綴

綴

2005年11月12日
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カテゴリ: -本編- [第1部]
「おいおい……大丈夫か?」
緋深と比べるとかなり低い、大人の男性の声だ。
低く、厚みがあり直接脳を揺さぶる声に、心配している響きはない。
馬鹿な子供がいる、と嘲ってるわけでもない。
子供が二人、雪にまみれ白くなっているのを怪訝そうにしているのでもない。
ただ、呆れているようだった。
「何だって、こんなとこにガキが……」
誰に聞かすためではないように呟かれた言葉は、鋭い寒さを纏った風に消えていく。 
「……あいつらしくもねぇな」

徐々にその音は大きくなり、心の奥底の閉じた蓋からわずかに溢れてくる恐怖と絡みついく。
揺れる視界の先に、強烈な赤色に染まった人影が写ったと同時に、恐怖は加速し、増殖されていった。
言いようもない不快感を振り払うために朔夜は『見る』と言う機能をすでに果たしていない目を、強く上下を縫い合わせた。
感覚が、視界を閉じたことで、否応なしに敏感さを増す。
どれぐらい今、距離が離れているのか、それがどれほどの速度で詰められているのかが、理解できた。
面識のない人と接することに怯えてしまうことが癖になっている朔夜だからこそ、人の気配を察することはたやすく、人との距離を正確に弾き出す。
仮に今、身体が自由に動けるなら、間違いなく朔夜は脱兎の如く逃げ出していただろう。
それほど朔夜は、精神にかけられる圧迫感に負け、潰れそうになる。
自然の猛威にさらされ弱り、ただでさえ荒い呼吸が乱れていった。
「うおっ」
風を切る鋭い音に、低音な声が重なった。

男の声に、どこにも痛みに耐える呻きや、襲いかかられたことに対する不快な感情は滲んでいない。
そこには余裕が、どっしりとした落ち着きがあった。
「おいおい」
「それ以上……近寄るな」
朔夜は、緋深の細く張りつめた、だが鋭く触る者全てを切り裂かんばかりの雰囲気に息を呑む。

だが、それよりも息苦しさを感じた理由は、緋深の感情のない声だ。
普段の柔らかさはどこにもなく、温かさは消え失せた、無機質なそれは過去にも聞いたことがあった。
脳裏に緋深の顔が過ぎる。
よく知る暖かさを凝縮したような瞳ではなく、全てを拒絶する瞳。
壊れ物を触れるように接する手ではなく、無慈悲に触れることを許さない冷たい手。
(---駄目だっ)
恐怖を塗り替える、不快感をねじ伏せる強い感情が弾けるように生まれた。
緋深を、止めなくてはならない。
その一心で朔夜は軋む身体にむち打って、奮い立たせようとした。
だが一指も自由に動かない身体に、歯がみする。
「別に、取って食いはしないぜ?」
「うるせぇ」
「人の親切は、素直に受け取っておくべきだぜ。子供は」
「親切?……はっ、親切ってのは、いつから人さらいを指すことになったんだ」
「言うに事欠いて、人さらいかよ」
男と緋深の会話を、止められない。
人を食ったように喋る男に、緋深は苛立っている。
何度も、何度も止めようとして、その度に失敗する。
急ごうと、どうにかしなくては、気持ちだけが身体を走り去っていく。
「……金、掴まされて、頼まれたくちだろうがっ!てめぇもっ」
「人間不信だねぇ。善良な一般市民をつかまえて」
その瞬間、緋深の張りつめていた雰囲気が、爆発した。
苛烈な炎に似た凄まじい怒気が緋深を包む。
「そんな趣味の悪い着物なんか着ておいて、一般人と言い張るのかっ?!」
空気を切り裂く怒声と共に、風を切り、何かがぶつかりあう音が聞こえた。
戦いが、争いが始まってしまったのだ。
朔夜は強調し言われた『趣味の悪い』、と言う言葉に一瞬首を傾げかけたが、すぐにその考えは泡のように儚く消えた。
仮に、緋深曰く『趣味の悪い』を見ることが出来ていたなら、朔夜は後悔や、無力さに打ちひしがれているのを一瞬でも忘れ、男に目が釘付けになっていただろう。
目の覚めるような光沢のある艶やかな赤地の着流しに、金糸の美しい鶴が軽やかに舞っている。
自由に羽ばたく黄金の鳥を雪から守るように肩に羽織られた着物は、雪に見劣りしない純白さを誇り、所々に大輪の銀の華が咲いている。牡丹、芍薬、薔薇と、美しいと賞せられる花々は、決して互いを邪魔せず、だが高らかに誇らしく、銀糸と言うことを除いても、白地の着物の上で輝いていた。
このとんでもない組み合わせは、成金趣味の悪趣味にしかどうやっても見えない。
だがそれを悠然と着こなす男からは決して下品さは感じられず、むしろ似合うとさえ万人に錯覚させた。
この似合う、似合わないを考慮しなくても、人の視線を否応なしに縫い止める着物は、人の思考を一時でも停止させるだけの強烈な衝撃があった。
この着物の凄さを認識できなかったことが、朔夜によかったか、悪かったかは分からない。
罪悪感などを一瞬でも忘れられたことができたのだから。
だが、きっと一瞬でも忘れたことを、更に朔夜は後悔しただろう。
(---悔しい)
己の無力感から生まれる歯がゆさに、胸の奥が軋んだ。
呼吸をする度に、細かく割った薄氷を突き刺さっていくような肺の痛みよりも、比べものにならないほどの痛みを感じた。
何度も何度も聞こえる重く、だが鋭い音が、鼓膜を切り裂いていくようだ。
切り裂かれた部分から流れる見えない血は、鼓膜を覆い、聴覚を麻痺させていく。
一枚の薄い壁を通したように聞こえる緋深と男の声を、かろうじて朔夜は聞いていた。
緋深が怒鳴っている。
男はそんな緋深を、平然と、余裕をたっぷり滲ませる声で応答している。
緋深は、親しい者の欲目抜きでも、とても強い。
それを軽く躱しつつ、落ち着いた声で会話をしているのだ。
息一つ乱していない。
力の差が、浮き彫りになっていた。
緋深が負けるのは、時間の問題だ。
なのに、朔夜は加勢もできない。
戦いを止めるため、割って入ることもできない。
己の無力さから生まれた暗く重い感情に、引きずられそうになった時だった。
「----っ?!」
そっと、だがいきなり肩に触れた暖かな感触に息を呑んだ。
反射で、身体が強張り、逃げ腰になり、目を見開いた。
気配を感じなかった。
ありえないことに、困惑し、頭が真っ白になる。
いくら思考の海に身を委ねていようと、人の気配がこんなに近づくまで気付かなかったことは、今までになかった。
緋深では、ない。
肩に触れる指は、ところどころ傷があるが繊細で、一目で女性の手だと分かった。
なにより、緋深の怒鳴り声が、遠くから聞こえていた。
どうするべきか、色々と考えるが、全てが空転する。
空転すればするほど、更に困惑は混乱となり、呼吸の仕方さえ忘れていった。
「大丈夫か?」
静かで、だが直接心に響き揺さぶる声だ。
すとん、と心の奥に届き、混乱が硬直した。
じわじわと言葉は胸の奥に染みこんでいき、何故か強張った肩の力が抜けた。
声の主の静謐な雰囲気に触れたからか、混沌としていた心が、凪いでいく。
呼吸の仕方思い出し、荒れた息が少しずつだが落ち着きを取り戻しつつあった。
驚き、恐る恐る、だが必死に表を挙げると、水面越しにある人は綺麗なのが理解でき、と深い感銘を受けた。
容姿が、と言うより存在の美しさに圧倒された。
反応を返さない朔夜に、急かしたりするのではなく、麗人はただ静かに再び問いかけた。
「大丈夫か?」
声に誘われ力が抜け、張りつめていた糸がぷつりと切れ、変わりに温かい安堵感が胸にあった。
何故、この人の声は、ここまで安心感を与えてくれるのだろう。
駄目だ。緋深に加えこの人までも、巻き込んではいけない。
そう思うのに、この優しい声に手を伸ばしてしまいそうになる自分の弱さが、気を抜くと安堵の涙と共に零れ出しそうだった。
返事を、してはいけない。
これ以上接触しては、いけない、と必死に言い聞かせる。
まるで、それを気付いたかのような穏やかな声が、言葉が胸に飛び込んできた
「もう、大丈夫だ」
泣きたくなった。
必死に築き上げた弱さを守る壁が、壊された気がした。
壊され、嬉しいのか、悲しいのかも分からない。
ただ、壊されたと同時に、身体から力が抜けていった。
思考が白く浸食され、睡魔の腕が、朔夜の身体を絡め取っていく。
意識を手放す間際に、朔夜はふいに、何故ここまで安心できるのか分かった気がした。
(……そっか。この人は、櫻妃様に似ているんだ)
どこまでも優しく、温かな、あの人に。
死の淵で蹲っていた自分を、掬い上げてくれた人々の1人に。
心配をかけているだろうな、と思ったが、沸き上がる睡眠の誘惑に勝てず、朔夜はそっと目を閉じた。





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最終更新日  2005年11月12日 20時24分20秒
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