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今朝の新聞に自宅でお母さんを看取った人の記事が出ていた。昔は家で寝たきりの人とか結構いたと思う。自宅で亡くなる人もいたし往診に来てくれる先生もいたし。でも最近は病院で亡くなる人がほとんど。最近亡くなった義父母も病院で亡くなった。義父母が入院した病院ではコロナで面会ができなくていよいよとなってから夜中呼び出しが来た。今は家で看取るのが難しいようだ。この人はお母さんが誤嚥性肺炎で入院した。90歳。コロナ禍なので面会はできない。電話で様子を聞くものの日に日に弱ってくるお母さん。病院から昨年11月末で突然退院してほしいと言われた。世話になっていた地元の居宅介護支援事業所のケアマネさんに相談した。自宅を選ぶのであればできる限りの支援体制を整えると言ってもらえた。母の故郷の淡路島が見えるこのマンションで看取りたいと女性は思った。バタバタと退院準備が進んだ。訪問医療する在宅専門医、訪問介護、ヘルパーの一日3回の訪問。介護ベッドなどの手配。数日はかかるはずの手配がわずか数時間で終わった。12月2日に退院。女性は勤務先の短時間勤務制度も利用してできるだけお母さんが一人になる時間を最小限にする。お母さんが退院直後お母さんが入院していた病院でクラスターが発生して入退院ができなくなった。ギリギリ間に合った。女性はケアマネさんとお母さんの看取りをどうするか相談した。退院したお母さんの手を握りベッドの横で眠った。お母さんは眠るように逝った。女性は病院に診療記録の開示を求めた。たくさんのお母さんの言葉が残されていた。お母さんの周りの人たちが覚悟をもってお母さんの最後の幸せな時間を作ろうと頑張った。すべての条件が整い、周りの人たちが全面的に協力して女性とお母さんの望みをかなえた誰もがこんな風に旅立てるわけではないけど、やり方によってはこういうこともできるということだろう。他人事ながらいい旅立ちにできてよかったと思った。
2021.11.24
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ようやく母に面会できました。 玄関先で10分程度、ほかの家族とかぶらないように事前に予約してから面会します。 母が担当職員さんに付き添われて玄関まで出てきました。 母の担当さんはこの4月に入職したばかりの新人男性。 最初は私と話すのもとても緊張していたけど、今はだいぶ慣れてきたようです。 母をやさしく見守り、耳元で話しかけます。 若い男性が介護の仕事を選ぶなんてなかなかできないと思います。 結構きついし、休みも思い通りにとれないだろうし。 母は何度も同じことを聞きます。 歩いてきたのか?元気か?家族も変わりないか? でも母はどこにいても私のことが気がかりなのでしょう。 母がまだ家にいたころ、私はよく入院していた。 病院から母に電話したら、先生がダメと言っても退院しますと言って帰ってこいとか無茶なことを言っていました。 最近は元気にしているけど、母は私の顔を見るたび元気か?大丈夫か?と聞く。 認知症になっても母は母。母として子供が心配だし、そこは変わらない。 改めて気が付きました。 ここに初めて来た日に母の歓迎会をするから一緒におやつを食べましょうと声をかけられた。 食堂に行って母の横でお茶とケーキをごちそうになった。 ケーキはイチゴの載ったロールケーキでイチゴは全員の分なかった。 母のケーキにはイチゴがあって私のケーキにはなかった。 それを見た母が自分のイチゴをフォークで指して私のところに入れた。 職員さんがイチゴは嫌いですか?と聞いてきたからたぶん私のがないからくれるつもりで入れたのでしょうと答えた。 母は昔からこういう風に自分は我慢するとか後回しにしてまず子供にという人だった。 これから先イチゴを見るたびにこの時の母のことを思い出すだろうと思った。 そんなこんなであっという間に10分の面会時間が終わった。 また来るね、元気でいてねと手を振って別れてきた。 母は私の姿が見えなくなるまで手を振っていた。 私にとっては母はいつまでも母、母にとっても私はいつまでも子供なんだと実感した。
2021.11.18
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いくら仲のいい夫婦でもやがて一方が先だって一人になる。それは仕方がない。私の年齢より上の友達や知人の中にはおひとりさまがちらほらいる。同級生の中にも10年前から未亡人という人がいる。一人になったときどうするか?どう生活していくのか?子供や孫に囲まれて老後を送れる人は今はほとんどいない。核家族で子供が独立して夫婦二人の生活は結構長いかもしれない。でもいつかは一人という覚悟はしておかないと。相方が旅立った後、あれもわからない。これもどうしたらいいの?では困る。友達は保険関係、年金関係、通帳とかわかりやすく箱に入れておいているという。終活というか私もそれ必要だなと思いながらまだ手を付けていない。また押入れとかにあるいろんなものを整理していらないものは捨てないと後に残った人が困る。私の母がホームに移ってそこが終の棲家ということでそれまで住んでいた県住の部屋を明け渡した。押入れにはいろんなものがいっぱいあった。それらを整理するのは大変だった。母のところへ持っていけるものは持っていったり、うちに持っていけるものも持っていった。でも大部分はいらないものが多かったので処分した。いらないものばかりでなく置き場所がないから仕方なく処分したものもある。自分の体が言うことを聞くうちに終活始めないとな。寝込んだりしたら自分でできなくなるし。おひとりさまになったら家に引きこもるのでなく、趣味や友達とランチとか旅行とか出かけたい。体の動く限り人生を楽しみたい。しばらくコロナで旅行も遠ざかっているけど、コロナが下火になったら出かけたい。いろいろ欲張りな私の終活、まず何から手を付けよう?もし夫が後に残ったら?以前娘たちに言われたことがある。もしそうなったらなるべく早くあっちから迎えに来てやって。夫が残っていたら娘たちも自分の生活もあるし、頼られてもそんなに面倒は見られない。夫は面倒を見てもらう気満々だけど、面倒を見られないというより娘たちは面倒を見る気がない。まあ今までの夫の行動がそうさせているんだから自業自得だし。夫は何も捨てない。とっとく派なので我が家はごみ屋敷になりそう。テレビでごみ屋敷のニュースをやっていて見たら自分の実家だった、なんてこともあるだろうと娘たちは言う。そうならないうちに迎えに来てというので、娘たちになるべく早く引き取りに行くよと答えた。でも正直あの世で少し一人でのんびりしたい気もあるんだけどな(笑)夫、私は百まで生きる予定だったからまだまだか?でも押し入れの整理と思い残すことのないように遊ぶのは今からでも始めよう(^^♪
2021.11.12
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夕べ2007年ごろの日記に見入ってしまって12時になってしまいました。2007年ごろと言えばまだ娘たちも家にいて4人家族でワイワイやっていました。14,5年前と言えばまだ夫は現役で働いていて私はまだ透析をしていました。それなりに毎日ちょっとした事件はあるのですが、それなりに楽しい毎日。今は娘たちも巣立って夫と二人。なんだか寂しい。これがお暮ればせながらやってきた「からの巣症候群」というものでしょうか?今は夫と二人なので料理を作ってもすぐに残り勝ち。ともすれば残り物の処理に追われる。大きな鍋で4人分の料理を作っていたのが今は片手鍋で済む。どうかしたらそれでも残る。私は移植して透析は卒業できたものの、日々体の衰えを感じる。だんだん高齢者、老人へ変化しつつあるなと実感する。人生の後半戦。友達と会っていても老後や年金、親の介護などが話題にもぼる。あまり充実感とか幸福感は感じない。なんだか人生のむなしさとか、子供たちが自分の手を離れた寂しさとか。当時はインストラクターの試験勉強を頑張っていて未来が見えていた。充実していた。今は未来はトンネルの中にあるような、あんまり希望が持てない。これからどうなっていくのだろうという漠然とした不安感。みんなそういう道を通ってきたのだろうか?わたしだけだろうか?こんな私に元気をくれるエールをお待ちしています。って他力本願?(笑)
2021.11.08
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