提案のままでOK。サブテーマは若干変更になりましたが、私の案がほぼ認められた状況です。 フィールドワークについては、上記「叩き台」に色々候補を書きましたが、討議により、ここから一か所に絞り込まれました(先方のご都合や承諾可否もあるので、決定ではありませんが)。 勉強のために見学すればよいスポットなどアドバイスもいただきました。 私が講師をするのは、平成31年(新しい年号になっていると思いますが)4月で1年以上先ですが、来年3月にはセンターに概略説明資料を提出する必要があるので、その案をまずは固める必要があります。今まで読んできた図書などをさらに読み込み、咀嚼をして作成していきたいと思います。 (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/11/13
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【2017年10月10日(火)】 ガイド会の地区組月例会でした。会は午後なので、午前中は二条城へ。 9月1日に二条城の詳細なガイドを担当しましたが(こちら)、その準備のため二条城内の説明板の内容を事前調査しました。屋内は写真禁止なので、屋内の説明板の内容は、小さな声で読んで録音して、それを聞きとりながら文章にしました。しかし、一部不明なところがあるので、今日、最終確認に行きました。短時間で済むと思ったのですが、句読点まで見直したため、2時間近くかかりました。 がっかりしたことが一つあります。以前、説明板の記述内容間違いを一か所発見して、そのことを書きとめて、二条城の事務所に郵送しました。9月上旬でした。しかし、その後、何も返事がありません。今日修正されていないかどうか確認したところ、何も変わっていませんでした。がっかりです。落ち着いたら、もう一度レターを送って見ようと思っています。 午後からはガイド会の定例会。私に纏わる特記点は、12月に修学旅行1件が担当になったこと。 来年1月からは「京の冬の旅」があります。次回の会で担当場所が知らされます。 9月4日に担当した修学旅行の班の生徒たちから礼状が届いていました。この学校は、当日最後別れるときに班長さんが、簡単なお礼を書いた紙をくれましたが、今回は一人一人から手紙をいただきました。良い思い出としていつまでも記憶の片隅にでも残ってくれればと思います。 終了後、いつも有志で簡単な懇親会がありますが、今回参加しました。→こちら-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/10/10
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【2017年9月30日(土)】 「京の夏の旅」は今日が最終日。先日、花山天文台と渉成園・蘆庵に行きましたが(こちらとこちら)、まだ大雲院が行けてなかったので、家内と行ってきました。 大雲院は東山「ねねの道」沿いにあります。天正15年(1587)に正親町天皇の勅命により織田信長・信忠の菩提を弔うために、開山貞安上人の御池御所(烏丸二条南)を賜り、信忠公の法名に因んで、大雲院と名付け、織田父子の碑を建て、追善供養しました。 その後、豊臣秀吉が狭い寺域を見て同18年(1590)に寺町四条に移し、後陽成天皇より勅願寺の綸旨を給い、大雲院の三字が親書されました。その勅額が本堂に掲げられています。 その周辺がやがて商業地域の中心となり、昭和48年に祇園閣のある現地に移転しました。 大雲院はもとは浄土宗知恩院に属しましたが、今は単立寺院です。本堂 本堂には本尊である丈六の阿弥陀如来坐像が安置されています。本尊内部には別の阿弥陀如来像が収められており、室町時代から桃山時代にかけての作で、大雲院創建時の本尊とも考えれています。 本堂ではベテランのお二人の案内を聴かせていだだきました。説得力のあるガイドでした。仏足石平和観音涅槃仏「佐土原藩戦没招魂塚」(左)「豊烈曜後之碑」(右)とその由緒を刻んだ碑 「佐土原藩戦没招魂塚」「豊烈曜後之碑」は戊辰戦争で斃れた佐土原藩士を弔うために建てられた碑です。由緒碑によると、もともと大雲院の旧地にあったのだが、痛みが激しいので、復元移転したもののようです。 大雲院は慶長年間(1596~1615)に日向国佐土原城城主・島津以久の帰依により、寄進を受けています。以久は、天下普請の命により篠山城建築に駆り出され、慶長15年(1610)上洛中に病死したとされています。この時に大雲院の開山 貞安上人に世話になったことから、佐土原藩島津氏は曹洞宗から浄土宗に宗旨替えし、以久の墓も大雲院に建てられています。大雲院と佐土原藩のつながりは幕末まで続きます。大雲院は佐土原藩の京都における本陣の役割を果たしました。このような関係から、これらの碑が立てられたようです。鐘楼 豊臣秀頼が北野神社に寄進した鐘楼。梵鐘は祇園感神院(現・八坂神社)にあった室町時代在銘のもの。ともに維新後の神仏分離によって両社で無用とされていたものを、明治3年、島津家(宮崎県)が佐土原藩士の菩提を弔うため大雲院に寄進したものです。書院(登録有形文化財)(この写真では見にくくてすいません) 元からこの地にあったもので、旧大倉家京都別邸・真葛荘の一部です。 書院は一部コンクリート造で、その他木造。設計は祇園閣と同じ伊東忠太。 内部を八角形状に仕上げた応接室が特徴的。信長・信忠碑石川五右衛門の墓 処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、貞安が引導を渡した縁によります。祇園閣 この地は元財閥大倉喜八郎男爵の別荘で、昭和3年御大典記念に祇園祭の壮観を常に披露したいと願って山鉾を模した祇園閣を建てたといわれます。鉄筋コンクリート造3階建で高さ二十尺(36m)、鉾先には金鶴が輝き、地下の基礎も深さ百尺に及びます。喜八郎は金閣、銀閣に次ぐ銅閣をつくりたいということで、伊東忠太に設計を依頼しました。喜八郎は最初、傘をひっくり返したようなものというイメージで依頼したそうだが、断られ、祇園祭の山鉾を模した現在の形のものを設計したとのこと。伊東忠太は京都では他に平安神宮や現・西本願寺伝道院を設計しています。 昭和48年、この地への寺地移転を機に1階正面に阿弥陀如来像が安置されました。また、昭和63年秋開創400年を記念して内部壁面に葛新民の筆による敦煌の壁画模写が完成し、当院に奉納されました。 壁の電球を支えるのは魑魅魍魎という鬼だとのことです。 3階からは京都の360度のパノラマが楽しめますが、近隣からのクレーム防止のため、屋内だけでなく屋外も写真撮影禁止になっています。入口の阿吽(あうん)のライオン祇園閣入口の鶴鉾先の金鶴 普通鳳凰ですが、ここでは鶴。これは喜八郎幼名の鶴吉や号の鶴彦あるいは後年の鶴翁など、喜八郎の名前に由来します。ご朱印 朱印帳を持っていかなかったので、書き置きをいただきました。 祇園閣の絵が描かれています。1ページに入りきらない大きさなので、2ページにわたって貼りました。 清水寺随求堂まで歩き、貸与品を返却。修学旅行生の昼食でよく使う「しがもり」に入ってカレーうどんで昼食。修学旅行生に人気のカレーうどんですが、家内も美味しそうに食べていました。そして家内に歴彩館まで送ってもらいました。 歴彩館は特別客員研究員の研究のため、2回目の訪問です。前回に続き、見稲荷大社の機関誌「朱」を読みましたが、時間が1時間ほどしかなく、創刊号をもう一度今回は詳しく読んだにとどまりました。 夕刻から京都駅近くで「京の夏の旅」下鴨神社の慰労会があるので、地下鉄で京都駅に向かいました。→こちら(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村、
2017/09/30
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【2017年9月28日(木)】 花山天文台を見学後(こちら)、渉成園に向かいました。 渉成園は常時公開されており、500円以上の協力寄付金で入園できます。立派な案内冊子がいただけてお得です。この「京の夏の旅」では、中の蘆庵の特別公開が加わった形で、さらにお得です。過去2度だったと思いますが、渉成園は入ったことがありますが、特別公開で建物に入るのは初めてです。 渉成園は東本願寺の飛地境内地です。1602年(慶長7)年、教如上人が徳川家康から寺地を寄進され、東本願寺が成立しました。その後、宣如上人が三代将軍徳川家光から東本願寺の東側の土地を寄進されました。宣如上人は、1653(承応2)年に退隠して自らの隠居所をそこに定め、中国の詩人 陶淵明「帰去来辞」の一節「園日渉而以成趣(園、日に渉って以って趣を成す)から採って「渉成園」と名付けました。そして周囲に枳殻(からたち)を生垣として植えたことから枳殻邸(きこくてい)とも称されるようにもなりました。 庭園はいわゆる「池泉回遊式庭園」であり、洛北詩仙堂を開いた石川丈山の作庭と伝えます。江戸時代後期の文政年間には、儒学者で漢詩人でもある頼山陽が「渉成園記」を撰して「渉成園十三景」を紹介しました。 渉成園は創立以来、幾度かの火災に遭い、現在の建物は、1864(元治元)年の蛤御門の変による炎上以降に再建されたものです。1936(昭和11)年、文人趣味に溢れる仏寺庭園として国の名勝に指定されました。 現在、侵雪橋を修理中で、池の水が減らされているのが残念でした。南側の門 後出の「大玄関」に続きます。西門園内図高石垣庭園北口臨池亭(左)と滴翠軒(十三景の一)(右)両方とも1884(明治17)年再建滴翠軒の「桧垣の燈篭」(中央)と小滝(右) 渉成園にはかつて高瀬川から水が引かれていましたが、川の水位が下がった明治以降、「本願寺水道」から導水されることになりました。この小滝の水がそうです。この滴翠軒の池から流れ出た水が遣水を通り、現在も後出の印月池に注いでいます。そのため、現在は園内の池に琵琶湖で棲息する肴たちが見られます。 この「本願寺水道」は1897(明治30)年に完成しました。1864(元治元)年、蛤御門の変で焼失した東本願寺では、1880(明治13)年頃から再建工事が始まりました。境内の防火は至上命題でした。そこで、琵琶湖疏水を完成させた田辺朔郎博士に依頼し、疏水を東山・蹴上から分水して、東本願寺の境内まで導水するという工事が行われました。三条通、祇園から四条通に水道管が埋設され、さらに五条大橋の下を通っています。 代笠席(たいりつせき) 1888(明治21)年再建 「代笠席」とは、人里離れた地を訪れた旅人が「笠代わり」に雨宿りする席という意味だと 考えられています。傍花閣(十三景の二) 1892(明治25)年再建 後出の園林堂の山門に当たる位置に建てられています。 庭園内には珍しい楼門作りで、左右両側には山廊と呼ばれる階段の入口があり、階上には 四畳半の部屋を設けています。傍らに桜並木があることからの名です。侵雪橋(十三景の六) 工事中です。3つの詩碑 河東碧梧桐、句佛、高浜虚子回棹廊(かいとうろう)(十三景の十二)1884(明治17)年再建 安政の大火(1858年)による焼失以前は、朱塗りの欄干を欄干をもった反橋だったと伝わります。 現在は桧皮葺の屋根をのもつ橋となっています。 中央の唐破風の屋根の天井部には掛け釘が設けられ、かつては夜半の来客の折り、金燈籠を吊って 火を灯しました。縮園亭(十三景の七)1884(明治17)年再建 かつては東山三十六峰の一つ、阿弥陀ヶ峰の遠景が縮図のように見張らせたといいます。印月池(いんげつち)(十三景の三) 東山から上る月影を水面に映して美しいことからの命名。 広さは約1,700坪あり、園全体の約6分の1を占めます。臥龍堂(南大島)(十三景の四) 印月池に浮かぶ南大島のことを臥龍堂とも称しています。 元来はこの島に建てられていた小さな鐘楼堂のことを指しました。 この南大島、そして縮園亭の建つ北大島、さらに回棹廊北側の築山は、北東方向から南西方向に一直線上に並んでいます。これは豊臣秀吉が築いた「御土居」の跡だといわれています。漱枕居(そうちんきょ)(十三景の十一)1865(慶応1)年再建 旅路にあることを意味する「漱流枕石(そうりゅうちんせき)」の語から採られています。 前述の縮園亭(飯店)、代笠席(茶店)とともに「煎茶三席」の「酒店」として用いられたようで、 園内に三席が完存する珍しい例となっています。双梅檐(そうばいえん) 紅梅・白梅が20株ほど植えられた梅林。 「檐」は「ひさし」の意味で、蛤御門の変(1864年)による類焼以前は、今より閬風亭(大書院)の 規模が大きく、屋根がこのあたりまでかかっていたことに由来します。閬風亭(ろうふうてい)1865(慶応1)年再建 室内は通常の書院造の間取りとは異なり、畳を外せば能が演じられるようになっていました。 1880(明治13)に明治天皇がお越しのとき、ご休息された場所でもあり、その石碑が立ちます。 「閬風」とは、中国・崑崙山脈の頂部にあるといわれる山の名前で、仙人が住むとされており、 賓客をお迎えする大書院にふさわしい名前です。石川丈山直筆の「閬風亭」扁額と徳川慶喜筆「渉成園」扁額 幕末の動乱期、東本願寺は徳川幕府に近い立場にあったため、十四代将軍・家茂、 十五代将軍・慶喜も渉成園を何度となく訪れました。園林堂(おんりんどう)1957(昭和329年再建 前述の傍花閣に対応する持仏堂。「園林」とは元来、中国宮廷に設けられた大規模な庭園の意 ですが、仏典では「浄土」をあらわす表現として用いられ、桂離宮にも同じ「園林堂」という 持仏堂があります。 堂の正面軒下には南北朝時代の禅僧・虎関師錬揮毫による「園林」の扁額が掛けれています。 室内は、棟方志功が竣工の翌年に描き上げた42面の襖絵で飾られています。 蘆庵 1957(昭和32)再建 今回の特別公開部分です。 二階席の茶室。階下は七畳で、西側に常をかまえ、二方に縁がついています。 階上は主室四畳半に、台目三畳の次の間を付しています。主室北側を板敷とし、中央に赤松の 曲木を立てて左を床とし、右脇には二重棚があります。 二方の肘掛窓(ひじかけまど)から眺望が楽しめます。 前庭の露地には珍しい形の屋根の中門が開かれています。 「蘆庵」は、江戸時代の文書では「露庵」と書かれており、中国・唐代末(9~10世紀)の 禅僧・雲門文堰(うんもんぶんえん)の言行録から「露」の一字をとり、室内にその扁額を掛けて いたようですが、現在では違う漢字をあてています。 *台目=茶室に使用される1畳の3/4の大きさの畳傍花閣を望む春日燈篭 江戸初期制作。六角形の笠の屋根には降り積もった雪が刻み出されている。門の屋根の裏 1階と2階で、会のお二人の先輩の案内を聞かせていただきました。人柄が表れた打ち解けた感じの、分かりやすい説明をされていて、お客様も大変満足されているようでした。大玄関(おおげんかん)1884(明治17)年頃移築 1880年7月、明治天皇が京都に来られ、渉成園で休息された際、本山・東本願寺の 境内に残る宮御殿とともに大宮御所から移築を約され、後に移築されてきた玄関。 秀吉を祀る豊国神社。秀吉建立の方広寺大仏及び西本願寺は、正面通と呼ばれる東西の道路で直結され、西本願寺が秀吉恩顧の寺院として存在することを都計画に上からも示しているといわれています。 徳川家康が天下を掌握した際、豊臣家の保護を受けた西本願寺と、豊臣家の聖地である豊国神社と方広寺大仏を結ぶライン、すなわち正面通を断ち切るという意図で、現在の地に東本願寺を建立させたのではないかという説があります。 そして三代将軍家光も渉成園の地を寄進して、さらに正面通を分断したのではないかということです。 先輩ガイドの説明でも、今も西・東本願寺には微妙な違いがあるといくつか例をあげて説明していました。宗門のトップは西は「門主」、東が「門首」など。その他は憶えていませんが。 「花山天文台」「渉成園・蘆庵」と濃い一日になりました。 (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/28
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【2017年9月28日(木)】 「京の夏の旅」は9月30日が最終日です。まだ見学できていないところが、花山天文台、渉成園の蘆庵、大雲院です。最終日の30日に下鴨神社ガイドの慰労会が夕刻あるので、その日に回ろうと思っていたのですが、最終日というのも慌ただしいし、今朝、雨が上がったので、今日、花山天文台と渉成園・蘆庵に行ってきました。 まず、花山天文台へ。ここは公共の交通機関では行けないので、地下鉄東山駅前からシャトルバスが運行しています。しかし、頻繁に出ているわけではないので事前に時間を調べておきました。同じバスに乗ったのは約10人でした。バスが花山天文台のすぐそばまで行ってくれるのかと思ったら、そうではなく、門の前で降ろされ、緩やかな上りの砂利道をかなりの距離歩かなければなりませんでした。天文台の門 本館、歴史館で先輩ガイドの案内を聴かせていただきました。 花山天文台は「夏の旅」初公開です。というより、こういった形の観光対象としての公開が初めてです。 花山天文台は2つある京都大学理学研究科付属天文台の一つで、もう一つは飛騨天文台です。花山天文台は1929年に建設されました。建設当時は山科区の人口も少なかったのですが、次第に人口が増えて発せられる光で観測環境が悪化し、1968年に建設された飛騨天文台に主力が移りました。今は、花山天文台は研究・教育活動が中心になっています。文化財としての価値を伝え、何とか存続させたいとの思いがあるようです。本館 直径9メートルのドームを頂きます。本館内部45cm屈折望遠鏡 ドーム内には、国内で屈折望遠鏡としては3番目の口径を持つ45cm屈折望遠鏡が設置されています。この望遠鏡は昭和2年、理学部宇宙物理学教室で購入したもので、昭和4年に 花山天文台が創設されたときに移設されました。当初、口径30cmのレンズがついていましたが、昭和44年に性能向上のため、カール・ツァイス製の45cmレンズに換装されました。これにより、 焦点距離が伸びることで鏡筒が長くなり、架台とのバランスが崩れるのを防ぐための工夫が施されています。 それは対物レンズから入った光を末尾の反射鏡で受けて折り返し、鏡筒の真 ん中付近に接眼レンズを設けるというものです。このため、一般的な屈折式の望遠鏡とは少し違った外観となっています。 天体の追尾には現在でも重力時計が使われています。昔の写真 設立当初から一般公開が行われていました。本館ドームからの眺め 右が別館、左が歴史館 別館には、ザートリウス社製の口径18cm屈折望遠鏡が設置されています。 1910年のハレー彗星接近の際にドイツから輸入されました。 現役としては日本最古の望遠鏡。遠くに大阪中心部のビル群が見えます。歴史館(旧子午線館) 子午儀を用いて正確な時刻を知るための観測が行われていました。 子午儀の上の屋根が移動して開閉できるようになっています。 近年はその活躍の場を失い、解体さ れるという話がありました。しかし、子午線館が大正から昭和の洋式木造建築として、日本の建築学史上において、貴重な建築物であるとの専門家から の指摘もあり、花山天文台歴史館として修復保存されました。 子午儀と精密時計(奥の赤いロープの後ろ) 子午儀から精密時計が誤差を生じれば時刻合わせがされました。 持ち運びできる時計をここで合わせ、京大の時計台に持っていって、時刻合わせをしたとのこと。太陽スペクトラム分析装置機械式計算機修復前には河島英五のアルバム「信望」のジャケットに使われたことがあります。二等三角点(明治31年設置) 花山天文台をあとにして渉成園に向かいました(こちら)。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。) -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/28
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【2017年9月27日(水)】 清水寺随求堂勤務後(こちら)、いつもであれば、まっすぐ帰るのですが、今日は夕刻6時から、某講座の委員会があるので、歩いてその会場に向かいました。場所は室町出水上ルの京都YWCA。ここに着く頃から雨が降り始めました。 平成30年度のテーマ案と役割分担が議論されました。平成30年度は我がエリアは江戸中期です。江戸中期は京都での政治的な動きが少ない時期です。そこで、絵画を中心にテーマを設定することになりました。詳細テーマは決まっていませんが、おおまかには「琳派と伝統工芸」「若冲と応挙」で行こうということになりました。 私は新参で、補佐的な役割を担当するということになると思ったのですが、なんと座学の講師に指名されてしまいました。お断りしたのですが、最後にはお受けすることになりました。 私担当の座学は再来年の5月頃ですので、まだ1年半先です。しかし、講座自体が来年の9月スタートで、それに合わせて募集要項を決めなければならないので、まずは11月末までにテーマ・サブテーマを決定して、来年3月にはA4で1枚の内容概略を作成しなければなりません。 若冲、応挙とも予備知識は皆無に等しいです。受講料をいただいての講師ですので、質の高い内容が要求されます。手間をかけての準備が必要です。ちょっと大変なことになりました。通常のガイド、特別客員研究員の活動だけでもアップアップなのに、それに加えてこの講師。何とかやりきらなければなりません。次回委員会は11月13日の定例会の前に行うことになりました。 終わってから、軽懇親会ということになりました。家内が飲み会で、私は夕食を外で食べることになっていたので、渡りに船でした。→こちら-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/27
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【2017年9月25日(月)】 興臨院の下見をし(こちら)、金閣寺近くの「Zip Cafe」で昼食御とり(こちら)、その後、「京の夏の旅」の「本野精吾邸」を見学しました。立命館大学の東側、住宅地の細い道を入っていった非常に分かりにくいところにありました。 本野精吾(もとのせいご)は、大正期から昭和期にかけて京都を中心に活躍した建築家。その元自邸です。L字型コンクリートブロックを組み合わせ、空洞部分に鉄筋を配し、コンクリートを流し込んで造られる中村式鉄筋コンクリート(鎮ブロック)により、大正13年に建てられたもので、日本最初のモダニズム(国際様式)建築とも言われます。 本野精吾は、東京帝国大学工科大学建築科卒業後、技師として会社勤務した後、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の教授に就任。3年間のドイツ留学で当時ヨーロッパで盛んだったモダンデザインに強く影響を受けました。帰国後、建築家としての活動を始め、鉄骨や鉄筋コンクリートを使用し、抽象的な面と線でデザインされた機能性・合理性を追求した建築作品を発表しました。日本におけるモダニズム建築の先駆者の一人として知られます。建築のみならず、家具や舞台、船室のデザインを手掛けるなど幅広く活躍しました。 京都市内に現存する氏の建築作品は、この邸の他に、西陣織物館(現・京都考古資料館)、鶴巻鶴一邸(現・栗原邸)、京都高等工芸学校本館(現・京都工芸繊維大学3号館)。 室内に展示されている染色作品は氏の三男である染色家・本野東一(とういち)によるものです。表からの眺め裏庭からの眺めブロックむき出しの外壁L字型ブロックの説明玄関の洋服掛け1階の暖炉 人の動線が機能的になるように食堂と居間の間の仕切りを除去し、一続きの部屋になっている。暖炉に刻まれた字鍵のツマミドアのノブ このほうが力が入って回しやすい。2階へ上がる階段2階へ上がる階段の明かり取り2階の南側部屋 お二人の先輩ガイドの案内を聴かせていただきました。さすがベテラン、お上手で味があるご案内をされていました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/25
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【2017年9月11日(月)】 午後から、ガイド会地区組の月例会でした。 今日の午後は長女と赤ちゃんの1ヵ月検診もありました。車で送り迎えしてあげないといけなのですが、家内も所用で午前中から不在なので、長女には申し訳なかったのですが、タクシーで往復してもらいました。せめて午前中だけでも長女を手助けしてあげないといけないと思い、午前中は出かけるのを控えました。 会での私の特記点は、下記のような内容でした。1)10月~12月の勤務は、大徳寺塔頭の興臨院のみで、勤務期間は10月7日~12月17日。2)11月の修学旅行は1件3)某講座の企画委員への就任公表 10月の第1週、12月の18日以降に仕事空白期間ができます(公募ガイドが入る可能性がありますが)。この期間が、特別客員研究員の研究を進めたり、プライベートで出来てないことをするチャンスです。しかし12月後半は、次女の出産、年末の諸事でなかなか時間がとれないでしょう。 3)は某先輩から電話で就任要請があったもの。どれくらい大変で、どれくらい時間がとられるのかは今のところ分かりません。 終了後、流れで懇親会があるので、河原町三条に向かいました。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/11
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【2017年9月1日(金)】 今日は、長時間かけて準備をしてきた某講座での二条城現地研修講師の本番でした。 午後1時スタートですが、準備を進めるうちに、現場を再度確認したいところが出てきたので、午前中に下見をすることにしていました。 朝起きて、観ていただくためのキーワードを何か設定した方がいいと思い、急遽1枚「紙芝居」を作成、「変化 時間・空間」としました。これは準備を進めるうちに、実感として感じてきたことです。 例えば、二条城全体の所有者は徳川家→京都府→宮内省→京都市と変わっているし、東大手門は、時代とともに二層→一層→二層と変化し、清流園のある場所は初代天守、大正天皇即位大礼の饗宴場、進駐軍によるテニスコート、そして庭園と姿を変えています。さらに、二の丸御殿では、奥に進むに従って、部屋の造り、装飾が変化します。 そんな時間的・空間的変化が二条城の至るところに見られます。他の京都の文化財に比べ、そういった変化が大きい文化財だと感じたため、そういう「時間的、空間的変化」に目を向けていただいて観ていただいたら面白いのではないかと思い、このキーワードを設定しました。 午前9時頃、二条城に到着。今日ガイドするので、無料で入れてもらえるはずですが、交渉でもめたり時間を食ってもいけないので、普通どおり入場料を払って入場。まず二の丸御殿の要確認箇所をチェック。・柳の間の柳の絵→模写中で現在はなし・遠侍の虎・彪の親子の場所再確認・大広間 慶長期上中下段構成痕跡→明確な痕跡なし。説明しないことにする。・黒書院の桜の移り変わり→南面も確認可能・蘇鉄の間→狭いので黒書院で説明してしまう。 絵は今置いてある場所ではなく、出入り口にあったことも説明する。・花熨斗形釘隠し→大広間から奥・白書院襖絵 伝説歴史上人物→明確には視認できず。説明しないことにする。・黒書院、白書院の名の由来→監視の方に聞いたが、「黒」「白」の命名は明治期以降で、 特に意味はないとのこと。他では白木なので「白書院」とかあるが、 ここではそういった根拠はないとのこと。・牡丹の間の北面、西面の差→ぱっと見は分からない。説明しないことにする。・老中の間→長押上白壁、竿縁天井、六葉紋釘隠し確認。 屋外では、・釣鐘の前にイベント舞台が設置されていて、近くでの説明は今日はできない。・本丸庭園では大人数での説明できる場所ないので、本丸御殿、本丸庭園、天守閣の説明は、 天守台でまとめて行う。・北大手門への道は結界があって、手前での説明が必要。・台所、御清所は普段も外から観ることはできない。→説明はしない。 直前に下見した収穫は大きかったです。本当は、前回の下見で完了しておかなかればならないことなのですが。 あと、二の丸御殿内の説明板で録音できていないところを録音し、屋外の説明板で写真撮影できていないところを撮影しました。後日、全部の説明板について、テキスト文字に書き写したものをガイド同期のメーリングリストにアップして共有することにします。 買ってきたおにぎりで早めの昼食@城内休憩所をとった後、今日ペアを組む同期の方と12時に待ち合わせ。やがて、依頼元の担当の方が来られ、ガイド会の今回研修の全体責任者の方も来られました。さらに今回見学の同期の方2名も合流。 三々五々研修生の方も集合され、13時10分くらい前には揃って城内へ入場。東大手門を潜った先で、案内スタート。私が第1班、もうおひとかたが第2班を担当。全体で41人+手話通訳2名でした。もうひとかたの班に聴覚障害者の方がおられ、手話通訳の方二人が交替で担当されました。 最初なかなかスムーズに説明できなかったのですが、次第に落ち着いて上手く説明できるようになり、途中それほど端折ったり、慌てたりすることなく、時間通り終わることができました。屋外は、影があるところが少なく、ご高齢の方も多くて心配しましたが、京都の最高気温30.7度と、さほど高くはならなかったので何とか落後者もなく終わることができました。紙芝居では、たくさん、説明を抜かしてしまったところがありました。・東大手門の修復・東南隅櫓の「千鳥破風」名前が思い出せず。・二条城の歴史で、3将軍の将軍宣下拝賀の礼、大坂冬・夏の陣、説明せず。 現況の20年間修理説明せず。・後陽成天皇聚楽第行幸と後水尾天皇二条城行幸の類似説明せず。・二の丸御殿、唯一残る城御殿を説明せず。・二の丸御殿の奥に行くに従っての変化、表裏の変化の示唆をせず。・車寄せ欄間 鸞鳥説明せす。・虎の間 虎は霊獣を説明せず。・廊下天井がうまく説明できず。・大広間 錦鶏鳥、孔雀説明せず。・家康 将軍宣下拝賀の礼説明せず。・大政奉還の流れうまく説明できず。・白書院で、これから今まで見た部屋の裏側を見ること、表裏で違うことを説明せず。・黒書院四の間 秋の情景、牡丹の間、夏の情景を説明せず。・二の丸庭園、「八陣の庭」、御殿+庭園が残るのは二条城のみを説明せず。・本丸御殿 八条宮、現存唯一宮家御殿、皇女和宮出立、孝明天皇仮御所説明せず。 などなです。 「紙芝居」は正解だったと思います。途中の休憩で、研修生の方から「ビジュアルは分かりやすい」との評価もいただきましたし、絵図や写真は興味を持って見ていただいたようです。ときどき「へぇー」という感嘆の声も聞きました。苦労した甲斐がありました。 全体的な出来としては、私自身の期待値の70%くらいでしょうか。最初、慌てるところがあったのと、説明を抜かしてしまったところがたくさんあったためです。しゃべるキーワードは、別途メモとして書き出したため、メモと紙芝居が二重で存在する格好になりました。枚数は多くなりますが、すべて「紙芝居」にしてしまったほうがいいのかもしれません。 最後2つの班を集めて、「時間と体力がある方は、展示場や東大手門、堀川護岸の石垣銘文などを見学して帰ってください」と終了の挨拶をして、解散しました。今日の研修が最終回で、後日終了式があります。 終了後。京都中央図書館に向かい、借りていた二条城関係の本を3冊返却し、「伏見稲荷大社御遷座1300年史」を流し読みました。お滝場に関する記述は、全くありませんでした。 歯医者に寄って帰宅。6日目ぶりの晩酌。今日のガイドは、私にとっては一大イベントだったのですが、誰も「お疲れさん」とは言ってくれないので、心の中で「お疲れさん」を言って、いただきました。一大イベントがようやく終わりました。 二条城は、これから公募ガイドが入っても恐いものなしです。修学旅行ももっと深みのある案内ができるでしょう。大きな収穫のあった現地ガイドでした。 以下は、今回準備した「紙芝居」です。小さい字の分が説明メモ(私自身のための備忘メモ)です。それを入れなくても60枚を超える大作になりました。外堀門の位置南門東大手門隅櫓の位置唐門の装飾後水尾天皇行幸時 城内図徳川慶喜仮御殿天守閣想像図旧二条城石垣土蔵位置西門北・南中仕切門位置清流園域 変遷北大手門堀川護岸石垣(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/01
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【2017年8月21日(月)】 某講座の二条城現地研修で、私が講師を担当するので、2回目の下見に行ってきました。 受講生は40人くらいです。二人ペアで2班に分けて案内します。二人で話す内容を合わせる必要はありませんが、訪問する場所は合致させておく必要があります。 前回6月14日は私単独で下見をしましたが(こちら)、今回は当日ペアを組む方といっしょに回りました。さらに次回半年後二条城を担当される方も合流されました。 午後9時に東大手門前集合でしたが、早めに行って、南西隅櫓、西門、北大手門を外から見学。さらに堀川の遊歩道に降りて、図書館で借りた本で知った、堀川の石垣に刻印された各班のマークを観察しました。しかし、あまりはっきりは残っていません。面白そうだったら、研修当日、正式時間が終わってから、興味のある受講生だけ連れて行ってもいいなぁと思っていましたが、このアイデアはボツです。当日、解散する際に紹介だけして、興味がある人だけ行ってくださいという程度にしようと思います。南西隅櫓 南東隅櫓が「千鳥破風」なのに対して、こちらは「唐破風」西門 堀外側から門に向って出っ張りがあり、橋が架かっていたことが分かります。北大手門堀川護岸壁の石垣刻印 工事を担当した班の刻印が多くあり説明板も立てらています。 しかし簡単には見つかりませんでした。唯一パッと見で見つけた刻印 続いて9時から3人で当日の想定コースを時間をじっくりかけて見て回りました。前回下見時、二の丸御殿内の説明板をICレコーダに録音し、それをテキストにしてありました。二の丸御殿内では、その誤字脱字などを確認しながらの見学でした。暑くて大変でしたが約3時間をかけて、本丸庭園、清流園も含め想定コースを歩きました。 ペアの方は、公募ガイドで二条城を以前案内されたことがあり(私は修学旅行のみ)、私よりよくご存知なので、色々教えていただきました。修学旅行では、せいぜい30分か40分の案内ですが、この研修は1時間半から2時間の案内ですので、それ相応の専門知識が要求されます。 想定コースを歩いた後、休憩所で昼食をとりながら、当日、2班のタイムラグをどのようにして設けるかも相談して決めました。 その後解散して、各人で見学しました。私は、もう一度想定コースを観て回りました。二の丸庭園の名勝指定を示す2つの石碑昭和14年「名勝」に指定される昭和28年「特別名勝」に指定される 最後に今まで入ったことがなかった収蔵庫にも入り、展示中の黒書院壁画を見学しました。 午後3時過ぎまで二条城にいて、その後京都中央図書館に寄って、以前借りた二条城についての図書を借りました。 午後早くには帰宅するつもろでしたが、戻ったのは午後5時頃でした。暑さで疲労困憊でしたが、色々と収穫のあった下見でした。あとは収集した情報を使って、当日どのように説明するかを決め、それを頭の中に叩きこみ、そして「紙芝居」を作成しなければなりません。 明日22日は別件で外出、23日、26日は下鴨神社ガイド、25日、31日は随求堂ガイドですので、24,27,28,29,30日の5日間でやり切ってしまわなければなりません。 次女は午後から京都でインタビューの仕事でした。明日は、東京に帰ります。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/21
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【2017年8月10日(木)】 下鴨神社勤務後(こちら、先日延期となった地区組月例会がありました。延期になったとき、勤務の帰りになったので、月例会のためにだけ出ていく必要がなくなってラッキーと書きましたが、暑さでヘロヘロの状態での集まりはきつかったです。 私についての変化点の第一点は、10月の修学旅行の予定が決まったことです。10月は3回です。もっと多いと思っていたのですが、10月はそれほど忙しくはなさそうです。秋は小学校が中心になります。私は東海地方の公立小学校2校と関東の県立高校1校です。高校生は初めてです。これで、9月3校(1校キャンセルになったので)、10月3校です。11月は未定です。 もう一点の変化点は、10月~12月の固定点ガイド担当が決まったことです。10月7日~12月17日まで大徳寺塔頭の興臨院勤務です。 10月22日の時代祭のボランティアが募集されたので、手を挙げました。 修学旅行のガイドの後、学校によっては、ガイドに対するお礼の手紙を送ってくださるところがあります。 それらはガイド会に送られてきて、月例会で担当したガイドに配られます。今日も、一校からお礼の手紙を受け取りました。 6月22日にガイドした関東の公立中学校です。そのときのガイドの様子はこちら。 小学生にしても、中学生にしても、絵を交えたりして、子供らしい手紙が多いのですが、この学校の手紙は縦書きの便せんによるもので、書き出しと結びが、全員同じなのですが、大人もなかなか使わないような言い回しで、少々驚きました。 こんな感じです。 書き出しは、「拝啓、本格的な夏を迎える頃となり、XX様におかれましては、御清祥でお過ごしのこととお喜び申し上げます。この度は、私たちXX県立XX中学校3年X組X班の修学旅行のために、様々なお世話をしていただき、本当にありがとうございました。」 そして結びは「暑さが更に増す季節になってまいりましたが、体調を崩されませんよう、くれぐれも御自愛のほどお祈り申し上げます。」 恐らく、こんな文章初めて書いたでしょう。班で例文集を調べて、必死に文章を考えたのでしょう。姿が目に浮かび、微笑ましいです。 書き出しと、結びの間の本文は、各人それぞれですが、6人中3人が「たわらや」さんで、うどんが美味しかったこと、私のしたうどんについての話が楽しかったことを挙げていました。やはり、昼食は大切な要素であることを再認識しました。 なかにはウルウルきそうな文面も。 「私たちにたくさんの笑顔と知識と思い出がXXさんのおかげで宝物になりました。大切にします。」 「歩きながら私たちが話しかけると、XXさんはいつも笑顔で優しく応えてくれました。気さくで明るく優しいXXさんと話すのはすごく楽しかったです。(中略)こうしてお手紙を書いていると、また京都をXXさんと歩きたいなぁと思ってしまいますね。楽しい思い出を、本当にありがとうございました。」 社交辞令もあるでしょうが、ガイド冥利につきます。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/10
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【2017年8月7日(月)】 今日は、午後からガイド会地区組月例会ですので、それだけの出席のため京都市内に出るつもりでいました。ところが12時30分過ぎに出ようとしていたところへFAXが入りました。台風の影響で京都市に暴風警報が発令されたので、月例会を延期するとのこと。 タッチの差で出発する前に延期を知ることができました。一度別件で外出して月例会に向かった人や、遠方ですでに自宅を出ていた人もあるでしょうから、私はラッキーでした。 ほどなく延期した月例会は、10日夕刻に行う旨のFAXが来ました。10日は下鴨神社の勤務ですので、勤務の帰りに寄れるので、私にとってはありがたいです。 思いがけなくフル在宅日になったので、溜まったブログをいくつかアップしたり、下鴨神社の「紙芝居」を補強したりしました。現在まだ午後3時ですので、某講座講師の準備も進められるかもしれません。 (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/07
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【2017年7月10日(月)】 午後から観光ガイド会の月イチのエリア集会でした。春・夏の修学旅行がほぼ終わり、今月から再び昼間の開催です。 私の特記点は9月の修学旅行ガイドが決まったこと。中学校4校を担当することになりました。東京の学校が多いようです。 明日午後、祇園祭鉾建てのガイドを1時間半しますので、定例会後下見をしました。→こちら(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/07/10
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【2017年6月23日(金)】 今日は、午前中、京都アスニーのゴールデンエージ・アカデミーの無料セミナーを聴講した後(こちら)、昼食を兼ねて、衣笠の立命館大学の学食を訪ねました。修学旅行のガイドで、金閣寺方面を案内するとき、よく昼食場所として利用するところですが、私は一度も行ったことがないので、この機会に訪れました。 学食は値段が安い、今では内装もきれいで味もよくなっている、あまり待つ必要がない、将来来るかもしれない大学で食事ができることなどから、生徒たちにも人気があります。 正門です。 私もここには受験に来たことがありますが、そのときとは学舎の様子も様変わりです。 いくつか学食がありますが、正門から近くて、席数が多い、存心館地下の生協食堂に行きました。 値段はこんな感じです。 私は、台湾風混ぜご飯とサラダバーで、637円。ここは非組合員は増額される仕組みです。その分30円プラスされた価格です。 営業時間 しかし、非組合員である我々が食事できる時間は限れらていますので、11時半前か、13時以降に利用する必要があります。このことはガイド仲間ではすでに共有している情報です。他の大学では、今のところこういう限定はないようです。 期間限定ですが、こんなバカ安メニューもあります。 立命館大学をあとにして、6月14日、16日、19日で回り切れなかった三井家ゆかりの地を回りました。家原邸跡地 西洞院通竹屋町上ル田中町西側 三井十一家の一つ家原家の邸宅のあった場所ですが、石碑もなく場所は正確には特定できませんでした。槌屋町屋敷跡 小川二条上ル槌屋町西側 やはり石碑などはなく、場所は正確には特定できませんでした。 これで、旧三井家下鴨別邸のガイドの際にいただいた、三井家関係地一覧表に記載の、居宅、店関係のうち、場所が具体的に分かるところは、全点訪問したことになります。地図にプロットするなどして、次回担当の同期の方々に後日情報提供できればと思います。 順序が前後しますが、立命館大学を訪問する前に、京都アスニーと同じビルに入る、京都市中央図書館で、二条城と伏見稲荷に関する図書を借りました。一つは、禁貸出でしたので、お金がかかり、また面倒でしたが、全ページコピーしました。二条城分は9月1日に担当する、某講座現地ガイドの準備のため、伏見稲荷分は特別客員研究員の研究のためです。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/06/23
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【2017年6月20日(火)】 車検に車を持っていって、代車を借りて、その足でA眼科に行って、帰りにエディオン洛西店にある、ドンキホ―テと百均に寄りました。 ドンキと百均の目的は、ガイドをするときにあれば便利なグッズを買い求めること。 買ったのは写真の品々。 まず、ネームカード入れ。修学旅行では、市バス一日券を使うことが多いですが、生徒たちがよく紛失します。ガイド仲間で、肩からかけるネームカード入れを貸与して紛失を防いでる方がいらっしゃいます。私も一応準備しておいて、強制ではなく、「自信がなければ、これ貸してあげるよ。」としたいと思います。 もう一つは、靴下。雨が大降りになって靴下が濡れてしまうと、例えば二条城などは裸足にさせられるそうです。そのため、替えの靴下を準備しているというガイドさんもいると聞きました。そこまでするかという気もしますが、大雨の中そこまでしてもらって二条城を見ることができたとなれば、それはそれで感動ものでしょう。安価な靴下男女用を各必要数買い求めました。大雨が懸念されるときだけ携行します。ただ片方が柄ものになってしまったのが反省です。一時的とはいえ、校則に違反となり裸足でいいとなることがあるかも。 あと一つは釣銭ケース。特別拝観時、我がガイド会がガイドだけでなく受付も受け持ち、拝観料・入場料を扱うことが多々あります。釣銭用のコインが準備されていますが、自分でも両替用のコインを持っていたほうが便利なので、釣銭ケースを多くのガイド仲間が持っておられます。本当は、各種1個だけでよかったのですが、なかったので、1種類3個入りしかなく、3×4のケースを買い求めました。 最後に携帯ウェットティッシュ。何かと便利ですし、熱中症対策にもなります。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/06/20
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【2017年6月14日(水)】 アスニーでの古文書セミナー(こちら)の後、二条城方面に向かいました。 現在、「旧三井家下鴨別邸」でガイドをしていますが、いただいた資料の中に、京都の三井家ゆかりの地の一覧表があって、三井家の邸宅やお店のあった場所が記載されています。お客様から、「逓信病院の前を通ったとき、三井の関係の場所だと書いてあったような記憶があるんだけど、あれは何でしたかな?」などと聞かれることがあって、その一覧表を取り出して説明しています。一度自分の眼でも確かめておかねばと思い、何かのついでに、何度かに分けて回ろうと考えていましたので、今日は、まず二条城に近いところを訪れることにしました。 北家邸・御用所跡 油小路通二条下ル 三井総領家(北家)の邸宅と大元方(三井の事業と家を統括)の所在地。 元・京都国際ホテル。最終的に三井不動産が買い取り、温泉付きホテルを建設中です。南家邸跡 油小路通押小路上ル 南三井家の居宅の所在地。現在、京都全日空ホテルが建つ。 油小路を北に上がった、油小路通出水上ルには、出水邸(小石川邸)跡もあります。出水三井家(小石川三井家)の邸宅だったところで、現在、敷地の一部に、ホテルルビノ京都堀川が建ちます。すでにこちらで、ご紹介しました。出水三井家はNHKの朝の連続テレビ小説「あさが来た」とモデルになった、広岡浅子の実家でもあります。 昼食時間になったので、修学旅行の昼食処の下見も兼ねて昼食です。以前、6月7日にもこの近辺で下見をしました(こちら)。そのときは、ガイド同期仲間で共有している食事処一覧表の中の「丸万食堂」というお店は開いてなかったし、「寿し正」というお店は、ちょっとお高い別の名前の店になっていました。今日も、確認しましたが、同じように前者は開いてなかったし、後者はやはり別のお店でした。 そこで、今日はリストにはないけど、以前から気になっていたラーメン屋さんに入ってみました。堀川御池北東角の「麺屋 七福神 堀川御池店」です。味もよく、当然値段も手ごろ、ラーメンですから、料理が出てくるのも時間がかかりません。ロケーションも申し分なし。京都ローカル2店だけのラーメン屋さんのようなので、「京都のラーメン食べたい。」「ラーメンでもいいよ。」という生徒にはいいのかもしれません。 麺屋 七福神 堀川御池店 さて、本題の二条城の下見です。 現在我がガイド会では、ある講座の講師を担当していて、そのなかで私は二条城の現地研修の講師を仰せつかっています。日は9月1日で、まだ時間はありますが、京都の観光や歴史に興味のある方々に対しての2時間に及ぶ案内ですから、いつも以上に周到な準備が必要です。 すでにこの講座は始まっていて、同期仲間が現地研修の講師をしています。私が助かったのは、春・夏の修学旅行が終わり、新しいサイクルの固定点ガイドも1ヵ月が経過した段階での準備になり、準備に時間を割くことができるということです。これまで講師の方々は大変だったと思います。 現在、改修された東大手門の特別見学も行っていて、通常の入場料600円に加え、特別見学の400円を払って入場。まず、東大手門を見学。 中は写真撮影自由でした。本番でここに入ることはありませんが、外からは説明するので、展示資料なども含め撮影しました。東大手門 西側から眺める東大手門内部鯱瓦石落とし(真下を見ています) 同じ特別見学券で、東南隅櫓も見学できました。東南隅櫓天井出窓の出っ張りを利用した「石落とし」。この蓋を開けて石を落とします。格子窓を利用した「弓狭間」と出窓の出っ張りを利用した「横矢掛り」鴨居の竹釘 ここは「鉄砲倉」とも呼ばれ、火縄を掛けました。 その後、唐門を通って、二の丸御殿へ。内部は写真撮影禁止のため、説明板内容を小声で読んで、ICレコーダーに録音しました。 続いて、二の丸御殿後の当日のコースと考えている、本丸御殿、天守閣跡、本丸西側、清流園を見学。見学しながら説明板を撮影しました。 清流園で写真のような石を発見。何か分からなかったので、あとで事務所に寄って質問したところ、古い四条大橋の残骸を移築してきたものとのこと。「しでふおほはし」と書かれていて、「し」がとれてしまったようです。そういえば橋げたと思われる石柱も清流園にありました。こういったことも質問で出る可能性があるので、しっかりと確認しておかなければなりません。 帰りに休憩所の土産店に寄って、二条城についての本を2冊買い求めました。両書とも内容豊富で、準備の強力な助っ人となってくれそうです。「元離宮二条城」762円+税、「二条城を極める」800円+税。 これから準備をしながら、2、3回は下見に来ないといけないと思います。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/06/14
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【2017年5月26日(金)】 午前中、京都アスニーでの大政奉還についてのセミナーを聴講した後、午後から伏見稲荷大社に向かいました。 我が会が講師を担当する某講座が始まりました。私は9月1日に二条城での現地研修のガイドを担当することになっており、状況確認のため、5月12日第1回の下鴨神社での現地研修を見学させていただきました。 今日はその2回目が伏見稲荷大社でありました。近日就任予定の京都産業大学の特別客員研究員で伏見稲荷大社の研究をさせていただくことになるので、その勉強のためと、9月1日の二条城でのガイドの参考に、今回も見学させていただきました。 私の同行した某さんのお話、とても分かりやすく、よく準備されたなぁという印象でした。時間的に「お山巡り」は無理ですが、その雰囲気を少し味わえる熊鷹社まで行けたのは(足に自信のある希望者のみ)は良かったと思います。 前回同様、知らないことも多くあり、初めて訪れたところもありました。 初めて訪れたところの一つが「根上がりの松」 奥宮から「お山巡り」の参道を登っていくと、伏見神宝神社への参道への別れ道がありますが、その左にあります。 後で調べましたが、神社でいただく境内図にも載っていませんし、境内の看板地図にも載っていませんでした。「お山巡り」に何度か来たことがありますが、気が付きませんでした。参道にも案内標識がなかったように思います。知る人ぞ知る穴場のようです。 根が左右に浮き出て、股のようになっていることから「根上り松」とよばれます。「値上がり」に通じるとされ、投資家の信仰があるそうです。また、「膝松さん」ともよばれ、根をくぐると膝腰の痛みや神経痛の平癒にご利益があるとされます。 もう一つが「神田」です。こちらは「田植祭」などで存在は知っていました。場所は知りませんでした。神社でいただく地図には載っていませんが、境内の看板地図には載っていましたが、今まであまり気に止めていませんでした。熊鷹社の見学が終わって降りてきて、公衆トイレの前の別れ道を右(北側の道)に行くと、神田がありました。 ほぼ2時間いっぱい使っての案内でした。 終了後、6月13日の修学旅行での京都御所のガイドの下見に向かいました。あれもこれもと忙しい一日でした。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/05/26
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【2017年5月19日(金)】 今日は、午前中、京都アスニーでのゴールデンエージ・アカデミーに出席(こちら)の後、午後にガイド協会の年次会が御所近くのホテルでありました。 来賓の方々の祝辞があり、その後議事が行われました。当然、初めての出席ですが、普段ほとんどお見かけしないスーツにネクタイ姿の方も多く、想像以上にフォーマルな会でした。 終了後、同じホテル内で懇親会がありました。→こちら(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。) -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/05/19
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【2017年5月12日(金)】 今日は午前中、京都アスニーで「大政奉還」についてのセミナーを聴いた後、下鴨神社に向かいました。 某講座がこの5月から9月にかけて開催されます。我がガイド協会がその講師を務め、午前中に座学、午後から現地研修があります。午後の現地研修の部は、去年入会した新人が担当します。今日が、その第1日で、現地研修が下鴨神社でありました。 私は、この現地研修の最後の二条城を担当することになっています。基本的な進め方は下鴨神社のそれと同じです。そして、この7月~9月は、「京の夏の旅」で下鴨神社の特別拝観エリアでのガイドをすることになっています。それで、今回下鴨神社での研修を見学させていただいた次第です。 やはり1箇所で1時間半以上の案内となると、結構詳しい話も必要です。さらに受講者の中には、京都検定1級保持者も何人かおられ、生半可な知識では対応できません。今日の講師の方もかなりの時間前もって勉強されて、本番に臨まれたというのがひしひしと伝わってきました。今まで、聞いたことのない話がたくさん出てきて勉強になりました。また、案内の仕方も色々と勉強になりました。案内の様子 いくつか今回の見学で新しく知ったことを列挙します。(帰宅後、調べて補強した情報も含め)・三井神社(本殿横)は、三井財閥の三井家と直接は関係ないが、名前が同じなので三井家の方が神社の前に植樹をされたりしている。・谷崎潤一郎、川端康成は一時期、糺の森のすぐ東に住んだ。 石村亭(せきそんてい)は谷崎潤一郎が62歳から7年間を過ごした場所。当時は潺湲亭(せんかんてい)と云われていたが、現所有者の日新電機に渡る際に石村亭となった。通常非公開。 その北側に「下鴨泉川亭」がある。下鴨神社の神官の居所だったが、明治期に一般邸宅として譲渡された。川端康成が「古都」を執筆した場所として知られる。谷崎潤一郎の「夢の浮橋」の舞台となった。レオパレスが邸宅を買収、大規模改修を実施して迎賓館として利用していた。リーマン・ショック以降に、香港系ファンドの会長に売却した。・河合神社の諏訪社の裏では葵祭に欠かせない双葉葵が栽培されていた。花も見ることができた。双葉葵双葉葵の花・河合神社から北に向かう馬場の西側には神宮寺があった。平安時代初期、嵯峨天皇が勅願寺として創建したと伝わる。慶応4年(1868年)の神仏分離令により廃絶。平成3年の発掘調査で堂塔の一部が発見された。現在は、池跡と伝わる窪地が残るのみ。神宮寺池跡・日本でのラグビーは、今から118年前の1900年(明治33)にイギリス人の慶応大学での指導が始まりとされている。1910年(明治43)に下鴨神社境内にある糺の森で、第三高等学校(現在の京都大学)と慶応大学の学生の間で初めてのラグビーの練習が行われた。これが契機となり日本ラグビー界の歴史が始まり、その歴史を後世に伝えるため「第一蹴の地」の聖地として1969年(昭和44)に記念碑が建立された。 下鴨神社の末社・雑太社(さわたしゃ)がある。この小さな祠(ほこら)には神魂命(かんたまのみこと)が祀られている。この神さんは蹴鞠(けまり)やサッカーの神さんの先祖にあたり、「魂」は「球」に通じるものとして信仰が篤い。この関連で「第一蹴の地」の石碑が雑太社の傍に建てられた。 2019年に日本で開催されるラグビーワールドカップ(W杯)の組み合わせ抽選会が5月10日日に京都迎賓館(京都市上京区)で行われたが、当日、参加各国の関係者が下鴨神社に招かれ、この記念の地を訪問して大会の成功が祈願された。社殿はこの機会にキレイにされたようだ。第一蹴の地碑 私の二条城での案内は2ヵ月以上先ですが、しっかりと準備しなければなりません。 続いて、我がガイド会が案内を担当する下鴨神社の資料館「秀穂舎(しゅうすいしゃ)」を見学しました。いつかは担当することになると思うので、この機会に下見させていただきました。 糺の森を南に抜け、さらに話題になったマンションを両側に見ながら通り過ぎたところにあります。この秀穂舎は一昨年の第34回式年遷宮奉祝事業の一環で、旧鴨社学問所絵師浅田家邸を資料館として整備したものです。秀穂舎は、江戸後期に、本宮の正祝(しょうのはふり)を務めた鴨秀豊(ひでとよ)が開いた私塾の名前です。公家や神職の子弟だけでなく、京の町衆の子供達にも門戸を開いた学び舎でした。もとは祝家の鴨足(いちょう)家の邸で華表門(かひょうもん)や透塀(すきべい)は江戸時代後期ごろとみられ、数少ない社家邸の面影を残す建物となっています。秀穂舎流れる川は泉川 神職として禊(みそぎ)をする場が設けられています。 ここの見学を終わって帰ろうと思ったら、催されている御蔭祭の列が帰ってきたところだったので見学しました(こちら)。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/05/12
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【2017年5月8日(月)】 今日は、午前中、大阪府下M病院へ「がん」経過観察に行き(こちら)、続いて京都に移動し、アスニー京都で「平家物語」を読むセミナーの出席し(こちら)、夕刻18:00からガイド会の定例会に出席しました。 私に関係する新たな内容としては、7月の修学旅行の日程が決まったことが一つです。7月は夏休みもあるので、5、6月に比べると件数が落ち、2件です。 そして、次回7~9月の固定点ガイドも決まりました。・通常固定点~随求堂(清水寺)・「京の夏の旅」~下鴨神社随求堂http://www.kiyomizudera.or.jp/info/info05.html下鴨神社http://kyoto.gp1st.com/550/ent27.html 「祇園祭」、「五山送り火」のボランティア募集がありましたが、少人数ですし、次女の結婚式、長女の出産の時期でもあるので遠慮しました。他の方々が手を挙げられ、すんなり決まりました。 終了後、有志軽懇親会もあったようですが、明日、修学旅行なので、真っすぐ帰宅しました。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/05/08
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【2017年4月29日(土)】 第32回国際アルツハイマー病協会国際会議・京都(ADI2017)でのボランティア2日目でした。 会議の全日程(4日間)に参加したわけではなく、2日目(こちら)と今日の4日目だけです。 今日は祝日で、タイミングのよい五条通経由のバスがなく、往きはバス+阪急+地下鉄での出勤でした。今日の勤務場所は、イベントホールの入り口。各会場への場所案内とイベントホールのみ参加のお客様(無料)が有料エリアに入らないようにするのが主な仕事ですが、今日は、無料のお客様はいらっしゃらないので、結局、会場の場所案内のみでした。案内と言っても、他の会議場への通路は一か所しかないので、道を尋ねるお客様も少なく手持ち無沙汰でした。 午後2時には、イベント会場の行事も終了し、案内の必要もなくなったので、メインホールのイヤホンの回収を時間まで手伝いました。 勤務一日目もそうでしたが、運営会社によるボランティアへの指示が曖昧な部分がありました。素晴らしい国際会議だったと思いますが、そこだけがちょっと残念でした。 受付を済ませたところのウェルカムボードメインホールでの閉会式こんなジャンパーと名札を着けてやってました。このジャンパーは、そのままいただいたのですが、普段着るにはちょっと派手な色です。 それからこのボランティアとは関係ないのですが、今日同じガイド会からの参加しているある方と休憩時間に話す機会があったので、以前から聞きたいと思っていたことを聞いてみました。 私は「がん」を経過観察に持ち込んで、次のステップとして、観光ガイドをしたいと思っていた一昨年の12月、京都市が国家資格がなくても、京都市内限定で外国人の観光ガイドができる通訳ガイド「市ビジターホスト」の制度を設け、約50人の募集をすることを知りました(そのニュースはこちら)。このときのTOEIC得点条件ならOKだし、京都についての知識もあるので、「これだ!!」と思い応募しました。しかし、あえなく書類選考で落選。競争率が10倍だったそうです。それからその後合格した方々の研修中のニュースを新聞で見たのですが、年齢がずいぶんお若い印象でした。 今日このことについてお話しした方は、その選考にパスして研修を受けられたのですが、そちらに軸足を置かずに、我がガイド会に入会された方です。何故、そうされたのかを聞きたかったのです。 お話しさせていただいて、色々分かりました。・募集要項には書いてないが、実質的に年齢制限があること。募集要綱どおり約50人の方が入会されたのですが、その方は当時60歳で、合格されたなかでは最高齢だったとのこと。私は研修開始時には61歳に達することになっていたので、実質的に応募資格がなかったことになります。・研修終了しても仕事があるわけではないこと。京都市が間に入って仕事を斡旋してくれると思っていたのですが、そうではないようです。専用のサイトがあって、そこに登録しておいて、仕事を待つということで、なかなか仕事は来ないようです。それでその方は、結局我がガイド会に入会されたとのこと。それが正解だったとのこと。・合格した方々の京都観光に関する知識は決して高くはなく、年齢、英語力で選ばれてるいる感じだった。・今までは京都市がやっていたが、3期目からは京都市観光協会に丸投げされるとのこと。そうすると仕事をもらえるチャンスが増えるかもしれないとのこと。・欧米人にとって観光ガイドの職は非常に低い地位の職業に見られるので、このガイド会で日本語でガイドしているほうが、よっぽどやりがいを感じられるとのこと。 私は今日のお話を聞いて、負け惜しみでなく、むしろ選考で選ばれなくてよかったと思った次第です。しばらくこの会で頑張ります。 家内は友達と始めた「歩こう会」で、阪神武庫川線の廃線跡と灘の酒蔵エリアを歩いて帰ってきました。2万歩くらい歩いたそうで、疲れ切って帰ってきました。ダイエットにはいいでしょう。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/04/29
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【2017年4月27日(木)】 昨日から4日間の予定で、京都国際会館で第32回国際アルツハイマー病協会国際会議・京都(ADI2017)が開催されています。今朝の読売新聞(大阪)でも紹介されています。今夕の関西でのNHKニュースでも紹介されました。今朝の読売新聞記事 我がガイド会も協力させていただいており、多くの方がボランティアとして参加しています。 私は今日27日と29日が勤務日で、今日は会場の2階での会場案内を主に担当しました。高齢者ということもあって、10:00~16:00の勤務です。関西圏の大学の学生さんも多くボランティアとして来られています。彼ら、彼女らは若いので8:00-17:00だったか、長い勤務時間です。 私の持ち場でペアを組んだのは、KT大学の看護科の学生さんでした。彼女はフットワークが軽くて、頭の回転が速くて、会場案内をテキパキとこなしていました。私はがんの治療で長く入院し、看護師さんにお世話になり、看護師という仕事がいかに大変か、そして看護師に必要な素養が何かということはある程度分かったつもりです。看護師というと優しさとかが必要と思いがちです。もちろんそういう側面も大切ですが、判断力、即断即決力、そしてある意味、冷徹さも必要です。彼女はきっと立派な看護師になると思います。別れ際にも、「あなたはきっと立派な看護師になる。がんばって。」と声をかけました。 昨日も書きましたが、京都国際会館は外観だけでなく、内側も非常に複雑な構造で、通常でもお客様が分科会の会議室を探すのに一苦労されます。「ここを真っすぐ行ってください。」「そこを右に曲がってください。」という単純な説明だけでは辿りつけないことも多いので、結局その場所近くまで案内しなければならず、結構歩きました。 このような催しに協力させていただくことができたのは、嬉しいことです。幸せなことです。ただ、委託された会議運営会社のボランティアへの情報提供が不十分だったこと、プログラムに誤記や翻訳に初歩的なミスが多かったことなど、参加者や協力者に混乱を与えたことは残念なことです。 明後日、もう一日勤務があるので、お役に立てるよう精一杯努めます。メイン会場の会議が終わって、参加者が出てきたところ(私の持ち場からの眺め)私の持ち場近くの装飾各会議室の位置を確認する途中で出会った風景(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/04/27
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【2017年4月26日(水)】 今日から4日間の予定で、京都国際会館で第32回国際アルツハイマー病協会国際会議・京都(ADI207)が開催されます。日本での開催は2004年以来です。約2500人の参加者があり、海外からも600~700人の方が参加されます。認知症患者の方やそのご家族の方も参加されます。 観光ガイドとは関係ない催しなのですが、我がガイド会は要請もあって、会場案内などのボランティアを担当します。以前、会として「認知症サポーター講座」を受けましたし(こちら)、私はこのボランティア募集があったとき応募もしました(こちら)。 私のボランティアの勤務日は27日と29日です、今日はボランティアの事前説明会があったので、午前中、京都国際会館に行ってきました。事故でバスが渋滞して焦りましたが、何とかギリギリ間に合いました。全体では200名程度のボランティアが参加するようです。京都国際会館会場案内板 全体説明会後、いくつかのグループに分かれて、係の人から、会場全体のレイアウトの説明、各人の持ち場の説明を受けました。左:レイアウト図、右:持ち場一覧 京都国際会館は大谷幸夫氏の設計で、1966年に建てられました。複雑な造りをしており、会場案内はややこしそうです。 雨も降っているし、To Doもたくさん溜まっているので、午後は自宅に直帰しました。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/04/26
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【2017年4月17日(月)】 今日は、もともとは旧三井家下鴨別邸のガイドの日だったのですが、ガイド会から某講座の講師をお願いするに当たり説明会をするので、勤務になっている人は先輩と交替してでも説明会に出席するようにとの要請があり、勤務を代わっていただき、こちらの説明会に出席しました。 この講座の受講生募集はすでに始まっています。京都新聞のネット版でも記事がありました。 日本語と英語がありますが、我がガイド会が日本語ガイドのほうの講師を担当することになっています。座学と現地研修から構成されていますが、現地研修の講師を我々新入会者が担当します。今回担当するのは新入会者の一部ですが、今後、複数回行われる予定で、いずれは全員が担当することになるので全員が集められました。 この中で、私は二条城を同じエリアのお一方と担当することになりました。ガイド時間は1時間半から2時間。巡る場所は2人で合わせる必要がありますが、ガイド内容は独自の内容でOKとのことです。 第1回は5月にあります。5~6月頃に当たっている人は修学旅行も多い時期で大変ですが、私は最終回の9月で、8月は修学旅行はなく、固定点だけになると思うので、7月あるいは8月になってから準備すればいいかなと思います。その点はラッキーでした。 この説明会は午前中にあったので、午後から、京都歩きができるように準備をしていったのですが、同期の皆さんと昼食をともにした後、雨が降ってきたので、真っすぐ家に帰ってきました。溜まった作業を進めています。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/04/17
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【2017年4月7日(金)】 午前中、大阪府下M病院「がん」経過観察でした(こちら)。病院最寄り駅の王将で、昼間からビールをいただきながら腹ごしらえ。雨は降っていませんでしたので、京都歩きのため京阪電車で京都に向かいました。 今日のメインの目的は霊鑑寺の春の特別拝観。過去二度(一度は家内と)拝観していますが、我がガイド協会が担当しているので、向学のための拝観です。京阪の神宮丸太町駅が最寄り駅になりますが、白川沿いの桜も見たくて、三条駅で降りて歩きました。東山通から北に入った白川沿い 穴場です。岡崎・琵琶湖疏水沿い清流亭 近年有名になりましたが、まだまだ穴場のようです。人出はさほどではありません。哲学の道霊鑑寺到着 哲学の道から山側に入ったところで、人出は少なく静かです。パンフレット(表面) 霊鑑寺は椿のシーズンの春と、紅葉シーズンの秋に特別公開されます。今年の春の公開は、3月25日~4月9日。約2週間強と短いので、今日、あまり天気がよくありませんでしたが、訪問した次第です。私はガイドの勉強ということで無料拝観ですが、通常は大人600円の拝観料です。 ガイドは1日6人体制で、20人で分担。この日の6人のうち、同期の方は、NTさん♀、NJさん♂、NMさん♀、TTさん♂の4人でした。ガイドを聞かせていただくとともに、お客様がいないときは、色々ノウハウをお聞きしました。 いただいたパンフレットの内容を中心に、霊鑑寺の紹介です。《歴史》 円成山霊鑑寺と称し、臨済宗南禅寺派に属する尼門跡寺院。 承応3年(1654)、後水尾天皇が[円成山霊鑑寺]の山号と寺号を勅許し、同時に皇女浄法身院宮宗澄(じょうほっしんいんのみやそうちょう)を得度人寺させたことより始まり、以来明治維新まで5人の皇女・皇孫が入寺することとなり、「霊鑑寺尼門跡」と称し、また所在する地より「鹿ヶ谷比丘尼(びくに)御所」や「谷の御所」と呼ばれています。《建物》 本堂に安置されている如意輪観音像は、恵心憎都の作で、もと当寺より東の山中にあった如意寺の本尊であると伝えられています。如意寺は、平安時代初期の承和年間に智証大師円珍によって創建された寺院であると伝えられ、南北朝の戦乱により焼失し、以来荒廃・廃絶していたものを、後水尾天皇がある夜霊夢によって感得し、この像を本尊として霊鑑寺を創建されたものと伝えられます。 創建当初の霊鑑寺は、本堂などの建造物は現在の南隣にりましたが、貞享3年(1686)に後西(ごさい)天皇の皇女普賢院宮宗栄(ふげんいんのみやそうえい)(当寺2世)の時、後西天皇の院御所旧殿のうち御休息所及び御番所を賜って現在地に移建されたのが、現在の書院と玄関になっています。また現在の本堂は、寛政6年(1795)に11代将軍徳川家斉(いえなり)の寄進によって建立されたものです。 後西天皇の院御所旧殿をはじめとするこれらの建造物は、江戸時代の尼門跡らしく、格調の高さを示すとともに清楚なたたずまいを見せており、それぞれ京都市の文化財に指定されています。本堂本堂内部(パンフレットから)如意輪観音像(パンフレットから) 《庭園》 庭園は、東山連峰の大文字山より延びる稜線をうまく使って書院の南に作られており、池を細くうがち、立石を使った石組みを配したもので、江戸時代中期の作庭技法を用いた池泉観賞式庭園です。特に石組にあわせて般若寺型石灯寵を立て、石組と石灯龍の調和を巧みに用いており、この時代の特徴をよく表しています。 庭内には後水尾天皇遺愛の日光椿(じっこうっばき)をはじめ、数々の名椿が植えられており、春には種々の椿が見事に咲きにおい、また秋には京都の名木の一つに数えられる楓が紅葉し、それぞれ庭園に彩りを添えています。日光(じっこう)椿(真ん中が赤い)月光(がっこう)椿(真ん中が白い)椿色々第11代将軍徳川家斉の尼宮の献上と伝わる大きな硯石《寺宝》 そのぽか書院・居間などには狩野永徳や狩野元信・円山応挙筆と伝えられる四季花鳥図などの襖絵や、歴代天皇遺愛の香炉・掛け軸・置物などが多く残されています。なかでも、数多く蔵されている御所人形の名品は、今も変わらぬあどけない表情で、昔の人々の雅やかな趣味を今日に伝えています。書院上段の間(パンフレットから)御所人形・カルタ(パンフレットから) 今年は椿の裏年で、あまり椿には期待できないと聞いていましたが、噂に反して本当にキレイでした。公開当初は、あまり咲いていなかったようですが、ここに来て暖かくなったので、急に開花が進んだようです。途中で雨が降り出しましたが、雨に苔が濡れてコントラストが素晴らしかったです。 五条烏丸まで歩いて、バスで帰りたかったのですが、雨が結構きつく降ってきたし、夕刻名古屋から長女が来るので、バスで河原町まで出て、阪急で帰りました。家内がJR最寄り駅まで長女を迎えに行くところだったので、私もピックアップしてもらいました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/04/07
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【2017年3月25日(土)】 今日は2つの目的で京都市中へ。午前中に我がガイド会がガイドを担当している「櫻谷(おうこく)文庫」の見学、午後から京都アスニーでのセミナー。車をスーパーの駐車場に停めて歩き開始。 まず櫻谷文庫を見学。場所は、北野白梅町の嵐電駅を北西に約500メートル歩いた閑静な住宅街の中にあります。洛星高校の西隣です。 櫻谷文庫は、明治から大正昭和にかけて活躍、注目された日本画家木島櫻谷の旧宅で、櫻谷の遺作や収集した絵画など1万点以上が収蔵されています。いくつかの建物が国登録有形文化財、京都市指定登録文化財などになっています。時々特別公開をしており、今回は「2017年春 同時期公開 今小路通り沿い」と銘打って、等持院、真如寺、仁和寺などと時期を合わせて公開中でした。櫻谷文庫の公開は、3月3日~4月2日の金・土・日・祝日で、入館料は大人600円。 ここは外から建物を見たことがあるだけでしたし、これからも我がガイド会が担当する可能性大で、いずれは私にも出番が回ってくることもあると思うので、今日訪問させていただきました。室内はフラッシュも含め写真撮影OKですので、たくさん写真撮らさせていただきました。外観洋館を外から眺める門前の道標 西 仁和寺 もう一つXX寺とありますが、読めません。 是西 足利家菩提所等持院(途中で埋没していますが)門門前のポスター 駐車場もあるようです。国登録有形文化財、京都市景観重要建造物の銘版和館内部 昔なつかしい物もたくさん展示されていて、見ていて飽きないです。この付近に多くの画家たちが住んだことを示す資料 堂本印象、土田米僊、小野竹喬、菊地芳文などの名が見えます。 また下の地図では、付近は田園地帯だったことが分かります。和館 裏からの外観洋館前の道標 恐らく付近の別の場所からの移築でしょう。 推定も含めてですが、五条大橋、ぎおん社、六はら寺、大佛、三十三間堂、 東西本願寺、ちおんいん などの名が見えます。洋館 大正時代の特色を示す洋間の展示室画室前の道標 これも付近からの移築でしょう。 三條XX、小野?、天満宮、きんかくじ などの名が読めます。画室 何か行事をやっておられ、入り口に鍵がかかっていたようで、 中には入れませんでした。 見学後、ガイド会の方々と少しお話をしました。知名度、地理的な関係から、あまりお客様は多くないようですが、もっとたくさんの方々に観ていただきたい素晴らしい文化財だとおっしゃってました。私も同感です。 京都アスニーに向かう途中、北野天満宮近くで修学旅行食事処下見を兼ねて昼食をとりました。 「初音」というお店。北野天満宮大鳥居前を北野白梅町に向かってしばらく歩いた(もう白梅町駅に近い)北側の地下にあります。同期共通の一覧表に記載もされていますし、以前から先輩方からお薦めのお店と聞いていたところです。 午後1時過ぎでしたが、土曜日ということもあってか、結構混んでいて料理が出てくるまで時間がかかりました。値段がリーズナブルで美味しくて雰囲気もいいお店ですが、そこだけが難点かなと思いました。12時前の来店が望ましいかなと思います。食べログよりおばんざい盛り込み定食 650円。 京都らしくて、安くてGood!!!食べログより 昼食後、京都アスニーに行き、セミナーを聴講しました。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。) -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/25
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【2017年3月10日(金)】 今日は、色々盛りだくさんの行程でした。大阪府下M病院「がん」経過観察(こちら)。 ↓京阪七条駅 ↓「京の冬の旅」妙法院 ↓昼食~王将 七条烏丸店 ↓確定申告提出~京都府中小企業会館(西大路四条下ル)(こちら) ↓「京の冬の旅」角屋 ↓「京の冬の旅」壬生寺 ↓ガイド会定例会(こちら) 京都部分の歩き距離は約14km。M病院通院部分も含めると16kmの歩き、歩数は27,500歩でした。 途中、京都中央卸売市場を横切りました。大学時代に冬休みにアルバイトした場所なので、懐かしい場所です。 各寺院やスポットの訪問記は時間がとれれば後日アップします。 記入いただいたコメントはこちら。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/10
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【2017年3月10日(金)】 午前中、大阪府下M病院へ「がん」経過観察の通院(こちら)。その後、京都に移動し、「京の冬の旅」の妙法院を訪れた後、京都府中小企業会館で確定申告を提出(こちら)、「京の冬の旅」の角屋、壬生寺を訪問、最後夕刻にガイド会定例会でした。 定例会での私に関係する特記事項としては、5月の修学旅行の日程が決まったことが一つです。これで、・4月2件~北信越地方の中学校、北陸地方の中学校・5月5件~北陸地方の小学校、関東地方の県中学校、東海地方の中学校2件となりました。固定点ガイドは一度準備すると、3ヵ月は新たな準備をする必要はないですが、修学旅行は個別に対応が必要です。去年1校だけ担当しましたが、それだけでも大変でした。慣れる部分もあるし、未訪問の場所もだんだんと少なくはなっていくはずですが、あまり根を詰めて時間に追われて、バランスの悪い準備にならないようにしないといけません。 もう一点は、某講座の講師を務めることになったことです。丸一日の座学+現地研修が何回か月から行われます。去年入会したメンバーが現地研修を担当することになっていて、私は、9月に二条城を担当することになりました。1日だけすが、知識のある方々の研修ですから、周到な準備が必要です。 写真:二条城 二の丸御殿https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/10
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【2017年2月18日(土)】 今日は妙心寺塔頭養徳院でのガイド勤務でしたが、養徳院が午前中法要だったので、勤務は午後からでした。ですので、朝は、最寄り私鉄駅前の眼科に行って、緑内症予備軍としての定期的な検査をしてもらいました(こちら)。 検査・診察が想定以上に早く終わり、午後の養徳院勤務まで時間があるので、我がガイド会が案内している箇所にどこか見学に行くことにしました。養徳院に近くて、まだ訪問していないところとして、北野天満宮の宝物殿を訪れることにしました。阪急西院駅で降りてひたすら北に歩きます。1時間弱歩いて北野天満宮着。梅苑を公開中ということもあって、午前中ですが結構な人出でした。 目的の宝物殿へ。ここは「京の冬の旅」のような観光協会経由ではなく、北野天満宮さんが直接我がガイド会に派遣を要請されて対応しているところです。臨時固定点と呼ばれるカテゴリーのものです。今回の宝物殿の特別公開は1月21日から3月下旬、タイトルは「宝物展4と鬼神像」。最近の刀剣ブームでこの宝物殿の特別拝観は結構人気があるようです。特に有名なのが、「鬼切丸」という刀。今回もこれが展示されています。宝物殿 拝観料は大人300円ですので、それほど高くはありません。梅苑(通常700円)とのセットで950円です。宝物殿は我がガイド会が担当なので、私は研修目的という位置づけで無料で拝観できるはずです。梅苑は我がガイド会が担当ではないのでダメですが。 宝物殿の受付に行きましたが、神社の上着を着た方が座っておられます。お顔に見覚えがありません。ガイド会の名札も着けていません。受付は我がガイド会のメンバーではなく神社の方で、我がガイド会は中の案内だけということかもしれません。そうであっても、ガイド会のメンバーであれば無料入場できる可能性大なので、ガイド会の名札を受付で見せたところ無料入場可能でした。言葉を交わした様子では、やはり受付もガイド会の方のようです。神社の服を着て、ガイド会の名札も着けず、神社の人間に成りきっての対応のようです。私のお正月の清水寺での「おみくじ」授与勤務と同じような感じです。勤務体制表を見ると、2人体制ですので、一人受付、一人展示エリアということになります。展示エリアの方も、監視が主体で、何か質問があったら答えるという対応のようです。空調は効いているようですので、冬の勤務の環境としては恵まれた場所だと思われます。 最初皆さんがスマホで写真を撮っていたので、撮影自由なのだと思い、手持ちのデジカメで写真を撮ったのですが、最後入り口付近でスマホや携帯のみOKと書いてあるのを発見。スマホや携帯はフラッシュがないのでOKとのことのようです。しかし、それを知らずに撮ってしまいましたので、写真も投稿します。パンフレット刀・短刀・脇差の類は35点出典されています。(パンフレット裏面より)うち5点が重要文化財●太刀 鬼切丸(別名「髭切」) 銘安綱 源家重代の刀として伝えられる日本刀。 『平家物語』剣巻では、平安時代に源満仲の命により膝丸と揃いで作られたとされています。罪人を試し切りした際、髭まで切れたというのがこの名の由来。 その後次々と名を変えており、源頼光の代には配下の渡辺綱に貸した際に一条戻橋で鬼(正体は宇治の橋姫ともいわれる)の腕を斬り、名を鬼丸(剣巻では鬼切でなく鬼丸とされる)と改められました。●刀(太刀) 信濃守国広造 銘千時 慶長12年(1607)の北野天満宮本殿造営の際、豊臣秀頼が奉納した。●太刀 銘恒次 学芸を重んじたことで知られる加賀藩五代藩主前田綱紀が、元禄15年(1702)に北野天満宮八百年祭に奉納したもの。●太刀 銘備前長船師光 応永9年(1402) 宝暦2ネ3ン(1752)の北野天満宮八百五十年祭にあたり、加賀藩八代前田重煕(しげひろ)が奉納した太刀。長船派は室町時代前期に最も多くの刀剣を制作したと伝わる。●太刀 銘助守 鎌倉時代初期 加賀藩第十三代藩主前田斉泰(なりやす)奉納。 刀剣以外では、重要文化財「十三鬼神像」が展示されています。 平成14年北野天満宮千百年大萬燈祭の折、本殿の深奥から発見されたもの。いずれの像も口を堅く結び、大きく見開いた目には怒りが満ちている。都に入り込む邪気を払うため、平安京の大路小路に置かれたものといわれます。 前列、向こうから3つ目が「北野天神縁起絵巻」にある日増(道賢)上人が吉野・金峯山で入滅、六道巡りをした際に上人を導いた蔵王権現の原型と見られます。 今日の養徳院勤務責任者のTさんも、見学に来られておりご挨拶をさせていただきました。 梅の花 本殿拝観後、王将白梅町店で早めの昼食。歩いて妙心寺養徳院に向かいました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/02/18
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聖護院・知恩院・久昌院見学(2月10日) その3 2月10日(金)の京都歩き、「その3」です。(「その1」はこちら、「その2」はこちら) 知恩院訪問のあと、建仁寺塔頭の久昌院に向かいます。円山公園を通って、八坂神社へ。 八坂神社で結婚式があって、本殿でお祓いをした新郎新婦が式場に戻るところで、係の人が人の通行を一時遮断していました。間もなく、新郎新婦・親族の方が出て来られました。ちょうどこの場に居合わせた外国人観光客はラッキーです。 八坂神社横の王将で昼食。ビールもいただきました。 建仁寺境内にある久昌院へ。「京の冬の旅」の特別公開ですが、ここは我がガイド会担当ではないので、有料です。 ●久昌院の沿革 建仁寺塔頭。慶長13年(1608)美濃加納城主(今の岐阜市)の奥平(おくだいら)美作守(みまさかのかみ)信昌が三江紹益を開基に迎えて創建した奥平家の菩提寺で、久昌院の名は信昌の法号から名付けたと言われている。 信昌は、天正3年(1575)、織田信長、徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を破った長篠の戦いで長篠城に1ヵ月間たてこもり、城を死守して武田城を撃退した勇将である。その功績により、信長から一字を与えられ、信昌と名乗った。さらに家康の娘、亀姫を妻としてめとった。関ヶ原の合戦に参戦し、その直後、初代京都所司代に任命され、慶長6年2月に加納城主となって10万石が与えられた。 方丈室中右側の御本尊は亀姫が持念佛としていた薬師如来像(室町時代作)。 開基の三江紹益は、建仁寺の住持を務め、高台寺の開山も務めた。 ●方丈 室中の間(仏間)の背後には2室の座敷があり、南側の6畳が茶席となっている。天井は竿ぶち天井で、床柱など要所に磨き丸太が用いられている。床は上部に織部板を入れ、棚板の壁の部分を一文字に切り取って、軸が下がるように工夫されている。 ●長篠合戦図(大和絵) 方丈、上間一之間の襖絵6面のうち2面。宇喜多一ケイ(1795~1859)筆。田中訥言(とつごん)に絵を学び和歌や書道にも長じ、安政の大獄に連座した尊攘派の志士としても知られる。訥言や冷泉為恭と並ぶ、復古大和絵派巨匠の貴重な作品。 ●庭園 心字池を中心とした本堂前庭は、二段に刈り込まれた生垣の奥に建仁寺の堂宇や東山を望む池泉鑑賞式庭園。●書院高松軒 方丈の西側にあり、渡り廊下でつながれている。十二畳台目と八畳台目の座敷が造られている。主室の十二畳台目の座敷には西南隅に二畳台目の上段の間を設け、火頭窓の付書院になっている。またこの座敷の北隣には俗に「遠州別好(べつごのみ)ノ席」と呼ばれる三畳台目の小間の茶室がある。床前正客の座の天井は珍しい舟底型の化粧屋根裏にするなど、複雑で変化に富んだ席となっている。●牧童笛吹図(指頭画)(ポスター展示) 長沢芦雪(1755~1799)筆。円山応挙を師として、近世画人の中でも筆墨の名手として知られる芦雪の作。筆ではなく指、爪、掌を用いた指頭画(指墨画)で、写生画でなく新しい境地を開こうとした、芦雪のあまり知られていない部分が推察される作品。●寺紋 一つは軍配。珍しい。 上記の解説は、お寺のパンフレットからです。白黒の写真もお寺のパンフからです。 ガイドさんは、30代くらいの女性と学生さんと思しき人でした。名札は「京都市観光協会STAFF」となっていました。あとで、この女性ガイドさんに聞いたら、人材会社から派遣されているとのこと。私が養徳院と八木邸でガイドをしていると言ったら、「この前、養徳院行ってきました。」とのこと。やはり勉強しているのですね。 妙法院も行きたかったのですが、時間切れであきらめ、商工会議所に寄った後、ガイド会のエリア会議出席のため、烏丸丸太町に歩いて向かいました。 (守秘義務再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/02/13
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【2017年2月12日(日)】 今日、明日と2日連続OFFです。朝から雪。散歩以外外出せず。家内も終日在宅でした。 2月10日、聖護院・知恩院・久昌院訪問のその2です。(「その1」はこちら) 聖護院拝観の後、歩いて知恩院に向かいます。雪が時折、激しく降ります。しかし、知恩院に近づくにつれて少し寒さが和らいだような気がしました。同じ東山でも、四条付近と丸太町通付近では、気温が微妙に違うようです。●知恩院境内図http://www.chion-in.or.jp/04_meiho/map.html山門まずご朱印をいただきました。◆知恩院の歴史 浄土宗総本山。承安5年(1175)に法然上人が結んだ草庵に始まる。江戸幕府初代将軍・徳川家康が浄土教信者で、知恩院を永代菩提所としたことから、徳川将軍家とのゆかりが深い。現存する大伽藍の多くが徳川家によって造営された。幕末の文久年間には公武合体派の中心であった薩摩藩の島津久光が宿所とし、京都での拠点にしていた。◆集会堂(重要文化財) 集会堂(しゅうえどう)が特別拝観の入り口になっています。大方丈(おおほうじょう)・小方丈(こほうじょう)・方丈庭園が特別公開されています。大昔に特別公開に訪れたことがありますが、そのときは庭園だけでした。 聖護院同様、ここも我がガイド会が担当しています。 集会堂(しゅうえどう)は、往古は「衆会堂」とも称し、寛永12年(1635)に建立されました。俗に千畳敷といわれるほど広いお堂で、御影堂の北側に隣接し、南北十五間の鴬張りの渡り廊下で御影堂と結ばれています。僧侶の修行の場として使用されてきました。明治5年(1872)の京都博覧会の会場にもなりました。 現在、御影堂修理工事中で、その間は御影堂の法然上人像がこの集会堂に遷座安置され、御影堂で行われていた各種法要はここで行われます。http://www.chion-in.or.jp/index.php 厳かな雰囲気の集会堂を通って、大方丈に向かいます。 すぐのところに先輩の一人がおられて、「1級通ったらしいなぁ。おめでとう。」と声をかけてくださいました。こういう話はすぐ伝わるものなのですね。◆大方丈(重文)・小方丈(重文) 大方丈は、二条城と同様の書院造りの形式を備え、寛永18年(1641)、徳川三代将軍家光が創建。狩野尚信、信政ら狩野派の筆によると伝わる金碧障壁画で「上段の間」と「中段の間」「下段の間」、「鶴の間」ほか、「抜け雀」の襖絵で知られる「菊の間」など豪壮華麗な佇まいを残しています。その他「松の間」、「梅の間」、「柳の間」、「鷺の間」、「竹の間」。「鶴の間」は54畳敷き。鶴の間奥の仏間には、快慶作と伝えられる本尊阿弥陀如来像が安置されています。大杓子 大方丈入口の廊下の梁に、知恩院の七不思議の一つ、「大杓子」が置かれています。 大きさは長さ2.5メートル、重さ約30キログラム。伝説によると三好清海入道が、大坂夏の陣のときに大杓子をもって暴れまわったとか、兵士の御飯を「すくい」振る舞ったということです。「すくう」すべての人々を救いとるといういわれから知恩院に置かれ、阿弥陀様の慈悲の深さをあらわしているとのこと。大方丈http://souda-kyoto.jp/card_member/event/259_photo_03.html狩野尚信筆「松鶴図」http://www.asahi.com/and_M/information/SDI2014031426761.html上段の間 武者隠しの部屋が付属http://www.asahi.com/and_M/information/SDI2014031426761.html鶯張りの廊下 御影堂から集会堂、大方丈、小方丈に至る廊下は、知恩院七不思議の一つ鶯張りの廊下です。「忍び返し」ともいわれ、曲者の侵入を知るための警報装置の役割を担っているとされています。また鶯の鳴き声が「法(ホー)聞けよ(ケキョ)」とも聞こえることから、不思議な仏様の法を聞く思いがするともいわれています。http://www.chion-in.or.jp/index.php三方正面真向の猫 知恩院七不思議の一つ。方丈の廊下にある杉戸に描かれた狩野信政筆の猫の絵で、どちらから見ても見る人の方を正面からにらんでいるのでこの名があります。親猫が子猫を愛む姿が見事に表現されており、親が子を思う心、つまりわたしたちをいつでもどこでも見守って下さっている仏様の慈悲をあらわしています。レプリカと思われるものが廊下に展示されていましたが、本物があったのか、あったとするとどこにあったのかまでは分かりません。http://www.chion-in.or.jp/index.php抜け雀 大方丈の菊の間の襖絵は狩野信政が描いたもの。紅白の菊の上に数羽の雀が描かれていたのですが、あまり上手に描かれたので雀が生命を受けて飛び去ったといわれています。現存する大方丈の襖絵には飛び去った跡しか残っていませんが、狩野信政の絵の巧みさをあらわした話といえるでしょう。知恩院七不思議の一つ。http://www.chion-in.or.jp/index.php 大方丈の北東に位置する小方丈も同時期に建てられたもの。仏間は設けず、大方丈とは対象的に水墨画で飾られた「上段の間」「雪中山水の間」「蘭亭の間」などがある。http://www.forward-corp.co.jp/environment/led/jisseki-02.html 掛け軸の「華頂山」の字は、三門の扁額の字と同じ。 方丈庭園に出ます。 ◆方丈庭園(京都市指定名勝)小堀遠州と縁のある僧・玉淵によって造られたと伝えられる。慈鎮石 大方丈(左)と小方丈(正面) 家光公お手植えの松二十五菩薩の庭 権現堂 家康・秀忠・家光三代の霊を祀る 雪が激しくなってきました。 現在御影堂は大修理中。平成31年までかかるようです。毎月第1日曜日に修理現場を見学することができます。 経蔵と東山 雪で白くなっています。 知恩院をあとにして、建仁寺塔頭久昌院に向かいます。夕刻のガイド会エリア会議の時間を考え、この時点で、妙法院の今日の拝観はあきらめました。 (続きます)(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/02/12
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【2017年2月10日(金)】 今日は、午前中、大阪府下M病院へ「がん」経過観察の通院、京都に移動し、「京の冬の旅」の聖護院、知恩院大方丈・小方丈、建仁寺塔頭久昌院を拝観、京都商工会議所に立ち寄って、京都検定1級合格者バッジ購入。そして、夕刻からガイド会の地区組月例会に出席しました。 この月例会の前に、代表者による事前の打ち合わせがあり、それが長引いて、少しスタートが遅くなりました。 私に関する特記点としては、次の3ヵ月の固定点が決まったことです。3ヵ月単位で固定点は交替になります。私は現在、固定点は「八木邸」、「京の冬の旅」は「妙心寺塔頭・養徳院」を担当していますが、4月から6月まで「旧三井家下鴨別邸」を担当することになりました。もちろん初めてです。 修学旅行は3月はありませんが、4月に中学校2件を担当です。先日手を挙げた4月下旬の「アルツハイマー病国際会議」のボランティアの担当日程も決まりました。公募ガイドは今のところありません。 会議後、ガイド会の有志軽懇親会に参加しました。 旧三井家下鴨別邸http://kyokanko.or.jp/mitsuike/index.html-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/02/10
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【2017年2月10日(金)】 2月10日(金)、朝M病院での定期経過観察の診察(こちら)、夕刻にガイド会のエリア会議があるので、その間の時間を利用して、京都を歩きました。 M病院の診察後、最寄りの京阪電車で京都に向かいました。「京の冬の旅」で公開中の寺社のうち東山にあるいくつかを巡る予定です。●聖護院 神宮道駅で降りて、東に歩き、最初の目的地「聖護院」へ。現在、「京の冬の旅」で公開中です。ここは、以前京都歩きをしたとき特別公開をしていると思い訪問しましたが、まだ公開してなくて、拝観しそびれたところです(こちら)。 我がガイド会が受付も案内も担当しているので、研修扱いで無料で入れます。ちょうど、同じエリア会の先輩女性が受付をしておられたので、挨拶をして入場させていただきました。ガイド会に入る前に、やはり特別公開で拝観していますので、2回目の拝観になりますが、前回は、純粋な観光客として、今回は、将来のガイドに備えての下見が目的ですので、大きく位置づけが違います。山門前の「冬の旅」特別拝観案内山門長屋門表玄関◆沿革 山伏で知られる、本山修験宗総本山。平安時代の寛治4年(1090)に白河上皇が紀州(現在の和歌山県)の熊野三山を参詣する際、修験者(山伏)として有名であった三井寺の増誉大僧正が、先達(案内役)を努めた功績により寺を賜り、聖体護持の意味から聖護院と名付けたとう。修験道とは、日本古来の山岳信仰と、仏教の密教、道教などが結び付いて平安末期に成立した宗教で、役行者(634~701)を開祖とする。増誉大僧正はさらに「熊野三山検校職」を任命され、修験者を統括し、全国に2万余の末寺をかかえる一大修験集団となった。しかし、明治政府によって「修験道廃止令」が出され、多くの山伏は還俗し、寺は衰退した。 後白河天皇の皇子・静恵(じょうえ)法親王が宮門跡として入寺(4代目)して以来、明治維新まで37代のうち25代は皇室により、12代は摂家より入寺した。代々皇室や摂家より門主を迎えた由緒ある門跡寺院。周りは「聖護院の森」と呼ばれる森が広がっていたので、「森御殿」とも呼ばれた。この森の紅葉は錦の織物の様に美しいため、錦の林・「錦林」と呼ばれ、森が無くなった現在も地名として残っている。 応仁の乱をはじめ、度重なる火災に遭い、各地を転々とした後、延宝4年(1676)に再興されたのが現在の主な建物で書院(重要文化財)は京都御所の御殿を移したものである。聖護院相続で入寺されていた祐宮兼仁親王が安永8年、光格天皇として皇位を継承。天明8年(1788)の大火で御所が炎上した際、光格天皇が一時、仮皇居として使用した。幕末の安政元年(1854)の御所の炎上に際しては、孝明天皇が一時仮皇居として使用した。これらの歴史から、「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。境内図(お寺のパンフから)◆宸殿 宸殿の上段の間は、天明の大火で御所が炎上した際に、光格天皇が仮御所として政務を行った場所。「花鳥図」「老松図」「波濤図」「鶴の図」など170面に及ぶ金地彩色の障壁画は、狩野(洞雲)益信・永納をはじめとする狩野派の絵師によって描かれた。仏間には修験道の開祖・役行者像、蔵王権現や不動妙王像などが祀られている。宸殿と前庭上段の間https://www.okeihan.net/navi/event/detail.php?eventno=1350障壁画http://kyotoshunju.com/?temple=shogoin内陣http://koimaiko.com/onair/?id=140401手摺の菊の御紋◆本堂 智証大師円珍作と伝わる本尊・不動明王立像(重文)、智証大師像(重文)が安置されている。本堂と十三重石塔十三重石塔不動明王立像http://kyotoshunju.com/?temple=shogoin智証大師像お寺のパンフから◆書院【重文】 御所から移築された江戸時代初期の書院。書院造に数寄屋造を取り入れた瀟洒な建物で、凝った造りの欄間や釘隠し、蝋燭の明かりで影が揺れる風雅なすかし彫りなどみどころが多い。床の間や天袋・地袋の絵は、江戸時代後期の絵師・松村呉春と弟の景文が描いたもの。書院内部http://kyotoshunju.com/?temple=shogoin書院と書院前庭松の枝ぶりが見事中庭◆聖護院の寺宝 明治時代、伝統的な「神仏習合」の考えが否定され修験道が廃止されたため、聖護院の末寺も多くが廃寺になった。しかし、破却された多くの仏像や仏具が伝えられている。 今回公開の「弁財天尊」は旧才智院の本尊で、往時は春と秋に御着替がなされていた美しい像である。明治以降、その伝統は途絶えていたが、近年新調のため着用していた衣を除いたところ、造られた当時の鮮やかな彩色が現れた。そのほか、財運・金運の蛇神で頭は老翁、体は蛇の姿をした「宇賀神像」などが公開されている。 こららは拝観の最初の部分にあります。弁財天像https://kyokanko.or.jp/huyu2016/huyutabi16_01.html#03 今回の「京の冬の旅」の特別公開のなかでも、部屋・絵画・仏像・寺宝など、見どころの多いお寺です。お庭は開け放しですので、寒さは厳しいです。受付は小屋の中ですので、私の行っている養徳院よりは、ましだと思われます。寒さを別にすれば(基本的にどこも寒いのですが)、ガイドをしてみたいなぁと思わせる場所です。 門を出る頃には激しい雪。如意ヶ岳の大文字にも雪。歩いて、次の目的地である知恩院に向かいます。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/02/10
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【2017年1月24日(火)】 ガイドを担当している妙心寺塔頭・養徳院で朝、夕に受付指導がありました。合い間を利用して、妙心寺塔頭・大雄院、妙心寺大庫裏・経蔵を訪問しました。大雄院訪問(こちら)後、妙心寺・大庫裏/経蔵を訪問しました。●妙心寺・大庫裏/経蔵 妙心寺は臨済宗妙心寺派の大本山。約10万坪の境内に46もの塔頭寺院を持ち、末寺は3400。京都最大の禅寺。建武4年(1337)に花園法皇が関山慧玄(無相大師)を開山に迎え、離宮を禅刹に改めたのが始まり。◆大庫裏(重文) 承応2年(1653)再建。寺の台所や食堂、寺務所の役割を持つ。内部には豪壮な木材が組まれ、竃の煙は屋上の煙出しから抜ける。庫裏の守護神を祀る韋駄天堂、定朝作と伝わる地蔵菩薩を祀った食堂(じきどう)、貯蔵庫などがある。大きな行事の際には、雲水(修行僧)たちが数百人分の斎(とき)(食事)を整え、厳格な作法に従って食事をする。 一人のガイドがある程度まとまった人数を引き連れて一周するという案内方法です。案内の最初に花園天皇の肖像画も置かれ、妙心寺全体の説明からガイドは開始されます。同期の方のガイドに付いて回りました。お寺は畳でも足が冷たいのですが、板の間なのでそれ以上に冷えるため、お客様用に靴下の上に履く、厚手の靴下を準備していました。◆経蔵(重文) 寛文13年(1673)に、豪商・淀屋辰五郎が寄進。八角形の巨大な輪蔵(経巻棚)には6500卷を超える経典が納められている。これを一回転させれば全卷を読んだのと同じ功徳が得られるという。回転式輪蔵を考案したのは、中国南北朝時代の居士・傅大士(ふだいし)といわれ、輪蔵正面にその像が祀られている。正面軒下には伏見天皇宸筆の扁額「毘盧蔵(びるぞう)」が掲げられている。 ここでも、同期の方に案内していただきました。「紙芝居」を駆使しての熱のこもった案内でした。http://www.kyokanko.or.jp/huyu2016/huyutabi16_01.html#11 妙心寺を出て少し南に歩いたところにある、ショッピングセンター「ライフ」で昼食をとって、余った時間は持ってきていたPCでブログを書きました。しかし、バッテリーが無くなったので、中の本屋で時間をつぶした後、夕方の受付業務指導を受けるため、養徳院に向かいました。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/01/24
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【2017年1月24日(火)】 ガイドを担当している妙心寺塔頭・養徳院で朝と夕に受付の指導がありましたので(こちら)、その間の空いた時間を利用して、養徳院同様、「京の冬の旅」で特別公開している妙心寺境内の「大雄院(だいおういん)」、「大庫裏(おおくり)・経蔵」を向学のため見学に行きました。両方とも我がガイド会が受付・案内をしています。●大雄院(だいおういん) 養徳院の東隣にある妙心寺の塔頭寺院の一つです。去年の5月、「春の京都 禅寺一斉拝観」で家内と一度訪問している(こちら)ので二度目です。そのときは、ガイドは付かず500円でした。今回は一般のお客様はガイド付きで600円です。 慶長8年(1603)石河紀伊守光元(竜野城主)の長子石河市正光忠(尾張藩犬山城主太郎八)により、父光元公の菩提を弔うために菩提所として創建されました。慧南玄譲を開祖とします。慧南玄譲は光忠の叔父にあたり、石河氏の菩提寺美濃乙津寺、二世蘭叔玄秀の法系であって、慧南は蘭叔玄秀を勧請開山としています。ときは豊臣時代から徳川時代へと移る過渡期にあり、きわめて激しく流動した時代でした。大雄院は石河家本流の香華所(御位牌所)として現在に至っています。 この石河光忠は、養徳院開基の石河光重の孫、光元は子ということになります。そして蘭叔玄秀は養徳院所蔵の「酒茶論」を書いた人物です。養徳院と非常に関係が深い寺院です。 京都府指定・登録文化財として、客殿、庫裏、表門があり、客殿と書院は享保12年(1726)に再建され、庫裏は江戸時代末期に改造されました。また、客殿の襖絵は柴田是真作の稚松図、山水図、滝猿図、唐人物図など多くの襖絵を見ることができます。柴田是真は江戸時代末期から明治初期にかけて活躍した著名な蒔絵師であり、画家。伝統的な美術が被害を被った時期にそれを守り、次いで新時代の安定期にかける美術工芸の建設に指導的な立場で尽力しました。明治・大正の美術の基礎を作った人ともいえます。是真は海外の博覧会に作品を出展し、欧米における著名度は、むしろ日本より高いとのこと。国内に残る作品は少なく、この大雄院の作品は、その意味でも貴重です。柴田是真 襖絵http://guide.travel.co.jp/article/23709/http://guide.travel.co.jp/article/23709/ 土岐済美(ときざいみ)の襖絵もあります。土岐済美は、多くの円山応挙門人の中でも異色画家の一人に数えられます。また、養徳院同様、渡辺泰河(わたなべたいが)の襖絵もありましたが、ガイドでは特段説明されていないようでした。土岐済美 襖絵http://guide.travel.co.jp/article/23709/今回、寺宝の「楊柳観音図」、「十一面観音図」が初公開です。http://guide.travel.co.jp/article/23709/「楊柳観音図」は中国で描かれたもので墨線のみで描いた白描画。柳の一枝を指した水瓶を持ち、蓮弁の上に立って観音が住まう補陀落山から渡海する場面が描かれています。一方、日本で描かれた「十一面観音図」は楊柳観音とは対照的に華やかさが印象に残り、南北朝後期から室町時代に描かれたと伝わっています。 また、先住職が蚕の後輩を重ねて苦労の末、平らなところに平面状に糸を吐く蚕「石河蚕」を作られました。これに関する展示もありました。 昔の雪隠(トイレ)も見ることができます。畳敷きだったのでしょうか。(昨年5月撮影) 庭園も見ごたえがありました。去年の5月より、苔がきれいでした。もとは杉苔だけだっのですが、土が露出したところに、乾燥に強い砂苔を植えるなどしてて、苦労して整備されたようです。緑一面になっただけでなく、杉苔と砂苔の緑の濃さの違いが、庭にアクセントを与えています。養徳院と違い、庭は戸を開放しての見学ですので、養徳院以上にガイドでは寒さが堪えると思われます。参考に、去年5月公開時のお庭の写真です。土が露出しているところが多くあります。 去年の公開時と異なり、お土産ショップも開設されていました。「君の名は」の影響で、組紐がよく売れるようです。お土産にいくつも買う人も多いとのこと。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/01/24
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【2017年1月13日(金)】 午前中、大阪府下M病院へ「がん」経過観察の通院(こちら)、午後、京都に移動し、「京の冬の旅」の金戒光明寺、西翁院を拝観(「その1」~こちら。「その2」~こちら)。そして、夕刻からガイド会の地区組月例会に参加しました。 2月に修学旅行が少しありますが、私への割り振りはありませんでした。 一点私に纏わる特記事項は、4月に京都国際会館である「国際アルツハイマー病協会国際会議」のボランティア参加です。募集がありましたので応募しました。英語での案内もあるようで、お役に立てればと思います。4月26日に説明会があり、4月27日~29日のうち2日出席が必要です。3日間のボランティアですが、世界からの訪問者をおもてなしできるのは嬉しいことです。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/01/13
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【2017年1月13日(金)】 「京の冬の旅」特別公開「金戒光明寺」の続きと、同時塔頭「西翁院」です。(「その1」はこちら)●金戒光明寺(続き)「熊谷直実 鎧掛けの松」 熊谷次郎直実(1141~1208)は、平安末期の源平の戦いで有名ですが、建久4年(1195)ここ黒谷の法然上人を訪ね、方丈裏の池にて鎧を洗いじこの松の木に鎧を掛け出家しました。池はその後、鎧池と呼ばれるようになりました。庵は蓮池の畔に建てられ、現在は蓮池院(熊谷堂)となっています。現在の松は三代目。 この後、西翁院を拝観しましたが、その後に訪れた金戒光明寺の墓地エリアを先に紹介します。蓮池と極楽橋 前述の熊谷直実ゆかりの蓮池です。寛永5年(1628)に春日局が徳川二代将軍秀忠の正室お江与のい御台基を建立し参詣するために、蓮池に木造の「極楽橋」を寄進しました。その後、寛永10年に豊永堅斎が秀忠公追善菩提のために山上に三重塔を建立し、同18年(1641)に「極楽橋」を石橋に作り替えました。「アフロ仏像」 最近話題になりました。墓地の真ん中の階段を上がって少し、階段の近くにあるので、簡単に見つけることができました。この仏像、正式には「五劫思惟阿弥陀仏(ごこうしゆいあみだぶつ)」という名で、気の遠くなる程長い時間修行をした姿を現した仏像なのです。気の遠くなる程長い時間を修行したため、気が付けば頭も伸び放題でこのような大きなアフロヘアーになっているとのお話も。お江(徳川二代将軍秀忠の正室)の供養塔 お江の父小谷城主浅井長政、葉は派織田信長の姉・お市。姉に豊臣秀吉側室淀殿、若狭小浜城主京極高次の室お初がある。浅井氏が滅びたのち、母姉とともに伯父信長に養われ、その後、母お市が越前北庄城主柴田勝家に再嫁する際、姉とともにそこに伴われ、翌年、柴田氏が滅び、母お市も自害すると、姉とともに秀吉のもとに引き取られた。 のち秀吉の養子丹波亀山城主豊臣秀勝(秀吉の姉瑞竜院日秀の次男)に嫁して女子(秀忠養女・九条幸家室・同道房母)を儲けたが、文禄元年(1592)、秀勝が没するに及んで寡婦となった。同4年、秀吉の計らいによって秀忠に再嫁し、家光・忠長の二男、千姫・和子など五女を儲けた。和子は東福門院。 寛永3年没後、三代将軍をめぐって夫人と争った春日局が、追善供養のためにこの供養塔を建立。夫人の遺髪が納められている。 三重塔(文殊塔) 1633年(寛永10年)、徳川二代将軍秀忠の供養ために建立され(国の重要文化財)、黒谷の北西にあった中山宝幢寺(ほうどうじ)の本尊だった文殊菩薩像が安置された。現在、文殊菩薩像は御影堂に遷座している。高木文平(1843~1910)の墓 三重塔の裏(だったと思う)に偶然発見。 1882年に京都商工会議所の初代会長に選出される。1888年には米国視察を経験し、現地(マサチューセッツ州ホリヨークなど)で電気鉄道を目の当たりにし、日本でもこれを実現すべく奔走した。結果、1894年に日本初の市街電車となる「京都電気鉄道会社」を立ち上げ、自ら社長に就任した。 清和天皇火葬塚八橋検校の墓 八橋検校は名曲「六段の調」の作曲者として知られる江戸時代初期の音楽家。京銘菓「八つ橋」の由来は諸説あるが、このお墓に墓参に訪れる人に琴に似せた干菓子を「八ッ橋」と名付け、黒谷参道にあたる聖護院の森の茶店にて、販売したのが始まりというのも一つ。 この茶店は現在の聖護院八ッ橋本店の場所にあたるという。会津藩殉職者墓地 文久二年~慶応三年の六年間に亡くなった二百三十七霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五霊を祀る慰霊碑(明治四十年三月建立)があり、禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に三カ所に分けられ二十二霊祀られている。会津松平家が神道であった関係で七割ほどの人々が神霊として葬られている。墓地からの京都市内眺望 ●西翁院 金戒光明寺の御影堂の前を西に向かうと西翁院があります。「京の冬の旅」で特別公開中ですが、ここは我が会が担当していないところです。ご朱印をいただきたかったのですが、授与はしておられませんでした。 学生ガイド協会の大学生が案内してくださいました。彼らは、我々シニアのガイドと違ってマニュアル通りのガイドですが、そこがまた初々しくていいです。 以下はいただいたリーフレットから◆西翁院の歴史 天正12年(1584)、明連社光誉上人を開祖として、藤堂家御用達の御服商であった藤村源兵衛が創建した金戒光明寺の塔頭寺院。源兵衛の法名「西翁院宗徳居士」から寺名が付けられた。源兵衛の孫にあたる藤村庸軒は、侘び茶の奥義を極め、千宗旦の優れた四人の弟子「宗旦四天王の一人」(他は山田宗偏、杉木普斎、久須美疎安)に数えられた江戸時代の茶人である。◆枯山水庭園 茶室の北側には、三尊石組や枯滝石組が残る江戸初期作庭と伝わる小さな枯山水庭園がある。昭和期の造園家・重森三玲も研究に訪れた。◆茶室「淀着席(澱看席)」【重文】と露地 貞享2~3年(1685~1686)頃、庸軒が造った茶室「紫雲庵(反古庵)」(重文)は、「淀看席(澱看席)」の名で知られている。淀、山崎方面まで遠望できる高台に位置することからその名で呼ばれるようになったという。三畳の広さで、内部の点前座と客座の間に中柱を建て、壁で仕切られているのが特徴であり「宗貞囲(道安囲)」とも呼ぶきわめて閑雅な茶席である。西側の内露地全体を杉皮葺きの屋根が覆い、その下に袈裟形の跨鋸かあり、庸軒が植えたという檜の大木が茂っている。 江戸時代後期に出版された『都林泉名勝図会』にも、西翁院の景観が紹介されている。平成19年、京都市の名勝指定を受けた。http://www.jalan.net/event/evt_196508/http://www.jalan.net/event/evt_196508/http://guide.jr-odekake.net/event/40472http://pao-architects.seesaa.net/article/185035481.html平面図(いただいたリーフレットから)別の平面図http://tairyudo.com/tukan04/tukan4964.htm都名所図会の西翁院http://kyoto-albumwalking2.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-1603.html 夕刻から、ガイド会の月例会があるので、西翁院を拝観後、西にどんどん歩きました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/01/13
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【2017年1月13日(金)】 午前中は、大阪府下M病院での「がん」治療後の定期経過観察(こちら)でした。その後、京阪電車で京都に向かいました。夕刻から、京都でガイド会の月例会があるので、それまでの時間を利用して、「京の冬の旅」で公開しているスポットを巡るためです。 京阪電車の神宮丸太町を降りて、まず東大路丸太町近くの「聖護院」に向かいましたが、残念ながらここの公開は1月16日からで、拝観できませんでした。 それで、さらに東の「金戒光明寺」へ。ここは特別拝観時も含めて、何度か拝観したことはあります。 金戒光明寺は、通称「くろ谷さん」の名で親しまれています。承安5年(1175)、法然上人が念仏を広めるために、浄土宗最初の念仏道場を、この地で開きました。幕末には、京都市中の治安維持にあたる「京都守護職」に任命された会津藩主・松平容保が本陣を構えた場所でもあります。自然の要塞となる見晴のよい丘の上に建ち、かつ1000名の兵が駐屯できた広大な境内を持っていたためです。近藤勇らが松平容保に拝謁し新選組が誕生した場所でもあります。境内には幕末から維新までの会津藩の戦死者が葬られた墓地があるなど、会津藩とのゆかりも深いところです。 西側の門「高麗門」から入ります。金戒光明寺高麗門「京の冬の旅」の看板 金戒光明寺本山に加え、塔頭の「西翁院」も公開されています。洛陽六番観音霊場でもあります。会津藩殉職者墓碑があることを示す石柱会津藩松平容保公が京都守護職本陣を置いたことを示す看板墓地内に清和天皇火葬塚があり、寺域に沿って北上すると陽成天皇陵、後一條天皇陵があります。三門 南からは見上げます。北からは見下ろします。御影堂前の「京の冬の旅」の看板 御影堂に上がって左側に特別拝観の受付があります。我がガイド会が受付・ガイドを担当しています。 仲間の皆さんが、雪もちらつく寒い中、がんばっておられました。 御影堂は、昭和十九年(1944)に京大名誉教授天沼俊一博士の設計により再建されたものです。 御影堂内・大方丈内は写真撮影禁止ですので、それらの写真は他のサイトからの借用です。 御影堂中央に法然上人坐像が安置され、その須弥壇両脇には伝運慶作の文殊菩薩象や遣唐使・吉備真備ゆかりの吉備観音像(重文)が祀られています。 仏師・運慶作と伝わる文殊菩薩像は、境内に建つ三重塔の本尊として安置されていました。吉備観音像(重文)大方丈は昭和19年再建(「冬の旅」ガイドブックでは昭和11年)で、武田五一設計。方丈内の謁見の間~会津藩主松平容保公が新選組の近藤勇と謁見した謁見の間(焼失して再現)大方丈内「虎の間」の「虎図」。久保田米僊の次男、久保田金僊の描いたもの。伊藤若冲筆の「宝珠に槌図」 その他では、松平容保の遺墨、会津藩士の鎧兜など会津藩ゆかりの寺宝、伝円山応挙筆の「鶏図」の衝立などが展示されていました。 大方丈東側には、法然上人の生涯を石で表現した「紫雲の庭」と、池に石橋を架け滝を配した奥行きのある回遊式庭園が広がっています。「紫雲の庭」の茶室「紫雲亭」「紫雲の庭」の茶室「花峯庵」「紫雲亭」と「花峯庵」金戒光明寺は「法然上人二十五霊場」「洛陽三十三観音霊場」「洛陽四十八願所」「日本三文殊随一」の納経所・札所になっています。御影堂、大方丈などは国の登録有形文化財になっています。(続きます)(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/01/13
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【2016年12月22日(木)】 今日は、シニアガイド会の全体会が、河原町五条下ルの「ひと・まち交流館」でありました。 朝、ちょっとした失敗をしてしまいました。自宅から五条通を通るバスで行って、烏丸五条で降りて、歩いたのですが、お昼の弁当を買うのにコンビニに寄りました。そのコンビニを出て東へ東へ歩きました。大きな通りに出たので、河原町通だと思ったら、そこに西本願寺が見えます。堀川通に出てしまったようです。全く逆に歩いていたのです。入ったコンビニは烏丸通の西側にあったのに、店を出たときに東側にあると思いこんでいて、東に歩くべきところを西に歩いてしまったうようです。急いで引き返し、目的地に到着できました。余裕を見て、1本早いバスで行っていたのが幸いしました。ひと・まち交流館出典~https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%83%BB%E3%81%BE%E3%81%A1%E4%BA%A4%E6%B5%81%E9%A4%A8_%E4%BA%AC%E9%83%BD 私が入会してから、会全員で集まるのは初めてです。全員で集まると、さすがに大きな組織だなと思います。今日始めてお目にかかる方もたくさんいました。秋の特別公開や修学旅行、常駐ガイドがひと段落ついて、ガイドの仕事が少なくなる今の時期に行われるようです。 午前中は、「京都市長寿すこやかセンター」の方から、「認知症サポーター講座」を受けました。我が会が来年4月に京都国際会館である「国際アルツハイマー病協会国際会議」でボランティアで協力させていただくことになっていることからのようです。終了後、研修を受けたという証しのオレンジ色のリストバンドをいただきました。 午後からは、会の種々課題について、いくつかのグループに分かれでディスカッションが行われました。色んな方がお話しになり、より深くガイド会の状況を知ることができましたし、どんな気持ちで皆さんがガイドをしているかということも分かりました。 会終了後、有志での懇親会がありました。→こちら 家内は2週間に一度の気功でした。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/12/22
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【2016年12月19日(金)】 ガイド会に仮入会になったのが、今年の5月。そこから研修が始まり、正式入会が8月。その後、常駐ガイド、修学旅行、同行ガイドを一通り経験しました。 このタイミングで新入りメンバー全員を集めて、先輩から感想・意見をヒアリングする場があり出席しました。 皆さんからも、よりよくしていきたいとの思いから活発な意見が出されました。私も2つほど提言をさせていただきました。 私自身のガイドの能力を高めていくことはもちろんですが、この会がさらによりよい会になっていくよう、微力ながら貢献していきたいと思います。 その後、新入りメンバーが集まっての2回目の懇親会がありました。→こちら 家内はテニスでした。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/12/19
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【2016年11月11日(金)】 朝、後腹膜悪性腫瘍治療後の月イチ経過観察で大阪府下のM病院に行った後(こちら)、京都に移動し、ガイド会の月例会に出席しました。 12月4日で東寺五重塔特別拝観が終わり、かつ12月は修学旅行がないので、一旦、勤務日数は少なくなります。そして、1月から常駐点の新しい3ヵ月サイクルが始まり、「冬の旅」もスタートするので、また忙しくなります。 今日、次の3ヵ月サイクルの勤務地が分かりました。私は「八木邸」、「冬の旅」は「妙心寺・養徳院」になりました。「京の冬の旅」のパンフレット表紙「妙心寺・養徳院」部分 また11月は紅葉シーズンで同行ガイドの要請も多く、我々新人のマンパワーが必要とのことで、私は11月21日に三尾・嵐山のツアーを先輩の方とペアを組んで担当することになりました。同行ガイドは、訪問スポットも多く、特別拝観や修学旅行よりも深い知識が要求されるので、準備も大変です。下見も一度は行っておかねばなりません。京都検定の勉強もさらに時間がとりにくくなりそうです。 終了後、前回同様、我々新人と先輩有志による懇親会が近くでありました。→こちら(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/11/11
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【2016年10月18日(火)】 眼科に行った後(こちら)、11月2日の修学旅行ガイドの下見(こちら)の一環で東寺に立ち寄りました。 特別拝観中で、小子房の拝観を私の所属するガイド会が担当しており、今後の参考にもなるし、時間もありそうなので、拝観させていただきました。東寺慶賀門前の特別拝観の案内 小子房はかつて東寺の西院にあり、鎌倉時代に後宇多法皇が密教修行された時や、南北朝時代に北朝の光厳上皇が入洛された時には御所として使われました。 現在の建物は昭和8年に再建されたもので、庭園「澄心庭」は七代目小川治兵衛の作です。 毎年正月に行われる真言宗最高の大法である後七日御修法(ごしちにちみしほ)の際に、勅使供応の場として使用されます。パンフレットより 建物に入り、回りの縁を歩くと、国宝の蓮華門が裏側から見えます。 弘法大師が高野山に向かうとき最後に出たと伝えられる不開門。門まで旅立ちを見送りに来た西院の不動明王の足もとに、蓮の花が咲いたという故事がその名の由来です。蓮華門 小子房は6室で構成され、襖や壁面には日本画家・堂本印象の絵が描かれています。43歳の時に描かれたもので、作家活動の前半期を締めくくる記念的大作といえます。パンフレットより牡丹の間パンフレットより瓜の間 桂の瓜に取材したとのこと いくつかの昆虫が隠れています。ガイドがそれをお客様に探させて上手く説明していました。パンフレットより枇杷の間 枇杷で有名な長崎県の茂木で取材したとのこと パンフレットより鷲の間出典~http://www.toji.or.jp/shoshibo.shtmlパンフレットより雛鶏の間パンフレットより勅使の間 折上格天井、帳台構えなどなど、他の部屋より高貴な造りになっています。 帳台構えの向こうには二条城のような部屋はないとのことでした。パンフレットより萩に鷺パンフレットより勅使の間 流渓に鶴パンフレットより勅使の間 日輪山嶽パンフレットより 説明員の皆さんお上手な説明で、お客様も説明に聞きいっていました。今回も非常に参考になりました。 拝観後、修学旅行の下見を続けました。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/10/18
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【2016年10月7日(金)】 今日はガイド会地区組の月例会でした。 今日は新入会メンバーの写真入りの自己紹介、会全員の名簿も配られました。全体構成人数と平均年齢、新入メンバー数とその平均年齢も知ることができました。私は会全体はもちろん、新入りの中でも若手ということになります。 私の現在の仕事は10月28日~12月4日の東寺五重塔と11月2日の小学生の修学旅行1件だけで、特に12月中旬、下旬はフリーな時間が多そうです。 特記点は、清水寺の正月時期勤務(1/1~1/4)の、1月3日に出ることにしたことです。清水寺https://mellowmix.exblog.jp/14698072/ 会が終わった後、新入りメンバーには、確定申告の必要性などの説明がありました。まぁ、毎年確定申告はしているので、やってみて自分で判断できるでしょう。 このエリア集会、修学旅行研修、特別拝観見学などを通じて、このエリア会の中で、顔と名前が一致する先輩方が、半分くらいにはなったと思います。会全体となると、まだ10%くらいでしょうか。これから特別拝観などを通じて、他のエリアの方ともいっしょに仕事をすることになるので、次第に憶えていくでしょう。 終わった後、研修担当の方と、我々新入りメンバー8人と、先輩有志の方との飲み会が近くでありました。→こちら 家内はテニスでした。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/10/07
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【2016年9月30日(金)】 観光ガイドの勉強のため「京の夏の旅」最終日に上賀茂神社、下鴨神社を私単独で訪問しました。 上賀茂神社に続き下鴨神社です。上賀茂神社訪問の投稿~こちら(続き) 上賀茂神社前から午後2時過ぎの4番系統のバスで下鴨神社に向かいました。「下鴨神社前」で降りましたが、このバス停は下鴨神社本殿の西側にあります。糺の森の入り口から入って、境内社の河合神社も参拝したり、糺の森の中を通って本殿にアプローチしたい場合は、2つ先の「新葵橋」で降りるのがよさそうです。 4番系統は少し遠回りする部分もあり思った以上に時間がかかりました。記録をとらなかったので、どれくらいかかったのかは不明です。 楼門 重要文化財 寛永5年(1628年)造営 桧皮葺入母屋造、高さ30メートルご朱印をいただきました。舞殿 重要文化財 桧皮葺入母屋造葵祭で天皇の勅使が紅紙(べにがみ)に書かれた御祭文(ごさいもん)を奏上し、雅楽の一種である東游が奉納されます。中門から本殿方向を望みます。中門は重要文化財。弊殿に繋がる四脚門。中門の左右に雅楽を奏した楽屋(がくのや)があります。中門は桧皮葺の切妻造。楽屋も重要文化財。中門の横に特別公開の案内看板幣殿~一般の神社の拝殿に相当します。宮中からの供物である幣帛(へいはく)を奉っていました。重要文化財。寛永6年(1629年)造営。桧皮葺の入母屋造。正面に軒唐破風。言社(ことしゃ)。幣殿の前にある下鴨神社の末社。7つの社があり、十二支の守護神。大国主命を祀っています。起源が明確ではありません。重要文化財。受付で当会の方にあいさつをしてパンフレットをいただきました。研修時にお世話になった面識のある方が受付をされていました。下鴨神社の特別拝観は2回目だと思います。特別拝観のエリアに入ったところで、同じように見学に来ていた2名の新入り同期の方にお会いしました。上賀茂神社と違うところは、上賀茂神社は神職さんの説明がメインだったのに対し、下鴨神社はすべて当会による説明であることです。従って、お祓いはありません。国宝の本殿(東本殿・西本殿)は、エアコンの効いた部屋からガラス戸越しに拝観します。東本殿には玉依媛命(たまよりひめのみこと)、西本殿には賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祀られています。狛犬、獅子が一対であること、この本殿まで、狛犬を見かけないことは、なるほどという感じで皆さん聞かれていました。上賀茂神社が「賀茂」、下鴨神社が「鴨」と書くことと、加茂川、鴨川の関係も「へぇー」という感じでした。出典~http://kyoto-rakuraku.net/31-9.html西本殿の横には小さな社の霊璽社(れいじしゃ)があります。印鑑、契約守護の神様です。重要文化財。その横に叉蔵(あぜくら)があります。神宝が収蔵されています。重要文化財。この本殿エリアでの説明が終わり、次の場所に移動しようとしたところ、説明していただいた女性の先輩が、「他の方の説明も聞かれたらどうですか?」と言われて、もう一度部屋に戻って、別の先輩の説明を聞きました。内容は微妙に違い、口調も違いました。それぞれの方とも自分に合う説明の仕方になるよう工夫されているなぁという感じでした。続いて三井神社。3つの小さな社があり、それぞれ、伊可古夜日売命(いかこやひめのみこと)(賀茂建角身命の妻神)、賀茂建角身命、玉依媛命が祀られています。これ以外に3つの小さな社、諏訪社(農耕の神)、小杜社(こもりしゃ)(水をつかさどる神)、白髭社(猿田彦を祀り、すべての物事を導かれる神)があります。これら6つの社は重要文化財。三井神社 出典~http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/26728344.html諏訪社他 出典~http://www.online-instagram.com/user/zaitu0618/578589/1066566302890989698_578589続いて、大炊殿(おおいどの)のエリア。このエリアは写真撮影自由でした。大炊殿は神饌の煮炊き、調理などを行う台所です。重要文化財。ここでは、ご飯、餅、まがり(お菓子)などの穀物類が調理されました。大炊殿の中には神饌のサンプルなどが置かれていました。庭は双葉葵が自生し、「葵の庭」「カリンの庭」とも呼ばれています。双葉葵賀茂斎院御所の井戸である御井[みい]も再興されています。重要文化財。式内末刀社(まとのやしろ)の祭神が御降臨されるところととの伝承があり、パワースポットになっています。御井の左隣が大炊殿です。儀装馬車 葵祭の流鏑馬神事、御蔭祭の際に使用されています。唐車 江戸時代のものの復元です。当会の先輩に挨拶をして、特別拝観エリアを出ました。井上社・御手洗池御手洗池が御手洗川になり、そこにかかっているのが輪橋(そりはし)です。楼門も望みます。輪橋の近くに「光琳の梅」があります。尾形光琳が描いた紅白梅図屏風(国宝)のモデルだといわれます。鳥居の左側に細殿(重要文化財)があります。細殿ではかつて天皇の行幸の際に、歌会・茶会などが行われました。高野川の支流の「泉川」が糺の森には流れています。その一部が御手川に流込み「奈良の小川」になります。それが「瀬見の小川」に取り込まれます。相生社~下鴨神社の摂社2本の木が途中から1本に結ばれた連理の賢木があり、縁結びのご利益があると言われています。他にも摂社・河合神社の参拝や糺の森の散策もしてみたいところです。今日は、夕刻に家内と西京極球場(わじゃさスタジアム)での女子プロ野球をいっしょに観に行くことになっていて、携帯で連絡を取り合って合流することになっていました。本来なら、河合神社や糺の森の時間はとれるはすですが、携帯を忘れてしまって家内と連絡がとれないので、一旦家に帰らなければなりません。それで、早めに下鴨神社をあとにしました。「下鴨神社前」から西回りの205系統のバスに乗って、西大路五条で京阪バスに乗り換える予定でした。思いほか時間がかかって、30分に1本しかないバスに間に合わないかもしれないと思い、西大路四条(西院)で降り、阪急電車とバスで帰りました。上賀茂神社、下鴨神社での先輩の皆さんの説明は、今後、私が実際に案内するときの参考になります。上賀茂神社や下鴨神社を案内するときだけでなく、色んな場面で生かしていきたいと思います。以降の野球観戦は日記のほうにアップします。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/09/30
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【2016年9月30日(土)】 「京の夏の旅」が9月末で終わります。シニアガイド会に新入りしたメンバーは、研修担当者から、当ガイド会が受付・案内している5つの場所は、今後、我々新入りも担当することになるので、是非訪問しておくようにと言われています。この5つは、我々は無料で入場することができます。 8月7日に家内といっしょにそのうちの一つ「和中庵」を訪れ、9月27日に、これも家内といっしょに「藤田家住宅」と「有栖川旧邸」を訪れました。9月30日までに、残っている「下鴨神社」「上賀茂神社」を訪れようと思いましたが、9月28日、29日とも悪天候で、結局今日30日の最終日に訪れることになりました。家内はテニスでしたので、今回は私単独での訪問です。「和中庵」訪問投稿~http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201608070006/「藤田家住宅」訪問投稿~http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201609270004/「有栖川旧邸」訪問投稿~http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201609270005/ 11時過ぎに最寄りバス停から五条大宮まで行き、五条堀川から9番の市バスで上賀茂御薗橋まで乗車。今日は市バスを3回使って移動する予定だったので、市バス一日乗車券をバスの中で買おうとしましたが売り切れ。修学旅行ガイド用に1枚手元に持っていたのでそれを使いました。ガイドの研修中、バスで買う時売り切れになっていることがあるので、予備を手元に持っていたほうがよいとの指導を受けましたが、そのことを身をもって体験しました。12時半頃着でしたので、自宅からは1時間20分くらいかかったことになります。修学旅行ガイド時の参考になります。 途中で携帯を忘れたことに気がつきました。家内と夕刻に合流して、西京極球場(わかさスタジアム)での女子プロ野球を観に行くことにしていましたが、携帯無しでは、待ち合わせの連絡がとれないので、一旦自宅に戻らないといけないことになってしまいました。 修学旅行ガイドでは携帯を忘れると、何か緊急の事態が起こったとき大変になりますので、こういうことがないように忘れ物対策をしっかりしないといけません。 上賀茂御園橋バス停の近くの「なか卯」で昼食。●上賀茂神社「賀茂大社」の石碑門前菓子の「葵屋やきもち総本店」「一ノ鳥居」「ならの小川」 「御手洗川」に「御物忌川」が合流した後「ならの小川」となり、「明神川」へと流れます。藤原家隆の「ならの小川」を詠んだ短歌。(小倉百人一首)「神馬舎」白馬の神馬「神山号」が出社する建物「二ノ鳥居」「細殿」(重要文化財)前に「立砂」「細殿」の右が「橋殿」(重要文化財)。「橋殿」の下は「御手洗川」。斎王代御禊の儀で斎王代が手を清めるのがこの橋殿。「楼門」(重要文化財)と「玉橋」(重要文化財)。玉橋の下を流れるのが「御物忌川」楼門右側に「片岡社」玉依比売命(賀茂別雷神の母)を祀る上賀茂神社で筆頭の摂社。古くから縁結びや子宝の神様として信仰されてきました。 紫式部がこの社に何度も通い、自らの恋の成就を祈った歌も残されていてます。葵の葉をかたどったハート型の絵馬に願いを書き込み、奉納することができます。 さらに、この片岡社の西側には、屋根が付いた重要文化財の「片岡橋」があります。 楼門をくぐったところにテントを張った「京の夏の旅」の受付がありました。当会メンバーが受付をしています。会員証を見せて新入りで勉強に来たことを伝え、挨拶して先に進みます。神社のパンフレット以外に紙製の清掛(きよかけ)をいただき、それを着けて本殿前の棟の部屋に入ります。神職の方の説明が始まるところでした。この前にも我が会のメンバーがいて、特別拝観の方を神職の方が説明する部屋に誘導していました。 神職の方が上賀茂神社の沿革を説明してくださった後、お祓いをしていただき、本殿・権殿前に移動しました。 そこでも、同じ神職の方が本殿・権殿の説明をしてくださいました。 両棟は国宝に指定されているので、建て替えることができないので、式年遷宮の際は、屋根の修復などに留めているとのこと。 権殿は本殿で何かあった場合に、ご祭神を移す場所です。式年遷宮のとき、ご神体が本殿から権殿に一時的に移されたそうです。 本殿すぐ前の庭は天皇陛下しか入れないそうです。実際に天皇・皇后両陛下がお参りの来られた際は、天皇陛下のみが本殿すぐ前の庭からお参りされ、皇后陛下は我々が説明を聞いた場所からお参りされたそうです。 最後に、全員が並んで2礼2拍手1礼で参拝をしました。 ご朱印をいただいた後、会のメンバーに挨拶をして、もう一つの特別拝観の場所である「庁屋(北神饌所)」(重文)に向かいます。紫式部歌碑「渉景園」 2000年に復活された「曲水の宴」はここで行われます。寿永元年(1182)に神主重保(しげやす)が行ったことに起源をもつもので、当日は斎王代陪覧の下、当代一流歌人によって和歌が詠まれ、冷泉家時雨亭文庫の方々によって披講されます。奥に山口社。山口社の右手前に「願い石(陰明石)」「丁屋(ちょうのや」(北神饌所)で、神宝が展示されています。5月5日に行われる競馬会神事を行う場所としても使われています。 本殿・権殿のほうは、説明は神職さんがしてくださるので、受付と高倉殿への案内のみのようです。丁屋は受付+中での説明で2名。これらに交替要員を入れて、恐らく合計5人体制だと思います。エリアの会議では、説明をする必要はあまりないのでいいが、夏の暑さが大変とのことでした。受付や高倉殿への案内はもちろんのこと、丁屋の説明は屋内ですが、エアコンはないので、暑さは大変だと思われます。 上賀茂神社前から午後2時過ぎの4番系統のバスで下鴨神社に向かいました。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/09/30
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【2016年9月27日(火)】「京の夏の旅」で「藤田家住宅」「有栖川宮旧邸」を家内と訪れました。 「その1」で藤田家住宅の訪問記を投稿しました(こちら)。今回は、その続きで「その2」として「有栖川旧邸」です。 (続き) 藤田家住宅をあとにして、「有栖川宮旧邸」のある京都御苑西方面に向かいます。平安女学院中学・高校の向かいにあります。 グルグルと2度付近を回って、コインパークにようやく停めることができました。面識のある方ではなかったですが、先輩ガイドが、独特の語り口で説明されていました。 有栖川宮家は、1625年(寛永2年)後陽成天皇の第7皇子 好仁(よしひと)親王によって創設され、1923年(大正12)慰子(やすこ)親王妃の薨去によって絶家になるまで、ほぼ300年の系譜を持っています。その邸は当初京都御所建礼門の前に建てられていましたが、京都裁判所の仮庁舎として使用された後、民有地であった現在の場所を買い上げて旧京都地方裁判所所長宿舎の一部として移築し、2007年まで使用されていました。それを近接する平安女学院が購入しました。現在は「平安女学院大学・有栖(ありす)館」と呼ぶ教育施設として使用されています。 烏丸通に面した門は、銅板と真鍮板で葺かれた豪壮な趣を持つ平唐門で、三井一族の総長・三井高保(たかやす)氏が1912年、邸宅の表門として新筑。その後、別の場所に移築したものを裁判所が購入し、1952年に京都地方裁判所所長官舎表門として現在地に移築したものです。 同年の仲秋の名月の夜、当時の所長・石田寿と親交のあった歌人・吉井勇氏が李白の詩から字をとってこの門を「青天門」と名づけたといわれます。この青天門は左右の塀とともに大正期の門建築として高い価値を持っています。烏丸通に面した門 門の後ろに一部写っていますが、邸内の2本の大きな枝垂れ桜は、あたかも1本の樹のような枝振りを見せ、塀を越えて烏丸通にも大きく張り出し、春には美しい景観を見せてくれます。この枝垂れ桜は1952年3月、堂本印象画伯の発案により、醍醐寺三宝院にあった実生(みしょう)の桜を当時の門跡岡田戒玉氏の快諾を得て分譲移植したもので、豊臣秀吉が「醍醐の花見」をした当時の桜の子孫にあたることがDNA分析の結果、判明しています。 写真にはありませんが、下立売通沿いの白い漆喰塗り長屋門は、向かって右手に居住のできる部屋、左手に納屋等に利用されていたと思われる部屋を抱えています。築年月は不明ですが、専門家によると、長屋門形式としては最上級の構えであり、築地塀とともに所長官舎屋敷の外見を構成する要素として不可欠な建築であるといわれています。 「書院造」の屋敷は、中庭を含む「玄関棟」「住居棟」「客間棟」の3つの棟で構成。客間棟の西側には、「床の間」と「付書院」を備えた2畳の「上段の間」のある、12畳半の座敷があります。この間に続く15畳の板張りの間は能舞台として使用できます。玄関棟客間棟 奥が12畳半の座敷(奥に2畳の上段の間)、手前が15畳の板張りの間。上段の間 床の間を備えます。花頭窓を通して上段の間を眺めます。花頭窓の向こうには付書院が備えられています。 庭園は2009年「植治」十一代小川治兵衛氏により「植治の庭」として作庭されました。庭園の眺めを考慮して、地面を30センチほど嵩上げしたとのことです。庭園 青天門の両側の桜と楓の丘には、氏自ら「立ち話ではなんですさかい」と命名された、かつては石橋であったベンチ代わりにもなる景石が据えられています。住居棟にまわります。普通はっここはガイドが説明しないらしいですが、客間棟で説明された方が休憩時間なのか、わざわざ来て説明してくださいました。面白い説明でした。中庭 藤袴が咲いています。蝶が来ていました。藤袴に集まることで有名な「アサギマダラ」と説明してくださったと記憶していますが、帰って調べたら「アオスジアゲハ」のようです。 平安女学院の過去・現在の制服が展示してありました。ワンピースのセーラー服は珍しくなったようですが、夏服は現在もワンピースとのことです。 その横の部屋では、お香が展示され、聞香にトライできるようになっていました。近くの山田松香木店さんにより展示でした。受付の先輩の方々も面識のない方でしたが、ご挨拶を申し上げて帰途に就きました。「藤田家住宅」も「有栖川宮旧邸」も、先輩ガイドの説明は素晴らしかったです。今後の参考にしたいと思います。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/09/27
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