☆*猫松屋☆本店*☆  

△:気がつけばすぐそこに…





気がつけばすぐそこに…


 五月も半ばに入ったとある平日の早朝。
 始発電車の中、朝帰りや早朝出勤の人が気だるそうにその身をシートに預け、眠そうな雰囲気を演出している。
そんな中で一人、窓際に陣取り流れる風景をしっかりとした眼差しで見詰める女性が居た。
 肩までの茶色い髪から覗く耳の、控えめなグリーンクオーツのスタッド・ピアスがキラリと光った。シンプルな淡い緑の半袖ワンピースと、それに合わせた萌黄色のサンダルが暑くなり始めたこの時期には目に心地良い。足元には大きな旅行鞄と何か書類らしきものが入ったカルトンが置かれていた。
 目は朝日を浴びてキラキラと光っている。しかし、その目の輝きが朝日の所為ではない事は、上に緩やかな弧を作る薄ピンク唇からもわかる。彼女の表情は明るい。
 飛ぶように過ぎて行く景色を眺めながら七堂 奏(ななどう かな)は気分が良かった。まるで晴天の空、いやそれより清みきった気分だ。穏やかで、でもこれからの生活に対する期待で浮かれている。人に見られたら恥ずかしい、思わずニヤけそうになる顔を必死で引き締めようと何度も空咳をした。しかし、それが返って眠そうな他の乗客には不快らしく注目を浴びていることには気づいていない。
 ガタンガタンガタン
規則的に鳴る車輪の音に耳を傾けた。
『うん、好い音、気持ちがいいね、電車の音って。分かんないなぁ、なんでみんな眠そうな訳?こんなにいいお天気だっていうのにね。ほらあそこの赤い屋根の家も向こうの電話ボックスも輝いているのに……あっ!』
 民家が点在する田園風景の中に突如、現れた楕円形の建物が少しずつ近づいてくる。他の風景は流れるように後ろに遠ざかっていくのに、其処だけ時間が止まったかのようになかなか姿を消すことはない。少し高い所に建つその姿は、遥か後ろに広がる高層ビル街への入り口の番人であるかのように朝日を浴びて堂々としていた。
七堂の乗る電車を街へと誘っているようにも見える。
 七堂はその建物を眩しく目を細めて見つめた。
 目が離せない……
 あの楕円形の建物こそ2002年サッカー・ワールドカップの決勝戦が行なわれた場所。そう『国際競技場』。今ではその華やかさは消えたが、確かな存在感を持っていた。
『……私、行くね……今、すごく好い気分だよ。』
 七堂は心の中で語りかけるように話した。聴いてほしかった。きっと聴こえる筈だと思った。『国際競技場』に……
『こんな好い気分で出掛けられるなんて思わなかった。少し前の私だったらこんな気持ち……持てなかったのにね。』
 そう、少し前だったら、こんな気分にはならなかっただろう。
 少し前だったら……


 七堂 奏は自分でも自覚はしていたが、パッとしない性格だった。所謂、地味というか、大人しいというか、口数が少ないというか…どっち付かずの性格なのだ。七堂自身、別にこの性格を多少は、気にはしていたが深く悩むほど気には留めていなかった。
 気には留めていないのだが、嫌でも自覚させられることが多すぎるのだ。自覚する時点で気にしているのかもしれないが、其処ら辺りは今一、本人もよく解かっていないようである。悪い、とは思うのだが問題は周りにある。そう考えていた。
 七堂の家族構成は父、母、姉、奏と至って普通の家庭である。
父親、十治朗(じゅうじろう)は昔、サイクリング部で日本一週をしたくらいスポーツ好きで、また顔も広く大勢で騒ぐのが好きな性格だ。母親の鈴江(すずえ)は出掛けるのが好きだ。人の役にたつ事を生甲斐にしている面がある、ボランティアやホームヘルパーの仕事や、多趣味で常に家には居ない。姉の唄世(うたよ)は人付き合いがよく、面倒見が良い、現在は資産家の旦那との間に一児を持つ母親で、近所でも評判の良い若奥様である。
そんな社交的で活発な家族の中で一人、大人しく内向的な七堂は、この家に間違えて生まれてきたのではないかと思っていた。
 別に友達が居ないというわけはない。人並みには居るつもりだ。
その友人達も何故だか活発で明るい女の子ばかりである。冬はスキー、夏は沖縄の海で彼となんたらという。多くが女子大生や専門学校生のため、時間がある所為だろうか、サークル活動やキャンプ、飲み会と積極的に行く友人達。肌も常に健康的な色で若々しい。
休みの日や普段の日でも仕事が終ってから家にこもることの多く、不健康に色の白い七堂とは対照的である。
『今度、仕事休みなの何時ー?』
 今日も三日連続のメールが入っている。白木 睦実(しらき むつみ)、高校からの友達で大学生活を謳歌するアウトドア派の彼女。メールでよく遊びに行こうと誘ってくれるのは嬉しいのだが……
渋谷や原宿は人が多くて苦手だ。キャンプやボーリングなんてもっての外。
ついつい断ってしまって、電話でガーっと怒られることはよくある。あんな風に言えたら、と思うことは常々感じる事だ。遠慮なく色々言ってくれるのは、それだけ仲が良い証拠だと羨ましがられる。しかし七堂としては少し圧され気味の気分である。
 そんなアウトドア派な友人達に囲まれていながら、何故か七堂は究極のインドア派である。マイペースなのか、人付き合いが悪いのか、一人妙にパッとしない行動を取るのだ。
 パッとしない七堂の職業も、これまたパッとしていない。
升麻(しょうま)堂古書店という、全国にチェーン展開している古本屋が七堂の勤めている会社だ。
升麻堂古書店蓮華町1丁目店の一角にひっそりと併設されている、中古ビデオコーナーのレジ係りが七堂の役職である。この就職難の時に社員として高卒(大学中退)の七堂が雇われたのは奇跡だ。『運が良かったなぁ……』と本人も思ってしまうくらいだった。
 店の制服(といってもユニクロの1900円のシャツにジーパン、スーパーで安売りしているエプロン)に身を包んだ七堂は、何時ものとおりレジに立ってボーっと古書店の方を眺めていた。
ここは一応、『升麻堂夢祭中古ビデオ販売店』と名前がある。
常に客が出入りし賑やかな古書店の方と違い、店の最深部で目立たない夢祭店には、一日に10人客がくれば多いほうである。
『店の名前だけ立派だよなぁ。』
 ぼつっと心の中でそう思ってみる。
 店の中には、学校をさぼって来ている近くの男子高校生が3人と七堂、それと夢祭店の店長、伊庭 要(いば かなめ)のみ。この店の店員は七堂と伊庭だけである。
この伊庭という男も少しナヨっとしているというか、薄暗いというか、まあはっきり言って悪いが、男らしくない。
 七堂は、遠くに聞こえるような気のする古書店のザワザワというザワメキを聴きながら時間の過ぎるのをひたすら待った。
伊庭と会話をしてもいいのだが、二十一歳の七堂と三十八歳の伊庭では年代が違いすぎて話が弾まないのだ。それに、伊庭は会話を弾ませようという努力が足りない。七堂が一生懸命話題を見つけても短い返事をするだけで会話が終ってしまう。その前に伊庭は自分から会話をしようとしないのだ。
『始めのうちはこれでも努力したんだけどね。』
一生懸命会話を続けようと。それもめんどうくさくなり、も
う仕事関係の用事以外で話し掛ける気も起きない。
ボーっとしていた七堂は、何となく隣のレジに視線を向けてみた。
すると見事に伊庭と目が合ってしまった。
『げ……』
 ニコっと伊庭は微笑む。如何にも何か話し掛けて欲しそうだ。
「あっつ…疲れましたね…ははは…」
 顔が引きつってるのが自分でもわかる。声もなんとなく引いて、ぎこちない笑い方が余計にわざとらしさを醸し出していた。
「そうだね。」
 伊庭は曼延の笑みを返してきた。声も弾んでいる。もう話し掛けられたのが嬉しくて仕方ないという感じが伝わってきた。
『何がそんなに嬉しいわけ。』
 その態度が少々気に入らなかった七堂は視線を外した。はっきり言うが、七堂は伊庭が好きではない。むしろ嫌いと言った方が正しい。しかし、どうやら伊庭は七堂を好いているようだ。七堂は薄々気づいてはいるが、何一つとして知りません、という態度を取っている。あのナヨっとして薄暗い伊庭に告白されるなんて考えただけで身の毛がよだつ。実際何度かそんな感じになりかけた事がある。七堂はその度にうまく逃げているのだ。


12:00を知らせるカラクリ時計が楽しそうに電子音を辺りいっぱい撒き散らし始めた。
12体のピエロが電子音に合わせて踊り始めた。
『やったー終たぁ!』
七堂は頭の中で腕を振り上げて飛び回った。
「すみませーん、今日は昼までの営業でもう閉店になりま~す。」
 本当は店長で男の伊庭がこうゆう事ってやるべきなのだろうが、伊庭は知らない人間にモノを言えない。変わりに七堂が客を追い出すのだ。これでよく店長なんでやっていられると思うが…
とはいっても例のサボりの男子高校生が3人だけ。床に座って携帯を覗き込みながら喋っているだけの彼等を客と呼べるのか…
「ごめんなさいね、またご利用ください」
 営業スマイルでさっさと出て行けと催促する。思い切り睨まれたが彼等はかったるそうに立ち上がり始めた。
『早くしろよ…』
 七堂は伊庭と目が合ってしまった事であまり機嫌が良くなかった。
彼等は七堂を横目で見ながら一人、二人とレジの前を通り過ぎて行く。最後の一人が店を出る時、入り口付近に置いてある高く積まれた在庫の入ったダンボールを思い切り蹴り上げていった。
ガラガラガラ…正しくそんな音を立てて崩れる在庫…聴こえる高笑い…仕事の終る最後の最後で七堂に仕事を作ってくれたのだ。
『何様だよ!お前等!』
 ぎゅっと拳を握り締めてなんとか耐えたが、もうそこ等じゅうのビデオを片っ端から棚から投げ出したい気分だ。
こんな時にどなって飛び出していけたらね…
心の片隅でそう思ってみた。
ビデオを拾いはじめると、視界の端に伊庭が映った。
「大丈夫?最近の子って変に悪ぶりたがるからね、気にしない方がいいよ。僕も片付けるの手伝うからね。」
 如何にも自分は優しいんだよ、っていう仕草を見せつけようとする伊庭により腹が立った。普段、滅多に話し掛けて来ないくせに、こうゆうときだけチャンスと言わんばかりにニコニコと話し掛けてくる。
『当たり前でしょ!!第一、あんたが全部こうゆうことやってくれれば私は毎度、嫌な思いしなくてすむんだよ!』
 七堂は伊庭に向かって大声で言ってやりたい気分だったが、仕事を早く終らせて帰ることの方が先決だ。
『カキ氷、南極氷山、アイスクリーム…』
 頭の中で冷たい物を描いて気分を落ち着かせる。


結局、全部片付け終わるのに1時間かかってしまった。
『残業手当つくでしょね… まったく…』
七堂は今までこんなに早く着替えたことはない、という位に帰り支度をして控え室を飛び出した。
「あっ奏さん!」
走り出そうとしていた七堂は伊庭に呼び止められた。
『つーか名前で呼ばないで欲しい。』
少し怪訝そうな顔をして振り返ったが、相手は一応上司、すぐに作り笑顔を作って答える。
「なんですか?」
「あのさ、今日暇?で…」
「ちょっと急ぎの用があるんです。お疲れ様です。お先に失礼しますね。」
七堂は伊庭の言葉を遮って歩きだした。
どうやら食事に誘いたかったようなのだが…冗談じゃない、食事になんか2人で行った日には気まずくて何を話せばいいのか解からない。
七堂は今日の嫌なことはすべて忘れて、休みを楽しむためにも早く仕事場から立ち去りたいのだ。伊庭と会話なんかしている場合じゃない。それに暇ではないのだ。今日は明日の休日に作るためのアップルパイのりんごを煮なきゃいけない。
「お疲れ様で~す。」
「ちょっと!!奏さん!!」


駅まで走ってきたおかげでちょうど来た電車に乗ることができた。
普段12:00~2:00まで朝と違い極端に電車数の少ないこの路線は、この時間、一本逃がすと35分待たされる。その35分さえ惜しいと思っていた七堂は乗れたことで少し気分が良くなった。
「はーーー。」
思わずため息が出る。慌てて口を抑えてやり過ごした。
『いかんいかん、幸せが逃げる、ため息をつくと幸せが一つ逃げるからね。』
少し疲れていたから後二駅で降りるが座席に座った。
外の風景が川の流れのようにサラサラ流れてゆく。良い天気だ。窓から差し込む光に目を細めて眺めると、狭い視界の中に鮮明な映像が広がる。その中心を飾っている主人公は楕円形の国際競技場。電車の窓のフレームが映画館のスクリーンになって、一つの映画を見ている気分になってきた。
『あっ…また…変な気分…』
七堂は国際競技場が出来上がるのをこの電車の中からずっと見てきた。その所為もあるのだろうが、何となく変な思い入れがあるのだ。前にとあるミュージシャンのライブで行ったことがある。その時はあまりの広さと大きさに圧倒されたものだ。今はその賑やかさが無い所為なのか、青空に包まれて教会のマリア像のように穏やかな笑顔を作っているように見えた。
出来上がる姿を毎日夢中で観察していた。
『やっぱりいいなぁ…すごいよなぁ… 私も…』
 フワリと心が温かくなった。
『私も…』
「次は中山沼~中山沼~、お忘れ物のないようにお降ください。」
ハッと七堂は我に帰った。
『いけない、降りなきゃ!』


本当は自宅からの最寄駅はこの次の八日市場なのだが、今日は途中下車で寄りたい場所がある。
大型の手芸屋だ。
七堂の趣味は読書、料理、そして手芸。インドア派の七堂らしい趣味だ。家でひっそりと好きなことをするのが好きだった。
今日は先月かなり残業があり、その手当てが結構貰えたので以前から狙っていたフェイクファーの生地を買おうと決めていた。
さほど大きな駅ではないが中途半端な田舎駅にありがちな駅前に色々な店の集まるこの駅は、同じく人も集まってくる。集まる場所がここしかないからだが。
手芸屋は駅から10分ほど歩いたところにある。駅前さえ抜けてしまえば後はさほど人もいない。だから少しの辛抱だ。途中でいきなり止まったりするおば様や、道の狭い所に突っ立って話し込む邪魔な女子高生をなんとか避けて、他の店には見向きもしないで真っ直ぐ手芸屋に向かった。
「奏!」
突然、呼び止められた。七堂は人ごみの中、立ち止まって声の主を探してみたが見付からない。人違いかと思ってまた歩き出そうとすると。
「奏!こっちこっち、前前!横横!」
どうやら声の主は七堂を呼んでいるようだ。また歩き出した七堂に必死に居場所を伝えようとしているのが声で解かる。
『前って言ったって、今度は横?どっちだよ…あっ!』
あまりにもボキャブラリーのない説明だったが、なんとか相手の示している場所が解かった。駅前の大通りに面したカフェのオープンテラスから知っている顔が手を振っている。
「咲江?」
「そうそう!久し振り!」
東 咲江(あずま さきえ)大学生だったころ同じ学年だった。彼女は髪型と服装が変わっていた所為か、七堂は一瞬、誰だか解からなかった。しかし、お気に入りのブレスレットは健在だ。ブレスレットが無かったら、咲江だと気づけたかどうか怪しい。
「時間ある?なんか急いでなかった?」
「まあ大丈夫だけど。」
「じゃあ早く座りなよ、咲江がなんか奢ってあげるよ。」
そう言って七堂が返事する間を与えず咲江は店員を呼んだ。
「メープル・シナモン、アイスでクリームたっぷりでね。」
語尾にハートマークが付きそうな話し方だ。注文を取りにきた店員も儲けたと言わんばかりに顔がニヤけている。
『やらしーなあの店員。』
 けして声に出しては言わないことだが、七堂の視線に気づいた店員は気まずそうにその場を去っていった。
『やれやれ。』
本当は早く手芸屋に寄って帰りたいのだが、久し振りに咲江と話したい気持ちに負けた。七堂は少しくらいなら平気だろうと思って咲江の向かいに座った。咲江はそれを見て微笑む。
「何?なんか嬉しそうじゃない?」
「だってさ、奏に会うの久し振りだし。奏、急に学校辞めてなかなか会えなくなったし。」
チクッと七堂の胸を何かが刺した。痛いところを…
「うん、ちょっと事情があってね…」
あまり触れてほしくない話題だ。学校を辞めたのは七堂自身が望んだ事だった、それなのに人にその話題を振られるのが辛いなんて…七堂は少し自嘲気味に軽く笑った。
『誰にも相談できなかったし…疲れたからなんて言えない…』
「ほら、来たよ、ここのメープル・シナモンコーヒー、うまいよ。」
七堂が暗い気分になっているのを知ってか知らずか、咲江は明るい笑顔を振り撒いてくる。
そんな咲江を見て気分を変えようと七堂は思った。甘い香りのする青いグラスのストローに口を付ける。シナモンの香りが口に広がった。甘すぎずいい感じ。
「おいしーね。」
七堂の反応を見て咲江は得意になっているみたいだった。
椅子に深く腰掛け、足を組む。いい気分の時によくする癖みたいなものだ。ゆったりと座る咲江は少し細めで顔もよく整っている。美人の部類に入るタイプだ。性格も人懐っこく、守って上げたい気分にさせる。七堂にないものをいっぱい持っていた。
七堂はなるべくそれを感じないようにしている。人の持っているものなんて幾らでも羨ましいと思えるからだ。自分にないものを羨ましがらない。七堂が密かに決めた規律。
「指輪、この前のと違うね。」
ふと咲江の左指に目が行って気が付いた。
「うん、これは旦那に買って貰ったやつ。」
咲江はダイヤモンドを埋め込んだシンプルな指輪を左手ごと七堂に見せる。
「旦那?」
「そう、結婚するの。」
「そうなの?おめでとう!友達の中で咲江が始めてだよ、結婚するの。二十七歳の会社員の人だっけ?相手は?」
「違うよ、その人とはもう別れた、旦那になる人はね、ほら、知ってるでしょ?バイト先の。かっこいいって言ってたじゃん。」
七堂は笑顔で相手の写真を見せる咲江に言葉を失った。三ヶ月前に会った時はまた別の彼氏が居た筈なのに。
「結婚式来てくれるでしょ?」
『つまり二股かけてたってことね…現実考えてこの人に決めたって感じだね…ふーん結構やるんじゃない?』
「奏?どうしたの?ボーっとして。」
心の中で独り言を言う。あまり人には思っている事を言わない。こういうところは七堂の悪い所だ。
「奏は?どうなのよ、その後。誰か相手いるわけ?職場恋愛とか?」
 七堂は口篭もる。苦手な話題だ。その所為で頭の中で考え事が始まってしまった。
職場恋愛と言ったら相手はやっぱり伊庭だろうか、いや伊庭しかいないと言ったほうが正しい。七堂は寒気がした。伊庭と恋愛?結婚?馬鹿を言っちゃいけない。伊庭と付き合うくらいなら…
『死んだほうが絶対まし!』
顔が引き攣っていくのがわかった。自分でもこんなに伊庭の事を嫌っているのだと改めて自覚する。
「その顔、相手は居ないってこと。ねぇ今度、紹介しようか?」
「いいよ別に。」
本当にどうでもよかった。今は、職場恋愛と言われて伊庭を思い出した自分を消したい…
なんだか悲しい気分になった。今日はあまり良い気分になれない、七堂はまたストローに口を付けて気分を変えようと試みる。
「奏、もしかして彼のこと忘れられないんじゃ…」
「へっ?」
咲江のとんでもない発言に七堂は、情けなくも狐につままれたような返事をしてしまった。さらに咲江はより発展した事を言ってきた。
「学校辞めたのもそのせい?」
「ちっ違うよ!ぜんぜんそんなことないよ!なんでそんなことで…」
そんなことで辞めたりしない。七堂はそう言おうとして言葉を濁した。心の中の何か引っかかりがそうさせたからだ。一瞬でそれも消えてしまったが。
しかし、咲江は七堂の表情からなにか誤解したようだ。話しが変な方向に行っている。
七堂は一瞬、昔の彼の事を思い出していた方が何倍も良かっただろうと思った。なにが悲しくて伊庭の事なんか思い出したのだろうか…
気分は最悪。どうやって自分をフォローしようか七堂は額に手を掛ける。
『まいった、まいったね。』
「はぁー。」
思わずついたため息がより咲江の誤解を膨らませてしまう。
「何そのため息。いい?恋人がいないから昔の男のこと忘れられないの、咲江が今度お茶会に誘うから、その時誰か紹介してあげる!!」
『まずい展開になった。』
七堂はそう思った。なんとかこの場を逃げ出したい。咲江がより大変な事を言い出さないうちに。
咲江は携帯電話と手帳を出してスケジュールを確認し始めた。これ以上居れない。まだ咲江が具体的な案を言っていない今しか場を離れるチャンスはないのだ。
『ごめんね咲江、逃げさせて…よし!』
「あっ!ごめん咲江、時間が…もう行かなきゃ。またメールとかで連絡するね。お茶ご馳走様。私も今度なにか奢るね。」
七堂はガタガタと席を立った。
「ちょっちょっと奏、逃げるつもり?」
「結婚式の日決まったら教えてね、じゃあね。」
咲江がこっちに向かってなにか叫んでいる。どうやら逃げ出したことはばれているらしかった。
七堂は一度も振り向かずに手芸屋まで早歩きをした。
『咲江に会えたのは嬉しかったけどね…私は咲江みたくうまく出来ないからね…』
また諦めだ。何時からこんなに自分には無理だ、と思うようになったのだろう。こんな自分が情けなく感じた。それだけじゃない。今日、咲江はすごく輝いて見えた。なんでだろう、何だかは解からない、でも確かに何かを咲江に見た気がした。
『この感じ…どこかで…』
ふとそんな言葉が頭を掠めた。よく感じている、でも七堂には良く解からない感じだ。なんだか前方が霞掛かって見えない道路のように…
『何?何だろう?』
変な気分だ。でもけして嫌な感情ではないような気がした。どちらかというと…
『まあいいか、早く手芸屋に行かなきゃねー、あーもうこんな時間だよ。』
七堂は無理やりこの感情を追い出した。

この時気づき初めていたのかもしれない。何時かこの感情と向き合わなければいけないと…そしてそれがそう遠い未来ではないことも…


『もう少しだよ…奏…』


七堂は上機嫌でいそいそとフェイクファーの入った袋を抱えて帰って来た。狙っていた生地が半額のセールだったからだ。
『ふふ、儲けた。』
着替えるのも忘れ、鼻歌交じりにアップルパイのりんごを煮始めた。シナモンたっぷり、砂糖は殆ど入れなくてもりんごの甘さで十分だった。
『さてこれで明日の仕込みは良しっと。今日のメインイベントに入りますか。』
七堂はフェイクファーを取り出した。これで七堂オリジナルのテディベアを作るのだ。
成れた手つきで生地に型紙をあて素早く輪郭を引いていく。我ながらこれは自慢できることだ、と少し得意になった。
数時間前に比べてこの気分の差はなんなのだろうか。
『布を裁つかね、えーと裁ちバサミ、裁ちバサミはっと。』
七堂が押入れをごそごそやっていると母親がリビングにやってきた。背中にはゴルフバックを背負っている。
「奏、お母さんこれからゴルフの練習に行ってくるわね。」
「んー行ってらっしゃい。ねえ、裁ちバサミ知らない?」
「そこにない?」
なにか呆れた口調に七堂は母親の顔を見るために振り返る。なんとも言えない顔をして母親は七堂を見ていた。
「何よ?」
母親はテーブルに広がった生地に視線を移す。
「別に何でも無いけど…」
妙に含みのある言い方だ。七堂は少し引っかかったが気にせずまた裁ちバサミを探し始めた。
「ねえ奏、どこか誘ってくれるような男性は居ないの?」
きたかと七堂は思った。
「うるさいなぁ。」
言えるのはそれだけだった。
「はいはい、うるさいのは居なくなるわね。」
母親は足早に家を出て行った。
シーンと静まりかえる家の中で七堂が動く音だけがよく響いた。
『あっ裁ちバサミ在った。』
七堂は生地の前に座り直す。
誘ってくれる相手…
七堂にもそんな相手が一年半前には居た。
ハサミを入れようとしたところでまるで、狙っていたかのように携帯が小意気良い電子音を撒き散らした。しかし、七堂は携帯に手を伸ばそうとしない。
メールが受信されたようだが送り主も内容も大体解かっている。多分、手嶋 多一(てしま たいち)からだろう。
多一は七堂の恋人だった人間だ。五年つきあっていた。
七堂より七歳年上の彼とのつきあいは当然、結婚が前提条件にあった。七堂もこのまま多一の嫁になるだろうと考え初めていた矢先だった。
多一の浮気相手に子どもができた。
彼から相手に子どもが出来たと聞かされた時、七堂は裏切られたとか悲しいとかより『ああ、やっぱりな』と思った。
別にショックは受けなかったのだ。
相手は七堂と同じ大学の女の子、恋は略奪主義と決めていた。彼女にはたまたま道端で会ったとき多一を紹介した。
多一は彼女と浮気をするだろう。もうその時腹を括っていたのかもしれない。
いや、別にどうでも良かったのだ。多一が誰と居ようと。
それまでも何度か多一の浮気を見かけたことはあったのだ。長い付き合いともなればそういう事もあるだろう、と思って何時も黙っていた。
手嶋 多一は恋愛と結婚は別物という考えの持ち主だった。だから平気で浮気もできたのだろう。
一緒にいて楽しい活発な子が理想的な恋人だったら、大人しくなんでも言う事を聞きそうな七堂は理想的な結婚相手になるわけだ。
別れ話のとき、泣きながら別れたくない、と縋りついた多一を殴って離した時から一年半が経った。
一年半経った現在でも『愛してる』だの『一度会いたい』というようなメール、電話が定期的にくる。始めのうちはこっちも『もうメール(電話)しないでくれ』と返していたが、一ヶ月もするといい加減面倒くさくなり返事を返さなくなった。
それでもしつこくやってくるメールに携帯を替えることで対処したのだが、顔の広い多一は何処からか調べて送ってくるのだ。
今は完全無視と言う形で相手にしないことにしている。
よく考えると自分は、本当に多一が好きだったのかよく分からない。当時、大人ぶりたい年頃だった七堂は、恋愛ごっこをしたかったようなのだ。周りもそんな雰囲気だったし、それがズルズルと五年も続いてしまっただけのような気がする。
『恋ねえ……』
でも違う…私は恋じゃない…
『何が?』
違う、断言できる…
『だから何が?』
七堂は心の中でその台詞を回した。
ぐるぐるぐる…悪循環…駄目だこれじゃ…


『休みが終るのってなんでこう早いんかね。』
また何時ものとおりレジで客を待つ。
恐ろしく暇だ。こんな不況の時にこんな暇でいいのだろうかと思う。
今日の客は、仕事をサボってきているサラリーマンが二人。「入り口です」と言っているピンクのカーテンが掛かった、一番奥のコーナーに真っ直ぐに向かって約一時間出て来ない。
『そんな真剣に決めるほど観たいモノなのかね、よく分かんないけど。』
解からないのは目の前で休みの日に、何処からか仕入れてきたビデオを棚に並べている伊庭もそうだった。一体何処にいけばそんな題名のビデオが売っているのだろうか。
この店にあまり客がこないのは品揃えがコアな所為もあるのだろう。『たしか、ホームページのコアなビデオ店ランキング、上位に入っていたような気がする。』
七堂はたまに大学に居たほうが良かったかなと思うことがある。
大学は…別に行っても行かなくても変わらなかったから辞めた。それだけ…うん、それだけなはず…
七堂は目の前の棚を何気なく眺めていた。『君がほしい』だの『恐怖ゾンビに襲われた町』など一体いつ誰が作ったのか解からない作品が並んでいる。
その中に『天使にラブソングを』や『ショーシャンクの空に』、『市民ケーン』、『時計仕掛けのオレンジ』などの名作と呼ばれる作品も混ざっていた。
『あっあれってカート・ラッセル主演だよね、おっヒッチコックの作品もあるじゃん…ふーんウチの店も捨てたもんじゃないね。』
殆ど知らない作品だった。暇つぶしはいつも自分の知っている作品探しだった。
一つ一つ作品の題名を見ていると何とも面白いものだ。ゆっくりと知らない作品名なんて見た事がなかった七堂には新鮮に写った。
それ以上に七堂には別のものが見えたいた。
すると自分の身長より高い棚に並ぶビデオがなんだか不思議な物に見えて来た。
『あれ?…この感じ…』
一つ一つの作品が店のライトの所為か輝いて見えた。隙間無く並べられているのに一つ一つが鮮やかに独立しているのだ。
『どこかで…』
そうこの感じだった。七堂がよく解からなかった感情。でも向き合わなければいけないこの感情。そろそろ気づかないといけない感情…
『これは…なんだろ?』
目を大きく開いてビデオを見詰めた。誰も知らない作品達。
しかし何故だかはっきりと道の前方が今、見えた。すーっと霞が晴れたのだ。自分の中で眠っていた感情が目覚めて溢れ出してくる。
『この感じ…は? 何?』
七堂はビデオの前に立ち、片っ端からビデオを棚から抜き差ししながら観て行った。
『この作品も…そう、こっちもだ!』
 一つのビデオの重さ…
『なんて……』
 七堂は映画の裏にいる映画を作った人が急に羨ましくなった。
『この感じ…国際競技場の時と同じ…?』
 ふと七堂は電車の中から競技場の出来ていく所を夢中で見ていた自分を思い出していた。
『私…なんであんなに夢中だったの?』
 手に落ちる液体に気がついた…
 七堂は泣いていた。
その場に座り込んで必死に涙を堪えた。でも、ぱたぱたと床に落ちていくものを抑えられない。
『そうだ…私…』
この前、咲江の中に見たものも、同じもの… それは彼女の中、最古の輝き。彼女の輝きは結婚という形になっていた。
七堂にとってはそれが羨ましかった。やっと気がついたのだ。
自分にない物を羨ましいと思わない…それがどれほど自分を殺していたか。
歳をとり、周りに合わせる事を覚えてから自分の感情を殺した。
しだいに酷くなる感情の麻痺。
何をする訳でもなく、何がしたいのかも見つける事さえ麻痺するほどに。
大学だって回りが受験、受験って騒ぐから、適当な大学を選んだだけ。
流されてたんだ…
私には幾らでも道があったのに…
どんな分岐点にも『奏』は居なかった。
気が付いたらこんな所に体だけ居た。何に対しても否定して、プラスの感情は殆どなかった。そのことが悲しくてしかたがない。

『何時から、ねえ、何時から、私は見ないふりをしていたの…?』


結局、あの後仕事にならずにずっと控え室に居た。
気持ちを抑えるのに必死になっていた。
閉店時間が来て七堂は帰り支度を始めた時、伊庭が入ってきた。
「今日は変だったね、送るよ。車で来ているから。」
「いえ、結構です。」
伊庭となんか今は一緒に居たくない、送ってもらうなんてもってのほかだ。
七堂が出て行こうとすると伊庭が腕を掴んだ。
突然の事で体が強張る。ここには二人きりの密室状態なのだ。
「奏さん、彼氏いないんでしょ?たまには付き合ってくれよ。」
『?!』
七堂がなんで今日、変だったのか全く無視した発言に頭にきた。バシッと伊庭の手を振り解いて七堂は必死に走る。
「奏さん!待って!」
伊庭は追いかけてきた。
「ごめん、奏さん!待って、あやまるから!」
 伊庭が何か叫んでいる。でも七堂にはまったく耳に入らなかった。


追いかけてくる伊庭をなんとか振り切って電車に飛び乗った。
息が上がっている。
『怖いよぉ…』
ラッシュが過ぎた電車の中は比較的空いていた。
もうここまでくれば伊庭は追ってこない。安堵感からズルズルとその場に座り込んだ。涙が溢れた。
しばらくすると七堂の潤んだ目に、ぼやーっとライトアップされた国際競技場が映る。
七堂はまるで導かれるように次の駅で降りた。ふらふらと覚束無い足取りで国際競技場の正面階段までくると、足の力が抜けぺたりと座り込んだ。
階段の真中の暗い所に自分を隠すように、足を抱えて塞ぎ込む。
『私これからどうすればいいの……どうしよう……』
気がついた本当の自分に戸惑う心。
伊庭にされたこと…
ところが、さっきまで溢れていた涙はぴたりと止まり泣く事ができない。
こんな時は思い切り泣きたいのに…
国際競技場の人通りはまったくない。民家や主要道路から離れた場所にあるせいか時より通り過ぎる電車の車輪の音が遠くから聴こえる程度だ。正に陸の孤島という言葉が似合う。
静か過ぎた…
しばらく静寂に耳を棲ませていると、その中に足音が混ざり始めた。近づいてくる二つの足音。階段の上の正面玄関で足音は止まった。階段の途中の暗い所に居た七堂には気づいていないようだ。
七堂は足音の主の方を見た。
『高校生?』
ガクランを着て、一人はギターを背負っている。もう一人は二人分の鞄を持っていた。
しかし、その姿もチラッと見えただけですぐに声だけの存在となってしまった。
「相模、すげーよな、国際競技場ってさ。何時か俺達もビックになってここでライブやりたいよな。」
「任せてください水上さん。俺、20年でも30年でも貴方のために歌いつづけて、ここよりでっかいところ、世界に連れて行ってあげますよ。もうコロシアムでもタージマハルでもどこでもライブができるくらいにしてあげます。」
「それは頼もしいな。だけどな、俺がお前を世界に連れて行くんだよ!もっとギターの練習しないとな!」
「なんか俺達、相思相愛ですよね。」
「なっなに言ってんだよ。」
「照れてますね、可愛い。」
「お前、先輩をからかっていいと思ってるのか!」
「そんなつもりはないですよ、そんなに怒んないでくださいよ、水上さん。」
「怒ってなんかねえよ!……あっ!」
「水上さん、どうしたんです?」
「ここだよ、相模、ちょっとこっち来て見ろよ。そうそう、ここのライトの下、なっまるでステージに立って、スポットライトにあたっているみたいじゃね?」
「本当ですね。いつか本当のステージのスポットライトにあたりたいですね……」
「うん、いつか……って何、しめっぽくなってんだよ。」
「プッ……はははは、もーう水上さん、その顔、傑作ですよ、はははは。それにこれを見せたかったんですか?わざわざ遠回りまでして♪」
「お前っ、さっ先帰るぞ」
「まってくださいよ~、ははははは」
楽しそうな笑い声が足音と共に遠ざかっていく。
『夢か……』
七堂はまた塞ぎ込んだ。昔は七堂にも多くの夢があった。殆どが憧れに近い感情だったが、確かにあったのだ。
夢のある彼等が酷く羨ましいと思った。こんな感情は久し振りだ。
やっぱり羨ましい。七堂の抑えている感情を出せる人たちが…
共有できる夢があることが…
あの輝きが…
ジワリと涙がもう一度溢れ出した。その時、不思議なことに周りの空気がふわりと自分を包み込んだ気がした。
『奏も見つかるよ。』
突然誰かに話し掛けられた。
「何?」
七堂は顔を上げて回りを見回すが誰もいなかった。でもたしかにそこに居るという感じがある。自分を包む空気は国際競技場から流れてきていた。
「競技場?」
その空気は暖かかった。
やさしい風が吹いて七堂の髪を揺らす。その包み込む暖かさと優しさに七堂はゆっくりと凭れ掛かった。安心できるこの感じ。ああこの感じだ……
『もう見つかっている筈だよ。あとは奏が気づくだけ……』
ゆらりと空気が揺れて手を引いてくれた。
『さあ、こっちの明るいライトの所に立ってごらん。』
七堂は競技場をぐるりと囲むライトの下に立った。高校生がスポットライトみたいだと言っていた場所に。
『解かるよね?』
解かっていた。顔を上げて競技場を見上げた。
「今度は私の番!」
七堂は声を上げて言った。
「私もスポットライトの下に立ちたい!」
 ずっとこれを探していた。心の底から溢れてくる『おもい』。多分、希望とか期待とかそういった感情。
「私、今、すっごく幸せ!」
 素直な感情を口に出したのは本当に久振りだった。
「あっ、やりたいことだけどね、あのね……」
 時間の経つのも忘れて国際競技場に語った。傍から見れば独り言の激しい変な女に映っただろう。

 次の日、仕事に行くと伊庭がすぐによって来た。
 本当は仕事を休みたかったのだが、今日はダンボールを空ける日だ。だから休めなかったのだ。
「奏さん…、昨日はごめんなさい…」
 気の毒なくらい小さな声で言った。
「いえ…」
「仕事をしながら話をしましょう。僕が不器用なばっかりに嫌な思いしたでしょう?」
 伊庭はダンボールの中のビデオを古布で拭きながら言った。
 七堂は黙って聴いていた。一つ一つのビデオの重さを感じながら…
「奏さん…僕はね…映画監督になりたかったんです。」
「え…?」
 ぽつりと言った伊庭の言葉に七堂は顔を上げた。
「でもね…両親が許してくれなかったんですよ。僕は逆らう強さがなかったんです…だからせめて…映画の側に居たいと思ったんです…世の中にはいっぱい人の目に止まらない映画があります。僕はその映画を少しでも人の目に止まるようにしたいんですよ。」
 頭を掻きながら恥ずかしそうに言う。
 はっきりしない男の伊庭でさえも、何かしらの夢は持っていたのだ…
「このビデオね…人から見ればマニアックかもしれないですが、多くの人が一生懸命作った映画なんですよ。」
 伊庭の顔は心底、嬉しそうに笑っていた。
「奏さん…僕はね君がこんな所に居ちゃいけない気がするんです。昨日言おうとしたのはその事です。今まで思っていました。」
「……」
「君はまだ若い。だから僕のように何も言えなくて終ってしまうのではなくて…自分の思うように…自分のしたい事をしてください…」
 伊庭はこんなにも自分のことを考えてくれていたのだ。
「はい…」
 七堂は心から素直に返事をした。


あれから一年、やっと準備が整った。
親、姉、親しい友人にも出て行くことは言っていない。
携帯も解約した。
伊庭が出勤する前に行って辞表も机の上に出してきた。
もう何も縛るものは無い。
心の引っかかりも、未練も何もかも。
『やっと奏でることができる。私を……』
足元のカルトンを見詰めた。
『夢』がいっぱい詰まったカルトン。これを形にするために。
『もう私を抑えないよ…だってやりたいこと…なりたい自分になりに行くんだから!!』
少しずつ遠ざかっていく国際競技場に向かって確かな眼差しで最後の一言を言った。
『いってきます。』
進行方向を向いた。もう振り向かない。
『いってらっしゃい、奏。』
国際競技場は静かに奏を見送った。穏やかな装いで。

数年後、港街に若き建築家が建てた建物が世界を震撼させる…

なんてね…

奏は一人、心の中で笑った。

                       完


あとがき

『気がつけばすぐそこに…』、大学の授業で提出した話を少しリメークしたもの。授業ではえらく不評でした(^^; 私が当時考えていた、「もっと何かやりたいなぁ…」という欲望を織り込もうとして、うまくいかなかった話です(^^;






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